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ことりと僕とにいちゃんと鳩1

小説です。2万字くらいを何回かに分けて公開していこうと思っています。これがまず1になります。優秀な兄と凡庸な弟の話。長くなりますのでお付き合いいただける方は是非。テーマは何ですかと聞かれなくても答えると『母と言う罪』みたいなものかもしれません、変わるかもしれないけど。

☞1

僕には7歳年上の兄がいる。

僕の希(のぞみ)と言う名前の兄、僕がいつもにいちゃんと呼んでいたその人は、とにかく生まれた時から顔面の構造が際立って美しかった、相対評価で。その顔は父と母、同じ原材料の同じ遺伝子から派生しているはずの僕には本当に全然似ていない。僕の顔面はにいちゃんと比較するととても同じ人類ではないように思えるので詳細に説明したくないけれど、とにかく扁平で地味でその辺に転がっている顔をしている。他人が僕の顔面を評してよく言われる事は

「いとこに似てる」。

親戚の中に一人位はいてその辺の誰にでも見える印象の薄い平均的な顔。それに対してにいちゃんは切れ長の目と形の良い鼻と、少し唇の薄い涼しい顔立ち。それが生まれたその瞬間から完璧なバランスで顔面に配置されていて、にいちゃんが生まれた産院では「こんな綺麗な顔の新生児は見た事が無い」と助産師にも看護師にも産科医にもとにかくその場にいた誰にでもそう言われたらしい。にいちゃんは誕生の初日から退院までの6日間、その先天的に美麗な顔面の為に身内か病院の誰か、とにかく常に人の腕の中に収まっていて新生児用の小さなベッド、コットと呼ばれる寝床に寝ている暇が無かったというのは本人ではなくて母の談だ。それについて僕は兄の乳児時代にはこの世界に存在していなかったので、その真偽の程を判定するのは難しい。でも確かに今、少し色の褪せてきた当時の写真を手に取って見ると、乳児期のにいちゃんはその顔面をおむつのパッケージにそのままプリントして店頭に並べても全く遜色ない顔をしている。神の愛し子。森羅万象の織りなす奇跡、不可抗力の不平等、そういう顔を。

そしてにいちゃんが世界に祝福されていたのはその顔面だけではなかった。美しい顔面の乳児だったにいちゃんはその後、特に僕が物心ついて記憶している小学生の頃から、何をやらせても隙なく優秀な、英明で機知に富んだ怜悧な少年だった。例えば年長児から小学校4年生まで通っていた珠算教室では珠算の1級の検定に誰よりも早く合格し最終的に暗算の4段を満点で取得して地方新聞の地域欄に小さく掲載された。3歳から習っていたピアノは他の生徒の追随を許さない速度で教則本の類をすべて修了し、小学校5年生の発表会ではリストのラ・カンパネラをひとつのミスタッチも無く完璧に演奏した。昭和の中頃から存在している老朽化が進んで外壁に枯れた蔦の絡んだ地元の市民会館は発表会のその日、小学生とはとても思えない緻密で機械のように正確で、それでいて哀しい音色のピアノを奏でるたったひとりの少年によって5分間だけニューヨークのカーネギー・ホールになった。聴衆からはスタンディングオベーションが巻き起こり、それを受けてステージ上で深々とお辞儀をするにいちゃんを見ていた僕はその時まだ4歳だったけれど、檀上の清潔な白いシャツを着た11歳の美しい少年が自分と同じ父と母から派生している生き物だなんて全然想像もつかない、例えようもなく神々しい存在に見えた。それから所属していた地域の少年サッカーチームではセンターフォワードで1回の試合は必ず3得点を決め、小学校のクラスでは毎年必ず学級委員長を務め、高学年になってからは児童会の役員になり、そしてその属性をもっていつもクラスの女の子たちに囲まれていた。

それは、にいちゃんがとても美しい少年で、持ちうる能力の全てがレーダーチャートの多角形をすべてはみ出す位に平均値をはるかに超えて優秀であることに加えて、小学生というものは大体ある学年から上になると、女子と男子の二元論的断絶が教室を分断する時代が来る。でもその時期がやって来ても、にいちゃんは女の子に対して決してミソジニスト的な差別発言も子供じみた悪戯も一切、何一つすることは無かった。と言うよりその概念自体がにいちゃんの完璧に美しい世界には存在していなかったのだと思う。にいちゃんは、自分の周りにいる女の子が学校の廊下を通る時には必ず道を譲り、自分が一足先に教室に入る時にはドアを開けて背後の女の子を先に通すという行為を至極自然に、先天的に身に着けていた。だから当然、校庭の桜の木の陰で座って体育を見学する女の子達の体調不良の理由を詮索したり、更にはからかい揶揄するなんて事をする筈もなく、それどころか軽い貧血を起こして立ち上がれないでいる女の子の手を取ってそのまま保健室にエスコートするという行為が息をするかのようにごく自然な態度できる子どもだった。それはまるで生まれながらの王子様であるかのように態度が優雅で優しい、その見た目を含む能力値が他と比べて破格に高い事を自らも密やかに自負していながら、それでいて一切の尊大さのない、そして誰に対しても分け隔て無く優しい、にいちゃんはそういう少年だった。

