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短編小説:あかつきのきみに。

☞1

その日、俺は、会社に行かない事にした。

無断欠勤だ。

このまま地上に出てタクシーを拾っても絶対遅刻にしかならない9時直前まで無駄に逡巡していた俺は決心して地下鉄の乗り換えの駅でそのまま反対の、京都方面行きのホームに階段をのろのろと時間をかけて下り、停車中の普通電車に乗った。乗車前、駅のごみ箱にA4サイズの封筒を放り込んで。

既に出勤時間のピークを終えた普通電車、しかも大阪の中心地から外に向かって滑り出す電車の中は人もまばらで、昼前の講義に出るためにのんびりと京都方面に向かう学生と、競馬新聞に赤鉛筆のカタギじゃなさそうなおっさんと、これから買い物にでも出かけるような小綺麗な老人が等間隔に座っていて、その中に1人ランドセルを背負った男児が鼻歌を歌いながら窓の外を楽しそうに眺めていた。

少年、今、外を見てもここから京橋までの区間は地下だぞ。壁しか見えん。

『…行き普通電車が発車します、締まるドアにご注意ください』

少年は何がそんなに嬉しいのか、あの独特に間延びした出発のアナウンスを聞いて、多分あれは車掌の安全確認の手ぶりの真似だろう、人差し指をぴんと伸ばして目の前の俺に向けた

「シュッパーツ!」

そうしたら俺と目が合った。小学3年生位だろうか、おい、お前もさぼりか。

「さぼり?」

青いランドセルが俺の脳内の質問をそのまま返して来た、少年、俺の心を読むのか。

「ちゃう、休みや」

「フーン、じゃあ何でお父さんが会社行く時の恰好してんの」

「ウソや、さぼった」

「俺もさぼった!一緒やな」

距離感の無い子ども。人懐っこいと言うより少し思議な感じがする。でも今の俺にはそんな事はどうでも良い。今日は帰ってイヤっちゅう程寝る。冷蔵庫には干からびた人参の他に発泡酒が3缶残っていた筈だ、アレ全部飲んで寝る。俺はもうここ何ヶ月も1日3時間程度しか寝ていないし、この前の休みがいつだったかも全然思い出せない。とにかく出社して頻発する問題の解決と訂正と修正とその他ケツ拭きと恫喝の毎日に本気で疲れた。大体「なんかもう少しいい感じにして」って何や、そんなもんオマエがしとけ。俺は一体生きるために働いているのか働くために生きているのか。いつだったか古代エジプトの奴隷にさえ休日があって何なら二日酔いで休みも取れたと何かの本で読んだ時には本気で眩暈がした。それなら俺も奴隷になった方が2020年の今より暮らしはマシだ。文明とは、人類の進化とは。

28歳、夢も希望もない。というより、俺の夢はさっき駅のごみ箱に放り込んで来た。缶でも瓶でペットボトルでもない再生不可、回収後焼却処分の『その他のごみ』に。

「おっちゃん、これからどこ行くの?」

「これからどこも行かへん、帰る。あと誰がおっちゃんや」

「僕これからここ行くけど、一緒に行く?」

「ハァ?」

俺は少年の突然の誘いにかなり面食らった。人生史上最大クラスのどん底、ほんの少しだけ掴んだ手の中にある何もかもを放り出して遁走しようとしている俺が、初対面の小学生とどこに行くねん。

「何?観覧車?」

少年が俺の目の前に突き出して来たのは、まるで写真のように写実的に描かれた水彩の観覧車の絵だった。虹色の塗装、多分この沿線にある古くて小さな遊園地のものだ。

「僕、今からここに行くねん、今度妹も連れてきたいから、今日は『したみ』」

「妹、何歳の?」

「まだうまれてない」

☞2

俺が自宅でもない遊園地の最寄り駅で下車したのは、その少年の様子があまり『普通』に思えなかったからだ。そしてそのちょっと普通じゃない子ども、学校にも行かず電車に乗って市中を徘徊する小学生を交番に連れて行くとかそんな適切な判断が出来なかったのは、疲労と睡眠不足で頭が朦朧としていたせいだと思う。

「なあおっちゃん、ドアどっちが開く?あっち側?こっち側?」

「右側」

普段あまり電車に乗らないと言う少年は、俺に停車時にどちらのドアが開くのかを確認してきた。俺が進行方向に対して右だと答えると、右か、右てどっちやったっけ?少年は両手を上げて不思議そうにして首を傾げた。そうかと思えば、さっきの水彩画をもう一度俺の顔面すれすれに近づけて来て、この観覧車の高さどのくらいやと思う?最頂部80mやで。じゃあ世界で大きい観覧車はどこの何やと思う?高さは?知ってる?そう言って嬉しそうに質問してくる。

「知らん」

「知らんの?アメリカのネバダ州のラスベガスにある『ハイ・ローラー』。高さ1550フィート直径520フィート」

「なんでそこでヤードポンド法が飛び出すんや、1550フィートて何mなんや」

「知らんの?170m。あ、駅!降りようおっちゃん」

「普通は知らんやろ。あと、おっちゃんじゃない」

遊園地の最寄り駅への停車のアナウンスを耳にしてシートから立ち上がった少年は右左の区別がついていない癖に世界中の巨大観覧車の名前をすべて記憶していると言う。メートルとフィートの単位換算ができる少年。そして人の話を無視する少年。切符もICカードも小銭も持たずに乗車していた少年。仕方がないから俺が払ってやった。そのくせ、遊園地の前まで来るとランドセルをひっくり返して、芯が折れた鉛筆が1本と半分に割れた真っ黒な消しゴムだけが入っている筆箱の中から『年間パスポート』と書かれているストラップつきのカードを出した。俺はそれを見届けてそこから踵を返してもう一度電車に乗って帰宅すればよかった。それなのにそのまま自分の分の入場料を財布から出し、入園ゲートから観覧車に向かって一直線に走る青いランドセルを追いかけた。

