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明日は、続く(Unexpected survivor9)

末娘が笑顔、表情を少しずつ取り戻し始めるのと同時に、彼女は折角病棟の神、師長さんが割り当ててくれた広い個室に居たくないと言い出すようになった。

と書いてはみたもののまだ言葉が出てこない末娘、正確にはそんなことは言葉に出して一切言わない。

でも確実にそう目で訴えてくるようになった。

(このアタシが何故こんなところに蟄居していなくてはならないのか…)

こんなところって言っても貴方、ここはフロアにひとつしか無い個室よ?贅沢なのよ?そう言い聞かせても、そしてベッドの仕切りのカーテンも無い個室、それをさらに見通しが良いようにと居室の2重扉をあけ放ち、そこが廊下の一部であるかのようにして病棟を眺められるような状態にしていても、同じ歳くらいのお友達がすぐそこを歩いていたり、何なら病棟の子ども用のカート、これはよくショッピングセンターにあるポップな車の形をしたもの、それに乗って楽しそうに廊下を行き交う姿を眺めているだけの毎日に末娘はかなり思う所があったらしい。まあそれはそうだろう。普段、自宅に居る時は隙あらば玄関で勝手に靴を履き、そして自分の酸素ボンベを勝手に引っ張りだしてきて

「ソトイコー!」

と言って玄関扉を開けて外の世界に飛び出そうとする3歳児なのだから無理もない。さもあらん、いやしかし落ち着いてくれ。まだ体調が完全に回復できていない幼児の体はとにかく疲れやすいし、あんまり張り切って動こうとすると、その気持ちだけでサチュレーションが急下降して周囲の看護師さんから

「末娘ちゃん、顔色!」

とストップがかかる、そのままお部屋に強制送還。

そして『蟄居』と言うと、この子の執刀医、小児心臓外科医の先生を思い出す。2月の手術直前の外科外来の、ちょっとした世間話みたいな会話の中だったと思うけれど、末娘のまだ見ぬSNSの中のお友達が何人も入院している国内最大規模のこども医療センターの話になった時

「僕も、修業時代そのセンターにいたんですよ。毎日ほんとうに忙しくて、折角病院の窓からその街のシンボルタワーが見えているのに、結局一度もそこにはいかないまま研修を終えたんです。僕は一体ここで何してるのかなあって思いながらずっとその病院のある山の中に蟄居してたんですよ、イヤどちらかと言うと、幽閉かな」

これまで平凡で凡庸な人生を送って来た私からすると、どう聞いてもプリズンブレイクでしかない過酷な思い出を懐かしそうにニコニコと語る先生から出た『蟄居』だとか『幽閉』だとかいう言葉がなんだか妙におかしくて、それをよく覚えている。若き日の先生が蟄居幽閉状態で修業に勤しんだ成果が今日の末娘の命に繋がっているのだから、末娘ちゃんも少しは大人しくしてベッド上安静に勤しみなさいと言っても、3歳児がそんな事、聞く訳がない。

末娘は、長いICU生活で衰弱し四肢の筋力が弱り果てて哀しいくらいに表情を無くした脆弱な生き物から、いつもの我儘でやりたい放題の3歳の娘に戻りつつあった。つい1ヶ月程前は、喉に深く人工呼吸器の管を挿管された状態で補助循環装置と人工透析機に繋がれ、瞬きもしない程深く鎮静されている末娘を前にただ毎日2冊ずつ持参する絵本を、意識の無い本人と同時にそこにいてたまにクスッと笑うICUの看護師さんに向けて棒読みするしかなかった事を考えると。今、末娘のお気に入りの

『ノラネコぐんだんぱんこうじょう』

を母子と共々ベッドに寝っ転がって読み聞かせ、いたずらと言うか、現行の刑法に照らし合わせるとどう考えても窃盗とか器物損壊を働いている「かなりわるい8匹のネコたち」が人様、違うか、工場のオーナーはここではワンワンちゃんと言う犬のキャラクターなのだけれど、そのパン工場に夜中、分かりやすく泥棒ネコなほっかむり姿で忍び込み、適当な材料配分で勝手きままに巨大なパンを焼き、その時にイースト菌を過剰にパン生地に投入する事で、オーブンごと工場を吹っ飛ばすというバイオレンスなネコの物語に声のないサイレント大爆笑を繰り広げてくれる様子は例えようもなく嬉しかった。この『ノラネコぐんだん』シリーズの毎回定番のヤマ場は悪戯なノラネコが引き起こす大爆発なのだけれど、毎回10回はドッカンのページを読まされる。