だから、だれもにいちゃんを悪く言う人はいなかったし、周囲の誰もがにいちゃんの事を好きだった。

もちろん、僕自身も。

でも、それと同時にあまりにも容姿端麗で文武両道で、世界の調和の光の中心にいるよう人間であるにいちゃんが『兄』と言う僕の人生の中に動かしがたい存在である事は、僕にとっては羨望とか敬愛とかそういうものの対象であると同時に、僕の中に、にいちゃんの中は多分塵程も存在しない精神的な腫瘍のようなものを密かにそして確実に内包させてそして肥え太らせる結果を産んだ。

卑屈という奴だ。

僕はにいちゃんとは顔面の構造に似ている所なんかひとつもない上に、だったら内面の能力値だけでもにいちゃんを模倣させようと目論んだ母によって、にいちゃんと全く同じことをやらされたけれども、ピアノはバイエルを這う這うの体で終わらせ、その後ピアノ教師の厳しさに根を上げて通わなくなった。微細な事に過度に神経質に厳しい先生の『手の中に卵が入っているように弾なさい』と言う言葉の意味も理由も毎回僕には全然分からなくて、それを忘れて鍵盤に平たんにぺたりと指を乗せるたびに手の甲をぴしりとやられるのに耐えかねた。それに僕はピアノじゃなくてギターがやりたかった。でも勿論そんな事が母に聞き入れられる訳もなかったし僕にはそれを主張することすら出来なかった。あとサッカーチームは僕自身のあまりの覇気の無さに「ちょっとウチは向かないのでは…」と入団自体をコーチに柔らかく拒否され、にいちゃんのお下がりの検定合格のシールでもう木枠が見えなくなっている算盤を持って通った珠算教室も見取り算がとにかく苦手で3級を合格してから上には進めず、それで僕は中学入試について本格的に考えないといけなくなる小学4年生の頃には、母から深いため息とともにこう言って引導を渡された。

「もういいわ、あなたにはがっかりした」

母は僕を産んで育てて約10年でにいちゃんに続く2人目の神童にするという大望を完全に諦めた。でもそれは仕方がない事だ、僕は凡庸で平凡で際立ったところの何ひとつない人間なのだから。それで母は僕に勝手に期待して勝手に落胆して勝手にあきらめた挙句、多分中学生位から今日に至る迄僕に対して製造責任者としての最後の矜持なのかそれとも諦観なのか何かの呪いの呪文のように「せめて何とか人並みの人間になって頂戴」とだけ言い続けている。

母の言う『人並み』って何だろう。

それで僕はにいちゃんと並んでいると、親以外の他人にもよくこう言われていた。

「…まあ、希君とあなたは、兄弟だけど、全然似てないわねえ」

この場合、言葉の一番初めにつく「まあ」と言う感嘆詞の成分は80%が憐憫であとの20%は落胆だ。あくまで性格に劣等意識の成分の強い僕自身の主観だけれど概ね間違ってはいないと思う。『あの』希君の弟がどんな子かと思って期待していたけど、なんだか普通ね、むしろ地味ね、これだとお兄ちゃんばかりが目立って可哀相ね、ご両親はこの子と希君を心から分け隔てなく育てたりできるのかしら。

そういう相手の心の声が、そのまま僕の脳内に明確に明瞭にはっきりと聞こえてくる。本当によけいなお世話だけれど、でもその心配というか憶測はとても的を射ている。

両親は、特に母は、にいちゃんをまるで自分の分身、いやそれ以上の存在として溺愛していた。にいちゃんは、母以外の全他者に対して、母が優位性を保つことのできる母の大切なパーツであり、母の中では兄と母がひとつの塊になってその自己同一性を作り上げていたのだと思う。母の顔面のパーツはにいちゃん程完全なバランスで配置はされていないものの、それらをバラバラにしてにいちゃんのものと並べた時それは母の遺伝により形成されている事は明白で、そしてそれが母にとって、にいちゃんと母自身との境界をより曖昧なものにさせてしまったのだと思う。少なくとも僕はそう思っている。そして母からすると凡庸を溶かして煮詰めて固めたようなつまらない存在である次男の僕は、母自身の顔面のパーツには自分に似たところなど1つも無い、結果にいちゃんにも少しも似ていない見た目で、そして内面も普通に平均的で平凡で、それは母自らも内包する凡庸な部分、母は認めないだろうけれどそんな所をそのまま映している鏡みたいな存在だったのかもしれない。母は特別に優秀な息子、にいちゃんの母親である事以外は特筆するべきことのない人間だった、にいちゃんに顔や指先など細部のパーツが似ていても、その見た目は人がはっとする程美しい訳でもなく、母の父親、即ち僕の祖父は大工をしていて特別裕福でもない普通の家で普通に育った人だ。そのせいなのか、僕は、母にとっての失敗作だと断定され、何となく見捨てられてからは、とにかく普段の生活の中ではあまり眼中に入れたくない存在になってしまったようだった。

だから少年時代、自分の家庭内の立ち位置をはっきりと把握してから僕は自分の内面をだんだんと劣等感とか卑屈に侵食されていった。というよりその感情を中心に自分の内面が構成される以前の僕を僕はよく思い出せない。現代の口語表現に即して表現すると僕は物心ついた頃から「クソ可愛くない子ども」だった訳だ。覇気はなく、人生の大部分を諦観し、最低限の事だけをこなす。僕の口癖は

「どうせ無理やから」

でもその、あまり無辜とも無垢とも言い難い後ろ向きで暗い性格的傾向の僕を清浄で正しい世界に繋ぎとめていてくれたのは、その僕を卑屈な人間にした根本原因でもあるにいちゃんだった。