あの時、どうしてそんな事をしたのか自分でもよく分からない。

柔らかなパステルカラーの氾濫する園内と遠くから微かに流れてくるアトラクションの稼働音とそれに覆いかぶさるように流れる遊園地のテーマソングらしい音楽。風船と退屈そうな着ぐるみ。全体が面白い位ポップだ、そして軽く嘘くさい。俺が遊園地なんて最後に来たのはいつだろう、全然覚えてない。

「おっちゃん!あっち、観覧車!」

「見えてるから分かる!観覧車は逃げへんから走るな!あとおっちゃんて言うな!」

平日午前中の遊園地なんてものに俺は初めて来た。所謂大規模テーマパークとは違う、昔からの遊園地。多分一番閑散としている時間と曜日なのだろうそこにはまだベビーカーに乗って移動する年頃の子どもを連れた家族連れと、大学生のグループが少し。あとはくだらない自分の人生に嫌気がさして全部を放り投げて逃げて来たサラリーマンしか居ない、俺だ。

「ねー!何色のゴンドラに乗る?選ばしてくれるって!」

ああ、あと学校を抜け出して来たらしいおかしな小学生が1人。観覧車乗り場には少年と乗車係のバイトらしいじいさんの2人だけで、お父さん!青が良いらしいですけどいいですか?そう俺に呼びかけた。ちょっと待てくれ、誰がお父さんやねん、でもここで『僕は父親じゃありません』などと言うと若干ややこしい事になるんじゃないか、それは疲労と寝不足で薄い膜が張ったように現実をうまく認識できていない俺の脳にも判断できた。でも、そもそもどうして見ず知らずの子どもと遊園地なんかに来ているんだろうという客観的な視座は全く起動しないまま、俺は普通に返事をした。

「ハイ!青で!」

俺は早く来いと手招きする少年の言葉に従って駆け足でその丸い小部屋に乗り込んだ。外側から施錠されると微かなモーター音と共に動き始める青い空間。落下防止の為に細かい網の張られている小窓から見える、いかにも子ども好きそうな係員のじいさんが手を振る姿がゆっくりと遠くなっていくのが分かる。

『この大観覧車は、最頂部80m…平野を一望する大パノラマをお楽しみください』

ゴンドラの中に響く自動アナウンスの声を聴きながら俺は窓の外を眺めた『大パノラマ、平野のその果てのはるか遠くを見通す美しい眺望』と言う少し過剰な謳い文句の現物としてそこあるのは、多分昭和の中期頃に周辺の山野を切り開いてやたらと密集して建設された住宅と公営団地と、その奥に見える最近売り出しの始まった高層マンション、そしてその更に奥になだらかに連なる県境の山。

「特に何かが見える訳でもないねんな」

俺は独り言みたいにつぶやいた。観覧車ならもっと海を臨むとか山野の緑が眼前に広がるとか、もう少し『綺麗でいいもの』が見えないと味も風情も無い、これだとあまりにも眺めが平凡で凡庸で1周10分の間が割と退屈じゃないだろうか、まるで俺みたいだ。

「え?何で?僕んち見えるんやで。だから僕この観覧車凄い好き。ホラあの奥の青い屋根の家!」

少年は俺の口から言葉になって漏れ出ていたらしい『つまらない』と言う意味の眺望への感想に笑顔で反論してきた。俺が少年の指さした場所に目を凝らすと、古い住宅団地の中に突然現れた新興住宅の一角、そこ見える鮮やかな青い屋根が俺の視界に飛び込んで来た。

「この辺で庭付きの一戸建てか、ええなあ。俺ん家なんか駅から徒歩5分、築5年で8畳1K家賃7万の賃貸や。しかも1階、日当たりサイアク。最近なんか下着ドロが出て、そいつが隣の女の子のパンツとブラジャーひとそろえと、何を考えてんのか俺のパンツまで洗濯ピンチごと全部持って行きよった。普通の男物のパンツやで、どういう趣味嗜好なんやその泥棒は」

つい俺がそんなことを話したら、観覧車のゴンドラの中、少年はまだ乳歯が抜けた跡に永久歯が1本生えてきていない歯並びを見せて可笑しそうに笑って、そうかと思うと、向い合う形で座っている俺をしげしげと眺めてこう聞いてきた。少し心配そうにしながら。

「おっちゃん、今、パンツ履いてへんの?」

「なんでそうなるんや、泥棒が出たのはちょっと前の話やし、パンツは他にもあるし、今もちゃんと履いてる。安心せえ。あと俺はおっちゃんじゃないまだ28歳や、名前はハルタロウ」

「ハルタロ?犬みたいな名前。僕、アキ」

「誰が犬や、太陽の陽の『陽太郎』。アキて何?季節の秋?」

「違う、暁、あかつきって書くアキ」

夜明けか。きれいな名前やなと言うと、夜明けは嬉しそうに自分の事を話し始めた。主に今日どうして学校にも行かずに電車に乗って徘徊しているのかその理由を。

「僕、学校でずっとじっと座ってられへんねん。でも授業中外に勝手に歩き回ったり、外に出たりしたら先生に注意されるやろ、アカンて。でもな、僕からしたらどうしてみんな、例えば、校庭に日の光が真っ直ぐ差してるそういうおもろそうな場所に飛びつきたい気持ちになれへんのか、それが全然分からへん。座ったら座ったで今度は計算するよりも漢字書くよりも絵が描きたくなって色鉛筆出すやろ、そんでまた怒られるねん。でもそれも、みんなやりたいこと我慢してどうしてじっと座っていられんのか、僕には全然分からへん。あとそういう事してるとクラスのヤツが僕のことアホとか言いよる、それでムカついたからこの前そいつの事トンボで殴ったんや、あのグラウンドにあるでっかいヤツ。そしたら更にめっちゃ怒られた、とにかくに何しても絶対怒られる。それから家に電話や、僕のお母さんな、今おなかに赤ちゃんいて具合が悪いねん。入院してる。静かに寝とけへんかったら赤ちゃんが股からひょっこり出てくるらしい。赤ちゃんは今出て来んのはちょっと早すぎんねんて」

