ことりと僕とにいちゃんと鳩 4

☞1

僕達は、にいちゃんが涙でパンダのよう黒くに滲ませてしまった睫毛に塗ったマスカラを綺麗に元通りに直して戻って来てから、少し不思議な組み合わせの4人でお茶を飲んだ。

雄々しくて華憐で口の悪い女子高校生
白いプリーツスカートの美しい男子高校生
巨大な体躯の人懐こい植木屋
小学生の僕

にいちゃんは僕が好きな苺が沢山乗っているタルトを食べる様子を、コーヒーを飲みながらにずっとこにこと眺めていた。にいちゃんは普段あまり甘いものを食べない、口にするのは年に1回のことりの誕生日の日くらいだ。だから注文したケーキを綺麗に半分こにして僕の皿に乗せてにくれて、あとのもう半分は琴子が横から取って食べた。もうみいにウソをつかなくていいのかと思うと少し肩の荷が下りたと言ったにいちゃんの表情がとても柔和で穏やかで僕は嬉しかった。今、目の前に座る本当の姿のにいちゃんには、あのいつもの感情の揺れ幅の少ない静かな表情からほんのりにじみ出ている何かを思い詰めたような、どこか痛みを我慢しているような、そんな空気が一切感じられなかった。でもそれは僕とにいちゃんの間にあったとても大きな秘密と謎が全て溶けて消えたという事の他に、もうひとつ、このにいちゃんの傍らの大男の存在が大きいのだと僕は思う。

ひかりさんだ。

「みいちゃん、マコト、あいつ元気?やっぱり塾の特Sクラスとか行かされてんの」

僕にそう聞いたひかりさんは、そのひとことを発声している間にチョコレートのタルトを2口で全部口に放り込み、コーヒーを3口で飲んだ。僕は普段見ているにいちゃんの、男だと思っていたにいちゃんの所作が元からとても優しく柔らかだったのだという事に、ひかりさんを見ていて初めて気が付いた。にいちゃんは普段からこんなに足を開いて座らないし、フォークやスプーンをとても綺麗に使って食事をする。ひかりさんは、タルトを手づかみで食べた。コレ、めっちゃ小さくないと言って。

「ハイ、マコト君と僕は塾のクラスが違うんやけど、会うとよくゲームの話しをして、あとあの、教会…?教会で会った時に一緒にゲームで対戦して遊んでます、マコト君は凄くゲームが上手いんです。でもお互い塾の成績は全然駄目」

僕はそう言って肩をすくめた。そうしたらひかりさんは、マコト成績あかんのか、そんでみいちゃんもあかんのか。でも大丈夫や、俺も全然あかんかったわ。俺があの中学に受かったんは、奇跡か、俺のあずかり知らんところで裏口入学の手配がされてたとかそんなんやと思う。と言って笑ってくれた。

「ひかりでええよ、みいちゃん。マコト、あの変なとこにまだ連れてかれてんのか、止めてあげてほしいねんけどなあ。そんでゲームばっかりしてるんやろ、大丈夫かあいつ。今度会ったらひかり兄ちゃんが目が悪くなるからゲームは大概にしとけよって言うてたって言っといて」

ひかりさん、ひかりはマコト君とても仲がいいらしい。ひかりは9歳年の離れたマコト君が可愛くて可愛くて、医大、というより大学受験自体を全部止めて就職することにした時も本当は家に残りたかったのだけれど「オカンにそんなみっともない息子はウチに置いとけへんからとっとと出て行けってカラダひとつで放り出された」と言う。医者になれない息子はそれがたとえ手塩にかけた長男だろうと南整形外科医院には必要ないのだそうだ。可哀相な話だ、そして何だかどこかで聞いた話だ。

「マコト君に『ミスコンの女王』の話をしたのはひかり?」

僕は、ついさっき僕の中の点と点が線ですべて綺麗に繋がって真実が見えた時、この秘密を解くための大きなヒントになった出来事『ミスコンの女王』の事についてひかりに訊ねた。僕にこの秘密を解くための最初の鍵をくれたのは貴方ですか。

「そう。あの日のんちゃんがあんまり可愛かったから。のんちゃんが中1で俺が中3の学園祭の時にな。暗黒の男子校、丸坊主の受験強制収容所に入れられたと思てたら、滅茶苦茶可愛い女の子がおったぞマコトってあいつに話したら、にいちゃんの学校は男子校やろ。なんで女の子がおるねん。勉強が嫌過ぎてとうとう頭が可笑しくなったんちゃうかって言われたの覚えてるわ、マコトは昔から兄ちゃんに厳しい」

「『のんちゃん』が『無茶苦茶可愛い』」

ひかりと僕の会話を黙って聞いていた琴子が、腕組みしながら能面のような顔をして僕らの会話を遮った。

「みい、こいつはねえ、そうやって頭では希を生物学上男だってちゃんとわかってる筈なのに、そういう理性とか常識とか認知の制御を一切振り切って一方的に『可愛い女の子』の希を見初めて、文字通り本気で校内を追いまわしたんやで、俺と友達になってくれって。でも希は基本的に奥手だし、中1の頃なんて男だらけの男子校っていう環境に心から怯えてて、学校では成績以外は目立たないように極力大人しくしてたから、前のめりに迫ってくる自分より頭ふたつでかい上級生なんか恐怖の対象でしかなかったんよね。実際こんないかつくてでかい男が登校時と下校時に自分の下駄箱の前で待ち伏せしてたら誰だって普通怖いやろ。だから希はとにかくこいつを真剣に避けてたわけ。大体ミスコンだって、クラスで顔が一番女子っぽいって理由で多数決で出場させられたんやもん。でもそんなの当然よ、希は生物学上はともかく内面は完璧に本職の女の子なんやから、そんなむさくるしい男子校のきったない男どもとは気合も面構も全然違うのよ。そうしたらさ、何処でどう聞いたのか、私の中学校の校門の前にある日突然現れてね。おい、俺はあの子の友達になりたんや、だから何とかしろって」

「え?2人とも知り合い?」

「そう、こいつは南整形外科医院のアホな方の息子」

「おう、言うたな、鳩屋の幻の四代目」

琴子が小学1年生まで暮らしていた鳩子さんの実家と、ひかりが追い出されたひかりの実家の整形外科医院は、同じ市内のごく近所にあるらしい。だから2人はお互いさほど親しくはなかったけれど何となくお互いを知っていた。琴子は田舎の古い開業医の家と昔からの商売屋の家、そういう家同士は業種が全然違っても何だかんだと付き合いがあるものなのだと言った。それで毎日、自宅から学校の最寄り駅までにいちゃんと電車に乗って通学している琴子に、間に入ってほしいと言って来たらしい。お前あの子の友達なんやろ、なら何とかしてくれ。

「でもさ、何とかしろも何も、アンタそれでどうしたいのって思ったんよね私は。あの子は男の子だよって。アンタが一目見て滅茶苦茶可愛いって思ったのは、学園祭で女装したあの子でしょ、虚構の女の子だよ。2次元のアニメキャラなんかと一緒だよって。だってこの時は希の本当の事は、まだ私にさえ希の口からは語られて無かった訳だし。だからね」

「だから?」

「放置」

琴子はひかりを一切相手にしなかったらしい。そんな事アンタが勝手になんとかしなよ、私は知らないよ。琴子はひかりの要望を一切聞き入れる事なく放置した。でもにいちゃんには、あんまりあの男が圧を掛けてくるようなら付きまとい行為で警察に通報しようと真顔で言っていたらしい。そうしたら、ひかりはにいちゃんに少しずつ距離を詰めながら勝手に近づいてそしてにいちゃんの連絡先を獲得し、にいちゃんに一方的に、そして高頻度で連絡を取り、数年かけてにいちゃんと徐々に親しくなって

「ある日突然『俺の彼女』って言い出したのよ希を、アンタ誰の許しを得てあの子と付き合ってんのよ。『彼女』ってそれは希がアンタに自分の事を全部話したって事?それをアンタが全て受け入れるって事?今あの子の秘密を知ってていいのも、あの子の事を理解していいのも、親友の私だけなんだよって、その時はなんだかそんな風に思って凄いムカついたから、こいつの事学校の指定カバンでバチボコに殴ってやったの、京都駅の烏丸中央口の改札の前で。そしたら駅員さんが走って止めに来たわ、お姉さん、この人彼氏?どうしたの?喧嘩は良くないよって。こんなのが私の彼氏な訳ないやん。だから違います、痴漢ですって言ってやった」