あれは多分、にいちゃんが中学入試の直前の頃、僕は幼稚園の年中児でそのクリスマス会があったから僕が5歳の12月だ、園長先生の演じるサンタクロースが園児ひとりひとりに駄菓子の詰め合わせを配ってくれて、それを家に持って帰って来た日、僕はその袋の中の普段は絶対母に買ってもらえないような極彩色の駄菓子類中にあった1本のうまい棒を真夜中に自分の布団から這い出して、机に向かって過去問題集を解いているにいちゃんにそっと差し出したらしい。

「にいちゃん、これすき?あげる『ちゅうがくにゅうし』いやだけどがんばって」

「らしい」というのは、僕がその事を曖昧にしか覚えていないからだ。多分そのたこ焼き味のうまい棒が好きではなかったのだと思う。あの派手なイラストのプリントされたアルミのパッケージが5歳の僕の目には毒々しいものに映ったのかもしれない。それで僕はにいちゃんにどこかで聞き覚えた入試激励の言葉と共に毎日遅くまで、当時4歳児だった僕が存在すら知らないような時間まで受験勉強をしていたにいちゃんに手渡した。そうしたら

「え?いいの?ありがとう。大事に食べるわ」

みいは優しいな。

そう言って弟の僕に感謝の言葉と共に文字通り輝くような笑顔を僕に向けてくれた。その笑顔だけは今もよく覚えているその時僕が「にいちゃんは本当にきれいな顔をしているな」と思ったからだ。その何年後か、多分僕が小学生の時だ。その時は何でそんな話になってしまったんだろう、それは忘れてしまったけれど僕があの時あげたたこ焼き味のうまい棒の話を「みいは覚えてないかもしれないけど」と言いながらにいちゃんは持ち出してきて

「みいが生まれた時から、みいの事を世界で一番大切な弟だと思っていたけど、あの時から僕はみいのことをこの世で一番いい子だと思ってる。みいは、本当に優しい」

たった1本のうまい棒でそんな風に評してくれた。その時僕はなんだかにいちゃんが僕を「この世で一番いい子だと思っている」。そう言ってくれた事が僕の中で動かしがたい真実で真理であるように思えてとても嬉しかった。僕のちいさなちいさな自尊心が1本10円の駄菓子をきっかけに構築されているのかと思うとかなりチープな話だと、自分でも思う。でも僕は劣等感を劣等感として、卑屈を卑屈として自分の体内に飼いならしながら、それでもにいちゃんにとってはにいちゃんの言う「いい子」でいたいと思った。

僕が、あの何処からどう挑んでも爪ひとつ引っかけることのできない完全無欠の兄を持ちながら、そしてそのにいちゃんの傍らに立ち「あなたはお兄ちゃんと本当に全然違うわね」と創造主である母親に1日1回はそう言われながら、ご立派とは言えないまでも特に自暴自棄になって犯罪に走らず、自らに絶望して首も吊らず、地味で凡庸で欠けだらけでもそれなりに普通の人間として成長できたのは、僕を「いい子」「世界一可愛い弟」だと言ってずっと優しく接してくれていたにいちゃんのお陰だと思っている。

僕は、僕を一番大切だと思ってくれたにいちゃんを裏切りたくない。

僕の名前は汀(みぎわ)と言う、水と陸地の接している水際の事だ。にいちゃんの明るい光を思わせるきぼうの希(のぞみ)とは何か全然趣を異にした名前。この世にあるものの際、世界の境目、でも何といっても『閾値』という意味だと、僕は思っている。

要するにギリギリの際だ。

☞2

小学生時代を神童の名をほしいままにして過ごしたにいちゃんは、思春期を迎えて本来なら男性ホルモンが少年の体内で仕事を始め、美しい少年だったものがただの男くさいごつごつとした野趣あふれる生き物になる時期が来てもずっと美しいままだった。むしろ身長とそれに合わせて手足がすらりと伸びて、そのころ中年期のど真ん中だった父のように醜く太って膨らむような事など一切無く、その父が30年超のローンを組んで購入したそう広くもない分譲住宅の自宅の鴨居すれすれまで身長を伸ばし、時に少女にさえ見えた不思議に中世的な少年の華憐さを脱ぎ捨てて、清廉で精悍で清潔な、そして美しい青年になった。

にいちゃんを溺愛していた母は、その少年から青年に脱皮するにいちゃんの大切な時期を過ごす場所としての中学と高校を地元の公立校には一切求めず、自宅から電車を乗り継いで1時間半かかる京都の私立の男子校にすると一方的に決定した、異論など許されない。東大進学率が関西随一だというその学校は確かに僕達の家から通学可能な範囲の私立中学では最高難度で、僕達の住む関西のベッドタウンという名の牧歌的で中途半端な里山にある田舎の小学校からそんなところに進学する子どもはにいちゃんの前にはひとりも存在していなかった。そしてそれが母をよりにいちゃんの中学入試に駆り立てたのだと思う、自分の分身である息子が、他の追随を許さないゆるぎなく優秀で周囲の羨望の的となる存在になる事を母は切望していた。

