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遺産相続 1

☞1

『月子さん』という人に私は母の葬儀の日に初めて会った。

と言っても、先方は私の事をよく知っていたらしい。

「美月さんですか、お久しぶりです。あなたの叔母の月子です、あなたに会うのはあなたが新生児の時以来です。大きくなりましたね」

母の棺の前に座ってぼんやりとしていた私に、突然直角に向き合って折り目正しく挨拶した化粧っ気のない人の顔を見て、私は息を飲んだ。その人の細面の顔も、黒目がちの瞳も、小ぶりに作られた形の良い鼻や口も、そして肉づきの薄い細身の体つきも、正座した膝の上に白いレースのハンカチを持ってそろえた指の上にある爪の形ひとつひとつさえが今、棺の中に横たわる母と全くそっくり同じものだったからだ。私は棺の中で静かに眠っている筈の母が生き返ってそこに立っているような姿に驚愕を通り越してぼんやりとしてしまい、挨拶どころか、数秒間息を吐きだす事も出来なかった。

「美月、月子だ。君は会うのは初めてだな、名前は知っているだろう、陽子の双子の妹だ。俺も本人に直接会うのは本当に久しぶりだよ、15年ぶりかな。年経ても流石に一卵性の双子というものは本当によく似ているもんだな。月子は京都の山奥から丁度今、この俗世に帰ってきたんだ」

少し前まで大学で宗教学を教えていて、最近は自宅で翻訳と地域で通訳のボランティアをしている元気な祖父は、自分の実の娘である母が75歳の自分よりずっと年若くして孫娘である私を残す形で死んでしまったこの『沈痛』という言葉が世界で一番しっくりくる状況下で、普段と変わらない恬淡とした話し方で私に簡単にこの叔母である人の事を紹介してくれた。

「陽子はアレだ、とにかく社交的で賑やかで明るくて極彩色のチンドン屋が歩いてるみたいな娘だったが、この月子はもう放っておいたら終始黙って食事もとらずに本を読んでいるような大人しい娘で、陽子が歌だ踊りだ友達と遊びに行くんだと言って青春時代を謳歌している間に、京都の俺の母校に入学して哲学を専攻していた。お前がやっていたのは何だったか…ああショーペンハウアーか、俺はあれはあまり好きじゃないんだ。それでその後留学して暫く外国で暮らしていた、ええとあれはバーゼルか」

「スイスじゃありません、ドイツです」

月子さんが祖父の隣で静かにそう言った。声まで死んだ母に似ている、私は瞼の内側が急に熱くなるのが分かった、お母さん。

「そうだったかな。ああベルリンか、そこに4年いたんだ、それでやっと帰国したと思ったら今度は修道院に入るって言いだした。しかしまあ信仰というのは自由なものだ。そして祈りと観想と労働、その暮らしは人間が本来理想とするべきところなのかもしれないと俺は思った。だから『お前の心のあるところに従いなさい』と、そう言って修道生活に送り出したんだ。月子が入会したのは我々の暮す巷で学校法人運営や社会活動をするような所じゃない、ほとんど外界とは遮断された状態で日々の糧を自力で得ながら祈りの中で暮す観想修道会と言うやつだ。そういう修道会で生活すると言う事はある意味では血縁者との今生の分かれみたいなもんだからな、それで今日まで月子とは一度も直接会う機会が無かった、本人も会わない方がいいと言うもんだから。丁度美月が生まれた年だよ、月子は美月が産まれる時に立ち会っている筈だ、何しろ旦那になる予定だった男に実はちゃんとした細君がいるって美月が生まれてくる1ヶ月前に発覚したんだから、あの時は大変だった。陽子は人生そんな事もあるわよなんて言って半べそかきながら笑っていたが、あの時はどちらかと言うと月子の方が怒っていたな、それでその怒りさめやらぬ表情のまま京都の山奥の修道院に入った。そして祈りと黙想の生活を15年続けこの程、終生請願と言ってキリストの花嫁として生涯、貞潔と従順と清貧を守り抜く誓いを立てるところをどういう訳かそれをすべて白紙の破談にして出戻ってきた。陽子と言い月子と言いどうも男運が悪いな、双子で顔はそっくりでも性格はあまり似ていないと思っていたが、なんだか妙な所が似るもんだ、お母さんが生きていたら泣かれたな」

祖父はそう言って場にそぐわない笑顔を微かに見せた。祖父はとても優しい人柄で見識が広く穏やかな性格、と言うよりは感情の起伏のとても少ない人だ。実際私は15歳の今まで祖父が怒ったところを見た事が無い。そして人生観とか死生観とかそういうものがとても独特で、あまり常識というものが通用しない。今日だって哀しんでいない訳ではないのだろうけれど、3ヶ月前、それまで普段は風邪ひとつひかず「お産でしか入院したことないわよ」というのが自慢だった娘である私の母に突然多発性のがんがみつかり、それがもう元々はどこのがんだったのか、あまりにも体中に散ってしまっているからと何の手の打ちようもないまま、痛みだけを緩和する為の入院をし、人が歩く振動も呼吸をするのも何もかもが痛みを誘発してしまうからと、その苦しみを少しでも和らげるための強い薬を使い、最期は眠るように死んでいった享年44歳の娘の亡骸を前にして

「これは俺のというよりも、俺が支持している考え方ではあるんだけどな。陽子はこの世界を少しだけ留守にして我々が目視できないところに行ったんだ。死というものはな美月、生というものの対極ではなくて一部として存在しているものなんだよ、すべては続いているんだ、回帰していくものなんだよ。きっと陽子にはいつかまた出会う事ができるだろう、ただその時間が我々にとっては少し長いんだ、こちらの肉体もまた朽ちる位にな。その空白の時間が哀しみという感情を生み出してしまう。そしてこの離別の哀しみというものは時間でしか薄める事ができない少々厄介なヤツだ。しばらくは陽子と血縁のあるこの3名で粛々と哀しもう。そこからまた生み出されるものがあるだろう。美月、大丈夫だ、今は無理に元気を出さなくていい」

まるで大学で学生相手に講義をする時のように言葉を区切りながら丁寧に、そしてとても優しい口調でそう言った。するとそれを祖父の隣で静かに聞いていた母の亡霊のような人が、棺の中の母の亡骸をそっと覗き込んで小さな声で

「陽子」

ひとことだけ母の名前を呼んだ。抑揚のない、でも母と同じ声。生前はいつも目元にマスカラもアイラインもアイシャドウも全部しっかりと入れて、濃くチークをはたき、口紅はうんと明るい色が好きで、洋服は物凄い原色の、ショッキングピンクとか真みどりとか、呆れる程原色で派手なものを好んだ真夏の孔雀のような母とは全く違う、長く伸ばした真っ直ぐな髪を無造作に後ろで一本に束ね、化粧品の香りの一切無い、細い銀色のフレームの眼鏡をかけて喪服を身に纏った色の無い冬の白鷺のような私の叔母という人は、死装束すら真っ赤なドレスという極彩色の母と向かい合うと、まるで合わせ鏡の中の別人格のもう1人の母のように映った。母の対極の人。明るくて優しくて情に厚くて涙もろくて世話好きで、1年で5匹くらい捨て猫を拾ってきてしまう、いつも誰かに囲まれていたお母さんと、全く同じ顔なのにまるで反対の存在に見える人。

お母さん。

お母さん。

突然、私の感情が決壊した。それまで気合で体の内側に堰き止めていた涙が私の意志とは全く無関係に瞼からまるで噴水のように私の体外に放出された。滂沱の涙と言うのはこういう事を言うのだろうか。あんなに今日は泣かないと決めていたのに。母は猛暑日のひまわりみたいに過剰に明るい人でいつも「湿っぽいのは大嫌い」と言っていたから。何より「あたしが死んでもあんまり泣かないで、お葬式に来てくれた人に笑顔で挨拶しなさい」まだ意識がある頃の母に繰り返し言われていた言葉だった。

『それがあたしの葬儀に来てくれた人への礼儀よ、あの浮世離れした呑気もののお父さんが喪主じゃどうしようもないもの、美月、アンタがしっかりして頂戴よ』

「おいおい、こりゃ大変だ。月子、大きいタオル洗面所から持って来てくれ」

「ハイ」

私の突然の涙に驚いた祖父の指示で月子さんは立ち上がり、物慣れた様子で小走りに祭壇の設えられている和室を出て行った。私は、母が私の為にピアノの発表会のドレスをお店とお客さんそっちのけで手作りしてくれた日の事、その発表会の日に私のへたくそな演奏に感動して会場で母が1人だけスタンディングオベーションをしていて恥ずかしかった事、私の誕生日に祖父と母、それに母のお店お客さんや近所のお店のママ達とみんなで集まってコストコの巨大なケーキを胸やけするまで食べた日の事、掘り起こせば無限にあるお母さんとの思い出の自動リピート再生が開始されて感情の嵐みたいになった脳内の片隅で、月子さんがこの昭和39年築、その後増改築を繰り返して出来上がった猛烈に造りのややこしいこの家の間取りを完璧に把握している姿に

私と同じ、この家で育った人だ。

そんな妙な感心をしていた。今日初めて会った月子さんと言う人は母と祖父とこの家、私と同じ思い出を共有している人だ。そんな事を自分ではどうにも止めようのない大量の涙を流しながら考えていたら、突然洗面所、正確には洗面所に向かうために通過しなくてはいけない居間と続きになっている台所で野太い悲鳴があがった。

「よよよよ陽子!アンタ何よ生きてるじゃないのよ!この嘘つき!アタシの事騙したのね!一生分泣いたわよ!どうしてくれんのよもう!」

「ヤダ!陽子ちゃん?何?どうして?そんな地味な恰好してどうしたのよ、え?霊?」

「アンタ達落ち着きなさいよ、こんなはっきり見える幽霊いる訳ないじゃないの!」

あれは母のお店の隣のママのあけみちゃんとそのお店のおねえさん達の声だ。母は駅の裏手の古い飲み屋街で、故人が言うには「スナックと居酒屋の間くらいの店」をやっていて、いつも常連さんで繁盛していた。そこには元々母が歌手として勤めていたピアノラウンジのお客さんとか、母のお店のビルの2階にあるショーパブの男と女の中間点位にいる面白くてきれいなお姉さん達とか、祖父の知り合いの外国の人とか、近所のお母さん達とか、とにかく年齢も性別も人種もありとあらゆる人間が出入りしていて、今頃の季節はよく母が炊き出し用か位の巨大な鍋で作ったおでんをつついていた。物凄く混沌とした猥雑な空間の私が好きだったお店。そこで特に仲の良かったおばさん、と言うと本人が怒るのでショーパブのママの『あけみちゃん』と、そこのお姉さん達が

