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食べない(Unexpected survivors7)

人工呼吸器を無事抜管して、鎮静を抜いたら、末娘の意識状態が冬眠していた熊が春の光に誘われて目を覚ますように、ぱちりと目をさまし

「ママ!ドコ?コッチキテ!」

だとか

「ユーチューブミルッテイッテルデショ!」

いつもの我儘と悪態の応酬を存分に披露してくれるのではないかと心から期待して待っていた。

待っていたのだけけれど。

そんな事は少しも起こらなかった。

末娘は傍に来る人の顔を何となく見つめたり、視界に入る場所に置かれたポータブルDVDレコーダーに映るアンパンマンをぼんやりと眺め、手足をほんの少し動かしたりする程度で、手術以前の状態には一向に戻ってくれなかった。それどころか、普段なら手負いの熊と呼ばれるほど大あばれして血管に入った細い管を抜こうとして主治医に

「頼む!頼むからそれだけは抜かんとってくれ!」

両手を抑え込まれながら涙目で懇願されているのに、足で応戦するのが常だった点滴の末梢ライン取りの際も、抜管した日から丁度1週間後の創部の半抜糸の処置の間も、とにかく誰が来て何をしても、人が変わったように大人しく静かだった。全く反応が無い訳では無いけれど、嫌がって暴れる事もしなければ泣き声も漏らさない。起きているのに眠っているような不思議な状態のまま、それどころか人工呼吸器抜管の翌日未明に起きた痙攣のような症状がその後も夜間に数回起こり、その対応の指示を仰ぐために自宅で寝ている当直明けの主治医に看護師さんから電話が行く始末。主治医は夜も明けやらぬ自宅で出勤後の対応を考慮する為に、末娘に起きた症状についての論文と文献を探して読む羽目になった。そうでなくとも術前は体重体調すべてが『ベストな状態』だと太鼓判を押されていた末娘の退院が予想の範疇を越えて押しに押しているというのに。もし先生が今

「俺、なんで小児循環器医になってしもたんやろ…」

という後悔の海の中にいるとしたら割と末娘のせいだと思う。先生、やめないで。

そして体調が許せば毎日2回、リハビリに理学療法士さんが病床に来て、サチュレーションと呼吸状態を確認しながら座位、座る姿勢を取らせても

「まだちょっと首がぐらぐらして座らへんなあ」

まるで新生児を無理に座らせたようにぐにゃぐにゃのフラフラ。私が末娘の前に回って

「末娘ちゃんこっちだよ」

と呼びかけてもチラリと私の方を見て、あとはまるで不貞腐れたような顔のまま重力に任せて下を向くばかりで、理学療法士さんに支えられて座っていると言うよりはほぼ潰れているその丸い形状が末娘の大好きな551の豚まんに似ていた。それでも豚まんが、もとい末娘が、その潰れた丸い形状のままで少しでも首や背中に力が入れた瞬間があると

「おっ!ええぞ末娘ちゃん、その調子や」

「サチュレーションも全然下がらへんし、ええ感じよ」

とにかく明るくてポジティブである事が身上でそれが仕事です、高校時代はクラスの人気者、部活はサッカー部でしたという風情の優しい理学療法士さん達に些細な事でもとにかくベタ褒めされていた、この人達はこの子の指先が微かに震えただけでも末娘を褒めるつもりなんだと思う。その理学療法士さん達の手放しの賛辞は

『手術前の状態とあまりにも違うこの末娘の状態は、やっぱり脳に不可逆的な何かが起きていて、この子はもう前の状態には戻れないと、そういう事なんじゃないか。そうだとしたら今後はこの子をどうやって育てて行こう、幼稚園にはどういたらいいんだろう、療育は?リハビリは?』