でも当のにいちゃんは、そんな事は全然望んでいなかったようだった。

「僕はみんなと同じ近くの市立中学に進学したい、サッカーのチームもやめたくないし、小学校の友達と別の中学に行くなんてイヤだ」

にいちゃんはそう言って母に中学受験、そのこと自体を再考してほしいと主張した。確かにいちゃんが5年生になってすぐの春、学校から塾に行くまでの夕方と夜の間の時間の事だ。にいちゃんが母に意見するのはとても珍しい事だ。でもその主張はもっともだった。にいちゃんにはとても沢山の友達が、特に女の子の友達が沢山いた。女子だけの赤いランドセルの集団の中で1人だけ、黒いランドセルを背負ったにいちゃんがそこに混ざって楽しそうに田んぼのあぜ道を歩いて帰って来るのを僕は何度も見た事がある。僕がにいちゃんを見つけて自宅の庭からぴょんぴょん飛び跳ねながら手を振ると女の子たちは「希の弟?ちいさーい、かわいーい」と言ってにいちゃんと7歳の年の開きのある僕の小ささを愛でた。にいちゃんはサッカーチームで泥だらけになって男子とグラウンドを駆けまわるようなこともしていたけれど、普段は男子といるより女の子といる時間の方が長かったように思う。僕はその当時はまだ幼稚園児で、それが高学年の男子では少し珍しい事であるとか、もしくは特別な事であるとか、そんな事を考える年ごろでもなんでもなくて、ただにいちゃんが僕に優しく手を振ってくれて、その周りにある赤いランドセル達もまた、にいちゃんの付属品である僕にとても優しい態度で接してくれる事が嬉しかった。

そんなにいちゃんの主張を母はこう言って一蹴した。

「あのねえ、希はまだ子どもで何もわかっていないの。貴方がすぐそこの市立中学校にこのあたりの普通のつまらない子達と一緒に進学してそれでどうするの?希は去年の春に塾の入塾テストを受けた時にね、ホラ、今の特Sクラスの先生によ?『この子、何か特別な事をさせていましたか?もしかしたら他塾からの移籍ですか?違う?いやでもとんでもない点数ですよ、とにかく灘でも東大寺でも、ああもし関東に足が延ばせるなら開成とか麻布だって目指せる頭です』って仰ったのよ、貴方は自分がもったいないと思わないの、こんな中途半端な田舎の中学校に行くなんてこと」

それに今日一緒に帰ってきた女の子、あの中に駅前の飲み屋の子がいたでしょう?お母さんしかいない家の子、あの髪の長い子よ、長く垂らしたまま結びもしないで…ああいうだらしないお家の子とは付き合わない方がいいわ。母はにいちゃんの友達の中でもひときわ僕に優しくて背が高くて元気で『みんなのお姉さん』みたいな赤いランドセルについて、その子の家の事情まで持ち出してにいちゃんに忠告した「あの子は駄目よ」と。母はこういう他人の、当人の努力ではどうしようも無い事を悪しざまに言う時とても生き生きと目を輝かせる種類の人で、それにどういう訳なのか他人の家の事情や家庭内に発生しているちょっとした問題や事情を公安を思わせる程の調査力で調べて知り尽くしていた。それに対してにいちゃんはこの時、当時幼稚園児だった僕が覚えている位だからとても珍しく、母に口答えをした。

「僕の友達の事を悪く言わないでほしい、駅前でお店をやってる事の何がそんなに悪いのか僕にはちっともわからない。それに僕はそんな男ばっかりでしかも知っている子のひとりもおらん学校なんか嫌や、受験なら高校受験があるし、中学はすぐそこの市立中学校に行って、それで高校で公立を受験してみんなと東高に行く。僕はここのみんなと同じようにしたい。それがどうしてもだめだと言うんやったらせめて京都でも共学の学校を受験させてほしい、志望校の選択権は僕にあるべきやと思う。だって僕が通う学校なんやから」

にいちゃんの言った事は至極当然で、まともな親なら、いつもは周囲の大人に対して子羊のように従順なにいちゃんがこうまで言うのだから、にいちゃんと一緒に志望校を再考するかもしくは本人が3年後の高校受験に粉骨砕身努力すると約束するなら、一度受験自体を止めるという選択肢だって出てきたんじゃないかと思う。

『まとも』な親なら。

「じゃあ何?希はお母さんが間違ってるって言うの?お母さんはね、貴方の為を思って言っているの、あんな平凡でつまらない女の子達と一緒にすぐそこの市立中学に入ってそれから近くの大した進学実績も無い公立高校に進学してみんなと仲良く3年間を過ごしてそれで貴方の人生に何があるって言うのよ、せっかくお母さんが毎日学習塾に送り迎えしてあげてそれで土曜模試だって判定模試だって日曜特訓だって、毎週毎週…全部、希の為なのよ!」

大体貴方は自分が勿体ないと思わないの!母は顔をみるみる真っ赤にして声を震わせながら叫び、手に持っていたコーヒーカップを中身もろとも床に叩きつけた。

「貴方の為にお母さんがこれまでどれだけのことをして来たと思っているのよ!」

(いや頼んでないし)