「あのボケーっとした悟朗さんとまだ中学生で箸が転がっても泣くレベルの泣き虫の美月ちゃんとじゃ葬式になんないわよ」

そう言って母の生前からこの葬儀は自分達が仕切ると言ってくれていた。そうだ、みんな月子さんの事を全然知らないんだ、月子さんの姪である私ですらあまりに家族に、と言っても祖父と母の2人だけど、2人にその詳細を教えてもらっていなかった位なのだから、私は喪服代わりに着ている中学校のセーラー服の袖で涙をぐいっと拭いてから立ち上がり台所に向かった、あけみちゃんはせっかちで直ぐ早とちりするし感激屋で泣き虫だからきっと月子さんをお母さんと勘違いしているんだ、そう思った私が祭壇のある和室から廊下を挟んだ台所に飛び込むと、そこで喪服の上に白い割烹着を着て、ほぼ金髪に近い明るい栗色の髪を夜会巻きにしたあけみちゃんが吠えるように泣いていた。

背丈はそれほどないけれど昔ラグビーをしていたという広い肩幅の、上腕二頭筋の盛り上がった屈強な体つきのあけみちゃんが細身で長身の月子さんを抱きしめる、と言うよりもしがみつくように抱えていて、あけみちゃんにしがみつかれた状態の月子さんの華奢な体は今にもぽっきりと半分に折れそうに見えた。そんな状況にも関わらず当の月子さんは私に自分が誰なのかをあけみちゃんに説明してほしいとあまり表情を変えず冷静に話しかけてきた。母と同じ見た目なのに本当に母と違う、表情と言葉に抑揚というものが無い。

「あの、美月さん申し訳ないのですが、この方に事情を説明していただく事はできますか、私を陽子だと言って聞いて下さらないので」

「あのね、あけみちゃん違うの、この人はお母さんの双子の妹の月子さん。私もよく知らなかったんだけど、今日15年ぶりにこの家に帰って来たの、双子だからそっくりだけど、お母さんじゃないんだよ」

私は、大きな手で月子さんの背中を抱え離さないでいるあけみちゃんの手を剥がしながら説明した、明美ちゃんの渾身の力で月子さんの肉の薄い体が本当に折れてしまいそうだった。

「ウソ!だってこんな似てるなんてことある?アタシ達の事騙そうと思ってこんな地味な恰好してるんでしょ?何よアンタ化粧もしないで!それにもし本当に陽子の双子の妹ならなんで陽子の親友でお店が開店した頃には美月ちゃんの子守も悟朗さんの将棋の相手も散々してきたこのアタシが何も知らないのよ、大体15年?そんな長い間実家に顔も出さないでどこ行ってたのよアンタ、外国?宇宙?刑務所?」

「京都、修道院だって」

「ハァ?」

「はい、京都の衣笠の山上の修道院で祈りと観想と労働の生活をしながら15年過ごしていましたが、この程、終生請願を立てる事を辞して帰宅しました。はじめまして、陽子の妹の月子です」

「じゃあなに、この子は還俗した尼さんてこと?」

「仏教的な用語を用いるとそういう事になります」

「あの陽子の妹なのに?」

「私が陽子の双子の妹であることと、私の思想や信仰やそれに基づいた生き方には一切の関係はありません。私と陽子は一卵性の双子ですから全く同じ姿かたちをしていますが、私と陽子と私は全く別の人間です」

姉が生前はお世話になりました。月子さんは、月子さんが死んだ親友の陽子ではないと一応理解したあけみちゃんに静かに御礼を言った。月子さんの淡々とした言葉を聞いたあけみちゃんはそっと月子さんにしがみついていた自分の体を離して、それでもどうも腑に落ちないというように不思議そうな顔をして会釈した。まあ…どうも、と言って。そしてその不思議そうな表情のまま私の方にそろりと寄って来て私にこう耳打ちした

「ねぇ美月ちゃん、陽子とこの月子ちゃんて言う妹さんはさ…なんていうかこう…仲が悪かったの?」

「ぜんぜん知らない」

そう、私はこの月子さんという私の叔母の事を何も知らない。母からは双子の妹がいるけど会えないの、近くて遠くにいるのよと一度言われたような記憶はあるけれど、月子さんの写真や私物らしき物はほとんど家に残っていなかったし、『調子が良すぎていつも上滑りしている男だった』と言う婚約者に裏切られて未婚の母になった娘を実家に住まわせる形でこの家に私と母と暮らしていた祖父もまた、この月子さんの事を私に話したりする事は無かった。話題に上らなければそれは無いものと同じになる。私は月子さんの存在自体を全く意識しないまま、今日、私の記憶にある範囲で初めて彼女に会った。だから本当にこの人の事情をさっき祖父から聞いた事以外何も知らない。

「フーン、不思議な感じの子ねえ、外見は陽子とそっくりだけど、中身は悟朗さんて感じなのかしらね」

「そうなのかもしれない」

母の通夜葬儀は『ウチは両親とも一人っ子であたしは未婚の母だから親戚が極端に少ないし、だったらお葬式は自宅でやりたい。そこから斎場に運んでほしいの、だってあたしの家の方が近所のお客さんがちょっとついでにって寄りやすいじゃない、死んだらみんなに見送って欲しいもの』といういかにも母らしい発想で、この築60年の老朽家屋で執り行われた。44歳という若さで病気が分かってからあっという間に父親のいない15歳の一人娘を残して早世した母の葬儀は、その哀惜極まる設定条件とは裏腹に

「えっ?陽子?生きてる…?」

「ママ!なんだよ~死んだとか、まさかの冗談かよ~」

「おいおい陽子!質の悪い冗談はよしてくれよ」

「イヤーッ!陽子ちゃん?何?どうして?」

母のお店のお客さんを大半にした参列者の殆どが月子さんを母と見間違えて大騒ぎになり、私と祖父はそんな参列者の誤解を解く事と、月子さんの紹介に終始する事になってしまって、私は月子さんが母の名前を呼んだあの時から泣く事をすっかり忘れた。多分葬儀に来てくれたお客さん達も皆同じ気持ちだったんじゃないかと思う。

「ママはちょっとした悪戯で俺達を騙す事が大好きだったけど、死んだ後までこんな隠し玉を用意してたのか、流石だよ。いやもう、本当によく似てるなあ」

お客さん達は、皆一様に月子さんの顔と棺の中で静かに眠る母の顔を交互に見比べて泣き笑いをした。月子さんは誰にどの角度から顔を覗き込まれても特に表情を変えず、生前は姉がお世話になりましたと自動再生のようにただひたすら繰り返していた。月子さんの葬儀当日の突然の帰宅は母の狙い通りだったのかそれともただの偶然なのか、とにかく皆は、冗談が好きで悪戯ばっかり仕掛けてきた陽子ちゃんは最後まで自分達を騙して逝ってしまったと妙な関心をし、母の葬儀は死別の哀しみという雰囲気に染まり切らないまま祖父のごくあっさりした喪主としての挨拶を皆で聞いて一区切りをする筈がその後本来であれば親族のみが立ち会う予定だった斎場に

「ウチは親戚が少ないから皆来たらいいじゃないか、野辺送りは本来皆で付き添うものだよ」

祖父が挨拶の終わりに今思いついたみたいに呑気な口調で言うので、母の棺を乗せてゆっくりとした速度で走る霊柩車の後ろを、まるで遠足みたいにぞろぞろとお店のお客さんや近所の人が付き添った。そして遺体とか火葬とか遺骨とかそういう暗くてつめたいものの手触りがかなり緩和された空気の中、母の体は斎場で一応厳かに荼毘に付された。でもその最中、母の一番の親友だと自負するあけみちゃんがハンカチを握りしめながら

「あの子、春になったらそこの河川敷でバーベキュー大会しようよって言ってたのに自分が先に焼かれちゃってさ、もう!」

そう言って今にもハンカチを齧って食いちぎってしまいそうな勢いで泣くので、斎場でお骨の焼き上がりを待つ皆はなんだか笑ってしまって、もうお葬式とか永遠の分かれとかいう重苦しい雰囲気はそこで一気に全部吹き飛んでしまった。きっと母の狙い通りだ。そうして生前に母の存在を形作っていた肉や髪や爪は1000度の炎に焼かれてすべて白い灰になり、その内側の固い無機質な骨だけが形として残った。母の葬儀の日に相応しく、雲一つ無いからりと晴れた冬の空に白い煙になった母の魂が駆け上っていく様子を母と同じ顔をした月子さんと眺めながら、私はとても不思議な感覚の中にいて、あけみちゃんのバーベキューの話も相まって体内の涙の存在をすっかり忘れていた。

一昨日、命の灯火を静かに消し去った母は、今この時、肉体を無くし私が目視出来ない存在になった。それと同じ日に母と入れ替わるように母と同じ顔をした月子さんが突然私の前に現れた。

『人生は去って行く人と無くしていく物ばっかりじゃない、これから美月には出会う人も手に入れられる物もまだまだ沢山あるわよ、美月はまだ若いのよ、大丈夫よ』

母は生前、自分のすべてが終わる日を目前にした病院のベッドの上、酸素吸入をしないともう呼吸が保てなくなった身体で私の手を力なく握りながらこんな事を言った事がある。あれは月子さんの事を言っていたんだろうか。私は、静かに空を見上げる月子さんの、母と全く同じ角度の鼻先を横目で見ながらそんな事を考えていた。

☞2

母が私と祖父の生活から姿を消し、その後の葬儀の後始末や、母の残してくれた生命保険の受け取り、そして実は丸ごと母の持ち物だった母のお店のビルの相続や登記、そういう極めて現実的な事を中学生の私は勿論、普段から『今日のお天気』の話題の次に突然20世紀初頭のドイツ観念論の話しをし始めて、カントやシュライエルマッハーを近所に住んでいる友達みたいに話題にする祖父には、それらを的確に処理する能力が今一つ存在していなかった。でも意外な事に15年もの間京都の山中で外界から遮断され、静かに祈りと黙想の生活をしていた月子さんが、この手の世俗的で現実的で面倒な手続きをすべて私と祖父に代わって迅速に捌いてくれた。月子さんは『現代的世俗世界』を長く留守にしていたので、実家である私の自宅にある家電製品やタブレットやスマホをはじめのうちは少し珍しそうに眺めていたけれど、それらをひとつひとつ手に取っては

