見出し画像

『たすけあい』について書いたらついてきたおまけの話。

恥の多い人生を送ってきました。
自分には『PDFで請求書を送信する』ということが、見当がつかないのです。自分は70年代の末に生まれましたので、大学を卒業する頃、世間は不景気、そして就職は氷河期。受ける会社にはすべてに全滅、やっと得た不確かな雇用での塾講師という仕事の日々の中で、会計とか経理とかそういう書類を見た事はよほど年をとってからでした。

太宰治の『人間失格』構文で訥々と語りたくなるくらい、私には世間一般の常識というものが欠落している。

そしてそれは何の自慢にもならない。

例えば数日前のこと

「請求書をPDFの形式でお送りください」

という連絡を貰った時、その文面を三度見した挙句一体これは何のことを言っているのか皆目わからなくて仕事机にしている食卓に頭を打ち付けた時もそうだった。

『請求書』
『PDF形式』

まず、人生史上なにかを誰かに書面で請求したことが無い、その昔、一応勤め人だった頃の仕事は経理とも会計とも一切関係の無い

「オラオラ、カノッサの屈辱は聖職者叙任権を巡るグレゴリウス7世とハインリヒ4世のガチ喧嘩や、西暦が何年か言うてみ?何?知らん?常識やろ?」

と言っていたいけな子どもを脅す恐怖の塾講師だったのだけれど。

時を経て今、常識が無いのは私の方だと思い至った。

あの時の子どもたち、大変申し訳ない、先生は非常識な中年になりました。

「コラムの執筆をお願いしたいのですが」

突然そんな依頼が舞い込んだ時、初めに私は

『いまできるたすけあい』

依頼されたコラムの、やさしくて柔らかな手触りのテーマにとても心惹かれた。

更にその依頼をくださった方が

『言葉を交わしたこともない、お互いの氏素性を特に知らない知り合い』

文字にすると謎、でもとにかく以前から知っている方で、そのご依頼のメールの文面もその人らしく朗らかで優しく、舞い上がった私は、ふたつ返事でその依頼を引き受けた。

そして貰ったご依頼の取り掛かりは即日である事が超個人的・鉄の掟。

それはいつも学校で色々やらかし放題の息子についての可及的速やかな呼び出しが携帯にかかってきてしまうかもしれないし、ちょっと厄介な持病のある末っ子が突然高熱を出したりするかもしれない、そうなると即、救急外来に走った挙句入院になる可能性大という、超個人的な特殊事情を私が抱えているからで

作業開始のその時、ウチの食卓は戦慄の混沌を成す。

多分、初見の人はひく。

3人の子ども達がひしめくリビングその真ん中のIKEAのダイニングテーブル。

ヤクルトの容器が転がってビスコの袋と食べカスが散乱しているそこに、パソコンと新解明国語辞典と各種実用用語辞典全5冊その他を無理やり押し込んで

「ママ!オヒザノル!」

膝に乗りたがる恐怖の2歳児・末っ子と格闘しながら完成した原稿を指定のアドレスに送信して校正版を頂いて確認して数日

『公開されました』

という連絡を貰い、インターネット海の中を見に行ったその先には、末っ子からビスコを口に押し込まれつつ書いた原稿が、編集者さんによる編集校正、デザイナーさんの作った画面とフォント、それぞれに飾られて画面に表示されていた。

美しきプロの仕事よ。

多分相当な人数の人達が関わって出来上がるのだろうその仕事の一部に、自分の名前が連なる事は不思議だ、そして何より晴れがましく、嬉しい。

私はただ自宅のダイニングテーブルの上、文章を組み立てただけなのだけれど。

かくして前述のメールは届いた。

ご依頼を受けて、原稿をお送りし、それが納品、公開されたのだから、当然と言えば当然だ。

しかしこのメールが来るまでこの呑気な中年は、このことにまつわる事務手続き一切の事を本気で何ひとつ考えていなかった。

そして、メールを見て震えた。

「請求書をPDFにしてメールに添付して送るって、何?」

なんということでしょう、私が一般社会から主婦という名のもとに隔絶していたこの11年、社会の電子化は進み、数多の各種請求はメールでやり取り、そして印鑑不要の申請書類が世間を流通するようになったのです。

申請書類ビフォーアフター・加藤みどりのナレーションが流れてくる以前に私は請求書も領収書も生まれてこの方書いたことが無い人間で、わからないならそのままその編集者さんにお聞きすれば良いのかもしれないけれど、いい年をして、そして一応『ライター(の、ようなもの)』としてご依頼をくれたその方に