うっかりそんなことを言おうものなら僕達は今頃、生きてはいない。

母は自分の中に思い描いたシナリオがその通りに進まない事に対して常人では考えられない程激しい拒否反応、精神的なアナフィラキシーショックと言って良い程の突発的で発作的な状態を引き起こして、子どもを殴る事も僕に限っては割と頻発した。一度なんて包丁の背の部分で顔を殴られた。あれについては相手が僕だけに割と明確に殺意があったのかもしれないと思っている。にいちゃんについては元々母のシナリオ以上に優秀で、そして母に対しては子羊のように従順だったのでその手の事態はそう頻発しなかった。それでも年に何回か、にいちゃんが珍しく母の思い通りの結果を導き出さなかった時には、その大理石の彫刻のような白くて美しい顔面に傷を少しでもつける事がないように細心の注意を払って、本人ではなくて物に当たっていた。それも本人の目の前でこれ見よがしに。この日は母が洗い物をした後に几帳面に拭き清めて食器棚の一番上の段に仕舞う筈だった食器類が軒並み犠牲になった。ウエッジウッドのコーヒーカップ、ソーサー、イッタラのプレートとサラダボウル、アラビアのケーキ皿、そのそれぞれが5客、5枚にセットになったもの、それとやたらと透明なクリスタルのグラス類、それは母が自宅に知人や友人を招く時にだけそこから出してくる特別な什器で、多分値の張るものばかりであるそれを次々に床に叩きつけては割った。

「どうしてお母さんのいう事が聞けないのよ!全部希のためなのに!」

母が絶叫に近い大声をあげながら次々に粉々にしていくその色とりどりの陶器や、調理器具、そんなものが僕に飛んで来て僕が怪我をしないように、にいちゃんは僕達の家の中で偶に起こるこの脅迫的で間接的な暴力行為に母が及ぶ時には僕を抱き上げて母に背を向け、僕を守ってくれていた。にいちゃんはもうこの年頃にはこの母の発作的感情爆発の際は、母に何を言っても無駄で、一通りの破壊行為が終わった後、興奮で息を切らせている母に

「ごめんなさい、お母さん、僕が間違っていました」

謝罪をした上でその言い分を聞き入れなければ、この世界が破綻するまで母が暴れ続ける事をよく知っていた。でもこの日、母の破壊行為が開始された時、僕がにいちゃんとほんの少し離れた場所に居て、にいちゃんが僕を抱き上げて背中で陶器の破片の飛散を防ぐのが遅れた。と言ってもそれはほんの数秒の間、僕がその皿とグラスを次々に床に叩きつける母を茫然と見上げている時に、母が叩き割ったクリスタルのグラスの破片が僕の右の目尻をかすめてそれが僕の皮膚に傷をつけた。僕は目尻に鋭利な何かが飛んできて皮膚を割き、そこから出血した事に驚いて悲鳴を上げて泣き出し、それを見たにいちゃんは蒼白になった。あの時にいちゃんは僕が眼球から出血していると思ったらしい、それで

「分かった、分かりました。中学校はお母さんの言う所を受けるから、それよりもお母さん、みいが怪我や、右目から血が出てる、早くお医者さんに連れていかないと!」

そう叫んだ、顔面の切り傷は、傷の割に派手な出血がある。それを見て僕の右目が見えなくなってしまうかもしれないと思って慌てたにいちゃんは母に破壊行為を中断して即座に病院に運ぶように懇願した「ごめんなさい、お願いします」と言って。でも母は大体の洋食器を割り終わって次に伊万里の大皿を持って振りかぶった状態でこう言った。

「そんな事どうでもいいわよ!」

僕はその時、にいちゃんにしっかりと抱き上げられた状態で、鋭利なガラスに目尻を切られた痛みと何より出血している事実に驚きしゃくりを上げながら、それでもにいちゃんが小さくつぶやいた言葉を聞き逃さなかった。

「…何言ってんだこのクソババア」

にいちゃんは伊万里の大皿を床に叩きつけている母を置いてその場から離れ、玄関で靴を履いて家を出て近所のじいちゃんとばあちゃんの憩いの場になっている外科医院に急いで僕を連れて行った。その時僕の怪我の理由はこう偽った。

「弟が台所で遊んでいて転んでコップに顔をぶつけました」

これに関しては家から5分程の外科医院までの道のり、もう遠くの山の際に夕日が沈んで茜色に染まった草だらけの田舎道を僕を背負って、少しよろけつつそれでも懸命に速足で歩いていたにいちゃんが僕に

「みい、その傷は『お母さんが床に投げて割ったコップの破片が飛んできたから』だって事は他の人には言わない方がみいと僕の身の為やねん。みいはにいちゃんの言う通りにできる?」

そう言ったので僕はにいちゃんがポケットから出してくれたアイロンのかかった白いハンカチで目元を抑えながら何もいわずに頷いて、外科医院の、歳のせいで少し手の震えの来ている爺ちゃん先生に消毒されながら傷口を確認され「コレ縫うほどじゃないなぁ…」という独り言みたいな診断とともに大きめの絆創膏を張ってもらっている間に余計な事は何も言わずに

「にいちゃんがこんなに青い顔して心配してんねやから家の中でふざけたらあかんなあ…まあ男の子はちょっとくらいやんちゃな方がええけれども」

という爺ちゃん先生の独り言みたいな訓示に「ウン」とだけ答えた。診療代は後から母が持ってきます、それでもいいですかとにいちゃんが言い、それに対して特に表情を変える事も無く、別にかまへんでと言ってくれた爺ちゃん先生にお礼を言って僕達が診察室を出ると、待合室には何事もなかったかのように母がきちんと化粧をして髪を整えて上品な小花柄のワンピースに着替え、にいちゃんの通塾用のリュックサックを持って機嫌のいい笑顔で僕達を待っていた。