「携帯電話がこんなに薄く多様性のある通信機器になっているとは思いませんでした。便利でとても結構だと思います」

そう言いながら暫く家中の機械類を全部並べて検分していた。そしてスマホの使い方を直ぐに覚えて、修道生活に入る前には自分でも所有していたという祖父のマックのパワーブックを駆使して相続や申請に必要な書類をダウンロードし手元に全て揃え、そのひとつひとつをやや神経質そうな小ぶりな文字で綺麗に埋めてから、自分の住民票などの手続きもあるのでついでですと言って市役所と法務局にも足を運び、全ての手続きを1人で済ませてくれた。母の遺産のたった1人の相続人である私が未成年であることで多少難航する面もあったという事だったけれど、月子さんの祖父以上に表情に起伏の無い、能面のような顔と冷静な態度がすべてのややこしくタフな交渉を相当な速さで処理する事を助けた。そうやって私には母が私を受取人にしていた生命保険の結構な額のお金と、母が所有していた駅の裏手の小さなビルが遺産として残された。その手続きと交渉をすべてやり終えた月子さんは

「今後、学生の間、美月さんは経済的な事を然程心配する事はありません、贅沢で享楽的な生活を生涯続けるという事は不可能ですが、常識の範囲内での学費の高校や大学への進学に問題はないと思われます。今後もどうぞ学生の本分である勉学に励んでください」

私にそう告げて、不動産収入等、美月さんの年齢では管理が難しい事については間に管理会社を挟みます、連絡窓口は現在暫定的に私にしていますが、美月さんが成人の暁にはそれについても美月さんが管理されるようにお願い致します。そう言って月子さんは葬儀から丁度3週間が経過した日の朝食の席で、納豆を練りながら大体の事を説明をしてくれた。月子さんは私の表情を確認するようにじっと見つめてから、お父さんはそれで構いませんかと祖父に聞き、祖父はなんだかよく分からないがそう言う事だから美月はそれでいいかなと私に言った。だから私もよくわからないけどそれでいいよと言った。もともと金銭感覚の上では『どんぶり勘定』と言う言葉がとてもしっくりくる母に育てられて来た私には、不動産と不労所得と保険金みたいなものの全てが現実にあるものとして認識できていなかった、全然リアルじゃない仮想現実みたいな世界の話。そして私の目の前で静かに朝食の卵焼きに向き合う大人達も本来お金とかビルとか土地とかに全然興味が無い人種のようだった。少なくとも祖父はそういう人だ。だからこの話は事実の確認のみでそれ以上の会話の広がりというものは展開しなさそうだったし、実際それだけだった。だから私はお金の話しを切り上げて、今度は味噌汁に箸をつけようとしている月子さんに、私も聞きたい事があるけどいいですかと聞いた。

「なんなりと」

「あのね、月子さんはこれからどうするの?お爺ちゃんは、お金の事とかこういう細かい手続きとかは全然出来ないし、私も全然出来なくて、だからここで暮らしていると私とかお爺ちゃんの事、こんな風に面倒見る羽目になるでしょ、勿論ここは私が生まれる前から月子さんの家なんだからここで月子さんが暮らすのは当然の権利だし、私はこの数週間助けてもらってすごく感謝しているんだけど、でも月子さんはここでずっと香典返しの手配とかあとは相続とか保険とかそういう手続きばっかりしていていいのかな、大丈夫なのかなって。だって月子さん仕事は?月子さんはシスター辞めてこれから何するの?お金は?大丈夫?」

もし、お金がいるなら私のこの通帳のお金、いる?こんなにたくさん私はいらないから。私はそんな事を聞いた。母と双子だというこの人とこの数週間暮らしてきた私は、月子さんが『慎ましい』という言葉通り越して本当に何も物を持っていない人なのだという事を薄々知っていた。月子さんが修道院から持って帰って来たと言う荷物は当日着てきたデザインがひと昔前の喪服とコート、あとは大分年季の入ったボストンバッグの中に数枚の衣類と洗面用具、聖書とロザリオとあと数冊の書籍だけ。それだって本人に言わせると

「修道院の生活というものに、個人所有の財産というものはありませんでした。すべては会に、すなわち神に帰属します。15年前の入会の際、これまでの私の個人的な荷物はすべて処分してしまいましたから」

という事らしく、月子さんが持って来た荷物は、修道院の中にあった物を同輩であるシスター、月子さんが言うところの『姉妹』達が集めて来たり、教区の教会に集う信徒さん達が選別として贈ってくれた物なのだそうだ。そして何よりも月子さんは貯蓄というものをほとんど持ち合わせていなかった。

「修道生活に金銭は必要ありません。明日について思い悩むという事を修道生活の中にある人間は本来するべきではありませんから」

月子さんはそんな風に言ってほぼ無一文で俗世に戻った事を取り立てて気にしている風でもなかった。でも今、一般の人になった月子さんは44歳で独身の無職だ。近しい身内と言えばまだ一円も自力では稼いだことの無い中学生の私と、75歳で、既に大学を退職した学者としては隠居状態の祖父だけだ、その祖父は祖父で

「世の中には確かにお金みたいなものがあるな、でもそれに支配されているようでは人間とは言えない、自分の主人は自分であるべきだ」

そんなもっともらしい事を言って、こちらが油断しているとかつての勤務先の近くの古書店でとんでもない値段のドイツ語の辞典や哲学書を買って来てしまう。だから私は後ろ盾になるようなしっかりとした親族がいない上に、明らかに世間ずれしていそうな元シスターのこの叔母がとても心配だった。私がそんな事を言うと、この世俗の垢を一切纏わない叔母は特に表情を変えることなく

「美月さんは陽子にとてもよく似ていますね、その情に竿差してしまう所。陽子はそれでよく流されていました。ありがとうございます。そのお金は陽子の娘である貴方への愛であり、すべて貴方のものです。ですからそんな大切なものを、たとえそれがあなたのお気持ちでご厚意であっても頂く訳にはいきません。ご心配には及びません、本日これより仕事を探すためにハローワークに行ってきます。私が修道院での生活に入る以前から世間は大変な不況でしたが、自分の口を自分で養う位は何とかしたいと思います。それで、私も美月さんにお聞きしたい事があるのですが」

「え?何?」

「美月さんは、私がお聞きした話が正しければ中学生だったと思いますが、学校には行かなくて良いのでしょうか。母親である陽子の死去に伴う休暇中なのかと思ってはいましたが、もう葬儀の日からかなり日が経っています」

月子さんは私が母の葬儀の以来一度も制服に袖を通すことなく、ずっと自宅で祖父と食事を作ったり掃除をしたり母が拾ってきた三毛猫のすももと遊んで過ごしているのを不思議に思っていると言った。それについては月子さんの横で蜆の味噌汁の貝殻をよけていた祖父が

「ああそれなんだが、美月は今年の秋から学校には行ってない、不登校ってやつだ。夏ごろかな、学校で同級生のくだらない揶揄からかいの対象になるとか色々あってな、陽子の病気の事もあったし。まあ早めの冬休みだ、月子も同じように中3の頃しばらく学校に行ってなかっただろう、そんな感じだよ」

そう説明した。私はここ数週間共に暮らしたとは言え、まだお互いをよく知らない未知の人物である月子さんに「何故学校に行っていないのか」というあまり聞かれたくない事を突然聞かれてその理由を祖父に包み隠さずあっさり暴露されてしまった事がとても恥ずかしかった。生前、入院中の母に『実は学校に行けていない』という事実を知られた日と同じ位恥ずかしかった。

『アタシの体がこんなんじゃなかったらアタシが今から学校に行って、その悪ガキどもを全員捕まえて1人ずつ尻を思いっきり引っ叩いてやるのに』

母は痛みと呼吸困難に苛まれながらも病床で最後まで私が登校できていない状態を気にしてそんな事まで言っていたのに。一度休んでしまった学校には足を向けられないまま秋の入り口頃から欠席を続けて今、秋が終わり冬が来て母は死にもう年の瀬が目の前に迫っている、その時間と状況の変化と経過をしてもこの状況を何ひとつ解決できていない自分がとても恥ずかしかった。

不登校の理由はなんてことはない、いじめだ。私の属性というものが変り者の学者の孫で、飲み屋街のちょっと派手なスナックのママの娘で、父親は存在していない少し普通の家庭環境から逸脱している子だという事、私が母のように陽気で気さくで気が利いてそれに何より細かい事を全然気にしないパンチ力の強い性格とは真逆のタイプの人間だという事、そのいずれかがクラスのリーダー格のあの子達の考える「クラスの仲間の規格」から逸脱し抵触したのだと思うけれど、じゃあそれは一体何なのかどれが該当したのかは自分でもよく分からない。もしかしたら全部なのかもしれないし、全然違う事が原因なのかもしれない。でもそれはある日突然始まった。

「あいつキモい」

そんな言葉を気にしないという方法で自分の中から遮断する為の強い精神力も、不当な評価だと言い返す気の強さも両方持ち合わせがない私は今、祖父の言う通り一足先の冬休みの最中だ。

「そうですか。それでは私は本日、ハローワークに行ってまずは相談と登録というものをしてきます。昼には戻りますので、美月さん、構わなければお昼は一緒に頂きましょう」

「学生としての本分」を放棄した状態を目の前の叔母に暴露されて、恥じ入った私は朝食を取っていた手を止めて、箸を握りしめたまま下を向いていた。でもその私を特に気にする事なく、そして学校に行っていないという事を咎める事も慰める訳でもなく、月子さんは今日の予定を淡々と私と祖父に告げ、私達より一足先に食事を終えると、多分母が戻ってきたのだと勘違いしている猫のすももを足に纏わりつかせながら手際よく自分の食器を片付け、家に転がっていた何かのおまけについていた小さなトートバッグに多分然程現金の入っていない財布とハンカチと筆記具を入れて、あれは誰かのお下がりだろうか、かなり古典的な丸襟のついたデザインの黒いウールのコートを羽織ってハローワークに出かけて行った。月子さんの姿を見送ってから私は祖父に