どんだけ爆発させんねん。

末娘は今、そのドッカンの度に声なく笑う。本当に本当に嬉しい。相対している子どもに表情と反応が無いという事の寂しさは、今回の術後入院で思い知った事のひとつだ。モルヒネやミダゾラムなんかのお薬で深く眠らされている時は勿論、その後の鎮静に関わる薬は全てストップした筈なのにぼんやりと表情で虚空を眺めるばかりだった時期、そこにもし神様が、この場合は誰だろう、日本集中治療医学会の神だろうか、その神が私の元にドクタースクラブか白衣、足元に白いクロックスを引っかけてやって来て

「おまえの子の四肢の自由、言葉、表情、この3つの中でどれかひとつだけを返してやろう」

と言ったらきっと

「この子の笑顔を返してください」

そう言ったと思う。私はこの子が無表情な無意識、そして半覚醒状態の期間、この子の笑顔がずっと戻らないままだったらと思うと、自分のiPhoneの動画の写真のフォルダ内に大量に保存されている末娘の写真も動画も術前の末娘が微笑んでいるものは一切見る事が出来なかった。特に入院の前日、私の母であるこの子の祖母に、幼稚園の入園の為の手提げかばんを作ってねと、本来なら母である私が用意する類のものを「生地も糸も紐も材料は全てご用意し、菓子折りもお付けいたしますので何卒縫い上げてください」と孫に動画でお願いさせるという大変卑怯な手に出たのだけど、その為に取った

「バァバ、フクロ、チュクッテネェ」

「オネガイシマース」

30秒程度の動画の中で、末娘はくしゃみをして、そのくしゃみがおかしいとクスクス笑い、背後にはさっきまで遊んでいたレゴブロックが散乱していて、末娘の頭は寝ぐせがついたまま。ただそれだけのものなのだけれど、私はこの子が笑顔を取り戻す日まで長くそれを開いて視聴する事ができなかった。これがもう二度と戻らない永遠に失われた物なのかもしれないと思うと

『いたたまれない』

その感情の感覚を、現実的な手触りとして初めて知った気がした。そして今回の末娘の入院の少し前、長い入院の後に退院し、それなのに突然亡くなってしまった末娘のお友達のママが

「まだあの子の動画を見る事ができない」

と言っていた言葉の持っている意味合いの更に細かい襞みたいなものを少しだけ理解できた気がした。これは我が子を永遠に失くしてしまったという大きな物語とは比較にならない、してはいけない事なのだけれど。



しかし、日本集中医療学会の神は、何をどう判断したのかそれとも気まぐれか、時間の経過とともにこの子に色々なものを戻してくれる事にしたらしい。その中の1つが食事の嗜好。端的に言うと末娘の偏食が戻って来てしまった。

これについては別に現状維持で良かったのに。

食事を嚥下食から、普通の幼児食に戻した当初は、本人も『食べる事』自体を切望していたのだと思う。幼児食の白いご飯は、朝食だと100g、昼と夜は130g、40を過ぎて胃もたれとすっかりお友達になった脆弱な胃腸機能を持つ母からすると

「これ、多くない…?」

と思ったが、末娘は大好きなアンパンマンふりかけをサラサラかけてそれを全部完食。途中むせたりするので介助者である母は気が気じゃない。それなのに本人は「構わんからどんどん食わせろ」と、これもサイレントで主張する。やめて欲しい。13時間の手術と1ヶ月近いケアユニット入院を経て、ふりかけご飯で窒息もしくは誤嚥性肺炎とかネタが重いにも程がある。普段、自宅でならお椀によそわせるだけよそわせて一口も飲まないお味噌汁も全て飲み干し、緑の野菜だけは拒否したものの、本当によく食べた。だからこれは手術後循環が変わってついでに偏食も治ったのかと思って、密かに執刀医に感謝していた。

先生すごい、心臓以外にも偏食まで。

そんな訳あるか。

自身の突っ込みの通り、末娘のその横綱級の食欲は数日で霧と消え、普段通りの

「ご飯がないならプリンを食べればいいじゃない」

王妃のごとき高慢な偏食っぷりを取り戻した。フランス万歳。

でも、普段昼食の時期に末娘を見に来て下さる言語聴覚士・STの先生にこの王妃の振る舞いについて私が「偏食が治ったと思ったら全然そんなこと無かったです」と苦笑いで伝えると、先生は

