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【中編小説】金色の猫 第11話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約3分(約1,600字)

 ふと目を覚ましたら、びっしょりと寝汗を掻いていた。目前に浮かぶあたたかな光に、現在地を見失って視線を泳がす。寝具の青が目に入り、神田琴乃かんだことのの部屋だと思い出した。サイドテーブルに置かれた赤い時計を見ると、二十三時五分を示していた。
 まだ琴乃は起きているのだろうか。カーテンの向こうに聞こえる物音へ耳を澄ませる。ひどく喉が渇いていたので、起き上がってベッドから這い出た。しこたま汗を掻いたからか、眠る前にくらべると身体が軽く、視界も冴えた気がする。清清しい気持ちで大きく伸びをして、分厚いカーテンをそろりと潜った。

 ソファの真ん中へ座る琴乃の影が、仄明かりに浮かぶ。壁際にあるテレビの画面が明るく灯り、琴乃の彫りの深い横顔を照らしていた。音のない映像を前に、彼女は真剣に字幕を追っている。俺は彼女に声をかけるのを止め、足音に気をつけながらそろそろとキッチンへ向かった。
 暗がりで食器棚の扉に手をかけたとき、「わ! びっくりした!」という琴乃の大きな声が聞こえた。「どうしたの? 喉渇いた?」彼女は画面を一時停止し、こちらへ来る。俺の隣へ立ち、濡れた背に触れて目をまるくした。「汗びっしょりじゃない!」
 バスルームで濡れたタオルを使って汗を拭い、琴乃のスウェットとハーフパンツに着替える。平均よりはるかに大きい俺が着られるサイズの部屋着が、何枚もあるのは気になったが、それを尋ねるのは野暮だと思った。

 リビングでは琴乃が一時停止したままのテレビの前で、スマートフォンをいじりながら缶ビールを飲んでいる。琴乃の隣へ腰をかけると、顔を上げて透明なグラスを指した。グラスに口をつければ、渇いた身体へ冷たい水が染みわたる。喉を鳴らしてそれを飲み干し、ひと息ついて背もたれに寄りかかると、でっぷり太った目つきのわるい猫が目に留まった。彼もまた、赤いソファにもたれてこちらを見ている。
「ごめん、観てていいのに」画面を指し、続けて「というか音、気にしてもらって、ごめん」と言った。
「ああ、うん、でももう何回も観てるから」琴乃はテレビ台に缶ビールを置き、プレーヤーのトレイを開く。
「なんてアニメ?」
「『猫の恩返し』あの……ジブリの」
 琴乃から渡されたDVDケースを裏返してなんとなく眺め、「ふうん、はじめて聞いた」とテーブルに置いた。
「『耳をすませば』は? 知ってる?」
 ケースにDVDを入れ、テレビ台の下にしまう。他にもDVDがずらりと並んでいるのが見えた。
「ああ、聞いたことある。でもみたことない」
 琴乃はテレビの前に立ち、缶に残ったビールを飲み干した。そして上機嫌に「もう一本のも」と言い残し、キッチンへ向かった。ホストを辞めてから一滴も飲んでいないが、酒はまったく欲しくならなかった。
 強い酒をがぶがぶ飲んでも酔わないせいか、俺にとってはこの水とたいして変わらない。むしろ酒の味がわからないぶん、水のほうが甘くて美味しいくらいだった。どちらかというと煙草のほうが吸いたいが、前ほどではなくなった。金があったら煙草より、猫の飯を買いたいと思う。そう考えてふと、琴乃からした煙草の匂いを思い出した。
「琴乃さん、煙草吸うの」
 キッチンへ目をやると、琴乃の横顔が冷蔵庫の明かりに照らされている。
「たばこ? あんまり吸わなくなったけど……外で飲んだら吸う」
「なに吸うの」
「ブラデビとか」
「あ! ばかにしたでしょ!」俺が小さく笑ったのに気づき、琴乃が振り向く。
 それは甘い煙草が好きな母親が、愛煙していた銘柄だった。蕩けるような香りが苦手で、家で吸われるのがいやで仕方なかった。決まって不機嫌になる俺を掴まえ、くさいといやがる頬に母親はむりやりキスをする。
 それでも煙草がないと髪を掻きむしり、空箱を投げつけられるよりはずっとよかった。渇いた音を立てて床に落ちた空箱から、黒い悪魔が不敵な笑みを浮かべてこちらを見ている。いまいましい記憶を踏み潰し、琴乃を振り向いた。「ばかになんて、してねえよ」

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