病床にいても自宅に居てもそんな事をひたすら逡巡していた私を励ます言葉にも聞こえた。

そう思ってしまう位、末娘の状態は例えば視線は追視が出来てもいても範囲がとても狭く、起き上がる事は勿論できずにそれどころか体の動きが妙に緩慢で不自然で、発語は一切無し。とても術前、自宅のこの子の兄の縄張りである2段ベッドの上段に「アタシモノボル!」と大声を上げながらよじ登り、そこにあったコロコロコミックをビリビリと粉砕してゲラゲラ笑っていた悪辣で悪戯な末娘と同一人物には思えなかった。NICUにいた新生児期だってこの子がこんなに大人しかった事は無い。

一体この末娘の状態は何が原因なのか、それを主治医は各種検査、末娘のCTとMRIと脳派のそのデータ全てを総合して

「脳梗塞や低酸素脳症の所見は今のところ見られないし、これは術後せん妄、ICU症候群ってヤツね、それやと思う。今のところはそう言う判断。とにかくリハビリして覚醒を促そう。一応もう一度入院中のどっかでMRI撮るから」

現状は脳の梗塞や出血、もしくは術後低酸素状態が続いた事による低酸素脳症では無いのではないかと判断した。ただこれは『現状』なので仮定の定義とでもいうのかもしれない。せん妄なら時間を掛けてリハビリをしてやれば末娘は元に戻る筈、ただそれが一体いつになるのか、そしてそれがどのレベルの『元に戻る』かは誰にも分からない。

「少しずつ、少しずつやな!」

先生はそう言ったけれど、私はそれを末娘と私と自身への鼓舞だと、そう受け取った。私は、特に人命に深くかかわる診療科の医師になった人達が

「この人を自分が何とかしてやりたい、健康な状態か、それに近い状態、それが駄目でも少しでも良い状態で退院させてあげたい」

そう思って冗談も誇張も抜きで、毎日寝る間も食べる間も惜しんで病棟の廊下を走り回っているのに、患者の状態が何だかよくわからない方向に迷走して一体どこを「治療完了」の着地点にしていいものか目的地が全く見えなくなってきた今みたいな時、急変や容態悪化とはまた違うキツさを感じているんじゃないかと思う。

少なくとも患児の親の私は割と辛い。

それでも、執刀医の13時間の手術室での奮闘と、術後2週間、多分一度も自宅に帰らずに続けた術後管理の末に末娘の体に出来上がった新しいフォンタン循環は静脈血を直接肺に、動脈血を心臓に送り込み、末娘の循環をしっかりと成り立たせていた。術後1ヶ月、完全に末娘の状態が迷走している事ですっかり忘れていたけれど、手術後の心臓と肺はとても良い経過を辿っていた。それを証明するように手術前は年中低酸素状態で体の末端の血行が悪く、そのせいで殆ど伸びた事の無かった末娘の指先の小さな爪が伸びていた。

私はこの子を産んで3年目に、病床で初めて末娘の爪を切った。

末娘は人工呼吸器の後に装着していたネーザルハイフロ―・高流量酸素療法から、手術前も普段自宅で使用していたカニュラの酸素吸入に切り替わり、酸素流量も手術前の1ℓの半分の0.5ℓ。それでサチュレーションを80%前後に保っていた。これは健康な人を基準にしても、この子が最終着地点にしたい数値、大体90%の前半から考えてもまだ低い数値ではあるけれど今のこの時点ではまず及第点の数値で

「ウン、いい状態ですね」

毎日創部の状態を見に来てくれている執刀医も、脈拍、サチュレーション、呼吸数、血圧、それぞれが安定してきた事をとても喜んでいた。そして私は先生が数値を見て笑顔でそう言う度、毎回ありがとうございますと言う。もう反射。この先生が3年の間、3回に分けて末娘が大人になるに耐えうる循環を身体の中に切って繋いで組み立ててくれたのだから。