「冤罪が生まれる瞬間を俺は見たわ」

琴子の殴り方が尋常ではなかったので、それは完全に痴話喧嘩だと理解されて、ひかりは鉄道警察隊に捕まったりはしなかったらしいけれど、駆け付けた駅員さんから、彼女のこと何してあんなに怒らせたの君、ダメだよ仲良くしないと妙な注意を受けてとても不名誉だったと言った。ひかりと琴子は一応、仲が良いらしい。琴子が相手の事を殊更ぞんざいに扱うのは相手に好意がある時だから。でも痴漢扱いは少し酷いんじゃないかな。そういうの、絶対やめたほうがいいぞ琴子。

「それっていつ?」

「ホントに最近、冬休みの直前くらいかな」

「みいがお母さんにすごく殴られた日のすぐ後だよ。あの日、みいが怒ってたでしょう、男と女だけに人間の世界を分けたのは不平等だって」

ひかりと琴子のやり取りを黙って聞いていたにいちゃんが僕にそう言った。あの日みいがお母さんに78回殴られたって、顔に大きな青あざを作った日にね。にいちゃんがそう言うと「え?なにそれまじで」とひとこと言ってひかりの表情は固まってしまった。琴子は「アンタのとこのママ相変わらず飛ばしてんな。みい、大丈夫?」と言って本気で心配そうな表情をして僕の顔を覗き込んだ。

「僕は、ことりが死んじゃってから神様なんか信じていないし、大体その神様が男と女に人間を作ったって言ったって、その間にいる人、男でもなくて女でもない、カクレクマノミなんかはどうなるのかなって、それは神様の選抜漏れの失敗作なんですかって」

僕の、場の空気を一切読めない、正直すぎて『会』の大人達を暗に怒らせてしまったあの言葉は、世界の誰よりも自分こそが神様の選抜漏れの失敗作だと思ってずうっと悩み続けていたにいちゃんの背中を、意図せず一歩外に向かって押し出す結果を産んだらしい。にいちゃんは、みいが私の本当の事を何も知らないのに「男と女しかいないのは不平等だ」って世界のことわりに疑問を呈して何なら少し怒ってくれていた事が嬉しかったと、みいは私の本当の事を何ひとつ知らなくてもちゃんと私の味方でいてくれるんだと思ったと、僕に言った。

そして、僕の一言で自分の外側にある世界にほんの少しだけ押し出されたにいちゃんは、もう3年以上避けて退け続けていたひかりの気持ちに応える事にした。ひかりは、結構早い段階でにいちゃんの事を全て見抜いていたらしい。本人曰く「野生の勘」で。だって俺はのんちゃんに一目惚れしたんやぞ、という事は絶対女の子やろ。俺は別に男が好きな訳じゃない。

実際のところにいちゃんは、この自分の思い込みと気持ちに前のめり過ぎる上級生を、ある時から恐怖の対象ではなく、とても大切な何かに頭の中で配置転換させてしまっていたらしい。それはにいちゃんの中で全く意図せず起こった事だとにいちゃんは言った。理屈じゃなく、否応なく、どうしようもなく、まるで春の嵐のような感情の攪拌。

人間の心は不思議だ。

にいちゃんは、自分はまだ自分をどうしていいかわからないし、自分が生物学的にも法律的にも男でしかないのに内面は女性であるという、このどうしようもない現実を今、家族にすら公にする勇気がない。それでもいいのか、例えばこの体を自分の内面に合わせて外科的に作り変える事が出来る日まで待っていてくれるのか。自分が自認している性別が身体機能的には本来の機能を一切備えていないというのは一種の障害だ、私がどんなに女性らしく外見を取り繕ろうと頑張っても今、自分は、柔らかい女性の体と機能を一切持っていない。髭も生える、声も低い、身長は179㎝もある、そしていくら自分の体を外科的に作り変えても機能的には完全な女性になる事なんか出来ない。それでもいいのかとひかりにその時、自分が持てる限りの勇気をすべて振り絞って聞いたのだそうだ。

「それで?ひかりはそれにどう答えたの」

僕は目の前のひかりに聞いた、にいちゃんの17年分の絶望と懊悩が隙間なく詰め込まれた途轍もなく重たい申し出はこの天真爛漫な19歳の大男の心にちゃんと正しく届いたんだろうか。

「細かい事はよくわからんけど、俺は女の子やと思ってるのんちゃんに普通に欲情するし、人間、どんなことでもやってやれへんことはない。それに俺の身長は185㎝や、のんちゃんより6㎝高い。あと」

「あと?」

「俺の3年越しの気持ちを舐めるな」

ひかりはとても大らかな性格の人らしい。そして思い込んだらとにかくしつこい。それは一途とも言うのかもしれないけれど、内面の性別と生物学上の性別が完全に乖離しているにいちゃんを受け入れるとかそれ以前に、一目惚れをしたという相手が自分気持ちに一切応えてくれてないのにその感情というよりも、この場合は2人の間にある障壁の高さを考えるともう激情に近い、それを3年以上現状維持でまるで冷凍保存したように継続できるのは並大抵の事ではないと僕も思う。琴子に至っては「思い込みが激しすぎる、恐怖のストーカー気質」とそれを評した。

結果、にいちゃんとひかり、2人は今ひと組の男女として僕の目の前に座っている。僕がにいちゃん良かったねと言うとにいちゃんは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「あ、ねえ時間やばいかも」

琴子が携帯を見て言った。時刻は16時すぎ、電車の時間を考えると僕達は、特に小学生の僕はそろそろ家に帰らないといけない時間だった。この日僕達はひかりとこのお店の前で別れた。ひかりは、ここから地下鉄でもう少し北の方に行った北山という場所にある植木屋、というよりも造園業社の会社の寮に住んでいるんだそうだ。僕達との別れの際、ひかりは、みいちゃんその内俺のとこにも遊びに来てなと僕に言ってくれて、僕の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でて、琴子にじゃあな鳩屋と琴子を屋号で呼んでハイタッチをして、そしてにいちゃんに優しく笑って小さく手を振った「まだ連絡するから」。ひかりはにいちゃんには一切触れないまま、茜色の夕日の落ちる方向、三条通りの人込みの中を西に向かって速足で歩いて僕達から遠ざかって行った。ひかりの長身はクリスマスカラーの氾濫する街の中でいつまでも目立って、にいちゃんはそれをずっと遠くの雑踏の奥に消えて見えなくなる迄見送っていた。

ひかりがにいちゃんに触れないのは

「まだ触れへん、勿体なくて。それに触ったら多分、離れられへんようになる気がする」

という理由によるものらしいけれどそういう事は僕はよくわからない。なんでにいちゃんに触れるとひかりとにいちゃんが接着されて離れられなくなってしまうんだろう。それってどういうシステムの中で起こってしまう現象なんだろう。僕が、ひかりを見送る少し寂しそうなにいちゃんの後ろ姿をぼんやりと眺めていると、そのにいちゃんの背後から琴子が

「希、アンタ、身長179㎝やないやん、180㎝やん」

そう事を言って笑いながらにいちゃんの脇腹をぎゅうっと掴んだ。希アンタなに身長1㎝サバ読んでみてんのよ、乙女かよ。

「もう煩いなあ、その1㎝が重要なんやから。179と180では全然印象が違うやん。大体こんな身長ほんまにいらんねん、高過ぎる。20㎝くらい今すぐここでみいにあげたいわ。あと、私は今は乙女やろどう見ても」

にいちゃんは白いプリーツスカートをつまんで見せて、琴子と顔を見合わせてすごく可笑しそうにくすくす笑った。そうだ、琴子にとって兄ちゃんは幼馴染の男友達なんかじゃない、親友の女同士なんだ。僕はそれも、今日初めて知った。