「ねえ、おじいちゃん!なんで月子さんに、私が学校に行ってないってつるっと言っちゃうの!」

そう言って抗議した、おじいちゃんはそう言うとこ本当に気が利かないし優しくないよね。

「だって事実だろう、それに学校に行かない事はそんなに悪い事か?俺は全然そんな風に考えた事はないし、美月にそんなことを言った覚えもないぞ。大体他人の事をその理由が何であれ、まあどうせくだらない事なんだろうが、悪しざまに噂して嘲笑するなんて事は人間の行為の中でもっとも恥ずべき事のひとつだ、そんな雑言の飛び交う場所にわざわざ自ら好んで身を投じることもないだろう。美月の勉強ならいくらでも俺が見てやる。月子だってこれからお前の勉強を見てくれるだろう、月子はドイツ語一辺倒の俺と違ってフランス語も英語も得意だぞ」

あとは俺と研究範囲が被っているから、ラテン語とコイネーギリシア語と、ああヘブライ語は俺の方が出来るかもな、月子は旧約の方の聖書学をしっかりやってない。祖父がまた普段のように話を自分の興味のある方に脱線させようとしたので私はもう一度話を元に戻した。

「勉強見てくれるって言ったって、おじいちゃんは二次関数が全然出来ないじゃん、大昔にやったきりで忘れたって。そうじゃなくて私の事聞かれたからってあんまりストレートに何でも言わないでって言ってるの。なんか月子さんと話しているとおじいちゃんと話してるみたい、あの全然物事に動じない所とか、よくわかんない言葉とか引用とか…あの『情に竿差す』って何?」

「なんだ分からなかったのか、夏目漱石だよ。草枕の冒頭だ『智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』確かに陽子は情が先に立って行動してはよく損をしていたな、人に返って来るアテのない金をしょっちゅう貸すし、猫やら犬やら山のように拾って来るし、金の無い若者にただ飯をどれほど食わしていたのか分からん。お陰で死後1人娘である美月にかろうじて不動産と保険金は残せたが、陽子の残した通帳の残高はどれも殆どカラだ。でもそんな事言ったら逆に月子は知に働きすぎて世間と折り合いがつけられなくなった娘だからな、月子はなんでも真面目に考えすぎるんだよ、この俺をしてそういう評価なんだから相当なモンだぞ」

そう言ってから食卓から立ち上がると、食器洗っておいてくれよ、おじいちゃんは今日は翻訳の事で人に会うからと言って1階の廊下の突き当りにある書籍がそこかしこにうず高く積み上げられている自分の部屋に行ってしまった。きっとまた全然儲からない専門書の仕事だ。お爺ちゃんだって相当、知に働いて散々世間に角を立たせてきた人だと思うけど、月子さんはそれを凌ぐと言う。それって一体どんな感じなんだろう。私が電気ストーブの前の特等席で寝転がっているすももを無理やり捕まえて自分の膝に乗せてぼんやりとそんなことを考えていると、祖父は年代物のツイードのチェスターコートを羽織りながら台所に戻って来て

「じゃあ夕方には帰るからな、鍵はちゃんと閉めなさい、それと夕飯は鍋にするから材料は俺が買ってくる、美月は掃除と洗濯物を頼んだぞ」

そう言って出かけてしまって、家には私とすももだけが残された。よくある私の日常。でも母の病院に洗濯物やあけみちゃん達の差し入れを抱えて行く事はもうないし、母の急変や不測の事態、それが祖父を中継して私に連絡が来たときに直ぐに気が付けるようにと、肌身離さずにスマホを握って過ごす必要もない。

1人の人間の死後、台風か豪雪のように押し寄せる葬儀と人間の死にまつわるいくつもの手続きや相続が終わってしまってからが、残された者にとっての喪失感の本番なんだと、それを私は最近とても強く感じるようになった。

『もうお母さんがいない』

あの白い病院のどこまでも無機質な病室でハロウィンの頃にわざわざ経帷子を用意して額には天冠、幽霊がつけている三角のヤツまでつけて死人を演じ、お見舞いに来た人達に「強すぎる、そして笑えない」と言われていたお母さんは、12月に入る直前に点滴台をクリスマスツリーに模してモールとか星とか靴下を派手に飾って更には電飾まで施して看護師さんに「面白いけどそういうのちょっと困る」と言って笑われていたお母さんはもうどこにもいないんだ。私はじっとしているとそんな事ばかり考えてしまうので、気を紛らわそうとして出来るだけ時間をかけて祖父の指示通り食器を洗い、掃除機をかけ、流し台やお風呂をメラミンスポンジで丁寧に磨き、縁側の廊下を水拭きした。でもそんな日々の家事には全然気が紛れるような効果は無かった。むしろこの空間から時間の経過と共に母の香りと気配が薄れていっている事がより鮮明に感じられて、私の目からは私の意志とは全く関係なく涙が勝手にぽたぽた流れた。葬儀の日に祖父は「哀しみというものは時間でしか薄める事ができない少々厄介なヤツだ」と言っていたけどこれは本当に厄介なヤツだと思う。一体いつになればこの哀しみは私の脳内で希釈されて薄くなりそして跡形もなく消えていってくれるのだろう、それよりも先に自分が涙で摩耗して小さくなりそして跡形もなく消えて無くなってしまうかもしれない。

『でも自分が消えて無くなってしまう方がいっそ楽なのかも』

そんな事を考えながら私は何度もティッシュペーパーで目頭を押さえて強く鼻をかんだ。そうしたら突然、玄関で母の声がした

「ただいま戻りました」

違う、母はあんなに静かに帰宅を告げたりしない、もっと大音響だ。月子さんだ、帰って来たんだ。時計を見ると時間はもう昼前になっていた。私は多分真っ赤になっているだろう眼球と目の周りを月子さん見られたくなくて、それを誤魔化すために目を強くこすりながらまだ月子さんを母だと勘違いしている様子のすももの玄関に走るピンと立ったしっぽの後を追いかけた。

「おかえりなさい」

「ご連絡できなくて申し訳なかったのですが、こういう物を買ってきました。お昼の用意はもう済んでしまっていますか」

玄関ですももににゃあにゃあと纏わりつかれている黒いコートの月子さんは私の前に意外なもの突き出した。マクドナルドの紙袋。

「え?買って来てくれたの?」

「ハイ。ただこれを買ってから気が付いたのですが、美月さんは今丁度成長期の15歳なのでこれですと量が不足してしまうかもしれません。もしそのようでしたら私の分を差し上げますので仰ってください。私の頭の中の美月さんはつい最近まで新生児だったものですから。15歳に成長した実物の貴方と、私の頭の中の貴方に印象の齟齬が生じていて未だにきちんと調整が出来ていないようです」

そう言って手渡して来た紙袋の中身を見て私は笑ってしまった。袋の中身が2人分のチーズバーガーのハッピーセットだったからだ。小学生の3、4年生の頃まではよく母と一緒に駅前のお店に食べに行っていた。年齢と細身の体格の割に大食漢の祖父から言わせると『子どものおやつ』みたいなファストフード。リカちゃんがおまけだった時期には、その手の可愛い物が大好きな母が私よりも夢中になり、母子2人だけだと全部をコンプリートする前に期間終了になってしまうからと、お店を明け方まで開けている関係で普段はお昼すぎまで寝ているあけみちゃん達を叩き起こして手伝ってもらった事もある。いつもとても綺麗にお化粧をしていて性別同様年齢が全然分からないけれど実は母より結構年上らしいあけみちゃんが「トシだから胃にもたれるわよ~」と言って髭も剃らずに寝ぼけながらポテトをつまんでいた日の事を私は今もよく覚えている。あの時はお店のお姉さんたちも美月と陽子ちゃんの為ならしょうがないわねと、みんなでマクドナルドにぞろぞろついて来てくれて、結果お店が極彩色の踊り子さんで一杯になり、確か土曜日のお昼前、明るい日差しの差し込むお店になんだか妙に不健康そうで怪しい空間が出来上がってしまっていて可笑しかった。

私はこの能面のような顔の叔母が自分の為にあの時の赤い看板の店に並んで子供向けのアニメのキャラクター人形がおまけについてくる子供向けの食べ物を1人で2人分購入してきてくれたのかと思うと、それが昔の私の思い出とはあまりに対照的でそれがまた可笑しくて、私は月子さんに笑いながら御礼を言った。

「ありがとう月子さん、でもお金は?」

「お金の事を貴方が気にする必要はありません。これはお詫びです。貴方に朝、学校の事を聞いてしまった直後に貴方が極端に元気をなくしてしまったように思えたので」

私は他者の気持ちを慮る事を大変に不得手としているのですがそれでも少し迂闊でした。月子さんはそう言って靴を脱いで揃え、今コートを脱いで手を洗ってきますので一緒に頂きましょうと言った。なんだか妙な昼餐。でもこの、母から感情のすべてを差しい引いたような人から気遣いらしきものを受けた事がすこし嬉しいような恥ずかしいようなそんな感覚を覚えて、私は声を立てずに笑いながらそれらを食卓に並べた。月子さんにも一応人間らしい感情があるのか。

「おじいちゃんが朝『月子も同じように中3の頃しばらく学校に行ってなかっただろう』って言ってたけど、あれは本当?」

私は、ファストフードの類を食べるのは15年前、29歳の時に京都の修道院に入る直前に駅前で食べた物が最後だと言うちょっと驚きの事実を私に告げながらチーズバーガーの包みを綺麗に解いて少しずつ丁寧に口に運ぶ月子さんに朝祖父が言った「月子も学校に行っていない時期があった」という事の詳細を聞いてみた。月子さんも私と同じクラスの下層に属する虐げられる側の人間だったのかと。

「事実です。私と陽子が中学3年生の丁度、夏休み明けから3学期の始め頃の話です」

「どうして?」

「何故でしょうか。諸条件が重なって起きた事だと、成人してもう20年以上時間の経った今となってはそう思いますが。まずひとつの原因として母が亡くなった事があります、美月さんの祖母です。母は性格が陽子に似たとても朗らかで鷹揚で情に厚い人でした。とても良い人でした。私はその時分から自身の中に信仰心というものを一応は持ち合わせてはいたので母が病床にある間ずっと奇跡が起きて母が快癒に向かい、その命が長らえる事を誠心誠意神に祈り続けていました。しかしそれは叶わず母は亡くなりました。それによって世界への絶望を強く感じていた。それがひとつの原因です」