だから電話とかイヤやしアカンねん。暁はそう言った。それで暁は『学校をさぼって電車に乗って一日を過ごそう』と考えたらしい、問題を起こさない為には現場に行かなければ良いという画期的なトラブルシューティング。でも暁それはアレや、根本原因を取り除いたつもりで、実のところ速攻学校から親に連絡がいくやつや。

「ハルタロは?ハルタロはなんでさぼってたん」

大体の自己紹介を終えたらしい暁は突然俺に話を振った。それとあの時、駅で何捨ててたん、凄い怖い顔してた。暁は朝9時前、俺が会社をさぼる決意をしてゴミ箱にA4の封筒を放り込んだ時に停車中の普通電車に既に乗っていて反対側のホームの俺を見ていたらしい。

「漫画」

「漫画?何?コロコロコミックとか?」

「違う、俺が描いたんや」

「ハルタロ、漫画家?」

「違う」

漫画家じゃない。でも、なりたかったんや。

☞3

俺が駅でゴミ箱に放り込んだのは漫画というかその原稿だ。本当はある場所に送る筈だった。

「俺なあ、美大出てんねん。わかる?絵の勉強する学校。しょぼい私立のそれも工業デザインとかやけどな。子どもの頃から絵が上手いって言われて、暁くらいの歳の頃には友達に沢山漫画とかアニメキャラとか書いてやっててん。あと賞とかも沢山貰ってたから将来は絵を描く人になりたいって、なら漫画家がええなってって目指してたんやけど、なかなか難しいもんやな漫画。高校生の頃からひたすら描いてるけど、全然箸にも棒にも引っかからへん。各種新人賞全落ち。奨励賞にだけ2回ひっかかったかな、残念賞みたいなもん。でもそんだけ。せやけどな」

大学を出て、しがみつくように就職した中小零細のパッケージデザイン室での毎日に疲れて、それをネタにしてやけくそ気味にSNSで公開していたおふざけの4コマ漫画に少しずつ反応が上がるようになり、それを見たと言うあるオウンドメディアの人が連絡をくれた。

『あなたの漫画を弊社のページで取り上げさせていただきたい、つきましては』

俺は嬉しくてふたつ返事でOKした。別にそれで幾らも貰えなかったけど、自分の描いたものが何かしらの媒体に掲載されるという事実が嬉しくて即使用を許諾した。そうしたら、掲載から暫くしてまた連絡があった。そこのウェブマガジンで連載を持ってもらいたい。俺は嬉しくて浮足立った、普段褒められ馴れない上に承認欲求の無駄に高い馬鹿な人間はこういう時本当に平常心が保てない。だから1日にほんの数時間しかない仕事の合間に寝ないでずっと描いていた。俺の漫画は制作に結構手間がかかる。デジタルで線画を描いてその後の仕上げが手書きだからだ、しかもフルカラー。最後は手書きで仕上げたいっていうのはもしかしたら俺の無駄なプライドというかこだわりなのかもしれない、もっと簡素化したらいいんやろうけど。俺は独り言みたいに最近自分の身の上に起きた幸運について話した。俺は自分が描いた作品がみんなに見てもらえて、どんな形でも自分の名前が世に出るというその事実が物凄く嬉しかったんや。

「ハルタロ、漫画家になれたんや、夢かなえたんや」

「そう思うやろ」

「思う」

「それがなあ、3日前に急に『すみませんやっぱり載せられなくなりました』って連絡が来たんや。イヤでも原稿出来てますけど、もう送りますけどって言ったんやけど、申し訳ないが編集部のカラーがどうとかでアカンて言われた。俺には分からん、俺の日常淡々系の4コマが編集部の何のどこに抵触したのか。納得いくように説明してくださいって言ったんやけど、同じ文言の繰り返し。その上、納品して初めて稿料が発生する、そこで初めて仕事として成立する物やから稿料もお支払いできません、すみませんて言われて全部お蔵入り。後に残されたんは、山のような仕事や、本業の方のな。それの修正と変更とクレームと、疲労困憊の俺と、ビールと人参しか入ってへん冷蔵庫のある荒れ果てた自分の部屋だけ」

俺はもう疲れた、食うための仕事はシンドイ、叶うと思って掴んだ夢は幻やった、まあ小さい夢なんやけどな。でもそれさえも叶わんとか、もう俺は何のために生きてんのかわからん。俺は自分のここ数日の出来事、いや掘り下げるとこの数年の自分のしょぼすぎる人生について今日初めて出会った小学生に細かく説明していくうちにだんだんと視線が足元に落ちて行き、自分の体の中心にある心臓が鉛のように冷たく重くなっていくような感覚に陥った。本当にくだらない、今ここから飛び降りたら死ねるだろうか、それ位つまらなくてくだらなくてどうでも良い人生だった、俺は深く息を吐いた。暁はいいな、まだまだ人生これからでまっさらの小学生や。そう言って顔を上げると暁はランドセルからノートを取り出して何かを描いていた、自由か、自由なのか。

「僕も絵描くの得意やし大好きやで、見て!」

暁が手に持っていたノートを俺の目の前に広げたそこにはこの観覧車のゴンドラの窓の外の風景が広がっていた。物凄く写実的な、窓の外をそのまま転写したみたいな一枚。でもジャポニカ学習帳。恐ろしい事には観覧車の窓からの風景という鬼のように奥行きのある風景画なのにパースが全然狂ってない、これ今この数分でオマエが描いたのか、手が速すぎる。でもいる。世の中にはそもそもそんな概念なんか一切無くても縁辺対比も三点透視も何もかも初めから大体出来る天才みたいなヤツが。