「お兄ちゃんダメじゃないの、勝手に汀を病院に連れて行っちゃあ。待ってなさいね今受付でお金を払って来るから、もう塾の授業まで時間がないから今日は外でご飯にしましょうね」

ファミレスに連れて行ってあげるから待ってなさいね。そう言ってあまりにも完璧に優しく微笑んだ母にはさっきの鬼の形相で手近にある食器を全て完膚なきまで粉々に割り続けていた残滓は何一つ感じられなかった。多分この時、自宅で木端微塵になっていた陶器類はきれいに集められてゴミ袋の中に収まり床は掃き清められて跡形もなく片付いていたはずだ。そしてにいちゃんはその母が受付に向かう背中を強い目つきで睨みつけながらもう一度小さくつぶやいた。

「…クソババア」

美しくて高潔なまでに心が清らかに優しくそつが無くてそして何よりも頭脳が明晰なにいちゃんは実のところ母の従順な子羊なんかでは全くなかった。

でもその全容は、ずっと後になって分かる事だ。

☞3

にいちゃんが13歳になる年の春、もともとそういう筋書きがあったかのように、自然の摂理と言うか、至極当然の結果としてにいちゃんは母の選んだ京都の私立中学校に合格しその学校に通い始めた。不合格なんていう事態は不慮の事故とか晴天の霹靂的な突発事件でもない限り起こり得ない事だった。万が一そんな事が起きれば、その事態に激怒した母によって今度は自宅の壁が破壊されるかもしれないし、もっと言うと家庭内で殺傷沙汰が起きかねない、そうなったら多分死ぬのはにいちゃんではなくて僕の方だろう。だからにいちゃんは適当に答案を書いてそれを学校に提出して消極的に、かつ意図的に入学を辞退するという方法を取る事ができなかった。

「そんなことになったら僕もみいも庭に埋められるぞ」

受験の当日、試験会場である中学校から帰宅し自己採点を終えて「普通に受かるよ」とつまらなそう言って鉛筆を机の上に放り投げたにいちゃんは無表情だった。にいちゃんもまた、僕がいつもにいちゃんの付属品として巻き添えを食ってしまう存在なのをよくわかっていた。だからにいちゃんは母から与えられた課題をひとつとして落とすことが許されていなかった、弟である僕を守るために。

にいちゃんの受験が佳境に入る頃の僕は、母の視界に全く入らない、例えば家の障子の桟の1本とか玄関の敷石の1つみたいな扱いを受けていて、中学受験直前の1月上旬、にいちゃんが母の厳密で厳格な健康管理の元、咳のひとつ、鼻水の一滴も許されないという厳戒態勢の中、その母の視界からすっかり取りこぼれていた僕は、うっかりその時期幼稚園で流行っていたインフルエンザに罹患した。それだってにいちゃんが「みいの顔なんでそんなに赤いの?」そう言ってから発覚したことだ。僕のインフルエンザ特有のあの高熱に発狂した母は、にいちゃんがそれに感染することを恐れて、僕を納戸に押し込んだ。僕は窓もない狭い納戸に布団と毛布をあてがわれて3日3晩監禁されるという、多分にいちゃんがこっそり通告したら児童相談所の人が僕のことを保護しに来てくれそうな事態が起こり、いつもならそういう家庭内の事件に際しては、にいちゃんがあらゆる手段を講じて僕を助けてくれるのだけれど、何しろこの時はにいちゃんと僕は近づく事さえ母の厳しい監視によって制限されていて、流石のにいちゃんも僕を穏便に救い出す事は出来なかった。せいぜい夜中母の目を盗んで会話をしに来てくれる位だ、受験を大詰めにしたその時期、母のにいちゃんへの監視の目はとても厳しかった。

「みい大丈夫か、ごめんな、にいちゃんが中学に受かりさえすればあと6年はこんな事はないからな」
「なんでろくねんなの」
「だってその後に大学受験がある」
「にいちゃんたいへんだね」
「いや、どっちかと言うと大変なのはみいのほうやで、ごめんな。ホラ、つめたいの。おでこに貼って」

夜中こっそりと自室を抜け出して僕を見に来たにいちゃんが相変わらず優しく僕の汗ばんだ額をごしごし服の袖で拭いてから冷えピタを這ってくれて、それから冷蔵庫からこっそり持ち出したヤクルトを飲ませてくれた事が僕は嬉しかった。

でもそれも全て合格発表の日、京都の広大なお寺の中にあるその私立男子中学の校内に無関係な人間には数字の羅列でしかない合格者の受験番号の発表、そこに、にいちゃんの受験番号が燦然と掲示されたその日、すべては甘美な思い出になった。

勿論母にとってはだ。

そして、にいちゃんは合格発表のその日、掲示板で合格を確認してそのまま入学手続きの為に学校の事務所で母が貰って来た入学手続き書類の分厚い束の中にあった「学校の決まり」を読みながら深いため息をついて僕にこう言った。「みいに言っても仕方ない事なんやけどさあ…」

「あの学校な、入学したらやっぱり『頭髪は刈り上げ、または坊主頭』なんやて…ホンマなんかの冗談やって言ってほしいわ…僕もう死にたい」

にいちゃんは両手で顔を覆った、実のところにいちゃんが母がどうしてもと言ったその中学校を受験したくなかったのはこれが一番の原因だったらしい。実際にいちゃんはその中学校よりも少し通学時間はかかるけれど、自由な校風で医学部進学率の高い別の男子校に志望校を変更したいと最後まで粘っていた、でもそれがいつしか母の怒りに触れて食卓の椅子が2つ破壊され、その様子におびえた僕が泣きすぎてひきつけを起こした日にそれを諦めた。母はどうしても『東大進学率』にこだわりたかったらしい。母は分かりやすい謳い文句、単純でキャッチーな文言が好きな人だった。