世界の調和という物の中に自分とその家族が含まれていないという事への絶望です。すべては神の采配の下に既に決定されていて、それは決して覆らないのだという事を母の命の終わりを通して知ってしまった、そういう気持ちになったのだと思います。月子さんは、これもとても久しぶりですというコーラを一口飲みながらそんな風に話した。まるで教会で神父様のお話を聞いているみたいだ。この月子さんと母の家庭、即ち私の家は昔から少し変わっていた。家でピアノ教室をしていた祖母、母と月子さんの母親は、実家がカトリック教徒の家庭で祖母本人も生まれついたその時から神の臨在を微塵も疑う事無く信じ、毎週うちから歩いて15分位の場所にあるカトリック教会に通っていたけれど、その夫で母と月子さんの父である私の祖父は宗教学の学者であり、学術の徒というものは神だとか絶対他者だとか存在それ自体だとかそういう名の付くものを『信仰』という主観的な観点から見るものでは無い、それでは学術的批判が成り立たないという持論を堅持し、自らは特定の宗教を持たないと言う考え方の人だった。私がいつだったかじゃあおじいちゃんは一体何を信じてるのと聞いたら祖父は

「無だな、すべては無に帰す」

という物凄く抽象的で虚無的な答えを返して来た。祖父の言う事の95%位は私にとって理解不能だ。そして母はと言えば「なんでもいいけど、お葬式は適当でいいわよ、牧師先生でも神父様でもお坊さんでも神主さんでも呼んできて賑やかにやって頂戴よ」という宗教信条的にはかなり適当な人で、実際お葬式には本当にお店のお客さんでお酒が大好きな近所のプロテスタント教会の牧師先生と、これも近所でお酒は飲めないけどカラオケのマイクを持たせると1時間返してくれない浄土真宗のお寺のお坊さんが来てくれてそれぞれ聖書を朗読してお経を上げてくれた。そして今、母のお骨の行き先はそんな我が家の宗教観の大渋滞に伴って保留になっている。月子さんも含めてこの家はみんな信じるところ、心のある場所がとても自由だ。

「おばあちゃんが死んじゃったから学校に行かなくなったの?」

「それがまずひとつです。あとひとつは、ある日登校すると私の机が教室から無くなっていた事です」

「は?なんで?」

「クラスの悪戯な男子生徒が別の教室に隠してしまっていたという事は後から分かりましたが、当時の私は大変傷つきやすい、精神的に脆弱な性格をしていましたから、自身の机と、そこに収納されている学用品のすべてが私の前からある朝忽然と消えた事で、これは学校に登校することをクラスの全員が私に望んでいないのだと、母の命同様、私は世界から疎外されているのだとそう解釈してそのまま何も言わずに自宅に帰りました。当時の私は今以上に弱い人間でしたので。その日から登校するという事を自主的に停止しました」

月子さんは、その机が消える以前からしばしば、自分をからかうような言動をする同級生や、ちょっとした学用品が机の上から消えることはあったが、そこまでは気にしていなかったのだと言う。さっき月子さんは今自分を評して「弱い人間」だと言ったけれどそれは相当強い部類の人間なのではと私は思った。私なんか誰かに筆箱を隠されただけでもその事実と、そこに漂う幼稚な、でも強い悪意のようなものが怖くて悲しくてこっそりトイレで泣いたのに。月子さんと私は15歳の時代、私にとっては今だけどその状況がとてもよく似ている。早世した母と学校でのいじめという疎外。ただ私と月子さんの状況が少しだけ違うのは、月子さんには双子の姉である母がいつも付いていて、母がその消えた文房具や学用品を探して来てくれたり、月子さんの事をからかうような真似をして来た男子に過度に応戦したりしていた事だ。

「いつだったか陽子は飛び膝蹴りをして、私を確か『ブス』と言って笑った相手を成敗した事がありました。まあ私と陽子は全く同じ顔をしていますから陽子が怒るのも無理はありません。陽子は当時教師達からするとあまり素行が良いとは言い難い生徒ではありましたが、私とは違って明るく友人も多くとても目立つ生徒でした。その陽子と全く同じ顔をしている妹の私が学校という集団の中で上手く立ち回る事の出来ない、あの混沌とした時間の中で自分の居場所を見つけられない子どもで、いつも友人に囲まれていた陽子とは真逆の性格であるという事実が、かえって私を悪目立ちさせていたのだと思います。ああいった集団の中で、誰が揶揄からかいの対象になるのか、言うなれば誰が生贄の子羊になるのかはくじ引きのようなものです。その中でほんの少し世界と接面を上手く見つけられない、他者と繋がる事の不得手な子どもが大体の場合その対象になります。その当時の私はそんな子どもでしたから」

「イケニエに選ばれたってわかった時、月子さんは悲しかった?」

「どうでしょう。当時の私は『哀しみ』という感情のすべてを母を失った哀しみに支配されていましたから。一体どの感情がどの出来事に紐づけられているのか、まだ思春期の娘だった私には判断が付きかねました。ただ陽子はとても怒っていたように思います。月子があのアホな連中のくだらないいじめが原因で学校に行けなくなってそれで、月子の内申点はどうなるんだと。当時私は成績だけは良かったので家庭への負担も考え、できれば地域の公立高校に進学したいと思っていました、父の母校です。ただ美月さんもご存じかと思いますが公立高校の進学に際しては受験当日の試験得点と共に通常の学業成績が加点対象になります。陽子は何故だかその事をとても気にしてくれていて、ある期間、私になりますまして学校に通っていました」

「え?どういうこと?」

「陽子と私は趣味嗜好性格ともに真逆の性質を持つ別人でしたが、双子ではありますから顔の造りと身体的特徴は全く同じです。それで陽子は週のうち大体半分を私として、半分を陽子本人として学校に通うと勝手に決定してそれを実行しました。何しろ私たちは全く同じ顔をしていますから、普段の過度に短いスカートの制服に妙につぶれたカバンを持った本来の陽子と、規定通りの丈のスカートの制服を身に着けて眼鏡をかけた私のふりをした陽子、それが一体本物か偽物かという事は、陽子が口を開きさえしなければ父でも見破る事ができませんでした」

母は、妹の月子さんの不登校から来る成績の下降を避けるために、特に体育など救済措置のなさそうな実技科目のある曜日を狙って月子さんと入れ替わって月子さんとして学校に登校していたらしい。当時まだ大学の助教授として朝の講義がみっちりと詰まっていた祖父は、欠席連絡を娘達本人にやらせていたらしく、その本人たちは顔の造り同様声が全く同じであることを良いことに、母が欠席する日も月子さんが欠席する日もすべて

「学校への連絡は私がしていました。相手をかたる際に声色を使う必要が無いという点が双子の良い所です、そして当時はまだ学校も呑気な時代でした」

そうして、月子さんの身代わりの母は、自らを素行不良の不登校児として自分の成績と内申点を下げる代わりに妹の成績を保ち、ついでにからかってくる男子に教師に見つからないよう裏拳で報復をしたりもしていたらしい。そうやって3学期に入り高校受験が本格化して同級生がかつてのいじめの対象に気を取られている場合ではなくなった頃、本物の月子さんは教室にそっと舞い戻り難なく志望校に合格した。そして母は地域の一番難易度の低い公立高校に落ち、あまり評判の良くない家から遠い私立高校に進学した。

「そういう所が、陽子の『情に竿差して流される』所だと私は思いましたし、実際そのように本人にも言いました。そうしたら陽子は『あたしが自分で大切だと思ってる人間に何をどうしようがあたしの勝手じゃない、愛なんだから黙って受け取っときなさいよ』と言いました。陽子は昔からとても優しい人でした。私が人よりずっと長く大学に在籍してその意味を学び考え、更にそれを知るために外国にまで行って、ついには15年の修道院生活をしても結局掴み切れなかった『愛』というものが一体何なのかを直感的に理解していました。そう言う意味で私など、陽子の足元にも及びません」

私は一見感情が全く無いように見えるこの叔母から『愛』という意外な言葉が飛び出して来た事に少々驚いてポテトをつまむ手を止めた。

「え、じゃあ月子さんは『愛』がなんなのか知りたくてわざわざ大学を出た後にドイツに留学してそれでも答えが見つけられなくて修道院に行ってたの?15年も?」

それはとてもお答えするのが難しい問いになりますが。月子さんは紙ナプキンで口元を軽くぬぐってから私の事を真っ直ぐに見た、顔の造りがこんなに似ているのにどうしてこうも母と思考回路が違うのだろう。私はとても不思議に思いながら、この15歳の姪の不躾とも言える質問に真摯に答えようとしてくれている叔母に自分もまた向き合った。

「それについてはまず『愛』の概念について美月さんに確認しなくてはいけません。私がここで問題にしているのは『Ἔρως』所謂性愛の事ではなく、『αγάπη』神の愛の事です、そこをまずご理解ください」

月子さんはマクドナルドの紙袋の中に掴むだけ掴んで入れましたという風情で大量に入っていた紙ナプキンの内の1枚を掴んで広げ、そこにふたつの言葉を書いた、手近にあったボールペンを使って。そこに書かれたギリシア語のふたつの『愛』。こういうところが月子さんは本当に祖父に似ている、私は母のお葬式の日にあけみちゃんが月子さんを評して「外見は陽子とそっくりだけど、中身は悟朗さんて感じなのかしらね」と言っていたことを思い出した。

「おじいちゃんがちょっと前に同じこと書いて説明してくれたけど全然分からなかった。キリスト教における神学的な概念だとか言われても、私にはちょっと何言ってんのかわかんないもん、月子さんは何だと思っているのこのア…なんだっけ、神の愛っていうのを」

「誰かの為に死ぬことです」

「え?死?」

「ハイ。ただこれは特定の誰か、例えば情で結ばれた家族であるとか恋人であるとかそういう自らにとって特別で特定の方の為の死ではありません。無関係の他者に対して、むしろ自らを憎む敵に対して、更に言えばそういうものの境界を一切なくした自分以外の全他者に対して向けられるべきもので、私はそのような概念を理解しその愛というものを理想として生きて行きたいと、そしてそれを実践したいと考えて修道院の生活に入りました」