「絶食期を抜けて食事が出来るようになった方って、はじめは何でも美味しいって召し上がるんですけど、段々アレは嫌だとかこれが食べたいとか言うんです、いい事なんですよ、嗜好が戻ったんです」

生きることは主張する事で、そして選択できる事、それこそが人が生きている証拠ですよ。そういう意味合いの事を言った。

権利の主張は生きとし生ける人、全てが平等に持っていていいものだ。でも、その生きている証拠が毎度毎度この母が末娘のお昼寝の隙に走る院内のコンビニで、日に数時間だけ帰宅する自宅で、苦労して入手してくる食べ物の中でも、お魚だとかお肉だとかのめぼしい栄養素を横から略奪していくのは、私の生存権の侵害じゃないのか。

お陰で一般の病室に引き移ってから、瞬く間に末娘の体重は元に戻り、私は2㎏痩せた。




そのダイエット生活、ではなくて付き添い入院生活も4月に突入した4日目、イースターの日にそれはやって来た。

4月に入り、PTの先生が『筋電図検査をやります』と言い出した。

それは筋線維から発生した個々の活動電位が容積伝導により電極に到達した時点の活動電位を加算して図として表現する検査。書いていてもよくわからない、一体何なんだそれは。とにかく末娘の場合は下肢の脚の筋肉の要所要所に特殊なシールを張りつけて、そこにある突起に更に端子のようなものを取り付け、被検者である末娘に立位や歩行運動をさせてカメラで撮影し同時にそれをPCで解析するというもの。

「よっしゃ、末娘ちゃん、これから未来くるで!」

その未来っぽいものを連れて来たPTの先生は末娘の足に突然謎のシールをぺたぺたと張りまくり、そこの突起に端子をつけまくり、そしてサージカルテープでぐるぐる巻いた。

そんな未来らしからぬアナログ作業の中、末娘はいつもお散歩に連れて行ってくれるPTチームが一体何を始めたのかと怯えた表情だし、私は普通に困惑したのだけれど、いざ、末娘を歩行器に乗せて歩かせて、その画像をカメラが捉えそれを解析すると、右脚、左脚それぞれの筋肉の動きがまるで心電図のような規則的な波形を描き、それが色分けされた状態でパソコンの画面に表示されている。

「お母さん、コレね、末娘ちゃんの筋肉の動きです。歩行の度に規則的な波形が出るのわかりますか、上が左脚、下が右脚、ここにちゃんと波があるという事は、筋肉が動いていると言う事で、麻痺は無いということなんです」

下肢の大腿、脹脛、内もも、とにかく各部分が色分けされた波形は私にはバイタルモニターの波形的な何かに見えないけれど、リハビリの専門家にはこの上なく嬉しいデータらしい。先生は末娘ちゃんは下肢に麻痺がある訳じゃない、普通に動けるのだと、PTの先生はそれをとても嬉しそうに私に説明してくれた。

「末娘ちゃんは長い鎮静と抑制のせいで筋力が著しく落ちているだけで全然歩けます。僕が保障します。何より子どもですから、回復し始めたら絶対早いです。きっと術前の状態に戻りますよ」

それからのPTチームのリハビリの圧というか熱は凄かったと思う、ある日は寝ている所を

「よっしゃ!末娘ちゃん、今日は下のリハビリセンターまで行くで!」

そう言って昼寝から起きたか起きてないかの状態の末娘をベビーカーに乗せてアダプトし、アレは何と言うのだろう、本来なら大人が乗って立位の練習をする、自動でベッドが垂直に起き上がる大きな機械にのせられて、末娘は困惑と恐怖でサイレントの悲鳴を上げたりしていた。

やめて、泣くとサチュレーションが下がるから。

リハビリチームは『末娘ちゃんは今が伸びしろやから』と言って、入院中に出来るだけの事をしてあげたいと言った。

若いパパ先生と、元はちょっとやんちゃしてましたという風情のお兄ちゃん先生はどこまでもアツい。親である私はとても有難くこの心意気を頂いたけれど末娘には大迷惑だったらしい。その後はすこぶる不機嫌で昼食の後に今後服用する血液の抗凝固薬、ワーファリンの量を調整するための血液検査の結果を知らせに来てくれた主治医の前でも安定の仏頂面を披露し、私は本気で申し訳なかった。