「…暁、凄いな、ホンマに写真みたいやな」

「でも漫画は描けへんで、僕お話作るのあかんねん、作文なんかもっとアカンで、この前なんか作文の1行目の書き出しに3日かかって先生にいい加減にしてって言われたわ。目で見たモンはいくらでもそっくりに描けるんやけどなあ。だから、俺は漫画描けるってスゴイと思うで、めっちゃカッコええ。さっきのハルタロの漫画を載せてくれへんて言った所、ウェブなんとか?があかんなら他のとこに見てもらったらええやん、そんであかんかったらまた次のとこ、だって漫画の会社って沢山あるんやろ、コロコロとか。僕ならそうするけどな、折角一生懸命描いたんなら。だって僕のお父さんが『押してダメなら更に押せ』って、それで俺が何とか出来へんことはこれまで一度も無かったって言ってたで」

そんな風に暁が突然もの凄く独特な父親の人生論を語り始めたので俺は声を出して笑った。随分強気なお父さんだ。まだ知り合って数時間のこの不思議な小学生がどうしてこんな天衣無縫な性格なのか俺は少し分かるような気がした。だから俺は聞いてみた、お父さんはその持論で人生を本当に全部突破してきたのか、それの成果は例えば何か、暁は聞いたことあるかと。

「お母さんやな。ウチのお母さん、2人おるけど2人とも滅茶苦茶キレイやし優しいで」

「それはアレなんちゃうか、暁のお父さんがそもそも相当な男前とかそういう」

「どうやろ?今のお母さんはお父さんの事ツキノワグマに似てるて言うし、俺はウォンバットに似てるて思う」

そうか人間は押しか。そしてお父さんはウォンバットか。

でも、それってある意味真実なのかもしれないな。

俺の目指した場所だって、もう駄目だと思ってもそこで全部の感情を殺して愚直に挑戦し続けられる奴だけが、言い換えると神経の通っていないちょっと頭のおかしい人間だけがいつか途方もなく厚くて高い壁を突破して明るい場所に出て行くんだ。例え単行本を100万部売るとかそんな頂点には登れなくても、描く事自体に喜びを感じながら細々飯を食う程度には。でも、大体は食えないとか、才能が無いとか、自分は前衛的すぎるとか言いながら脱落していくんや分かってるわそんな事。地べたに這いつくばって草食って泥水飲んでも描き続けられる奴が結局一番強いんや。

俺は挑戦して跳ねられ続ける事に疲れた、特に根拠もない癖に無駄に高い自分の自尊心にも疲れた、他人にいちいち嫉妬する狭量な自分にも疲れた、あと各種媒体の編集部とかいうのにも疲れた、アレは小心者の俺にとっては本気で蛇の巣や。

「俺はアカンねんなあそういうの。まず気が弱い、打たれ弱い、才能も無い、打つ手も無い、ついでに夢ある新人を名乗るには微妙に歳や、もうお手上げ」

俺はそう言って諸手を上げた。何で俺はこの小学生にお悩み相談室みたいなことをしているんだろう。でも暁は真面目に俺の話しを聞いてくれていた。俺がごめんな難しい話してと言うと、うん!全然分からんと答えた。分からんのか、でもまあそうやろな。

「僕な、今日この観覧車に乗りたかったのはな『したみ』っていう事もあるねんけど、さっきお母さんが入院してるって言うたやん?それでな、僕ほんまはお母さんのお見舞いに行きたいねん。でもアカンねんて、俺くらいの歳の子どもは今病棟に入ったらあかんねやて。それで僕考えてん、窓の外からなら会えるんちゃうかなって」

暁は突然ゴンドラの窓の外を指さした、その方向には巨大な地域包括医療センターの建物が見える。この地域では一番大きな病院だ。そこの10階の産婦人科病棟に今お母さんが入院していると言う。とは言ってもこの観覧車と病院の距離では搭乗している人間をあの建物の中から目視で確認するのは無理だと思う、遠すぎる。その辺は小学生の考える事だな、そう思った瞬間、暁は座席から立ち上がって外から固く施錠されている筈のゴンドラの搭乗用の扉を

開けた。

開くの?

「イヤイヤイヤ何してんのお前、落ちるから落ちるから落ちるから!」

俺は微塵の恐れも無くそれこそ自宅のドアを開けるように気軽に観覧車のゴンドラの扉を開けた暁の体を背後から羽交い絞めにするようにして抱きついた。ゴンドラは観覧車の最頂部の地上80m、地域を一望する眺望以前に、真下に見えるのは観覧車の骨組みとアスファルトで舗装された固い地面だ。落ちたら痛いというか四肢が粉砕されて五臓六腑が飛び散るレベルの高さ。勿論命は助からない。さっき俺は『今ここから飛び降りたら死ねるだろうか』と一瞬考えた気がするけど撤回します。こんな高さから飛び降りるなんて小心者過ぎる俺には絶対無理だ。

「ハルタロ!見て!あそこに、お母さん!」

俺は最頂部80mの高さに心底怯えて暁の体に抱き着きながら、暁の指さす方向を薄目を開けて見た。確かに暁の指さした方向の窓の内側にはうっすらと人影が見えた。でも肉眼ではその表情どころかそれが男なのか女なのか若いのか年寄りなのか全然分からない、でも暁は嬉しそうに手を振った

「おかーさーん!」

人影は、こちらに手を振っているように見えた。

☞4

「オマエ、あかんて、地上80m地点で扉開けてそこから顔だすとか、ホンマに死ぬぞ」

地上に向かって傾き始めたゴンドラの扉をどうにか閉め、再度この命知らずな子どもが扉を開けたりしないように扉の持ち手を掴みながら俺は、暁の行動について語気を強めて注意した。俺は眩暈と動悸がしていた、あとは息切れと手の震え。ドアの外に半身乗り出してゴンドラが揺れるのも構わずに母親に手を振る子どもの体を押さえながら、地上80mの高さで全開になった扉を閉めなおす作業なんて俺にとっては人生史上一番の生命の危機だったかもしれない。俺はさっき遠くで手を振っていたこの危険な子どもの母親らしき人の普段の苦労を想った、コイツを育てる毎日はきっと命がけだろう。