☞2

にいちゃんは、駅のトイレで女の子のにいちゃんを全て脱ぎ捨てて拭い去ると、17歳の男子高校生という元の姿、違うこれはにいちゃんの仮の姿だ。とにかくそれになった。16時47分に僕達の乗車した土曜日の夕方の新快速電車の中は、平日よりも通勤客が少ない代わりに行楽地から帰宅する家族連れがにぎやかに座席に詰め込まれていて、小さな子どもが母親に抱かれてむずがったり、出先にいる興奮からか大きな声で目に付いたものの名前を叫んで叱られていて、街の中にいるようにざわざわとずっと騒がしかった。

その喧噪の車内の中、長距離電車によくある4人掛けのボックス席の座席に座ったにいちゃんと琴子と僕は、出発地の京都駅から僕達の町の駅に到着するまでずっと、小さな声で話をしていた。今日初めて僕に本当の事を明かしてくれたにいちゃんが、いつから自分の事に気が付いていたのか、それを今日までどんな気持ちで抱えてきたのか。ずっとそばにいた筈なのに何も知らなかった僕がそれを、にいちゃんが話せる範囲でいいから知りたいと言ったからだ。そうしたらにいちゃんは、良いけどちょっと長いしみいには聞かせにくい話ばっかりだよと言った。僕はそれでも大丈夫と言った。

「僕はね、ええと、今は『私』でいい?自分の中に自分の存在をいつか壊してしまう位の何か大きな乖離が存在しているって事を、本当に小さい頃、この世界には生物学的に大別して雄と雌っていう2つの属性があるって知った頃から大体わかってたんだと思う。例えば、本当は幼稚園の半ズボンの制服よりチェックのスカートの方が絶対可愛い。ランドセルは赤の方が良かった。髪を長く伸ばして色とりどりの髪ゴムで綺麗に結ってみたい。ちょっとしたことなんだけどね。そういう感情がいつもいくつも自分の脳内に生まれて消えないまま、それが成長するごとに自分の底に濁って浄化できない澱みたいに堆積していく。だから可能性としてはいつも考えてはいたんやけど、でもいや違うって否定して無かったことにしてたのね。自分は男の子なんだ、サッカーだって好きだし、体だって男の子の体の形をしているし、ただ少し可愛らしい物が好きなだけなんだ、これは趣味嗜好の問題だ、そんな小説みたいな話が自分の身の上にある訳がないって。だってそうでしょう、私はとにかくお母さん、あの人の、全他者に対してアドバンテージを取れる大切なパーツの『完璧な長男』なんだもの。そこに実は生物学上の性別と性自認が違うおかしな性別の子どもって言う属性はあり得ないの。私は完璧じゃないと、私は完全じゃないと、とびぬけて美しくて誰よりも優秀な男の子。そうやってあの人の世界を壊さずにいないと、あの自分の世界のシナリオに少でもずれが生じた時、子どもとか自分のごく近い存在に猟奇的な程容赦ない攻撃を仕掛けてくるあの人から自分と、みいの事を守る事ができない。だから自分が男か女かそういう事はとりあえず考えないで、自分は性的にはまだ少し曖昧な存在だって、趣味嗜好的に可愛いものが好きな『男の子』だって事にして兎に角この場、あの人の自己愛の為の部品でいないといけない時期をやり過ごそうと思ってたし、それを出来ると思ってたの。でもね、10歳位からかな、私と違って女の子の体に女の子の魂をきちんと間違えずに持って生まれてきた子達は、だんだん見た目というか体が変わってくるでしょう。みいもクラスの女の子達が少し自分と違って来たなって思わへん、女の子は男の子よりも二次性徴が早いから」

にいちゃんは、一人称が「私」になると言葉がとてもなめらかになった。いつものあの冷静で感情の振れ幅の少ない恬淡とした印象の喋り方は、無理に男の子を装った結果生まれているものなんだという事に僕はこの時知った。

「うーん、僕、あんまり女子とは遊ばへんからよくわかんない。でも確かにクラスで一番背が高いのは今は女の子かもしれない、僕は真ん中位」

「そう、女の子の方が男の子よりそういう成長が1年と少し位早いんやって。それでね、あの頃の私は、友達が女の子ばっかりで、その仲良くしてる女の子達がね、だんだんと体に柔らかな肉がついきてそれで、まあ、みいも知ってると思うけど生理が来て、大人の女の人の体になっていくのに、私には何も来ないじゃない。体も硬くて骨ばった男の子のまま、それどころか指にどんどん固い節が出来て、背ばっかり伸びて来て、ちょっとすね毛が濃くなったりして来て、それがもう気が狂う程嫌だった。自分はあっちの世界には絶対呼ばれない人間なんだっていう現実が。まあ、仕方ないし当たり前なんやけど。でもその頃から私と一番仲の良かった琴子は背はクラスで1番高かったけど痩せてて、他の子よりも体に肉が付くのが遅かったから、6年生位まではそんな感じじゃなかった。だから琴子だけはこの自分のいる場所に暫くはとどまってくれるんだろう、性別を曖昧にしている自分と一緒にそういう区分の無い世界でずっと仲良くしてくれるんだろうって思ってたの。そんな訳ないのにね。でもね、ええとアレ琴子が11歳?6年生の時?」

にいちゃんは琴子をつついた、琴子は少し考えてから

「みいにあの話しすんの?みい引かない?まあいいけどさ。あのね、私らが6年の初めの頃にね、丁度パパの鳩太郎が鳩子になって京都で所在確認された頃よ。まあママはそれ以前から連絡は取ってたんだけど、それでパパがパパの実家のお店と謝罪を含めた話し合いを済ませて、次にママと離婚の話し会いを始めた時期にね」

琴子に初潮が来た。12歳の直前だった気がすると琴子は言った。僕もそういう話は学校で聞いてるから大体は知っているけど、僕には永遠に来ないものだからその時の琴子の感情は想像しかできない。琴子はその頃、ある日突然失踪して挙句性別を男から女に人工的に作り変えてしまった父親と、その父親との間にどうやらかなり無理な方法で自分をもうけたらしい母親に、嫌悪の感情こそ抱いていなかったものの、子ども心にとても割り切れないものを感じていて、そういう身体の変化が起きる時期に、自分の体が大人になりつつあると言う事実を母親に相談する事ができていなかったのだそうだ。

「それでいざ、コトが起きた時にさ、自分の股から血がダラダラ流れてくる現象に然程驚きはしなかったんだけど。ほう、こんなもんかって。その現象の持って来た意味がね、何て言うのかなあ、小学生の頃って途中までは男も女も体の大きさも見た目もそんな大差ないやん?性別なんか凄く曖昧な世界でさ、でもこの現象が起きたその瞬間に、ハイこれであなたは大人の女の人です色々覚悟しろ。そんな風に宣告された気がして、それがもう凄くイヤで、私もパパとママみたいに男とか女とか本当はそうじゃなかったから作り変えましたとか、それなのにどうして2人は子どもなんか作れたのよとかそういう謎の生臭いものの渦中に放り込まれるのかと思うと、なんだか急に凄く哀しくなって」

琴子がその事に気が付いたのは、僕も今通っている塾の1階の女子トイレの中だったらしい。琴子は突然自分の中に発生した強い悲哀という感情を抱えたままトイレから飛び出すと、塾の建物の中の階段を2段飛ばしで駆け上がり、3階の廊下を全速力で駆け抜け、教室の扉を力任せに開けて、その時3階の特Sクラスの教室で算数のハイレベル問題集を解いていたにいちゃんに、たった今、自分の体に起きた現象を伝えてからその場でにいちゃんの体に抱き着いて大声で泣いたのだそうだ。琴子が、滅法気が強くて、小2の時に自分の母親の誇りを傷つけたからとクラスの男児に馬乗りになって鼻血がでるまで相手をタコ殴りにし、直近ではあの大男のひかりを「ムカついたから」と言って京都駅の烏丸中央口で感情のままに学校の固い指定カバンでぶん殴るような琴子が。