今回の術後入院後半、この主治医は本来のフォンタン手術の合併症とはかなり異なる所、胸水でもなく腹水でもなく、謎の高血圧と発熱、そしてなによりPICS・集中治療後症候群と思われる症状で難渋し、ご本人は小児循環器医の筈なのに、児童精神科、脳外科、画像診断医、各方面に協力を仰ぎならがこちらが申し訳なくなる程真摯に対応してくれていた。影も踏めないとはまさにこの事だと思う。だから先生に感謝してもう少しにこやかにしたらどうなのかと末娘に言い聞かせていた。

「末娘ちゃんの先生は本当に頑張ってくれているんだよ」

しかし、加えてこの主治医は、それは医師としてはとても大切な資質ではあるのだけれど、刺すのが滅法上手くて、末娘が彼と初めて出会った1歳5ヶ月のその日から、病棟にあっては処置室の暴れ馬と二つ名を持つ末娘の採血やルート取りをずっと担当している。末娘の元祖主治医で現外来担当の主治医について「老眼でよく見えてへんから全部俺」とはこの主治医が言った事だ。それで因果は巡ると言うか、育てたように子は育つというか、どうしても嫌われてしまう位置にいる。先生ご本人も

「俺はもうあきらめてるんや…」

と寂しそうに口にする位。病棟でも廊下でも先生に一目会ったその瞬間から、末娘の顔からさっと笑顔が消える。

ただこの先生は諦めていると言いながら暗に諦めていなくて

「どうしたんや末娘ちゃん、何や、午前中にリハビリセンターに連れてかれて、板に張り付けにされた?それはしゃあない、リハビリやもん。頑張って歩いて退院するんや」

そう言って、いつものように末娘の顔を可愛い可愛いと言ってもみくちゃにするようにして撫でつけた。その時、末娘は何の前触れもなく、そして何故か突然の笑顔で

「…ハーイ」

と言った。

「今、ハーイって言いましたね?」

「言うたよね?言ったな!ハーイって言えるんか!」

末娘が世馴れた3番目だなあと思うのはこういう時。術後、笑顔を見せたのはまず執刀医。次に言葉で初めて受け答えしたのがこの主治医。この子は3歳にして押さえどころというものを知っている。世渡り上手か。

でも突然、末娘の口から零れるように出て来た『お返事』を主治医はとても喜んでくれて、そのまま向かいのナースステーションに駆け足で飛び込み、なあオイ、末娘ちゃん喋ったぞ、俺にハーイて言うたぞと言って看護師さん達に自慢するようにして術後初めての発語の事実を伝えていた。この時、日本で『勝訴』という毛筆の半紙が一番似合うのは彼だったと思う。俺は勝った!そんな風に見える後ろ姿を眺める私もとても嬉しかった。末娘の声は長い長い挿管を耐えた所為でかなり小さくて、か細くて、そして掠れていたけれど、この子は言葉を無くした訳ではなかった。

その後の末娘の躍進はもの凄かった。ハーイのお返事の翌日には、担当看護師さんが、末娘がいつも抱いているアンパンマンのキャラクターの小さなぬいぐるみを指さして

「末娘ちゃん、コレ何?何ていうの?看護師さんに教えて?」

そう聞いたら

「…アカチャンマン」

そうちゃんと答えていた。その日、末娘は多分20回はアカチャンマンを言わされていたと思う。相手は先月までPICUで人工呼吸器挿管のせいでしつこく出続ける肺と気管の痰を吸い上げ続け、夜中に起きる謎の痙攣を警戒して注意深く観察し続け、命の危うい時期の末娘を鋭意守ってくれていた看護師さん達。皆、末娘の回復が何より嬉しいと会う度に言ってくれて、ある看護師さんなんか

「もう我が子みたいなモンです」

と言って末娘を抱きしめたりしていた。その娘、もう『娘』と言いたくなる位まだ年若い看護師さんは確か新卒で就職して2年目かそれ位、まだ20代の半ばにもならない年ごろの筈で、私は