「でもきっと気づいてくれたと思うねん、僕、お母さん大好きやから!」

「いやそうなんやろうけど、そこはええ話なんやけど。死ぬからな、落ちたら」

「でも押したら開いたで!な、押して押して押したら何とかなるねんて」

「イヤこれは事故や」

でもどうしてだ。俺はこのゴンドラに乗車した時、係のじいさんが丁寧に施錠を確認していたのを見ていた、3回は開かないかどうか引っ張って確認していた筈だ。何かの偶然が働いたのか、でも偶然が働いてそれで簡単に開くようだとそれはそれで問題なんじゃないか。そんなことを考えていたらもう地上は目前だった。オイ、その床に散らかってるランドセルの中身全部しまえ。何でオマエは自由帳と鉛筆出すだけなのにランドセルの物を全部床に出すんや。俺達は2人で大騒ぎしながら、床に散乱している教科書や鉛筆をかき集めて、それらを両手に抱えるようにして観覧車を降りた。扉を開けてくれた係のじいさんは

「またね~!また乗りに来てね!」

親子だと思っている俺たちに笑顔で手を振ってくれて、暁はまた来るからね!と嬉しそうに手を振り返し、俺は2人に聞こえないように小さい声で

「2度と乗りたくねえ」

と言った。そして扉が頂上で開いてしまったという事故の報告を忘れた。

「なあもうすぐ昼やけど、暁はとりあえず家に帰った方がいいんちゃうか」

俺は内ポケットに入れていた携帯で時間を確認した。さっき暁が言っていた『学校に行かずにその辺を徘徊している』という話が事実なら、多分今頃相当探されている筈だし家にも連絡が言っている筈だ、お母さんが心配していると思うぞと俺が言うと暁は

「そうかな?」

そう言ったので、それに加えて俺達が2人でいると、俺が小学生の男の子を連れまわしている犯罪者やと思われると言ったらゲラゲラ笑った。笑ってる場合か。俺は地上80mで命の危機に直面した事でだんだん冷静になってきた頭で更にこう言った

「オマエな、見ず知らずの大人を突然遊園地に誘うとか、そいつについて行くとか、2人きりで密室に籠るとか今後は絶対するなよ。俺が小さい男の子が好きな変態のおっさんやったらどうするんや」

「ハルタロは変態のおっさんなのか?」

「違う!物のたとえや!こんな事してたらいつか犯罪に巻き込まれるからっていう話や。とにかく絶対に学校と親に探されてる筈やし、俺が一緒に帰って事情を説明してやってもいいから、帰ろう」

俺は観覧車の中でここ数日のしょぼくれた自分と、そこに起因して希死念慮さえ発動させていた脳内で自分の輪郭さえ無くなったように朦朧としていた思考が、この天真爛漫な少年に独白みたいな形で正直に何もかも話した事でかなり明瞭になっていた。とにかくこんな10歳位のしかも少し変わった子だ、真っ当な成人としてはやはり保護するべきだろう。

「大丈夫、僕ひとりで帰れる!家すぐそこやし!それよりハルタロは捨てちゃった漫画拾いに行った方がいいと思う、それで別のところに持って行けばいいのに、僕の漫画載せてくださいって、コロコロとか、そしたらいつか俺も読めるやん!」

「大丈夫かお前、家に帰ってから怪しい漫画家志望のサラリーマンに拉致されてたとか絶対言うなよ。あとなんでそんなにコロコロにこだわるんや」

「お母さんが毎月買ってくれるから!」

暁はそう言って退場ゲートに向かって全速力で駆けて行った。あれくらいの年ごろの子どもは元気だ、歩いて移動すると言う概念が無い、いつも小走りか跳ねている。人生の一番いい季節の一番悩みの無い幸せな生き物。暁はあっという間にゲートの向こうに吸い込まれて行った。

でもその時、俺は自分の手の中に暁の年間フリーパスと自由帳を持ったままだと言う事実に気が付いた。俺はもう目視できなくなった暁を追いかけて遊園地のゲートの外に出てあたりを見回してはみたが、そこに暁の姿はどこに見つけられなかった。もうかなり遠くまで行ってしまったんだろうか。暁の自宅は観覧車の中、地上から80mの高さで確認はしていたものの、地上に降りてしまった今、それが一体今いるこの場所から見てどのあたりなのか、普段は全く利用しない駅の馴染みの無い地域ではアタリを付ける事も出来ず、俺は一旦駅に戻る事にした。もう一度携帯で時間を確認してみるとそには着信がかなり残っていた。会社からだ。無断欠勤1回で厳重注意、査定マイナスだろうか。それともいつも機嫌の悪い課長からサディスティックな恫喝1時間か。そう思ってため息をついたら携帯が振動して思わず脊髄反射的に拒否ではなくて通話を押した俺はアホだ、会社の犬か。

「もしも…」

「あ、生きてました!お前大丈夫か」

普段から周囲に無駄に真面目で要領の悪い印象を持たれている俺は、どうもここ数日の繁忙に任せてどんどん顔色が青白くなっていたようで周囲に不穏な雰囲気を振りまいていたらしい。それで今日、入社以来無遅刻無欠勤だった俺が突然何の連絡もないまま会社に現れず、何度携帯にかけてもLineを送っても一切反応が無いし既読にもならないという状況に

「…死んだんじゃないですか?」

普段から負のオーラを放って生きている俺が、日々の徒労に任せて自ら彼岸に足を運んだのではないかと言い出した同僚が数人いて、皆心配していたのだと言う。それで俺が半日音信不通の理由を、電車に乗っていたら不審な小学生があらわれて一緒に観覧車に乗る羽目になり、観覧車の最頂部で扉が開いて肝を冷やしましたが俺は無事です今から出社しますと、言葉を繕う事も内容を精査する事も忘れてさっき起きた事を全て真正直に答えると