「あの時はびっくりした。琴子が、自分は大人になってパパとママみたいな面倒な事になるのは絶対に嫌だってワンワン泣くから私、琴子が一体何の事を言ってるのか全然わからなくて、大体あの時は琴子の両親の事も『離婚するらしい』っていう事位しか知らなかったし、とにかく琴子に初めて生理が来たって言うから、そのまま泣いてる琴子を引っ張って近所の薬屋さんに走って行って必要そうな物を一式買ってあげて、琴子の家に一緒に帰って着替えをさせてから、それでもまだ大声で泣くから大丈夫だよって言って琴子の背中をさすってあげて、本当にもう大変だった」

でもその時、体の中で起きた大きな変化と、置かれている特殊な環境、その2つを掛け合わせて自分の身の上に今起きているすべてを受け止められないと、感情を一気に噴出させて泣きじゃくる親友の気持ちに寄り添おうとして11歳の琴子の背中をさすってやっていたにいちゃんの脳内に突然飛び込んで来た感情は、にいちゃんには全く予想できないものだった。

琴子はずるい

にいちゃんは琴子に嫉妬したらしい。強く、衝動的に。そしてその感情が、にいちゃんがこれまで意識的に曖昧にしていた事実を容赦なく突きつける事になった。

『自分は男の子じゃないし、完全な女の子でもない』 

にいちゃんは、女の子の体に女の子の魂を間違えずに宿して生まれて、柔らかな肩で、細い脚で、小さな手で、性の未分化な子どもという場所から飛び出して、自分とは違う『女』という場所に正しく辿りつこうとしている琴子が妬ましいと思ったと言う。そしてそんな風に大切な親友の事を捉えてしまっている自分が何よりも誰よりも気持ち悪くて本当に嫌だと思ったと言った。

「だから、自分で自覚してしまったこの性別については誰にも、琴子にもみいにも絶対に言っちゃいけないと思ったの。あのお母さんが混乱して暴れるだろうとか、完全否定した上で矯正しようとして病院に連れていかれるかもしれないとかそういう予測とそこに起きるだろう混乱を遥かに飛び越えて、何よりも、自分で自分を途轍もなく気持ち悪い生き物だって、こんな自分は絶対に嫌だって思ったから」

僕はそのころの、小学6年生だったにいちゃんを僕の脳内の思い出から一生懸命引っ張り出してみた。受験が嫌で嫌で、どうしてもと言うなら琴子と一緒に進学したいと琴子に執着したにいちゃん。男子校がどうしても嫌だったにいちゃん。中学校に合格した後、坊主頭になる事に世界の終わりが来るくらい絶望して涙を浮かべていたにいちゃん。そうだよね、女の子なのに男子トイレしかない男子校に行くのは拷問レベルに嫌だよねにいちゃん。僕が逆の立場だったらかなり辛い。僕はにいちゃんに小さい声でそう言った、だってそれは僕が三つ編みしてセーラー服を着て琴子の行っていた女子中学校に行くような事なんだから。

「でも、あの受験の頃、家の中でみいだけが、私が受験を嫌がってる事をわかってて、夜中にお菓子をくれたでしょう、うまい棒。「にいちゃん、じゅけんいやだけどがんばって」って、アレすごく嬉しかった、みいは味方なんだって思ったから。もうずいぶん前の事だけど、ありがとうねみい」

僕は突然、にいちゃんから5年前の御礼を言われた。なんだか突然すぎてびっくりしてそして嬉しかった。

「私も希の気持ちをちゃんと汲んで一緒に中学受験したやん、アンタの学校の直ぐ近くの学校に。5年生からの中学受験参戦はかなり厳しいんだよ、みいも分かってると思うけど。そして普通に受かったけど」

琴子がにいちゃんの事をつついた、琴子はいつ頃からにいちゃんの事を解っていたんだろうか、僕はそれも琴子に聞いた、琴子は兄ちゃんの事にどこかで気づいてたの、それとも本当の事をにいちゃんの口から聞いて初めて知ったの。

「え、希が中2の時に『実は自分は男の子じゃないんだ』って言い出す前から。かなり早い段階で知ってたよ。だってあの『鳩子』の娘なんやで私は」

「え、まじで」

にいちゃんが琴子の顔を横から覗き込んだ、琴子は少し呆れたような顔をしてにいちゃん言った。

「当り前やろ、大体本人が男で短髪で男兄弟しかいない、だから本来必要ない事のはずなのに私の髪の毛を毎日緻密な編み込みに結ってくれて、緊急事態の私の為に生理用ナプキンをしかも昼用と夜用両方買ってくる事が出来て、泣いてる私を躊躇なく抱きしめてよしよしって出来るのは大人の、物が分かってる男ならまだしも、小6の男子には基本無理難題でしょ」

「全部、普通にみんな出来る事だと思ってた…」

「何をいまさら」

にいちゃんは、苛烈な学習環境で知られる難関高校に在籍している極端に成績優秀な男子高校生であると言う仮の姿から、本来の乙女であるという真実の姿を僕の前に顕しても、その優秀さと隙もそつも無い完璧さが突き抜けすぎて少し浮世離れしてしまっている部分は全然変わらないらしい。人間の本質というものはそう簡単には変わらない、男でも女でも。にいちゃんはにいちゃんだ。琴子はそれを分かっているから、にいちゃんの驚愕の変化と変遷を見ていてもずっとにいちゃんの親友であり続けているんだろう。琴子はにいちゃんが大好きで、にいちゃんは琴子が大好きなんだ。僕はあの日、初潮が来てそれで大人の女の人になんかなりたくないと泣いている親友の琴子の傍らで、完全な女になることを切望しながらそれが絶対叶わないという現実を無理やり飲み込もうとしているにいちゃんが、親友の背中を優しく撫でながら、それでも内心どうしようもなく親友に嫉妬していた光景を少しだけ想像してみた。そうしたらそこにあったのは、少しの哀しみと途方もない寂しさが絶妙的に混ざって溶け合った、言いようもなく絶望的な感情だった。

『自分は男の子じゃないし、完全な女の子でもない』

「あ、もうそろそろ駅」

にいちゃんが車窓から、遠くに見える僕らの町の駅の灯りを指さした。小さな無人駅の小さな灯り。あそこに一歩下りた瞬間からにいちゃんの一人称はきっと僕になる。そして17歳の男子高校生として紺色のピーコ―トのポケットに手を突っ込んで少しつまらなそうに出来るだけ大股で駅前の広場を歩くんだろう。僕は駅前にある、あの無駄に派手なイルミネーションが施された、クリスマスツリーを模したあの銅像と、少し前のにいちゃんの言葉を思い出した。

「自分にそぐわないものを身につけ続けるって本当に苦しい、僕は僕の事を自覚した瞬間からずっとそう思っているから、ああいうのを見ると、突発的にむしり取りたくなる」

そうして駅に降りた僕らは、琴子が言う『抱腹絶倒のクリスマス銅像』の前を通りすぎて、琴子の家のお店の前で別れた。琴子は別れ際に

「みいは、希の全部が分かっても全然動じなかったでしょ。むしろ『気づいてあげなくてごめん』て、実の兄のまさかの真実に対してあんなに優しい言葉が出てくる10歳なんか世界広しと言えども多分みいだけよ。みい、そういう所なんだって。それと希、私の言った通りやろ、みいはアンタが男でも女でもアンタが一番信頼してる弟なんやで、例え明日世界の終わりが来てもアンタの事を嫌いになんかならない」

そう言ってすごく嬉しそうに僕らを指さしてから、じゃあ希、みい、またね。と片手を上げて勢いよく自宅の扉を開けて中に入って行った。僕は、その琴子の嬉しそうな言葉の中で、自分を名指しされて告げられた部分については思い当たる節があったけれど、にいちゃんを名指しして告げられた部分については、ちょっとよくわからなくてにいちゃんに

「ねえ、にいちゃんは僕に嫌われると思ってたの?」

そう聞いた。だから琴子に先に自分の本当の事を話したの?弟の僕にじゃなくて?