「なんで?」

私は思わず反射的に月子さんに聞き返した、他人の為に死ぬ事を理想とする人生なんて全然理解できない。どうして?何のために?他人は他人だし家族とか友達とか自分が好きな人を大事にしてそれで生きて行けばいいんじゃないの、何その聖人みたいな生き方。それに月子さんなんて、祖父と同じ超難関の大学にストレートで入学してそこを出た後に大学院に入って博士号を取得して留学経験があって、今朝祖父から聞いた話だと3つの言語を操る事が出来て、あと3つの古い外国の言葉を解読できる、そういう人なんじゃなかっただろうか。あと死んだ母は、とにかく派手で破天荒な性格だったけれど同時にとても綺麗な人だった、だからその母の一卵性の双子の妹である月子さんだもまた、化粧の香りは全く無いし着飾るという事とは完全に無縁な人だけれど44歳という年齢を感じさせない顔の造作と佇まいを持つとても綺麗な人だ。だからそんな風に難しい『愛』について人生を賭して考えたりしないで、もっと普通にしていれば普通かそれ以上の人生を享受して幸福に暮す事が出来たんじゃないのかと、私はそう思ったしそんな文言が思わず口から飛び出た。

「そうでしょうか、私は生まれてから今日までこの世界に疎外されてここに居場所は無いものなのだとそう思いながら生きてきました。何故なのかはわかりません、とても漠然とです。『人間のもっとも大きな罪は、彼が生まれたということにある』という言葉があります、これは私が研究していたショーペンハウワ―の書物からの引用ですが、まさにそのような心情です。私は自分と世界との接面をどこに設定したら良いのかどうする事が正解なのか、44歳の今でもよく分からないままなのです。いつも誰かや何かに執着しすぎるし、反面どうでも良いのです。自分でも自分が掴み切れません。それで色々な書物を読み、父に頼んで大学の哲学科に進学し、外国にも出してもらいました。そうして学び知識を蓄え思考し、私は『執着』と表裏一体である『疎外』を乗り越えるためのひとつの仮説として、世界と自分の接面を広く限りなく薄く、自分自身が捉えられない程に薄く、更には無いものにしていくことがこの『疎外』から自らを解放する方法なのではないかと考えました。希釈による緩和です。そうすると今度はそこに『愛』の概念を確固たる言葉として捉える必要が出てきました。他者というものの境界と分類を限りなく薄く広く設定する事、それが先ほど私が美月さんに書いて示した『愛』を別の言葉で言い換えた『無関係の誰かのために死ぬこと』それに繋がっていくと、そう考えたからです」

それをもう少し、美月さんの分かりやすいように言うと「ひとを分け隔てしない事」です。

月子さんのとても難解な、それでも多分中学生の姪に分かりやすいように言葉を選んで噛んで含めるように話してくれたのだろう言葉は私には90%は理解できず、でも10%はかろうじて理解できるものだった。理解可能だった10%は『世界からの疎外』というところ。それがたまらなく寂しくて息苦しい物だと言う事だけは私にも分かる。母が死んでしまった日に、私は世界のすべての幸福という物から疎外された存在なのだとそう思ったから。私と世界の間には真空地帯があってそこには友達とか幸せとか家族とかそういうものがこの先踏み込んで来てくれないのだと。目の前で実の娘の死を冷静に見つめている最後に残った唯一肉親の祖父だってあと何年元気でいてくれるのか分からない、いずれそう遠くない未来に私はひとりきりになるのだろうと思っていたから。少なくとも月子さんがこの家に現れるまでは。だから月子さんの言う『執着』という言葉の持つ意味や苦しさみたいなものは私にも少しだけわかる。

今、私が執着しているのは、最後に残された家族の祖父ともしかしたら互いを認識し合ってまだ日の浅いこの叔母という人なのかもしれない。そんな事を考えた時、私には月子さんが執着した人が一体誰の事を指しているのか、それがとても気になった。

「月子さんは、その、分け隔てなくできなくて…ええとだから執着しすぎるものとか人が居て理想を実践できなくて苦しくて、だからそれを何とかしたいと思ってそれでわざわざ修道院にいったんでしょ」

「それがすべてという訳ではありませんが、理由のひとつとしてはそう言う事です」

「それって誰の事?昔誰かすごく好きな人とかがいたの?」

「それは性愛と言う意味での愛ですか?でしたらそう言う事は私の人生においてかつてもこれからも一度もありません。私が執着したのは陽子です」

「は?お母さん?」

私はこの時、少し前に母のお店の猫好きなお客さんがプレゼントしてくれたサンマの形のクッションを投げて与えた時のすもものような顔をしていたんじゃないかと思う。食べ物だと思ったのにそうではなかった不思議なものを目の前にした時、すももはとても哲学的な顔になる、そんな顔。月子さんは私のその哲学的猫の表情を特に気にせずに淡々とこう答えた。

「はい、貴方の母で私の双子の姉の陽子です。私は世界の誰よりも陽子が大切で大好きでとても愛していました。陽子への執着が断てないまま、いえ断てないからこそ修道院で15年の歳月を静かな黙想の中で過ごしていたのです。でも陽子が重い病で死の淵にある事を父からの手紙で知ってしまいました、つい1ヶ月ほど前の事です。その事により私は15年の間、静寂を得ていた筈の平常心を保つことが出来なくなりました。そうしてもう目前に迫っていた終生請願をすべて取りやめにしてそれまでの何もかもを捨てて家に帰る事にしました。でも帰宅した時、陽子は既に亡骸でした。実際このように平静を保ちながら生存しここで生活こそしていますが、美月さんの目の前にいる私は最早屍も同然です。今、私の世界はある次元において既に終わっているのです」

そんな風に、双子の姉である母への執着から自分を切り離せなかった事と、その行き場の無い執着を消し去る事が出来ないまま無為な時間を過ごした挙句、母の死によって月子さん自身が最早生きる目的を無くした亡霊のような存在になってしまっている事実を、然程絶望的な空気も醸さず哀しそうでもない様子で話す月子さんが、私はとても不思議だった。

「ねえ、じゃあどうして月子さんはお母さんのお葬式の時泣いたりしなかったの、どうしてそんなに冷静でいられるの、今、絶望してるんじゃないの?」

「してはいますが、私は生来感情が表に出てこない性質の人間なのです。そして長い修道院生活の中ではいつも沈黙と冷静が求められました」

それがいかにも私向きであるとは思っていたのですが、結局はそこにも自分の居場所を見つけることができませんでした。姉妹達は皆優しく、すべてを受け入れてくださるそこが決して居心地の悪い場所ではなかったにも関わらずです。結局自分がどこにも帰属する事の出来ない破綻した疎外の中にある人間であるという事だけを改めて確認し、陽子の死に目に会う事が出来なかったと言う事実を残してすべては終わりました。月子さんはそう言うと少しだけ哀しそうな顔をしたので、私もつれられて哀しい顔になった、そうしたら私の方はどちらかと言うと感情の洪水の起こりやすい、感情に抑制が効かない子どもであるだけに少しだけ涙が出た。でもお葬式の日とは少しだけ違って、この能面のような顔の叔母もまた母がこの世界から消えてしまった事を私と同じか、もしかするとそれ以上の気持ちで哀しんでくれているのだという事実が、ほんの少しだけ私の胸の中の内側、心臓の在る場所を温かくさせた。

月子さんは話をしながら、少しお喋りが過ぎましたねと言い、あとは俯いて寡黙にチーズバーガーを齧っていたけど、私にはその俯いた月子さんの表情が少しだけ泣いているように見えた。

☞3

「すまん美月、色々考え事をしながら歩いていたら、まんまと夕飯の買い物を忘れた」

そう言いながら祖父が駅前の商店街の馴染みの屋台でたい焼きだけ買って帰宅したのはその日の午後4時すぎだった。祖父はいつもこうだ、いつも大体絶対答えの無い命題について延々と思索しながら歩くので本来用事のあった筈のスーパーも八百屋もお肉屋さんも全部を横目にしながら通り過ぎて、何故か全然予定に無かったものを買って来る。

「おじいちゃんていつもそうだよね」

私が呆れながらそう言うと祖父は特に悪びれる様子もなく、食器棚から急須と茶筒と湯飲みを3つ取り出しながら

「歩くと思索が捗る、カントも毎日の散歩が日課だった。とりとめもない事を考える時には無為に体を動かすのがいいんだ。美月、今お茶を淹れるから陽子…じゃない月子を呼んできてくれないか」

離れの月子さんを呼んで来るように言った。祖父は月子さんが帰宅してからよく母と月子さんを呼び間違える、月子さんはそれを聞くと必ず

「お父さん、違います、陽子は死にました。私は月子です」

祖父の発言についての事実の確認と発言の訂正に余念と容赦が無かった。そういう所が月子さんの掴めないところだ。私は母が死んでから1ヶ月も経過していない今、私はまだ『死』という言葉に細いガラス片が指先に触れた時のようなちくちくとした痛みを感じる。月子さんはそういうの、平気なんだろうか。そう思いながら月子さんが自室にしている離れに向かった。離れと言っても大昔の東京オリンピックがあった年に建てられた古い木造家屋から廊下を伸ばして40年程前に増築された続きの和室の二間だ。まだ元気だった祖母が祖父に相談もなくある日突然勝手に増築したものらしい。その祖母という人は祖父が言うには

「とにかく育ちのいい人だったよ。まだ1ドルが360円だった時代に娘を私費留学させられるような家の1人娘だったんだよ。嫁入りの時、家電一式と箪笥二竿にぎっちり詰まった着物とスタンウェイのピアノがこの家に運びこまれた時にはどうしようかと思ったよ。だからかなあ、現金は財布から、米は米櫃から勝手に湧いてくると思っているフシがあったなアレは。『明日の事に思い悩むな』が口癖で、俺と結婚してからはそう贅沢できるような身分でも暮しむきでもないのに、よそ様が金に困っていると聞くや、自分が嫁入りの時に持って来た友禅やら宝石やらを全部惜しげもなく現金に換えて他人に渡していた。隣人愛もあそこまで行くと天晴だ」