循環が立ち上がり数値も落ち着いてきた末娘は、術後1ヶ月を迎えたこの週、右鼠径部から中心静脈に入れた栄養や点滴の為の点滴の注入口であるCVを抜き、術後ずっと採尿の為に尿道に入っていたバルーンを抜き

「今ついてるデバイスは可能な限り全部抜く」

『池の水全部抜く』みたいな言い方で主治医が右手のAライン、採血や観血的な血圧測定などの為に動脈に入れていた細い管も抜いた。今あるのは何か必要がある時に点滴するために入れている予備の点滴のルートだけ。末娘が何の管にも線にもつながれていない姿を見て、看護師さんも主治医も皆

「すっきりしたね!コレでリハビリ頑張れるね!」

そう言ってとても喜んでくれた。まだ発熱が治まらない事や、偶に何故だか首の右側が腫れては消えるとか、血圧とか、体調にはいくつかまだ心配ごとはあったけれど、術後最高に多かった時期には21個のシリンジポンプと、3つの吸引器と、ペースメーカー、INO、人工透析機、人工呼吸器、補助循環装置、とにかく本人が埋もれて見えない位の数の医療機器を携えて命を繋いでいた末娘から、酸素以外の医療機器が全て撤去された。末娘の心臓と肺はあの13時間の手術を乗り越えた。『手術の成功』という結論は、1年後か半年後の心臓カテーテル検査の評価に寄らなければなんとも言えないのだけれど。

『フォンタン手術後』という言葉を検索すると大体「10年後の生存」と言う文言が予測変換に出て来る。それ自体はとても高い確率の数値ではあるのだけれど、10年からその後のデータでまとまったものを私は見た事がない。フォンタン手術が日本で本格的に実施されるようになったのは割と最近だ。今後の術後長期生存のデータは今一番先頭を歩いてくれている私とそう歳の変わらない年代の人達が切り開き、後ろに続く末娘のような子ども達が現在進行形で作っている。この子が今体にある循環を維持して生活する事で作る情報の蓄積が、次に生まれてくる心臓疾患の子ども達の未来を作る事になる。




そうやって新しい循環が無事に立ち上がり、それなのに起きているのに眠っているようなせん妄状態にある末娘にはもうひとつ、大きな問題が起きていた。

末娘は何も食べられなくなった。

正確には食べる気はあるけれど、上手く咀嚼してそれを飲み込む事が出来なくなっていた。

丁度術後1ヶ月、人工呼吸器を抜管して1週間、末娘は口から何も食べられず、ベッドサイドにぶら下げられた巨大なブドウ糖の点滴栄養と、鼻から胃に通された細いチューブ、Ngチューブから直接胃に流し込まれるイノラスやラコールという名前の半消化態栄養剤だけで生きていた。長い期間、人工呼吸器を頼りに呼吸し、やっと抜管した喉の状態は

「嚥下に問題なし」

耳鼻科医を病床に呼んで診察してもらい、嚥下は出来る、それに即した状態ではあると判断はされていた。それなのに術後1ヶ月ぶりに主治医の許可を貰ってリンゴジュースを飲ませようと口元に差し出したマグマグのストローを末娘はガン無視。それならと、看護師さんが持って来たシリンジで2cc程度口に押し込んでも液体が口に入っているのに歯ぎしりするみたいに唾液と一緒に咀嚼するばかりで上手く嚥下できずにただむせるだけ、口に入った液体を殆ど口の端からこぼし、これはあかんわと残りは全部吸引されてしまった。

口から飲んだりたべたりできるようになったら、きっともう少し意識もはっきりするし、何より鼻から入れているNgチューブも抜いてあげられる、コレが入っていると絶対喉が気持ち悪いですからねと言って末娘を取り囲み、ジュースを嚥下する瞬間を期待して見守っていてた確か3年目と2年目の、いつも一生懸命な若い看護師さん達は私に