「琴子が私の…ああ、もう『僕』にしとかないとね、僕の事を知ってるのはね、僕から琴子に言ったというか、白状させられたというか…みいも琴子の性格、アレを考えてみてよ、自分が納得できないとか承服できないとかそういう事が目の前にあったら、相手が誰でどういう状況だろうが、力づくでも追及して解明するのが琴子だよ。アンタが本当に男だって言うならってその昔、裸にね…ああでも、この話はまた今度ね、みいがもう少し大きくなってから、それに往来で話すのはちょっとどころかかなり公序良俗に反する」

琴子は一体何をにいちゃんにやったんだろう、僕はその昔、とんでもない方法で琴子のことを鳩子さんとの間にもうけて産んだという豪快な琴子のお母さんの、駒子さんの事を少しだけ思い出した。

「わかった。琴子がにいちゃんに昔何をしたのかは、僕もなんだか恐ろしいからまた今度聞く。でも琴子がな、僕がにいちゃんのパイロットバードで、それは水先案内人の事で、だから希はみいがいないとダメなのよって言ったんやけどな、それでさっきの『そういう所なんだって』はその事なんだろうけど、僕にはやっぱりよくわからへんわ、にいちゃんが僕を導いてるならまだしも」

「分かんないの?みいは凄い10歳なんだよ。優しいって言うのはね、ひとに対して途轍もなく高い共感性があるっているのはね、それだけで物凄い才能で能力なんやで、中学受験の覇者になるよりずっと価値のある事なんやから。受験なんか努力しさえすればいいけど、みいのそれはそういう事じゃないんやもん、僕はみいにずっと助けられてきたんやから」

僕を一番助けてくれるはみい。あとは琴子、ひかりも、鳩子さんも。にいちゃんは今日僕が出会った人達の名前を上げた、特にひかりは僕に似ているんだと言う。そうなのかな。僕にはよくわからないや。僕は今日初めてあったあの優しいにいちゃんの恋人の事を考えて、それから琴子の事を考えた。にいちゃんの姉のような妹のような、そして時に母のようなにいちゃんの親友の女の子。そうだ、お母さんはにいちゃんの事を知っているんだろうか、僕はあの『会』に初めて行った日に、うっかり口を滑らせて「神様だって間違う事はある」とにいちゃんの言葉をあの『会』のおばさんの前でそのまま口走ってしまって、母に襟首掴まれて礼拝堂の外に連れ出されて詰問を受けた時の事を思い出した。

「汀、アンタ、希から何をどのくらい聞いてるの?」

「お母さんは、にいちゃんの本当の事を知っているのかな、にいちゃんは、お母さんに自分の事を話してないんだよね」

僕はがそう聞くと、兄ちゃんは少し眉間に皺を寄せて、3秒くらい間を置いてから僕にこう言った。

「みい、それは無理だよ。電車の中でも言ったけど、あの人に僕の事を僕の口からは言う事だけは出来ない、未来永劫に。だってそうなったらあの家はどうなると思う、お母さんの怒りで家自体が全焼しちゃうんじゃない?あの人が僕みたいな常識外の異端の人間を認める訳ない。それに僕はね、ことりが生まれて、そしてことりが死んでしまった時から、ずっとあの人の事が許せないんだ、絶対に」

みいが、ことりが死んでそれで神様を信じなくなったように、僕はあの人を許せなくなった。だからあの家を出て、そして僕があの人と静かに離別する日が来ても、僕は僕の本当の事をあの人に言わない。僕が生物学上男であるのに、女だっていう事実はね、みい、僕の人生最高の不幸で障害だけど、同時に最高に大切な秘密なんだよ、今の僕を形作るのに無くす事ができないパーツのひとつで、そう思えるために僕はずっと努力してきたんだ。だから、それをあの人に僕の口から言う事だけは出来ない。にいちゃんはそう言った。僕は突然ことりの名前が出てきた事に少し驚いて、にいちゃんのその固い決意について、ひとつだけ質問をした。

「にいちゃん、どうしてお母さんがことりを産んで、ことりが死んで、それでにいちゃんがお母さんを絶対に許せないって事になるの」

「みい、僕はね将来、自分のお金で今の男の体をちゃんとした女の人の体に作り変えたいと思ってる。それは今、医学的には可能な事なんだよ、鳩子さんがそうやろ。でもね、それをしたって僕は妊娠も出産も出来ない。どんなに頑張っても現行の医学でそれだけは出来ないんだ。それをあの人は、自分の事を全部を自覚した中学2年生の僕の前で易々とやってのけて、あげくことりが病気で障害があったからって、ほとんど見舞いにもいかずに見捨てて、今日まであの子の事を無かったことにして生きてるんだよ」

そういうの、許せると思う?

僕は、ことりが荼毘に付されて帰宅したあの日、ことりの亡骸である小さな骨壺を抱いて僕と一緒に泣いていた14歳のにいちゃんの事を思い出した。にいちゃんはあの時、ことりの骨壺を抱いたまま嗚咽していた7歳の僕と同じ場所で、この先の人生で神様なんかいないと神様を否定することにした僕とは全く違う怒りの中にいたんだ。

そして、母の完璧な長男としてあらゆる母の希望を具現化し、誰より母に愛されている筈のにいちゃんが、その母の事を微塵も愛していないという事を、それは僕もぼんやりとした輪郭の事実として予測はいたけれど、でもこの時、初めてにいちゃんの口からそれをはっきりと聞いたと思う。

にいちゃんは母に愛されているけれど母を愛していない。

僕は母に愛されたいけれど母は僕を愛していない。

僕達は同じ母親から生まれたきょうだいなのに、そこには永遠の平行線しかないんだ。

「でもお母さんは、僕の大体の事に気が付いていると思うよ。でも本当の事を僕には聞いてこない。僕に「アンタは本当は女の子なの」って聞いて、僕がそうだって言ったらそれは動かしがたい真実になっちゃうからね。だから曖昧なまま、不安なまま、それで僕がどんなに賢く、そして思い通りに育って、例えば来年東大の理Ⅲとか文Ⅰに受かってもきっとずっと不安で、あのおかしな『会』に通いつづけるんだと思う。自分は幸せで不安分子なんか何ひとつ持ってないんだって思い込むためにね。でもそれは僕にはどうしようもできないよ、僕だってこんな訳の分からない人間に生まれたくなんかなかった、普通の女の子が良かった、身長だって180㎝も要らなかった、160㎝位が良かった」

「お母さんとにいちゃんは一生分かり合えないのかな、ほんとうの事が全部分かってしまった方が、安心できるって事はないのかな」

「みいは優しいね。でもねえ、みい、言葉をどう尽くしてもわかり合えないことはあるよ。それが例えば血の繋がった親子でも」

そうなのかな、だったらちょっと寂しいな。僕はにいちゃんのピーコートのポケットの中に自分の手を突っ込んだ。みい、寒い?そうにいちゃんが聞いて、ポケットの中で僕の手を握ってくれた。僕より大きくて、そしてひかりよりは多分小さなにいちゃんの温かい手。12月の雲の無い夕闇は、強い冷気を僕達の町に運んできて、僕達はポケットの中で手を繋いだまま家まで少し速足で帰った。

僕達は、今日、仲の良い7つ違いの姉と弟になった。

☞3

お正月が明けて3学期が終わり、にいちゃんと琴子が高校3年生になると、2人は予備校に通うようになった。にいちゃんは、今更僕みたいに塾なんかに行かなくても、日本中の大学にはどこでも選び放題入れるものだと思っていたので僕は少し驚いたけれど、にいちゃん達に言わせると『世の中とはとそういうもの』らしい。2人の学校はもう高校2年生の段階で高校3年生の学習内容を全て終えているので、授業は全て受験対策に切り替わり、それに更に追加する形でにいちゃんと琴子は予備校の現役クラスに行くようになり、にいちゃんは以前より家にいる時間が少なくなってしまって、僕は少し寂しかった。

「予備校に指定校割引があるんだよ、市内のいくつかの学校の生徒は学費が割引になる、あと僕の場合は、全国模試の成績で選抜してもらえて特待生。まあその代わり、2月以降は結構あちこち受験しないといけないんやけど、だからこれは一種のアルバイト」