そういう行き過ぎた信仰心と生来の面倒見の良さを兼ね備えた性格の人で、事業に失敗して食い詰めた人や、夫の暴力を受けて逃げてきた知り合いのまた知り合いの女の人や、人生に行き詰った挙句死を選ぼうとしていた若者なんかを「その辺から拾ってきて」よく面倒を見ていたらしく、年中誰かしら他人が家に出入りしていた。そういう人達が雨風を凌ぐ一時の居場所の為に、祖母がピアノ教室をして貯めたお金で勝手に増築したという離れの二間は玄関から入って直ぐ右手の、本来は仏間として使用されるはずの10畳の和室をぐるりとひと回りするように続く廊下の奥、6畳と8畳の和室と小さな流し台とトイレのある空間になっている。それは今、人生に行き詰って世界に居場所を無くしたと自ら主張する祖母の娘の月子さんの自室になった。

「月子さん、たい焼きあるから食べようっておじいちゃんが」

その祖母の遺産である離れの部屋で雪見障子をあけ放って古い座卓の前に座っている月子さんに声をかけると、月子さんは書き物をしていた手を止めて私の顔を見た。手元にあるのは履歴書だった。

「分かりました、ではこの最後の一行を埋めてから参りますので先に戻ってお待ちください」

月子さんは履歴書にみっちりと書かれた学歴欄をまだこまごまと文字で埋めながら私に言った。私はそれを覗き見するもりはなかったのだけれど、月子さんの文字で書かれた学歴のあまりの重厚さと記載内容が多言語に及んでいる事に少し驚いてつい

「月子さん、凄い勉強してたんだねえ、お母さんは高校しか出てないって言ってたのに凄いね」

そんな事を言った、そうしたら月子さんは私の顔を見て少し不思議そうな顔をした。そうでしょうかと言って。

「陽子の最終学歴は確かに高卒でしたが、一度音楽大学に入学しています。思っていたのと違ったと言ってものの半年で退学していますが。陽子の歌とピアノはかなり自己流でしたがとても上手でしたよ、少なくとも私は好きでした。ヨーロッパで本格的にクラッシック音楽を学んだ美月さんの祖母である私の母とはまた違いますが、ジャズもブルースも何なら演歌も歌いながら演奏できましたし、一時はピアノラウンジなどで歌手を生業にして暮らしていた訳ですから。己の特技を持って世間というものに完全に順応していました。そして学歴の長さというものは私に限って言うとの無知と愚鈍さの象徴です、何もつかめないまま無駄に長く大学に居残った訳ですから」

それで今、月子さんのこの立派で一般的には少し特殊な学歴と何より

「私には職歴というものがありません、俗世で正式に働いた事がないものですから。ハローワークの相談員の方のお話では、修道女というものは職歴に該当しないのではないかという事でした」

「えっ、じゃあなんなの」

「生き方、だそうです」

月子さんの年齢や職歴や取得資格の少なさを考慮すると今すぐハローワークから紹介できる仕事は、介護とか清掃とか給食調理というものになるらしいのだけれど、それはそれで

「雇用側が少し難色を示すかもしれないと言われました」

相談員の人のその言葉を月子さんは少し理解できなかったらしく一体何故なのかと不思議そうにしながら

「私個人は今、生きる事に無目的な状態ではありますが、それでも信仰信条上死ぬ訳にも参りませんので、やらせていただける仕事があればそれが何であれ感謝して従事したいのですが」

そう言った。でもハローワークの人の言いたかった事はまだ世間の荒波みたいなものに一切揉まれた経験のない中学生の私にも容易に推察できる。だって普通の近所のお母さん達がパートで和やかに集っている類の職場に元修道女で哲学博士で浮世離れが服を着て歩いていると言っても過言ではない月子さんが、例えば給食調理の仕事を得て、そこの職場の同僚の中に自然に溶け込むのはちょっと難しいんじゃないかと思うから。月子さんに同僚と円滑な関係を築く為に無難な世間話をしてくださいと言ってもまず「世間話とは、その定義は何ですか」とか聞いてしまって会話の初めから周りが困惑してしまうだろう。私がそんな事を考えている間に月子さんは、最後の行を書き終わっていた。

『職歴・なし』 

「終わりました、美月さん、母屋の方に参りましょう。夕飯の買い物は父がしてきてくれるという事でしたが、十中八九買い忘れているのではないかと思いますので、お茶を頂いた後に私が買いに出かけてきます」

「えっ?何で?どうしておじいちゃんが買い物するの忘れて帰って来たって分かるの?」

「父は昔からそうですから。学術的な見識と見解においては大変尊敬できる人ですが、日常的な事項における記憶力については正常なのか異常なのか少々分かりかねる人です」

生前の母も言い方は全然違うけどそれと同じことを言っていたな、月子さんの女の人にしては高い身長と線の細い背中を見ながら私はまた母の事を思い出していた。祖父が買い物をしてくると言って買い物する事自体を忘れて帰宅したり、買い物はしたけれど、商店街の誰かと立ち話をして買い物袋を手近のベンチに置いた瞬間にその存在を忘れて全部置いてきてしまって帰宅する。そのたびに母は祖父の事を

「あーもうこんな事だろうと思った、お父さんてボケてんだかそうじゃないのか昔っからホントわかんないわよねえ」

そう言って大笑いして置き忘れた買い物袋を私と一緒に回収しに行ったりしていた。そう言えばあの時もよくたい焼きを買ってくれたっけ。母のお店のお客さんでもあるたい焼き屋のおじいちゃんが、陽子ちゃんにはおまけだよと言って1匹余分に包んでくれたりして嬉しかった。それで祖父もこのお店を贔屓にしているんだ、陽子が世話になったからと言って。あのおじいちゃんは元気かな、母が死んでから私は全然商店街の方には出かけなくなってしまって暫くあの界隈の人たちの顔を見ていない、商店街を抜けて駅の裏の母のお店まで行く用事が無くなってしまったからだ。私は祖父の淹れてくれたお茶を飲みながらたい焼きを齧っている時にふと、あのお店は今どうなっているのか気になった、近所の人達の集会所みたいだったあのお店。そんな事を考えたのは母が死んでから初めての事だ。

「月子さんが買い物に行くなら、私も一緒に行こうかな、お母さんのお店、どうなっているのか見てきたいし」

「うんそうだな、今は美月があのビルのオーナーな訳だし、管理を月子と管理会社に任せているとは言え一度見ておいで、ついでに商店街も月子がこの辺りに居た頃とは大分変わってしまっているから、美月、案内してやってくれ」

祖父は、自分が買い物を忘れて月子さんの外出の原因を作った事を全く悪びれる様子も無くそう言った。月子さんは上品な手つきで湯飲みを両手で抱えて緑茶を飲みながら

「今、美月さんの所有物件であるあのビルの1階の陽子の店舗だった部分は空室ですが、2階と3階は猪熊さんが借りてくださっていてきちんと管理や清掃を行っていらっしゃいますから美月さんが然程心配するような事はありませんが、父の言う通り商店街の変遷は著しいでしょう。美月さん案内をお願いできますか」

月子さんは私が相続した駅前の小さなビルの管理を管理会社と密に連絡を取りながら丁寧にやってくれているようだった、でも

「ねえ、月子さん、今言った『イノクマ』さんて強そうな名前の人誰」

「ショーパブのママをされているあけみさんの上のお名前です」

「そうなの?おじいちゃん知ってた?」

「いや初めて聞いたな」

私達は10年以上家族同然の付き合いをしていて、ウチで一緒にご飯を食べたり、母の入院中はよく「一人でご飯食べるのイヤなのよ~付き合ってよ~」と言って台所で勝手にご飯を作って私達を待っていてくれたあけみちゃんについて「書類にそう書かれていました、あけみさんは戸籍の上では男性なのですね」と特に驚きもせずに月子さんが言うまで、あけみちゃんが元々男の人だったことは知っていても、彼女の苗字も本名も知らなかった。そう言えば私はあけみちゃんの来し方もよく知らない、あけみちゃんが人生の途中まではかなり固い職種の勤め人でかつては結婚もしていたらしいという事を、いつだったか母が話していた気がするけれどそれもまた曖昧な情報だ。思えば母の周囲には、あけみちゃんの事と言いこの月子さんの事と言い、私の出生の事と言い、はっきりしないまま霞がかかったようになっている事柄がとても多かった。そしてその霞を晴らす前に、母は死んでしまった。

「ねえ、月子さんは、私が生まれた日にお母さんに付き添ってくれてたの」

商店街に昔からある八百屋の店先で白菜の大きさを入念に見比べている月子さんに突然そんな事を聞いた時、月子さんは少しだけ、ほんの少しだけだけれど驚いたようだった。突然どうしましたかと言って。

「ううん、お母さんの周りの事をね、相続とか保険とか少し整理したでしょう、そうしたら私はお母さんの事を実は全然よく知らなかったんじゃないかなって、だってまず月子さんの存在は知っていたけど、一体どういう人なのか何処で何をしているのかよく知らなかったし、あけみちゃんが本当は猪熊さんていう苗字だった事も知らなかったし、何より私は自分の産まれた時とかその周辺の事を何も知らないなあと思って」

「美月さんはその、ご自身の出生と出自について詳しい事情を何も知らされていない事について不当であるとか不服であるとかそう言った感情があるのでしょうか」

「全然」

ただよく考えたら知らないなあと思っただけだよと私は言った。実際私は父である人の氏素性は知らなかったけれど、その人が既婚者であることを母に黙って婚約までした挙句、母が出産する直前にすべてが露見した時、母を棄てて逃げたという割と碌でもない人物である事は知っていたし、父親がいないと言っても私には父親の代理をしてくれる祖父がいて、父親がいない分少ない親戚は、年末年始や季節ごとの行事にいつも毎回あけみちゃんとそのお店のお姉さん達が大挙して詰めかけてくれていたので、これまで家族という集団について分量の少なさや役割の不足を感じて『寂しい』という感情を持つような事はなかった。

「そうですか。美月さんが、ご自身が生まれる前後に私がどのように関わったのかというお話でしたら、私の記憶の範囲内でお答えする事は出来ますが、妊娠の経緯やその時の陽子の感情については私の記憶の範囲外です。何しろ私が留学と研究をひと通り終えて現地での学位を取得しドイツから帰国した時に陽子は既に臨月に近いお腹をしていて、婚約者だった方に奥様がいたという事が露見し、その挙句陽子の元から逃げおおせた後でしたので」