「気長にやりましょうか」

つとめて明るくそう言ってくれたけれど、結構がっかりしていたと思う。本来看護師というものはそんな雰囲気も空気も患児と患者の前に醸す事もいけないのだろうけれど、私は若い彼女達のがっかりした顔が少しだけ嬉しかった、同じ感情を同じ場所で共有する事で救われる事もある。特に別チームから今期異動して来た看護師さんは過去何回もこの病棟で大あばれして来た前科のある末娘の術前の状態を知らないだけに

「末娘ちゃんが元気に暴れている所が見たい、そんなにスゴイの?」

と言ってくれていて、末娘がICUからPICUに転棟してきた時から回復を心待ちにしてくれていた。

この時、リンゴジュースを少し飲ませてみて解ったのは、末娘が口や舌の筋肉が上手く動かせていない、食べる事と飲む事の機能が格段に落ちているという事だった。改めてよく確認してみると舌の動きがとても緩慢で不自然で、これだと食べ物を口の奥に送り込むことが出来ない、重力で食道の奥まで流れたものを反射で飲み込む事がかろうじて出来る程度。

この状態を脱するにはとても時間がかかる、末娘はこれから、鼻から胃に入れた細いチューブから生命の維持に必要な栄養を日に何回か注入し、脱水にならないようにソリタ、生理食塩水も注入する事になる。その間に口で何か食べられるように少しずつ練習をする。その際、うっかり誤飲させて肺炎にならないように細心の注意を払わないといけない。それは私もよく知っている。嚥下の練習、摂食リハビリは末娘の人生2回目だから。

チアノーゼ系の心臓疾患児である末娘は生後直ぐの時点で酸素飽和度が低く、口から母乳やミルクを摂取する力が弱かった。意欲はあったのだけれど経口摂取を頑張りすぎると、直ぐに疲れてしまい、嚥下する力が弱くなってそれが誤嚥を招く、誤嚥を繰り返す事で起こる肺炎はこの手の疾患の子にとっては即命の危機になる。それで今と同じように鼻からNgチューブを入れてそこからミルクを与え、手術の日まで体を育てた、主治医からは

「1回目の手術が済んで自宅に帰れる状態になれば、チューブも抜くし、そうなったら普通にミルクが飲めるから」

と言われていた。それならと、経管栄養のまま過ごした生後0日目から4ヶ月、そんな末娘は退院の目処がついた時にはもう、口から何も飲めなくなっていた。哺乳瓶を口に入れていくら待っても吸わない。人が本来生存の基本オプションとして持っていた筈の機能を、数ヶ月使わないまま放置してしまうとあっさり忘れ去ってしまう事があるのだと知った当時の私は、なすすべもなく哺乳瓶を持って途方に暮れてこう思った。

(野生を手術室に置いてきてしまったのかウチの娘は)

機能回復には、1年半の時間を要した。

退院後、自宅に訪問リハビリの言語聴覚士さん、通称STさんに来てもらい、週に1回の指導を受け、ミルクは末娘の鼻から挿管しているNgチューブに専用の器具を繋いで自然滴下で注入。それが1回1時間、日に4時間毎、間に服薬と、早めに始めた離乳食でのリハビリ。手を替え品を変え、これなら飲む?食べる?何が好きなの?それを探して食事量を徐々に増やしてNgチューブを末娘の胃から抜き去るまでに1年半。自宅にはまだその時の名残の点滴台が今は子ども達の洋服のハンガーラックに姿を変えて残っている。

あの老兵をまた戦場に復帰させる日が来てしまった。

はっきり言ってもう2度とやりたくないと思っていた。自宅での経管栄養の管理は本気で大変だったから。あの当時、まだ乳児だった末娘のミルクの注入は夜中もあったし、Ngチューブを自己抜去して注入途中のミルクが気管に入ってしまった時のリスクを考えると注入終了まで眠る事ができなかった、その上経管栄養での栄養注入ではよく吐き戻しが起きた。結果毎日洗濯物が大量に出る。その間にリハビリとその為の食事の用意それと家事、当然自分の事なんかは全部後回し。私はこの時期から化粧をする事を止めたし、朝食と昼食をとる習慣が無くなった。その状態が今度は3歳になった今また。そうしたらまた怒涛の睡眠不足と経管栄養管理の日々が帰ってきてしまう。今年43歳の私だ、それはちょっと勘弁してくれ末娘。