にいちゃんは、京都市内の、特待制度のある予備校を自分で探して来て、月謝その他諸費用を全て自分の学力と等価交換して賄う形でそこに通うことに決めてきた。少しでも母に口を挟ませないためだ。にいちゃんは僕にその正体を完全に明かしてくれたあの日から、母に対する態度を特に変えるような事は一切無かったけれど、少しずつ、そして着実に母から静かに離別する準備を始めていた。僕はそれを静観することしかできなかった。水の流れが堰き止められないように、季節が時間の経過と共に止めず流れるように。にいちゃんは多分来年はもうこの家にはいないんだろうと思うと、僕はそれも少しだけ寂しかった。そしてにいちゃんといつも一緒にいる琴子は

「付属の大学には進学しないで外部受験する。でも希みたいに予備校の特待生になるのはちょっと無理だからパパにお金を出してもらう事にしたの。大丈夫、パパは私の為なら湯水の如くいくらでもお金を出す」

と言って鳩子さんに予備校のお金を出してもらっていた。『湯水のように』って、本気だろうか。鳩子さんにはあの後、京都で2回会ったけれど、確かに鳩子さんは1人娘の琴子に極端に甘い。例えば一緒に買い物に行って琴子が欲しいと言った洋服は、お店のハンガーラックの端から端までを指さして「じゃあここからここ迄全部頂戴。どれも琴子ちゃんに似合うから」と言って買ってやるし、自分のお店で明け方まで働いていたのに、朝一番に僕の中学入試の為の現地プレテスト、模試に勝手についてきた琴子をあの黒塗りの外国製の車で駅まで迎えに来て僕共々会場まで送迎してしまうし、とにかく琴子をお姫様か何かみたいに扱っていて、僕は琴子が何であんな自由奔放で大胆な性格なのか、その原因の一端をまざまざと見せつけられた気がした。そんな鳩子さんは僕の顔を見ると必ず

「みいちゃん、希は元気?あの子、思いつめた顔してない?思うように生きなさいって鳩子さんの言葉を忘れてない?」

そういう事を僕に確認してきた。僕はそのたびに、にいちゃんは毎日寝る前に僕にひかりの話ばっかりするという事、今日は自転車で現場から予備校に現れて5分だけ顔が見れて嬉しかったとか、仕事で桜の木を剪定する時に取っておいてくれた八重桜の花をひとつかみ持って来てくれたとか、そんな話をしてくれて、その時はにいちゃんはお化粧をしていなくても頬が桜色に上気した乙女の顔になる、たとえ今にいちゃんの頭髪が伸ばしかけの坊主頭だとしても、そんな事を鳩子さんに伝えた。鳩子さんは僕の報告をとても嬉しそうに聞いてくれて、その傍らにいる琴子はわざとらしくつまらなそうな顔をした。親友に彼氏が出来るのがこんなつまらない事だと思わなかった、女同士の友情なんか紙より薄い、私もみいと付き合おうかなと言って。そんな事、本当は思っていない癖に。

にいちゃんは、植木屋のまだまだ下っ端で、とにかく毎日忙しいひかりとそう長い時間、頻回に会うことは出来なくても、ほんの少しの時間顔を見る事ができるだけでもとても嬉しいと僕に言っていた。僕はあの日、ケーキ屋で初めて顔を合わせて以来、「俺んとこにも遊びにおいでな」と言ってくれていたひかりに会う事ができていなかったけれど、にいちゃんがひかりに会った日は、例えばそれがたった10分の逢瀬だったとしても、1時間くらいの話に引き延ばして編集されてその内容が僕に繰り返し報告されるので、あまり「暫く会ってない」という感覚が持てなかった。だから琴子がむくれる気持ちも少し分かるような気がした。でもにいちゃんは、決して浮かれて模試の成績や合格判定を落とす事なく、鳩子さんの母校である京都の大学を第一志望としてそこをA判定の枠内に収め続けていた。高校の先生達はにいちゃんの実力を考慮すると、東京の方に進学する気はないのか、君のお母さんもどちらかと言うとそうして欲しいと言っていたけどと、母の意向と先生たちの『東大進学実績』という目的の元、再三にいちゃんの東京への進学を勧めたらしいけれど、にいちゃんは

「出来るだけ弟と離れたくないんです。それに大切な友達も京都に進学するし。僕は東京なんて遠い場所には行きません、東京で出来る事はここでもできます」

そう言って母の希望と、母の傀儡として母の希望をそのまま伝えてきた教師の勧めを一蹴した。でもそれは僕や琴子と離れたくないという気持ちもあるとは思うけれど

「まあ、何より南整形外科医院のアホ息子の為よね」

琴子はそれにもまた、少しむくれているようだった。だから僕は、琴子、仕方ないやん、それににいちゃんはお母さんの言う事は間に誰を挟もうがもう聞く気がないんやし、大体万が一にいちゃんが先生とお母さんの主張に折れて東京に進学したりしたら、僕も琴子もきっと寂しいよ。そう言って琴子をなだめた。もうどっちが年上なんだかわからない。そして当の琴子は大学進学について、パパの母校にチャレンジするのはやぶさかじゃないし勝算もない訳ではないけど、現代文が壊滅的すぎてバランス重視の国立にパス出来る気がしないと言っていた。「アレよ、あの『登場人物の心情』なんか知らんわ、分かる訳ないやん」。でも一応、琴子はにいちゃんと同じ学校の別の学部を受けるらしい。琴子は中学の時は流石に男子校には一緒に行けなかったけど今度は希と一緒の学校に行ってあげるのと言った。何だかんだ言っても琴子は寂しがり屋で、親友のにいちゃんの事が大好きなんだ。そしてにいちゃんも今回ばかりは自分の意思決定に沿って未来に進む。昔、中学受験の直前、にいちゃんは、インフルエンザに罹患してそれがにいちゃんへの感染してしまう事態を恐れた母に納戸に閉じ込められた僕を前に、この受験が終わってもまた6年後にはお母さんが今度は僕の大学受験を巡って大騒ぎするだろうとため息をついていたけれど、その予測は少し外れた。だってにいちゃんはもう直ぐ18歳になろうとしていて、それは母が易々と制御できる年齢の小さな子どもではない。少なくともにいちゃんは昔の、親にどこまでも従順で素直で御しやすい小さな男の子ではなくなっていた。

そして母は、東京の最高学府には進学しないものの、普通に考えてもかなりの難関に挑戦する予定でかつ、そこに多分よほどの突発事故でも起きない限り、合格するだろう未来をほぼ手中に収めている息子のにいちゃんを目の前にしても、正体が見えない漠然とした不安、それに駆られてあの奇妙な『会』にずっと熱心に関わっていた。

でもそれは『正体が見えない漠然とした不安』じゃない、母は分かっていた筈だ。

この頃のにいちゃんは、本人が完璧に男子高校生に擬態しているつもりでも、生活の端々に女の子であるという本来の姿が垣間見えるようになっていた。もしかしたら、にいちゃんももう殊更自分の本当の事を隠すのをやめる事にしたのかもしれない。このいずれ、永遠に別離するつもりでいる母親に対して。にいちゃんの以前より柔らかくなった口調、そして綺麗に磨かれるようになった爪、夏が来るまでは靴下で隠れるからいけるんじゃないかなと僕が足の爪にピンクのマニュキュアを塗ってあげた事もある。生まれた時からずっと女で、そしてにいちゃんの母親である人にそれが分からないとは思えなかった。だからなのか、母はたまに僕ににいちゃんのことを探るような事を聞いてくる時があった、勿論、にいちゃんが学校や予備校に行っている間に。

「汀、希は予備校にいってそれでどこかに寄ってるとか言ってたりする?毎日遅いけど」

「にいちゃん?自習室が静かで使いやすいからそこで勉強してるって言ってたよ」

「そう、じゃあ、希の友達のことだけど」

「にいちゃんの友達は、僕は琴子しか知らない」

もしかしたら母はひかりの事も少し知っていたのかもしれない。でもひかりは南整形外科医院のもう死んだ事になっている息子で、そこに存在しない筈の子だ。そして南整形外科医院の院長の妻であるマコト君のお母さんはあの『会』の中で母が良く知っていてかつ有力な立場にある人で、それだけに母もおいそれとひかりの名前を僕の前では口にはしなかったし、ぼくもそう易々と母に口を割る訳にはいかなかった。それはにいちゃんの世界の中で今、一番大切で崇高な秘密だから。