「…そうか、分かった。とりあえず今日はもういいから、帰って寝とけ」

そう言われた。多分正気じゃないと思われたんだと思う。それで俺は電車に乗って、朝ゴミ箱に原稿入りの封書を放り込んだあの駅に戻った。暁の言う通りコロコロの編集部にそれを送ろうと思った訳ではないけど、一時の感情であんなに心血と時間を注いだ俺の命の写しみたいなものを無下にゴミ箱に放り込んだ事がとても間違った事に思えたからだ。そうしたら丁度昼時で、乗降客が午前のあの時よりは騒がしく移動している駅のホームのごみ箱の中で、競馬新聞とかエグそうな内容のエロ本の下に堆積する形で俺の夢はそれほど汚れずに俺の事を待っていてくれた。

俺はためらわずゴミ箱に手を突っ込んでそれを掘り出して、表面を軽く払ってから抱きしめてみた。多分周囲には俺が物凄く頭のおかしいヤツに映っていたに違いない。ごみ箱から茶封筒を掘り出して抱きしめるスーツ姿のおっさん未満お兄さん以上の俺。ええねん。いくらでも指さして笑え、この茶封筒には俺の夢と希望と未来が詰まってたんや。

☞5

暁の年間フリーパスと自由帳を返却しに行こうと決心したのは、その日から3日後の土曜の午後だった。あの時俺の手の中に残された年間フリーパスの有効期限がまだ半年残っている事に加えて、自由帳の最後のページに、物凄く精巧に描かれた赤ん坊の顔があったからだ。白と黒だけで描かれたこれは多分胎児、エコー写真の模写だと思う。アイツは「目の前にあるもの『なら』いくらでもそっくりに描ける」と言っていた。やたらと上手いヤツの中には、たまにそういうヤツがいる。実在するものはいくらでも写実的に写し取れるけれど、想像して何かを描く事が一切出来ないヤツ。暁は多分かなり特殊なタイプの子どもなんだろう。

暁の住所とフルネームは、よく見るとちゃんと年間フリーパスの裏面に書かれていた。こんなもん、他人の俺に持たせたまま忘れて行くとか大丈夫かアイツは。名前も住所も記載してあるのだから交番に届けても良かった。けれど、暁は母親に電話が行くことを極端に嫌がっていた。警察から電話なんてそれは尚更イヤだろう。それなら自宅の前まで行って、そこに本人がいるか外から様子を見て、会えれば直接返してやればいいし、会えなさそうなら郵便受けにでも放り込んでこよう、俺だってあいつにこれを渡す事を失念してしまっていたんだから。

責任の一端を感じていた俺は土曜の休日出勤を何とか半分で切り上げ、あの観覧車の駅に向かった。あの日最頂部で扉が開いた恐怖の虹色の楼閣は土曜の今日は多分沢山の来園者を乗せているのだろう、遠くに見える観覧車のひとつひとつのゴンドラに幸福が詰まっているように見えた。暁、家にいるだろうか、俺は観覧車を横目にしながら意外と遊園地から遠くは無かった暁の自宅に足を運んだ。遊園地の近隣の古いアーケード商店街を抜けると、そこは多分古い宅地を一旦つぶして再開発を始めた土地らしく、幾つもの新築の建売が真新しい白い外壁を競うように立ち並んでいて、その中にひときわ目立つ青い屋根を見つけた、暁の家だ。

白い外壁に飾り窓と生成り色のカーテンと青い郵便受けの真新しい家。暁が指さして自慢したくなる気持ちが分かった。新築だらけのこの辺りでもひときわ目立つ可愛らしい外装の家だ、母親の趣味なのかもしれない。ただ困った事に、この家は前庭が贅沢な造りになっていて、門扉を開けて郵便受けのある玄関までのアプローチの距離が割と長く取られて、その上防犯カメラが付いている。アレ、ダミーだろうか本物だろうか。この門扉を勝手に開けて郵便受けに何かを入れて去る不審な若い男、多分通報されるだろう。そんな事を考えながら俺が『暁へ、忘れ物』とボールペンで書いた封筒を持ったまま門扉の中を覗いていると、突然背後から声をかけられた。

「あの…ウチに何か?」

俺の背後には赤ん坊を抱いた若い女の人が立っていて、どう考えても不審者の俺を訝しそうに見つめていた。暁のお母さん?それにしては若くないか、俺と同じ歳位か、いやそれよりまだ若いんじゃないか。それに赤ん坊、つい3日前に「まだ生まれてない」と暁が言っていたはずの赤ん坊が何故かもうしっかりと抱っこ紐に収まって俺の顔を不審そうに見つめている。アイツ嘘ついてたんか。俺は暫く暁が俺に語った自分の身の上というか、母親についての情報と、今目の前にいる母親らしき人の状態の齟齬に困惑して固まっていた。そうしている間にもその母親らしき人は俺への『不審者を見つめる眼差し』の濃度を更に濃くしていく。これはヤバイ、そう思い俺は簡単にコトの経緯を説明する羽目になった。すまん暁、今から俺は自分の保身の為にお前を売る。

「あの、今週の水曜に暁君と偶然電車の中で会いまして。それで俺…僕は帰宅する途中だったんですけど、暁君は事情があって学校ではなくてすぐそこの遊園地に行くことにしているって言いまして、それで少し様子が…その、心配だったもんですから一緒にここまで来て、本人と観覧車に乗ったんです。それで満足したら家に帰るか学校に行った方が良いって遊園地の前で別れたんですけどその時にこれ」

俺は持っていた封筒の中から、暁の年間パスポートと、自由帳を出して、その母親らしき人に見せた。

「これを忘れて行ってしまって。いえ、僕が渡すのを忘れてて、それで住所がここに記載されてたもんですから、今日届けようと思って」

俺のしどろもどろの説明は、相手を余計不安にさせたのかもしれない。暁の母親らしき人は俺の説明に何も反応してくれないまま、それどころか俺に対して怯えたような視線を送り続ける。どうしよう、やっぱり見ず知らずの小学生と観覧車に乗ったおかしい成人男性として通報されるんだろうか。暁、中にいるなら出て来て助けてくれ。そう思って俺はそのままこう言葉を繋いだ。