「STさんオーダーしてください」

私は、とにかく貴方じゃ話にならん、STを呼べ。とまでは言っていない、言っていないけれどそのくらいの勢いで、主治医に病床にSTを呼んでST指導でリハビリをしたい、そうして欲しいと頼んだ。主治医は小児科医なので小児の栄養管理も出来るし、耳鼻科医に嚥下の評価のオーダーも、病院の栄養士と末娘の栄養相談もしてくれていた。でも摂食リハビリについてはSTの専門知識が必要です、親が単独で頑張るだけでは絶対無理なんですと、私はここだけは強固に主張した。

前回、1歳半まで、とても良い訪問STさんに伴走してもらい何とか摂食リハビリをやり切った経緯のある私はSTさんへの信頼がK2並みに高い。そして私と同じように現在進行形でお子さんの摂食リハビリに励んでいる友人は「STさんを病床に呼べ」と連呼する私のこの状態を自身も含めて「妖怪STババァ」と呼ぶ。この先退院後も続くだろうリハビリ関連の事柄については、とにかく親のやる気と気合が必要だ。

物の怪並みの執念が。

「病気のある子の母は前向き」とか「障害のある子のお母さんは強い」というイメージが世間に浸透というか流布しているような気がするのだけれど、それは少し違うと思う。虚構だ。勿論元来前向きでまぶしい位明るい素敵なママも沢山いる、少なくとも私以外の人で。

ただ、そういう雰囲気が界隈にある事には少し心当たりがある。

それは、前しか向けないからだ。だっていちいち後ろを向いていたり、涙で眼の前を曇らせていたりしたら、早晩子どもが死んでしまう。特に子どもの状態がこれという所に固まるまでは。

これでいいんだろうか、この子はこんな風に生まれついて、今こんな風になってしまって幸せなんだろうかと逡巡し始めたら全てが終ってしまう。私は個人的にだけれど命も幸福も全部、今を乗り越えた後、将来のこの人が決める事だと思っている。思うようにしているのかもしれない。それならまず『将来』にたどり着かなくては、今を乗り越えなくては。そう思ってただ何も考えずひたすら子どもの横を走っているだけ、全部勢いだ。もっと言うと物の怪的な執念か。確かにちょっと大変だけど。

そんなSTババァの執念は、リンゴジュースが一切飲めなかった日の翌日早々にSTさんをリハビリ室から呼んで来た。まずは正式なオーダーではないけれど、見学という体で末娘の状態を確認しに来てくれたのだ。そこでSTさんが持参した練習用のゼリーを見せた瞬間、目を見張って即口を開けた末娘を見て

「ウン、やる気あるじゃない、口も開くし大丈夫だよ、練習しよう」

末娘は舌の動きは悪いけれど、食べ物を見た時には口を開け、不十分な舌の動きを重力に補助されないと嚥下も出来ない癖にそのゼリーもっと頂戴と目で催促した。

心臓が本気を出してくれたお陰で浮腫みの取れたこの子は切れ長の二重、言葉は無くても目力がとても強い。


そして、この日のまた翌日には主治医の正式な主治医からのオーダーで末娘に毎日1回、物静かで優しいSTさんが来てくれる事になった。過去末娘を1年半付き添ってくれた先生によく似ているSTさん。その人は理学療法士・PTさんとは同部門のスタッフだけれど、雰囲気が全然違う、PTさんが筋力重視のサッカー部ならSTさんは文芸部。多分私と同じ系統の人だ。