「…何のことだか皆目わからないのですが」

とお聞きする事を恥じた。

それで各種申請にとにかく明るい身内、夫に

「請求書をPDFってどういう事?パパそういうの出来る?」

と連絡してみたが、時すでに遅し、夫は会社のデスクに着席した瞬間に妻を家族を忘却するタイプの王道会社員。

返答なし。

帰宅は深夜。

もう駄目だ、今、走馬灯が見える。

思えば学生時代、何の役にも立たない論文を書く事に無駄に時間を費やし、就職氷河期に足をすくわれ、ハローワークのおじさんに同情され紹介された会社で馬車馬のように働き体を壊し、すっかり労働それ自体に恐怖して出産と共に自宅に引きこもった11年、ロストジェネレーション世代の中の更に負け組、名実共に何もできない主婦になってしまったんや私は…

自分の社会的な死と、新自由主義の中、21世紀初頭の不況の波に飲み込まれ水面に散った同輩達を背後に感じた数分間のその静寂。

私は思いついた。

「そうだ、フォロワーさんに聞いてみよう」

Twitterは私の集合知。

それは大きな知性の塊としてひとつの精神性を保持し、森羅万象すべての謎を解き明かすかどうかは知らないが、ひとつの疑問を投じた時、いつも大体誰かが何かを知っていてそれはこういう事だと教えてくれる。

わたしのかしこいみんなたち。

ただ、今回のこれは、編集者さんが至極普通に自然に依頼してきた事を鑑みれば、もしかしたら全くの世間一般常識なのかもしれない、となると私のアホさかげんを世界配信することになるけどまあいいや。

編集者さんお1人に己の無知をさらけ出すのを恥じる割に、10万フォロワーに自分があまり賢くないという事実をツイートするのは大丈夫という私の価値観もどうかと思うけれど、取り合えず聞いてみた。

「請求書をPDF形式で送信するとは一体何の事なのか、そしてそれは一体どうしたら」

ねえあなた40も過ぎてそういう事も知らずに生きてるの、これまで一体何してきたのというお叱りを覚悟で待つこと数分。

「請求書のPDFという事は有料版のものになりますね」

「エクセルで作ってPDF方式で保存するやり方がありますが」

「PDF方式での保存というのは保存する時にファイルから…」

かなりの短時間で、わざわざ有料版を用意せずともエクセルで作ったものをPDF形式で保存すると簡易に作成可能ですよという情報が集まった。

なんて話が早いんだ、そして皆一様に親切で丁寧、誰一人この無知な中年を小ばかにしたりも、しかりつけたりもしない、尚、同年代か少し上の年代のマダムたちからは

「特に力にはなれないけれどアナタの気持ちはわかる、社会への復帰、仕事の獲得とはまずは世代と文化の格差を乗り越える事だ」

大体まとめるとこのような激励を貰った。

嬉しい。

みんな子育てと家事の中を駆け抜け、その中で新しい社会のシステムと常識を学習し獲得する、そのことにそれなりに苦労しているというその事実。

ありがとう同年代のみんな、キャリアを断絶しないまま、もしくはタイムラグをものともせず社会という戦場に舞い戻ったあなた方こそ私の光。

そしてこれらのやり取りは

「良ければ数式の入ったエクセルのシートをメールで送りますよ!」

超絶親切で面倒見の良いおひとりによって幕が下された。

別件でお世話になっている編集者さんが、この無知な主婦の騒ぎを聞きつけて、助け船を出してくれたのだ。

この間、約1時間。

かくして無事、人様の善意と厚意とそのたすけあいによって作成された請求書は一度訂正が入ったものの、指定のアドレスに送信、受理された。

送信のその瞬間の充足感、そして突然湧いてきた自信。

「人間、やれば出来る」

私が自分の綴った文章の文脈の中で自分自身を語る時、ちょっと自己評価が低いというか、卑屈すぎやしないかと思う事は前々からあるのだけれど、

それは自分自身が社会というものにほどんど触れないまま、11年間自宅で家事育児を生業にして、自分の名前では1円も稼ぐことなく、そして苦手だからと外に一切出ないまま過ごしてきた生活の中で消失した社会性というよりは、自信というものが意外に大きいという事なのだろうと思っている。

「だから駄目なんだよ専業主婦は」

そう外野から言われても、はあそうですねと、下を向くしかないと思ってしまう。

そんな事は無い筈、資本に還元できない社会的な役割を担う人間を無下に扱う貴方こそインテリジェンスが著しく不足してやしませんかと言い返す事が

何となく出来ない。

氷河期世代を超えてきた人間は世間を無駄に恐ろしいモノだと思っている傾向があると思うけれど、私はその典型だ。

浮き木にすがるどころか気合のクロールで泳ぎ切った人さえいる氷河期を、結構早期にあっさり沈み深海で死んだように過ごしてきた私は、どうにも世間とか社会というものが恐ろしくて冷たい手触りのものだという印象を今日も手放せないのだけれど。


この一件で『困っている』とひとことつぶやいたその時の解決速度を考えると

それは意外とそうでもないのかもしれない。

たすけあいのコラムを書いたらまた、たすけあいが付いてきた。

世の中というものは基本的に私に厳しいが

たまにとても優しい。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!