当時も今も、にいちゃんは少しも癖のない少しだけ茶色味がかった、真っ直ぐでさらさらとした綺麗な髪をしていて、男の子にしては少し長めの頭髪をしていた、それを刈る事が辛いと言って涙目になっていたので僕は「にいちゃんのかわりにぼくが坊主になろうか」と提案してみたものの、にいちゃんとは見た目が似ても似つかない、年齢は7歳差、そして身長に40cm近く開きの在る幼稚園児の弟の僕が替え玉で坊主になったところで何がどうなるものでもなく、にいちゃんは春休みに「今日世界の終末が来て僕らがは裁きの業火に焼かれます」とでも言いたげな顔をして近所の床屋で坊主頭になった。その床屋の『先生』であるおばさんはにいちゃんの友達の赤いランドセルのうちの1人のお母さんで、にいちゃんの頭髪を刈る際に

「なんか女の子を丸刈りにしてるみたいやねぇ…」

早々に学校の校則変わるといいねえ、なんだかごめんねえ希ちゃん、でもホラ希ちゃんはどんな髪型でもオトコマエやから。そう言ってにいちゃんを慰めた。丸刈になったにいちゃんは自分のことをため息とともに「特攻隊」と呼んだ。実際、その中学校の制服は濃紺の学ランに金色のボタン、ご丁寧に制帽までついていて、窮屈そうな襟元に校章と学年のピンバッジをつけると確かに僕があまり興味を持てずにこっそり枕や積み木にしていた『日本の歴史』の本に書かれている特攻隊員の少年のような痛々しさがあった。鹿児島の知覧から彼岸に飛び立ったずうっと昔の少年達。にいちゃんの顔面が丁度少年から少し青年に変わる頃の微妙な変化を帯びていることもまたその雰囲気を助長させていたし、事実にいちゃんは母の希望を具現化して特に行きたくもない京都の中学校に進学する事で家庭内の平穏を保ち、結果的に弟の僕を守る特攻隊だった訳で、それはとても穿った表現だった。

しかも、この時にいちゃんが合格していたのは、進学先となった特攻隊の中学ひとつだけではなくて、塾の先生に「こちらで受験料と交通費はすべて持ちますから」と言われて、第一志望だった中学と受験日程の被らない西から鹿児島、奈良、大阪、東京まで、各地域の難関中学を軒並み受験してそれらをすべてパスしていた。すべて遍くオール合格。そんな事はその学習塾では開業以来の出来事で、それはとんでもなく母を舞い上がらせた。にいちゃんの合格の通知が次々に舞い込んだその年の1月の末から2月の上旬、母は何をしている時間よりも電話口で知人親戚にその報告と言う名の自慢話をしている時間の方が長かった。僕はその母子の受験の旅の間、僕の保護者のひとりであるはずの父が「俺は汀の面倒なんか見れないよ」と主張して僕の育児全般を完全に放棄したので、大阪で1人暮らしをしている母の父の元に預けられた。父もまた夫婦の間の特別に優秀な遺伝子だけを抽出して形成された自分の1番目の息子にのみ興味をもっていて、それ以外の付属品については特に何の興味も関心も無い人だった。と言うより家庭の大体の事に無関心で、母が負担から加虐的な態度で自分の子ども達に接している事についても全く無関係の第三者を貫き通していた。多分母が何かの拍子に怒りに任せてうっかり僕を殺してしまってその果てにこっそりと庭に埋めても、何も気づかないふりをして消極的な隠蔽に協力したと思う。僕は父のそんな態度について、当時から今まで怒りも呆れもすべてが自分の意識の遥か遠くを通り過ぎ、ただ『お見事』だと思っている、悪い意味で。

その各地の名門中学をひとつも落とさずにすべて突破したにいちゃんが、母が切望した中学に、まっさらに新しい制服と特攻隊を思わせる坊主頭で通学する姿はその春の母を最高に満足させた。母は毎日上機嫌でにいちゃんを駅まで車で送り、僕はますます母から忘れ去られた存在になっていった。中学生になったにいちゃんの顔色はいまひとつさえなかったけれど、ひとつだけ、にいちゃんがどうしても一緒に近くの市立中学に通いたいと主張した友達、赤いランドセルの内の1人が同じ京都のターミナル駅にほど近い私立女子中学校に進学した事だけが、にいちゃんにとってはこの進学に伴う現象の中でひとつだけ嬉しい事だったと思う。男子校に進学してしまったにいちゃんと女の子の友達とは同じ学校の同級生にはなれなくても、同じ地域にある学校に通えば毎日一緒の電車に乗って通学する事ができた。

それが、あの日母の怒りの渦中、家中の高級陶器の命が失われた日に母が名指しで「あの子と付き合うな」と言った女の子だ。赤いランドセルの中でも僕にひときわ優しかったその子は名前を琴子と言う。にいちゃんは一応中学受験を了承はしたものの、母の目論見どおりに私立中学に進学してしまえば、頭髪を、昔々理不尽な理由で無差別に捕らえられて収容所に入れられていた可哀相な人たちの如く問答無用で丸刈りにされる事に加えて、地元の友人とほぼ離別状態になる事が何よりも辛いと内心ではまだ途方に暮れていて、ある日塾の授業のひとコマをそっと抜け出して琴子の自宅でもある琴子のお母さんのやっている小料理屋に駆け込み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で琴子にこう言った。