末娘は今はまだ、摂食リハビリの入り口、リンゴのゼリーをほんの一口、ジュースで湿らせて凍らせた大きな綿棒を舐めたりする程度、でも沢山食べたいからもっと頂戴といつも口を開けて催促する。

前回は1年半かかった摂食リハビリ、今回はどれくらいの時間がかかるだろう。今末娘は、プリンをひとかけ食べて拍手喝采を貰い、綿棒をくわえては褒められている。

1人だと、やる気だけあって発語も表情も無い末娘のリハビリは今は少し辛いし寂しい。周囲に誰かが居てくれてこそ。STさんと、看護師さんと、主治医、そして毎日創部の状態を見に来る執刀医。皆末娘がほんの少し食べるだけで褒めてくれる。

「よかったですねえ、食べられれば、覚醒の具合が全然違いますよ」

私は多分術後、末娘と同じようなせん妄状態にあった患児を山と見てきたのだろう執刀医の言葉を今は信じる事にしている。

それと若い主治医が奔走してくれていることも。



ところで、今病棟の中には、2人、お腹の大きな看護師さんがいる。2人とも出勤の時、退勤の前、私がまだ面会に来る前、末娘の様子を見に来てくれる。この2人には妊婦であるという事以外にもうひとつ共通点があって、それは

「お母さん、眠れてますか?」

私との会話の最後によくそう聞く事。お母さん無理をしてないですか?しんどくないですか?

末娘のお世話になっている大学病院の小児病棟という場所は、何処でもそういうものなのかはわからないけれど、看護師さんがとても若い。20代前半から20代後半の看護師さんが主戦力。皆、働き惜しみというものを知らない、一生懸命で優秀な看護師さん達。

「やばいトイレに行けない」

そう叫ぶ人が出る程繁忙を煮詰めた状態になる週の前半、明日のオペの準備と今日の心臓カテーテルの子のお迎えと入院の立て込む中でもPICUに通う私に声をかけてくれる。ちょっと私が早く出産していたら娘でもおかしくないような年頃のうんと若い看護師さんが「一緒に頑張ろう」と言ってくれるのは素直に嬉しい。その中でもこの妊婦である2人の看護師さんは、これから親になる立場で重篤な先天疾患や障害を抱えて産まれて来て、この先も長い治療の過程を生きる子ども達の中で働くという事にきっと今色々思う所があるのだろうと、そう思っている。

彼女達が私に抱いている感情が、それは勿論看護師としての気遣いに大半が占められてはいるのだろうけれど、それ以外に母親という場所に立った人の練達のような物であるなら私は嬉しい。憐憫ではないと思っている。でもきっとすごく微妙な感情のような気がする。

それでも私は、その人達がお腹の赤ちゃんと共に末娘の病床を訪ねてくれる事が嬉しい。

君は元気な体で生まれておいで。

正直に言うと、そんな風に思えるようになったのはつい最近の事だ。

末娘は重症児ではあっても割と状態の安定した、然程緊急性のない子だったけれど、それでも健康な上の子ども達と比べると手がかかったし、経管栄養時代には嘘でも誇張でもなく、私の感情を調整する機能が損壊し、めそめそ泣きながらもしくは無駄に怒りながら精神科の病院に通っていた時期がある。それでも、周囲が末娘を可愛い、いい子だと言って大切にしてくれる事を、この末娘が病気の代わりに得た善い物のひとつなんだと思う事で少しずつ、少しずつ自分を持ち直して来た。

その「可愛い」「いい子」と言ってくれる人達の最大派閥が、主治医と看護師さん達とリハビリスタッフ、病院の人達だ。

その人達の待つPICUに通うのも今日で最後。

明日から、私は末娘と同じ病室にお泊り、付き添い入院になる。末娘は明日PICUを出て一般病棟に移る事になっている。

まだハビリの日々は続くけれど、退院まではきっとあともう少し。

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