「あの…すみません、遊園地に行くとかそんな事してないで交番とかに相談したら良かったんですけど。ちょっとその日、僕も疲れで朦朧としていて、暁君は、お母さんが入院していて病院にお見舞いに行けないから、観覧車から手を振りたいって言ってたもので…でも、あのお母さん…ですよね?退院して…?あの、暁君、いまお家にいますか?」

「暁はいません」

ようやく口を開いてくれた母親らしき人の声は震えていた。そしてその声で、初めて真っ直ぐに視線を送ったその人の顔には色がなかった。蒼白。

「あ、そうですか。じゃあこれ、あの子に返してあげてもらっていいですか、お母さん…ですよね?」

俺がその人に年間フリーパスと、自由帳を差し出すとその人は後ずさりして更に怯えたような顔をした。あの、俺、そこまで怖いですか。

「暁は、死にました。半年前に、事故です。あなたさっきから何言ってるの」

『アナタサッキカラナニイッテルノ、シニマシタ、ジコデス、ハントシマエ』

人間は突然理解の範疇を越えた情報が耳に飛び込んでくると、その音声が言語認識出来ない事がある。俺はこの時、その人の言葉が全く漢字変換できないまま、全てが片仮名の音声で脳内に飛び込んで来てその内容を脳が咀嚼して理解するまでかなり時間がかかった。俺はあの時どんな顔をしていたんだろう。目の前の怯えた表情の人と同じ顔をしていたんじゃないだろうか。

「え…だって、僕はその、水曜日の午前中に暁君に電車の中で会ったんです。あの、学校に行ったら意図せずに問題ばっかり起こしてお母さんに電話が行くから、それならいっそ学校をさぼろうと思ったって。あと、観覧車が好きで世界中の観覧車を暗記してるって。それに何よりコレ、その時にアイツから預かったんです」

俺は、目の前の人に暁の年間フリーパスと自由帳を押し付けた。そうしたら、その人はそのフリーパスと自由帳の氏名を確認して、それからその場に腹面の赤ん坊を抱きかかえるようにして力なくしゃがみ込み、そのタイミングで多分俺たちの様子に気が付いた屈強そうなラガーシャツの大男が玄関のドアを体当たりするように開けて飛び出して来た、多分暁の父親だ。アイツ何が『お父さんはウォンバットに似てると思う』や。あの大きさ、ほぼ羆やないか。

☞6

暁は、半年前に既に死んでいた。

半年前、明け方にこっそりと自宅を出て、自宅からあの医療センターへの道を歩いている時、交通量の多い国道を無理に横切ろうとして、トラックにはねられたらしい。即死だったそうだ。そんな時間にどうして外を歩いていたのかは俺にも簡単に想像が出来た。その事の顛末は暁の父親が俺に説明をしてくれた。

「半年前にウチの妻が、この子、もう産まれて4ヶ月になるんですけど、この子がちょっと早産気味で安静のために入院してまして、暁は入院している妻に会いたいと毎日散々暴れたんですが病棟に子どもは今は入れへんて言ったら、あらゆる手を講じて病院に忍び込もうとしてそれは難儀してたんです。学校を抜け出した事もたびたびありましたし、夜に勝手に外に出て行こうとしたこともありました。それであの日は私と手伝いに来てくれていた妻の母親の、おばあちゃんの目を盗んで、この家を明け方に抜け出したんです、それで」

暁は事故にあった。その時、暁は俺が今日持って来た年間フリーパスと自由帳をしっかりと抱えていたらしい。ひとつは父親に「お母さんが妹を産んで退院したら一緒に行きなさい」と買ってもらったもの。そしてもう一つは、妹のエコー写真の模写が描かれたもの。どちらも「お母さんに見せる」と暁が言っていた物らしい。そしてその2つは半年前の暁の葬儀で暁の棺に入れられて共に荼毘に付された筈のものだと言う。

「だから、あなたの言う事は私達にはにわかに信じられない話ではあるんですが、今、あなたが3日前に暁に会って、それで暁から預かったと言うこれは確かにアイツの物です。間違いないです。このID番号も、直筆の氏名も全部暁のものなんです」

一体どういう事なんだ。

俺が出会ったあの『暁』と名乗る少年はアイツを語る別の少年だったんだろうか、だって俺は観覧車の最頂部で扉を開けたアイツの体をしっかり掴んだんだ。幽霊ってあんなに実態がしっかりとあるものなんだろうか。暁の父親も母親も俺も一体この不思議な出来事が何でどういう事なのか理解できないまま、真新しい家のリビングには暫く困惑を煮詰めたような空気が流れた。

その答えの無い空気の中、俺はふと、ベビーベッドが置かれてその周囲に乳児の玩具やぬいぐるみや紙おむつの散乱しているリビングの奥の一角にある白い祭壇に目をやった。そこには半年前に死んだ暁の遺影と遺骨と、その周りに沢山の花とお菓子が飾られていた。そこにある歯抜けの屈託のない笑顔、それは確かに3日に俺が会った少年の顔だった。

「あの子、何か言ってましたか?」

俺が遺影を凝視していると、俺にコーヒーを出してくれた後、ずっと赤ん坊を抱いてあやしていた母親が俺に小さな声で質問をしてきた。あの子、私の事何か言ってませんでしたか、私の事、怒ってませんでしたか。

「どうしてですか?」

俺はこういう時本気で人の地雷を的確に踏み抜くタイプの人間だ。『どうしてですか』そう言ってから思い出した。あの時暁が『お母さんが2人いる』と言っていた事を、多分再婚なんだ。前の母親とは離別なのか死別なのか、大体この母親が俺とそう変わらない年齢なんだからそこは読め自分。そう思ったが時は既に遅かった。いったん吐きだしてしまった言葉は飲み込む事ができない。