でも、日曜日ごとに母に連行される『会』の礼拝堂で会うマコト君にだけは、ひかりとにいちゃんが『付き合ってる』なんてことは絶対に言えないけれど、2人は学年は違うけれどどういう訳か友達で、ひかりがマコト君の事をとても心配していたという事や、たまににいちゃん経由で「マコトに渡して」と、小さな袋に入ったお小遣いやお下がりのゲームソフトを「これ、ひかりから」と言って渡す事があった。僕のにいちゃんと、マコト君の秘密の兄であるひかりが友達であると言うとマコト君は

「ハァ?ひかり兄ちゃんが何で伝説の天才と友達なん?だって学年が全然違うし、大体ひかり兄ちゃんて滅茶苦茶アホなんやで、何処にそんな接点があるねん」

と言って、物凄く不可解な顔をしていたけれど僕が

「そう?優しくていい人だと思ったけど。背も凄く高いし、今は植木屋さんなんやろ、僕はカッコイイと思うけどな」

そう言うと、えっ?ひかり兄ちゃんに会ったん?いいな何処で?そう言いながら僕の事を羨ましそうに見つめてこう言った。

「まあ、そうやな。アホやけど僕には優しいし、見た目なんかはまあまあ格好いいとは思う。いいなあ汀は、僕もひかり兄ちゃんに会いたいわ」

☞4

僕らはお互いの母親に『友人同士である兄達』の話を聞かれないように小声で話をして笑い合った。再来年、無事にお互い志望校に進学できたらひかりの住んでいる北山という所に一緒に遊びに行こう。そう思うと中学入試も少しは頑張れるかもしれない。そして僕らが本当は姉である兄と、医者になれなくて一族を追い出された挙句死んだことになっている秘密の兄について秘密の話をしていたこの『会』の中では、この頃、ほんの少し不穏な事が起きていた。というよりそれはいずれ誰かが言い出す事で起こるべくして起きる事だった。以前マコト君が、この『会』での高額な素人の個人相談の事や、本来そんな価値の無い物品、例えばあの『先生』が聖別した本当は1斤100円程度の食パンひと欠けに1万円の値を付けて信徒に売っているとか、毎月の『献金』が人によってはとんでもなく高額だとかそういう事を教えてくれたけれど、それを

「過剰にやりすぎたのよ」

元々、この地域で大きな商いをしている家が出自である琴子は、今、母親と暮らしている自宅の稼業が料理屋という事もあって、地域のちょっとしたことを本当によく知っていた。それでこの『会』が初めの内は、小さな教会の小さな家庭的な集まりとして、子育ての悩みのある母親や、地域で1人暮らしをしていて話し相手のいないお年寄りなんかを相手にした慈善的な小さ団体だったものが、どんどん奇妙な集団として肥大化し、過剰に主張される終末論によって『会』に集う人達から、献金と言う名前の現金を搔き集めている事が少しずつ地域で問題視されるようになってきているのだと、琴子が僕とにいちゃんに教えてくれた。それがにいちゃんがひかりに貰った八重桜をハンカチに大切に包んで持ち帰った春の終わりごろの話だ。

「あそこに入れあげたおばあちゃんが、何百万も家から持ち出したとかお客さんが話してたよ」

だからにいちゃんも琴子も、この田舎町こそが原理主義的で保守的で同調圧力に飼いならされた小集団である以上、この中でかなり異端視されつつあるこの集団は早々にこの町をひきあげてくれるんじゃないかと思っていたし、僕もそう願ってた。それが母の為だと思っていたから。

「自浄作用だよ、良いか悪いかは別にして、こういう小さな町はね、あの手の集団とか、僕みたいな異端の人間の存在を許さないんだ」

にいちゃんはあの奇妙な『会』と自分を同一視するみたいに僕にそう説明してくれた。でも、地域のそういう雰囲気を受けた『会』では益々終末についての教えが過激になり、そして本当にもう直ぐ終末が来るから、会に集う皆さんは家族や友人を皆この場に連れて来てすべての人がこの教えに連なるように説得しなさいと礼拝の中であの『先生』が強く主張するようになり、勿論それに伴って現金も闇を飛び交っているんじゃないかと琴子が商売人の家の子らしく言っていた。そうやって、原理主義的な田舎町にあってそれより更に原理主義的な集団として白眼視されるようになった『会』に、それでも母はすがるように参加し続け、とうとう夏休み前のある日、にいちゃんに

「希、今度の日曜日にね、あの教会に行くから、貴方も予備校は休んで一緒に来なさい」

そう言った。にいちゃんは当然行かないつもりで母に一言「それは無理だよ、日曜は模試があるんだ」と言おうとしたらしい、でもあの時の母の、自分のシナリオから全てが脱線しかけているのを察知している時の、怒りのような、動揺のような、狂気のようなあの瞳を見た時にいちゃんは『これは逆らうと大変な事になる』と久しぶりに感じたらしい。そしてその傍らで兄ちゃんと一緒に塾の課題を解いていた僕にもそれが十分わかった。僕達姉弟は経験的に身に染みて知っている。

にいちゃんはこの日初めて、不承不承といってもそんな感情はあの涼しい顔の裏に完璧に押し隠して、僕と一緒にあの『会』に足を運び、小さな赤い屋根の教会の中の礼拝堂の中に一歩足を踏み入れた。にいちゃんが会堂の中に入ると、その姿を見た『会』の信徒達は少しだけどよめき、次に嘆息が漏れた。白と紺の高校の夏服を着て、本格的な夏が来る前のあの湿った熱気を一切感じさせない涼しい空気を纏ってそこにいる18歳の青年は、中年以上の年齢の女の人か、もしくは僕のような子どもしかいないこの奇妙な集団の中で例えようもなくきれいなものに見えた。まるで救い主だ。にいちゃんは会堂の真ん中の席に座ると、少しだけ辺りを見まわして、僕にしか聞こえない声で

「僕の学校、真言宗なんやで」

と言った。完全に異教徒の世界からの闖入者なんやけど。そう言うと、僕の前に座っていたマコト君が後ろを向いた、あ、ミスコンの女王。僕は慌てて口元に人差し指を置いて「それ言ったらアカンやつ」という仕草をしたけど、にいちゃんは特に動じずに

「マコト君?初めまして、汀の兄です」

そう言ってとても穏やかで優しいグレード100の笑顔でマコト君に挨拶をしてから、ほぼ口パクの小声で

(ひかりの弟だよね)

と言った。その内容をにいちゃんの口の動きから読み取ったマコト君は凄く嬉しそうにウンと言って笑った。マコト君は兄であるひかりがとても好きだ。そしてにいちゃんもまたひかりが愛しているものをひかりと同じように好きだ。

その日の礼拝の内容は、いつもに増して過度に終末を待望するもので。あの『先生』が説教台の前に立ち「私達はこの地域において迫害を受けていますが、今から約2000年前、救い主もまた迫害を受け、そして磔刑に課せられました」。そんな風に僕達のこの田舎町をゴルゴタの丘に模す所から始まって、とにかく終末はすぐそこに近づいていて、今ここにいる会衆一同は貴方の大切な人を、愛する人をここに集めなくてはいけないと繰り返し主張する、何も知らない人が聞いたら多分何も言わないでその場から踵を返したくなるような内容が続いた。

『この、あとわずかな時間の後に終末のやって来る世界から、新しい世界に、私達選ばれた者で旅立ちましょう。あなた方は選ばれた存在です』

会堂に集った、特に前列にいる人達はその話に頷きながら真剣に聞き入っていていた。その様子を見ながら手元のあの羊の本をパラパラとめくっていた『神様の選抜漏れの失敗作』を自負している僕は、ぼんやりとこんな事を考えた。

みんな頭おかしい。

僕がにいちゃんの本当の姿を見たあの日に僕と同じように『世界の誰よりも自分こそが神様の選抜漏れの失敗作』そう悩んでいたと僕に告げたにいちゃんは、この冷静に聞いたら確実に奇妙でしかない、安いSF小説のような話をどんな気持ちで聞いていたんだろう。僕はこの狂気さえ感じるこの礼拝の途中、正面を真っ直ぐに見つめているにいちゃんの顔を横目でそっと伺ってみた。そうしたらにいちゃんは、いつもの男子高校生に擬態している時の表情の読めない、静かで涼しい顔をしていた。不快なのかそうでないのか、怒っているのか、そうでもないのか、全く読めない美しい横顔。ここにもし琴子がいたなら