「まだ早い、まだ早い」

そう言って笑った。貴方が私の娘でも可笑しくないのにそんな事。

そしてこの頃病棟には、末娘と同じ年ごろのやんちゃな男の子と、一つ下の男の子、あとは皆の人気者の1歳の子が2人、病棟をちょこちょこと。いや2歳と3歳の子はそれこそちょこちょこどころのレベルではない、自身の体に繋がっている点滴台をものともせず走り回っていて、その子達は長い時間をかけてお薬で治療をしなくてはいけない子ども達なのだけれど、病棟に居続ける事で運動能力が落ちないようにリハビリをしている姿が完全に体操教室とかサッカー教室のそれ。担当のPTさんには

「リハビリしてていつか怪我するんちゃうかと心配になる」

そんな本末転倒な心配をされる程、爆走していた。

それに感化されたのか、末娘は4月の第2週目、普通にと言っても、私とPTさんの手を握りながら、そして1歳児が歩き始めた時のようによちよちとだけれど。

歩いた。

歩けるんかい。

その時も病棟の看護師さん、病棟で仲良くしてくれたお友達のママ達は末娘のよちよちとした末娘の歩みを見て喜んで手を振り、当の末娘は得意そうに一瞬私の手を離して手を振り返してよろけたりして、PTさんを慌てさせた。

「子どもは、何が起きるかわからない」

それは今回の末娘の手術後「子どもは体が小さい分、成人より弱い」という意味合いで執刀医から言われていた言葉だ、私も嫌と言う程それを実感していたけれど、この時はPTさんが言ったのは全く違う意味の言葉だ。

子どもは身体回復について、たまに奇跡に近い事を起こす。

もう大丈夫だ、サチュレーション自体は、本来目標としていた90以上には満たないけれど、循環は安定して機能しているし、リハビリはこの先自宅でフォローして行けるだろう。退院しよう。そう判断された末娘は、その週の木曜日、退院のためのカンファレンスを

主治医
担当看護師
医療ソーシャルワーカー
病院PT2名
訪問看護師2名
訪問PT2名
患児親、これは私

を招集して実施する運びになった。末娘を前にした御前会議だ。末娘のように経過観察が必要だったり自宅での医療的ケアのある子には、退院後に訪問の看護師やリハビリが付く、そのための引継ぎ式。そこで、現在の患児の状態、自宅でのケアで注意してもらいたい点、家庭での主たる看護と養育者、この場合は私からの要望等が話し合われる。筈が、日一日と歩行が上達し身体機能が回復して来ている末娘を何とか早期に幼稚園に登園させてやりたいという一心の病院PTが

「もう上限いっぱい、何なら毎日訪問リハビリしてください、今!今が伸びてる時期ですから!」

そう決めてしまって、訪問PTさんも、もう頼りがいしかないと言った迫力の訪問看護のオカアサン達も、末娘の術後の経過を見ながら

「そうよね、そうよね、こんなに頑張ってここまで来たなら、何としても早く幼稚園にね」

と頷いている、ねえねえ皆さん、私の希望は?

という突っ込みは喉の奥に仕舞い、私はリハビリ担当の先生方の親心にも似た末娘への気持ちを有難く受け取った。もう来れるだけ来てください、そしてこのよちよちの歩行を何とかし、座位を長時間保ち、楽しみにしていた幼稚園に行かせてやってくださいと。この件について主治医は

「それでも今年の運動会は走らないほうがええかな。その後もどの程度運動可能かは、よく状態を観察して決めていかんと駄目かやら」

そう言った。でも大丈夫です、何ならこの春中学1年生になったこの子の兄がこの子を背負って走ります。そういう約束なんです。

今回の手術とその後の経過、どこに行きつくのか分からない位難航して迷走した約2ヶ月は何とかゴールであるところを見つけ、これから末娘を助けてくれる人々に次のバトンを手渡す事になった。実は前回も1歳5ヶ月の時に受けた手術の後、運動発達の遅れの為にまだ歩行が出来なかった末娘の歩行訓練を引き受け、今回3歳2ヶ月で受けた手術の後には四肢の衰弱により歩けなくなった末娘の歩行訓練をしてくれたPTの先生は

「歩いて退院してもらう事ができるなんて予想外でした。本当によかった」

感無量という意味合いの言葉を、誇張ではなく100回くらい言った。



そして昨日、末娘は退院した。

退院の日、土曜日は病院の外来も病棟での処置や検査もない日でとても静かだった。末娘は前回の手術の後同様、病棟の自動扉を自分の足でゆっくり歩いて潜り、外の世界に出て行った。