「いえ、あの、私あの子を産んでないんです。あの子のお母さんは6年前に病気で亡くなっていてそれで、今、私が実子であるこの子を産む前に切迫早産で入院することになって、その時に暁は私と離れる事を極端に嫌がって『お母さんに会いたい、絶対にお見舞いに行く』って言ってくれていたんですけど、あんなに私に会に来る事にこだわって散々家を抜け出して、それって私が血縁のある子を産むっていう事実が嫌だったんじゃないかなって。だから学校での問題行動も急に増えたんじゃないかって。挙句あんなことになってしまって」

この若い母親は、あの自由奔放で命知らずの子どもを本当に大切に育てていたらしい。3日前に数時間、暁と一緒にいただけでも俺はその事をアイツの言葉の端々から感じたし聞いた。でもアイツを育てるのは並大抵の事じゃなかっただろう。大体幽霊になってまで学校を抜け出してその辺を徘徊するようなヤツだ。そしてこの人は暁を育てている間、外野から母親として若すぎる事や血縁が無い事が理由で逆風が吹く日が多くて沢山悩んだんだろう。俺には今子どもどころか彼女もいないけれど、それは全部簡単に想像できた。

「『お母さん大好きやねん』て、そう言ってました。アイツ、もしかしたら偽物かもしれない暁君ですけど。僕と観覧車に乗って、それで自分の事を学校で座っていられないとか座っていてもまともに授業を受けられないとかそういう事を話した後、俺の身に最近起きた話を聞いてくれて、大したことじゃないんです、夢が叶いそうだったけどアカンかったっていうしょぼい話なんですけど。そうしたら暁君のお父さんの持論が『推してダメなら更に押せ』って言う…それを教えてくれました」

俺がそう言うと、それまで腕組みをしながら難しい顔をしてソファに座っていた暁の父親が天井に向かって突然大笑いした。

「あってます。それ、確かに暁ですよ。私はいつも暁にそう言ってました、それでお母さんとも結婚したんやって、確かにアイツに言いました」

それは俺も聞いた話だ、同じだ。

「それで、観覧車が一番頂上まで来た時に、暁君は開かないはずの観覧車のゴンドラの扉を突然開けて、アレもどうして開いたのかいまだに理解できないんですけど、そこから見える医療センターの窓に向かって手を振ってました。そこからなら、お母さんに会えるって言って」

でもあの時、病院にいたのはお母さんじゃなかったですよね、もう退院してたんですから。俺がそう言うと、暁の母親は俺にこう言った。

「そうです。あの子観覧車が凄く好きで、だからこの家も去年ここに購入したんです、どうしても観覧車が見えるこの家に住みたいって。それで病院の中に入れないなら観覧車の一番上から手を振ったらお母さんが見えるかなって、入院中に電話で話して…でも絶対にひとりで行っちゃだめよって、誰か大人と一緒に乗らないとダメよってきつく言って聞かせてたんです。1人で遊園地に行くのは絶対にダメよって」

「それで、僕を誘ったんでしょうか」

暁の父親と母親と俺は3人で顔を見合わせた。大好きな母親には会いたいが、母親の言いつけは守らなくてはいけない。普段学校で衝動に任せて行動している自由な暁にも、入院中の母親の言いつけは特別だったんだろう。だからあいつは電車に乗って平日の昼間、遊園地に付き合ってくれる暇そうな大人を物色していたんだろうか。お陰で俺は最頂部で扉を開けられて肝を冷やしました、そう言って俺が笑うと、暁の父親は笑って頭を下げてくれた。それは息子がすみませんでした、あなたが無事で本当によかったと。

「あと、妹さんが生まれるのをとても楽しみにしていました、だから『したみ』に来たとも言っていました。まだ生まれていない妹が無事に生まれたら一緒に遊びに行くんだって」

半年前突然血の繋がらない息子を亡くしてその2か月後に今度は血の繋がった娘を産んだという、常人にはちょっと想像がつかないような経験をした暁の母親は、俺たちの横で多分手近に適当な物が無かったのだと思う、あの赤ん坊が首から下げるヤツ、スタイとかいうそれを顔を押し付けて微かに嗚咽を漏らしていた。

暁は、大好きだった母親が無事に妹を産んで家に戻っている事を知っているんだろうか。

俺はその時そんなことを考えていた。

その日、この非科学的で、一歩間違えれば俺が詐欺師か何かとして通報されそうなこの一連の出来事は「暁ならやりかねない、やっぱりアイツだと思う」という事で話に決着がついた。暁の父親は、この半年間後悔と自責の念だけで生きてきましたが、あなたが暁の事を伝えに来てくれて良かった、とても嬉しかったです。年間フリーパスと自由帳は大切に手元に取っておきますと言い、もし気が向いたらまたアイツに会い来てやってくださいと俺に言った。

母親は、最後まで赤ん坊のスタイで顔を覆っていたけれど、小さな声で

ありがとうございます

そう言った。

俺は別に何をした訳でもないんだけれど。


その日、夕方、茜色の空をぼんやりと見るともなしに見ながら帰宅した俺はあの日、ゴミ箱から掘り出してそのまま自宅の机に置きっぱなしにしていた封筒を開けた。そして、あの時必死で書き上げた原稿をもう一度読み返した。これは一度書き直そう、そしてどこかに送ってみよう。賞レースにもう一度参戦するか、それともどこかに持ち込むか。なんでもいい、愚直に壁を上る覚悟をもう一度だけしてみよう、そう思った。今から作業に入ってしまったらきっと切りのいいところまでには夜明けまでかかるだろう、また寝不足の日々だ、全然うまく行かないかもしれない、自分の才能の枯渇とか限界とかそういものを目の当たりにする日々が続くだろう、自分が下らなくてみっともなくて何もかも放り出して遁走した挙句死にたくなる日がもう一度やって来るかもしれない。

「でも押したら開いたで!な、押して押して押したら何とかなるねんて」

その時は死んでいる癖に、観覧車に乗って母親に手を振ったあの夜明けの名前を持つ子の事を思い出そう。

俺はそう思って着替えもしないまま、紙くずとペットボトルの散乱した部屋のコーヒーをこぼした汚れがこびりついている机の前に座った。


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