「怖い!きもい!帰る!」

その3つの言葉だけを残し、ついでに僕達の手を引っ張ってこの場からさっさと去るのだろうけれど、母の手前、僕達はそんな真似をする訳にも行かず、牧会の最後の祈りの時までその場に静かに着席し、オルガンの後奏をもって礼拝が終了し、会堂の中が席を立つ信徒の騒めきに満たされてしばらくしてから静かに立ち上がった。にいちゃんは

「お母さん、僕もう予備校に行かないといけないから」

そう言って、ここで自分は歩いて駅まで行って、電車に乗って出かける、今日も遅くなると思うと母に告げてから

「ずっと思っていたんだけど、みいももう5年生なんだから塾の日曜特訓に入れてあげないと、僕が今のみいの年の頃には毎週日曜日は特訓とか模試で塾だったじゃない、本人がどうしてもって嫌がっているならまだしも、僕にはやらせて汀はいいとかそういのは僕は良くないと思う。みいはみいなりに今とても頑張っているんだから」

そんなことを言った。実際5年生になってから僕の塾での学力順位を表す選抜クラスは、地下のFクラスから、地上のSクラスに昇格していて、そのテストの結果が出た日、にいちゃんは結果を見てとても喜んでくれて、琴子は「みい素敵、流石よ」と言って僕の頭をぼさぼさになる迄撫でまわし、そして母は全く無反応だった。

希は最初から一番上の特Sだったわ。

そして僕はこの時、にいちゃんが母に意見する姿を、以前そんな事があったのは確かにいちゃんが自分の中学入試自体を再考してほしいと言った11歳の時以来だから、7年ぶりに見た。にいちゃんは兄として僕を心配しているんだと、お母さんがちゃんとみいを受験させる気があるなら、日曜日に一日ここで足止めをしておくのは少し考えた方が良いんじゃないかな、これは経験則としてだよと言った。とても明瞭に真っ直ぐに母の目を見て。

みいをこんな所に連れてくるのはもう止めて欲しい。

それはそういう意味だ。勿論そんな事をはっきりと言葉にはしないし出来ないけれど。

貴方の不安と不幸に僕の弟を巻き込むな、貴方の不安と不幸の正体は今目の前にいる僕だ。

にいちゃんは、次の春には進学して家を離れ、そして段階を追って母と完全に別離する前に、この母と僕の間に出来るだけ強固な防波堤を作ろうとしていたんだと思う。でもそれは僕がずっと後になって理解した事だ。だからにいちゃんはこの時期、自分の受験勉強の傍らで僕の勉強を本当によく見てくれていた。それである時、僕の塾内模試の得点がバランスは悪いけれど、国語だけがいつもとても良いと評してこんなことを言った。

「みいは算数は苦手だけど国語がよく出来る。琴子と反対だね。それならみいは文系科目で得点したらいいよ、完璧でなくていいの、4教科総合で合格点を取れば受かる。それだけの事。完璧を求めると失敗するからね。そうやって勉強して力をつければ今直ぐじゃなくても、長期的に見れば確実にお母さんからの理不尽な暴力から逃げられる。僕もみいもあの人から物理的に離れる事出来たら、あの人だって少しは自分自身の事を考える事ができるようになるよ。僕はあの人を許せないけど、でもあの人がああなったのは僕のせいでもあるから」

責任は感じてる。そうにいちゃんは言った。だから僕はそれはにいちゃんが本当は女の子だって事が?でもそれはにいちゃんのせいじゃないと、そう言った。

だってそれは神様が間違えたんだから。

「ううん、それもあるけど、なんかね、僕の頭が…これ自分で言うのは本当にどうなん?て思うんやけど、IQって言うの?アレが凄く高いんやって、別にだからどうとは思わないけどね、せいぜい何でもいっぺんに覚えられて楽だなあってこと位しか。昔、僕が5歳くらいかな、地域の検診か何の知能テストでそういう結果が出た時に、本来はこれは保護者に開示するべきじゃない事らしいんやけど、保健師さんがうっかりお母さんに言っちゃったのを僕もよく覚えてる。お母さん、これとんでもない数字ですよって」

それを聞いて母はデータ的にも現実的にも、その頃からもう何をやらせてもすべてにおいて非凡な能力を見せていたにいちゃんにどんどんのめり込むようになった。新興住宅地に引っ越して来たばかりの地域ではよそ者で新参者である母がこの原理主義的で保守的な地域の中でたった1人で子育てをしていたことも、更にそれに拍車をかけた。そして自分が普通の人間じゃないのかもしれない、という後ろめたさに早い時期から苛まれていたにいちゃんは、その母の期待に応え続けた。

『負の相互作用』

にいちゃんはそう言った。

「入試と一緒。完璧じゃなくていい、それだってちゃんとどこかに認められて合格できるんだってあの人が思えたら、きっともう少しあの人も自分自身の人生を幸せだと思えるのに、僕やみいや死んじゃったことりに自己実現を託さなくてもね。僕はねえ、みい、あの人を許せないけど、だからって不幸でいて欲しいと思っている訳じゃない。みいがあの人に諦めきれない愛があるのも全然否定しない。ただ、分かり合えないだけ」

その時のにいちゃんの表情はとても優しくて、そしてとても寂しそうだった。自分の性自認の齟齬以外は賢くて美しく何でもできる完璧なにいちゃん。対して、すべてにおいて平凡でにいちゃんのその非凡さにすがらないともう自分を保つことが出来なくなっている母。

すれ違いだ。

母はにいちゃんの忠告に似た提案に、場所が場所だけに激高したりはしなかったけれど、特に承服もしないで黙ったまま、出来るだけ早く帰って来なさいとにいちゃんに告げてその場を離れた。にいちゃんは、じゃあ僕は行くからね、少し遅くなるから先に寝ててよと言って僕の頭を撫でてから。世界の終わりを待ち望む奇妙な人々のこの淀んだ空間から出て行こうとして、出口で『先生』に声をかけれられていた。『先生』がにいちゃんに何を言っているのかは僕にはよく聞こえなかったけれど、にいちゃんが『先生』にこんな言葉を返していたのだけは聞こえた、僕がにいちゃんの声を聞き漏らしたりする筈がないから。

「そうですか。でも、僕は神様を信じていません。僕は神様に最初から選ばれなかったんです。きっと、あなたとも分かり合えません」

にいちゃんは、よく母に向けているグレード1の笑顔で『先生』にそう告げて、会堂から静かに出て行った。

そして僕はこの日の『会』の帰りに、マコト君のお母さんに声をかけられた、あのいつも綺麗な洋服で高級な靴を履いたレクサスのお母さん。

「今日、お兄さんがいらしてたわね。ねえ、汀君、貴方、おにいちゃんの他に、お姉さんは居ないの?あのお兄さん、希君のすぐ上か下に」

僕はとても不思議な事を聞かれた。聞かれたと言うか、あの時のマコト君のお母さんの有無を言わせない、言葉自体は穏やかだけれど決して相手に黙秘権を与えない空気は尋問に近かった。でも僕はその時はマコト君のお母さんが何を聞いているのか本当に分からなかったし、そして実際ににいちゃんの他に僕にきょうだいは、僕にはあとは死んだ妹であることりしか居ないのではっきりと言った。

「えっ?いません、僕にはにいちゃんと、あと僕が7歳の時に死んでしまった妹がいるだけです」

真実だ。にいちゃんは生物学上も戸籍上も兄だ、少なくとも今のところは。マコト君のお母さんは少しだけ僕の事を疑うような顔で見つめてから5秒後に少しわざとらしい程の笑顔で

「そう。じゃあ勘違いね、ごめなさいね、いつもマコトと仲良くしてくれてありがとう」

そう言って僕の前から離れて行った。

その日の出来事は僕の頭の中に、食事をした時に混入していた砂をうっかり嚙んでしまったような、不快で苦い感覚をいつまでも残した。


※いつも読んでいただいてありがとうござます。次で終わります。

多分。

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