1ヶ月前は命が危ないと言われていた子が、人生3度目の手術を乗り越えて帰宅する後ろ姿を、その日出勤していたチームの看護師さんが皆で見送ってくれた。

「次はカテーテル検査だね」

末娘はこれで全てが綺麗に終わったと言う訳ではなくて、まずは半年か1年後にこのフォンタン手術の評価の為のカテーテル検査、そして節目ごとの検査、多分一生病院とは縁が切れない。思春期になれば説明してやらないといけない大切な事もある。そして直近では服用している薬の関係で好物の納豆と永遠の別れをする事になった。

でもその代わりに、末娘にはまるで実家のように末娘を迎えてくれる病棟と、貴方が親かと思うほど末娘を大切に思ってくれる人が沢山できた。皆、赤の他人だ。小児病棟を出た後、そのまま階下のICUに退院の挨拶をしに行った時もそう。

「あの末娘ちゃんが立ってる!」

「全然ここにいた時と違う!」

「あたしが一番吸引したんやで、覚えてる?」

「あんな状態からここまで回復して歩いて退院するなんて」

私がお忙しいところ大変恐縮なんですが、お手隙の心臓外科チームの看護師さんに一言だけご挨拶したいとICU入り口のインターホン越しにお願いした筈が、チームの看護師さんどころか私は一切面識のない、集中治療部の医師から、お掃除や物品の補充を担当してくれている看護助手さんまで、多分フロア中の末娘の治療に関係した方々がずらりと末娘の顔を見に来てくれて、ICUの二重になっている入り口の前室を大渋滞させることになった。皆、退院用に用意したミントグリーンのワンピースを着てはにかむ末娘を見て、口々に良かったねえと言い、同時に

「子どもってすごいわ」

と嘆息を漏らした。その位、ここにいた時の末娘の状態は重篤だったと言う事だろう。もしかしたら私が聞かされていないだけで、これは奇跡みたいな退院なのかもしれない。


今回、誰よりも何よりも末娘の為に奔走してくれた主治医とは朝、病室を訪ねてくれた時に少しだけ今後の話をした。私がひとつだけお願いしたのは、いずれ今の、末娘が小児病棟に移った当初から担当してくれている外来担当の主治医がこの大学を正式に辞した際は絶対に先生が末娘の外来を引き継いでほしいという事だ。今回初めて1人、単独で病棟の主治医として末娘の術後管理を担ってくれた先生は笑って「絶対そうなると思う」と言ってくれた。

夜勤明けだと言う先生とは、病室でバイバイと手を末娘に手を振らせて割とあっさりとお別れした。けれど病棟を出る直前に退院処方の薬と一緒に手渡された『退院計画書』の備考欄に主治医の最後の挨拶が書かれていた。それに気づいたのはもう3年のお付き合い、ぼちぼち周囲に『ベテラン』と呼ばれ始めている事が重いと嘆いている仲良しの看護師さんだ。

「ここだけ手書きだ!先生がこんな事書くなんてスッゴイ珍しい」

出会って3年、勤めて6年目の彼女はにこにことしてそう言った。

これは、先生の真摯で誠実な末娘と私達家族への気持ちなので、ここに全文を書く事はできない。将来もし末娘が私の元から巣立つ日が来たら、彼女に持たせてやりたい程大切なものだ。先生が書いてくれたその言葉の末尾はこう結ばれている。

『自宅での時間を大切にしてください。本当にお疲れさまでした』

きっとこの『自宅での時間を大切にしてください』という言葉に、これまで本当に色々な子どもを見てきた先生の全部が詰まっているのだと思う。

末娘と同じフォンタン手術を受けた子ども達の予後、それは『不良』だ。良く無い、将来的に何かが起きる。

いずれはこの無茶振りの循環が引き金になり、他の臓器、腎臓や肝臓に負荷がかり過ぎて問題を起こす事もある。心臓自体の不整脈や心不全も当然起こり得る。何より術後の寿命がどれだけ伸びるのか、それはまだこれから答えが算出される未知数のものだ。親の私より長く生きてくれるのか、それとも。だからこそ

『自宅での時間を大切に』

2021年4月。出生から3年4ヶ月、末娘は生まれる前から予定されていた3回目の最後の手術を沢山の人の手から手へ助けられ、満身創痍で乗り越えた。

先の事は誰にも分からない。

それでも、生きていれば明日は続く。

お帰り末娘、長い旅だったね。

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