「え?そうなの?」

「ハイ。その時、陽子に直接会うのは4年ぶりでしたが、普段は明朗快活な性格の陽子が大変情緒不安定になっていて泣いたり笑ったりしていました。妊婦とはそういうものだと父は平静を装っていましたが、信じていた男に裏切られた挙句棄てられた臨月の娘の行く末を父なりに案じていたようでした。それで私はその時はもう日本での今後の自身の進路を、京都の修道院で黙想の生活を送ると決めていましたが、お腹の赤ん坊が生まれるまで陽子に付き添おうと、そう決めました。そしてまずその婚約者だったと言う男を探し出し、本人に会いに行きました」

「会ったの?その…私の父親だっていう人に」

「ハイ、会いました。相手は陽子との唯一の通信手段であった携帯電話を着信拒否にしていましたが、妻帯者でお子様もあり住所不定という訳ではありませんでしたし、何よりかなりきちんとしたご家庭の出自であったという事でしたので探し当てるのは案外簡単でした」

白菜と水菜とネギを手に取って会計をしながら月子さんは夕飯の献立を考えるついでのようにそんな事を話してくれた。白ネギが簡易に購入できるのは嬉しいものですね、京都では白ネギがあまり一般的ではありませんでしたから。

「それでその人に会って何話したの?文句言ったの?」

「いいえ、相手を詰るような事をしていいのは先方に裏切られた形で1人で子どもを産み育てる事になった陽子だけで、無関係の第三者である私ではありません。私が先方に会って伝えたのはごく常識的な事です。生まれてくる子どもの認知と今後の生活の保障、あなたの養育費です。ただ元々陽子に妻帯者であるという素性を伏せてかつ土壇場になってすべてを反故にして逃げ出すような性格の方のようでしたので、お話をきちんと聞いていただけるように、自宅にあった石油ストーブ用の灯油の入ったポリ容器と、100円ライターをコンビニエンスストアでひとつ購入して出かけました」

「…あの、何の為に?」

「脅す為です。先方の自宅を突き止めていましたので、そちらに訪問するつもりでしたから、門前払いを食う事を想定しての装備です。何しろ相手は成人の男性です。初手から力でドアを塞がれたり、よしんば玄関内に侵入できたとしても話を始めてから即玄関の外に押し出されるとも限りません。お話を聞いていただけなければ自分もろともお宅に火を放ちますと言えば流石にお話を聞いていただけるだろうと思いました」

「だってそんな事して相手に通報されたら月子さん捕まっちゃうじゃない!」

「いっこうに構いません。かつて陽子は自分の内申点を犠牲にして私の高校進学を手助けしてくれました。私はいつかその恩に恩で報わねばならないと思っていましたし、何より私は本来なら太陽のように明るい陽子が傷つき泣いている姿を見るに耐えかねていました。それに先方が通報し私が逮捕されるような事態になれば私は放火未遂ないしは放火の動機を警察の方に聞かれるでしょう、そうすると今度は先方の事情も露見します。奥様やお子様のいらっしゃる方はその事を何より恐れていらっしゃるだろうと、当時の私はそう考えていましたから」

月子さんは今度、八百屋の隣の精肉店で豚バラのスライス400gを計量してもらいながら母のためなら犯罪者になる事を厭わないと考えたという話をした。私はこの人に「見た目は母で内面は祖父」と言う印象を持っていたけれど少し思い直した方が良いのかもしれない。祖父よりかなり思考回路が、何というか突飛で大胆で直情的だ。内申点と逮捕歴を天秤にかけるなんてかなりどうかしている。

「でも、逮捕されてないんだよね、穏便に話をして帰ったんでしょ?」

私はこの元シスターというそれだけでも稀有な経歴の叔母に逮捕歴が無いのかを一応確認した。これ以上属性を増やされると流石に私も月子さんとどう向き合っていいのか分からない。

「ハイ。先方はまず私の姿を見て腰を抜かしていらっしゃいました。その時私も少し頭に血が上っていて忘れていたのですが、私の見た目は陽子と全く同じですので、先方はまず陽子が赤ん坊、即ち美月さんですが、美月さんを産んでそしてその足で灯油のポリタンクを持って自宅に乗り込んできたのだと、そう思われたご様子で叫び声を上げておられました。少々気の小さい方のようでした。そして奥様は当時ご不在のようでしたが、お子様が奥から出ていらっしゃいました、小学校低学年位だったでしょうか、男のお子さんでした。その子を盾にして『陽子赦してくれ、俺はこの家とこの子を棄てる訳にいかないんだ』と仰いました。ご自身が独身であると身分を偽って陽子と子どもを作りそして結婚の約束までされていたのに大変勝手な言い分だと思いまして私は、自分が陽子の双子の妹であることを名乗った上で、であれば陽子と生まれてくる子どもに保障をして欲しいと言いました、認知と養育費です。そうしましたら先方は認知をしてしまうと陽子との所謂不倫関係が奥様とご親戚に露見してしまいそれは大変に具合が悪いと、そう仰いまして一括で養育費を支払いたい旨の提案をされました。その時提示された金額は割と大きな額面でした」

「話し合い、あんまり穏便じゃなかったみたいだね」

「そうでしょうか。それで私はその場で陽子に先方の携帯電話をお借りして電話をかけました。先方が家庭の事情により認知は出来ないが代わりに数千万円の養育費の一括支払いを申し出ている旨を陽子に伝えましたら、陽子はまず私が相手の家に乗り込んで現場にいるという事実に驚いて絶句していましたが、30秒後位でしょうか、大笑いして私にこう言いました『月子ありがとう、もうそれでいいから帰って来て、そんな馬鹿な男の近くにいたら折角の月子の頭が悪くなっちゃう』そうしてこうも言いました『できたらそいつの顔ぶん殴って来て』」

月子さんは相手にその場で養育費一括支払いの念書を書かせた。そして母の指示通り相手の顔を拳でぶん殴ってからその家を後にしたと言う。その後の交渉と手続には間に祖父の手配した弁護士を挟んだので相手に会う事は無かったらしい。月子さんは

「人を殴ったのはあの時が私の人生の中では最初で最後です。暴力は人として決して正しい行為ではありませんが陽子の気持ちが少しでも済むのなら、当時の私はそれで良いと思っていました。美月さんが生まれたのはその養育費の入金のすぐ後です。陽子が自宅で破水して私がタクシーで病院に運びました。陽子は少々ややこしい事情を抱えている妊婦でしたので本来であれば配偶者のみが立ち入る事の出来る分娩室に私も入る事を許可され、美月さんが生まれる瞬間には私が立ち会いました。とても神々しい赤ん坊でした。とても明るい善いものが世界に生まれて来て、そして私の行く末を照らしてくれるような気持ちになったのをよく覚えています」

そう言ってほんの少しだけ微笑んだので、私はなんだか嬉しくなった。これまで母も祖父も私の事を大切に育ててくれていたし、その愛情みたいなものを疑った事はなかったけれど、あともう一人、私の誕生を心から喜んで寿いでいていた人がいるという事実。父親がかなりのロクデナシという事についてこれまで何も思う事が無かったと言うと嘘になる、でもそれを補って余りある存在のこの叔母が私の誕生を心から喜んでいたという事実が、15年の時間を越えて私の前に示された事が、私はなんだかとても嬉しかった。

「その時の養育費で購入したのがあのビルです、陽子は美月さんを産むまではクラブの歌手兼ホステスのような仕事をしていましたが、出産後は自分の店を持ち、同時に家賃収入を得ながら暮らす方が子どもを育てやすいだろうと、あの建物の購入手続きもまた私が実施しました。このような形でまたあの物件の管理に関わる事になるとはあの時は夢にも思いませんでしたが」

そう言って月子さんは、話をしながら歩いてたどり着いたかつての母の店のある、今は私の持ち物になった駅裏の4階建ての雑居ビルを指さした。するとその「空き室あり」の札のかかったドアの前に知らない男の人が立っていてこちらを凝視していた。登山用の大きなバックパックを背負って両手に大きな荷物を持った若い男の人。誰だろう?お客さん?

「陽子さん!」

月子さんの顔を凝視していたバックパックの人が叫んでから月子さんの体を抱きしめるまでその間3秒、バックパックの人は両手に大きな発泡スチロール容器を抱えたまま月子さんの体を抱えて離さなかったので、私はお葬式の時同様、このバックパックの人に事情を説明しなければならなかった。何度も「死」を口にするのはまだ私には少し辛いのだけれど。

「あの、お客さんですか?母は、この店のママだった『陽子さん』はつい3週間前に亡くなりました、この人は月子さんと言って『陽子さん』の双子の妹です、本人ではありません」

「またまた~!」

ああ信じてくれていない、そうだよね、本人と同じ顔の人が目の前にいるのに死んだなんて言われても下手な冗談だとしか思えない。そうしたら、その人に羽交い絞めにされるような状態で抱きしめられている月子さんが厳かに口を開いた。

「事実です。私は陽子の妹の月子です。大変残念な事ですが陽子は死にました、がんです、44歳でした。そして大変失礼ですが、貴方は陽子がかつて婚約されていた方のご子息ではないでしょうか、当時のお父様によく似ていらっしゃいます。ご記憶にありませんか?私は貴方が小学生の低学年の年ごろに貴方のご自宅に灯油の入ったポリ容器を持って押しかけた人間です」

「え?」

バックパックのその人はそっと月子さんから体を離して月子さんの顔を暫くじっと見てから、月子さんの言った事を静かに確認した。

「あの時灯油のポリタンクもってウチに乗り込んで来た方の人?それが陽子さんの妹?双子の?」

「ハイ、お久しぶりです、その節は大変失礼致しました。どういった経緯で貴方と陽子が知り合い、この店の前で陽子の事を待つような間柄になったのかは私には分かりかねますが、私は陽子の妹の月子です。そしてこちらが陽子の娘で私の姪の美月です」

「…こんにちは」

突然月子さんが私に話を振ったので私は一体どういう顔をして何を言ったら良いのか見当もつかず、とりあえず普通に挨拶をして頭を軽く下げた、私はきっとかなりこわばった表情をしていた筈だ。バックパックの人は私の方を向いて少し屈むようにしてから私の顔を覗き込み、そしてとても意外な事を言った

「じゃあ…妹?」

「…違うと思う」

「いえ、美月さんは先方に認知をされていませんので、戸籍の上では兄妹とは言えないと思いますが、血縁の上ではこちらの方と異母兄妹であると言う表現をしても差支えはないかと思います」

母の隠し玉だ。

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