「ことと一緒じゃないなんて僕は死ぬ」

店の手伝いをしていた琴子は、突然飛び込んで来て泣きながらそう言ったにいちゃんの、まるで愛の告白みたいなその言葉にアハハと笑って店のおしぼりでにいちゃんの顔を縦横結構乱暴にごしごしと拭いた。希が全然面白くない冗談を言うと言って。琴子は当時からにいちゃんの美麗な顔面と王子様然とした物腰に一切注意関心を払わない珍しい人間だった。雑に豪快で強くて優しい。そしてとても手先が不器用で、だからよく自分で髪を結べないまま学校に行き、それで手先が器用なにいちゃんに綺麗にみつあみを編んでもらっていた。小料理屋を経営している琴子によく似たお母さんがいつも仕事で夜遅いから、起こすと可哀相だと朝は琴子が自分でパンや卵を焼いて朝食を取り、その後片付けをしてそれで学校に来ているんだとにいちゃんは言っていた。だからなのか同じ学年の女の子よりずっと大人びて見えた。背もクラスで一番高かった。

「希はなに、坊主が嫌なん」
「それもあるけど友達が、ことがいてないとこで知らん男子ばっかりの学校なんか僕には無理や」
「なんでそれを家でイヤやって言われへんの」
「お母さんがキレッキレに切れて暴れよる」
「へぇ?あのお母さんが?でもそんなん暴れさしといたらええだけの話やん」
「みいが怪我したりするねん」
「みいちゃんが?それはアカンわ」
「…アカンやろ」

琴子とにいちゃんは、店のカウンターの隅で、琴子のお母さんにコーラを出して貰ってそれを飲みながらそんな会話をした。そこで気風が良くて頭もいい琴子はにいちゃんにこんな提案をしたらしい、ウチも希と一緒に京都の学校にいったらええんちゃうかな、それで途中まで一緒に通ってあげる、ねえママいいやろ。そう水を向けられたカウンターの中でお燗番をしていた琴子のお母さんは笑顔で「あの学校?ママの言ってたとこやっぱり受けるの?ええよ」とその場でそれを許したそうだ、琴子と顔がよく似ているお母さんは、性格も琴子によく似ていた。気風が良くて豪快で話が早い。そして琴子は5年生からにいちゃんと一緒の学習塾に通い、専願の一校一本勝負でにいちゃんの進学先に一番近い私立女子中学に合格した、聞けばそこは琴子のお母さんの母校だったらしい。それを町の噂話で耳ざとく聞きつけてきた母が最初に言った言葉はこうだった。

「あのお宅、そんなお金があったのねえ、そう余裕がある感じもしないけれど、それにあそこのお母さんの母校ですって、口利きとか、あるのかしらね、まあ、きっとご実家がいいのね」

そんな風に要らない事を無駄に詮索しては噂をする割に、毎朝琴子が白い3本線がとても清潔な印象を周囲に与える濃い青のセーラー服を着て駅でにいちゃんを待っている姿を見かけると笑顔で挨拶をしていた。

「おはよう琴子ちゃん、希をよろしくね」

にいちゃんはそんな母をどう思っていたのだろう。にいちゃんは中学生になり一般には反抗期という時期を迎えてはいたけれど、その発達に合わせた正常な精神的傾向を家庭内で発露することはまず不可能だった。にいちゃんが母に向かって「うるさいなあ」などと一言でも言おうものなら、母が何かしらの破壊行為、食器とか家具とか障子とかそんなものを壊し始めるだろうし、そうでなければ正座を何時間も強要されて、同じ文言を無限ループで繰り返される説教と言う名の恫喝が待っている。

丁度、小学校に進学した僕が、周囲に対してますます冴えない子どもであることが更に明白になった事が母を一層家庭内での暴力行為に駆り立てていたこの頃、僕はにいちゃんが居ない間はピアノの覚えが悪いと言って母によく殴られていたし、この子はちゃんと勉強させないと将来が危ういと言って放り込まれた低学年むけの学習塾の宿題にもたついていたらいきなり顔面に熱いコーヒーを掛けられたこともあった。だから僕はいつもにいちゃんを乗せた米原方面行きの電車が、田んぼの向こうから顔出す瞬間を夕方に2階の窓から眺めてずっと待っていたし、にいちゃんも部活動なんかには一切目もくれず学校が終わると僕の待つ自宅に帰宅していた。

「みい、無事か?生きてるか?」

それが、にいちゃんが「ただいま」という帰宅の第一声の後に僕に小声で投げかける言葉だった。僕は無事かと聞かれればそうでも無いけれど、とりあえず生きてはいるので「ウン大丈夫」とは答えていたけれど、そう答える当の僕は、服をめくると二の腕の辺りに青あざが出来ていたり、髪の毛がコーヒー臭かったりしてそれがにいちゃんを少し悲しませた。

「ごめんなみい、でももう大丈夫や」

にいちゃんはそう言って乗り換えの京都駅で買ってきた小さなお菓子、チロルチョコとかそういうものをそっと手渡してくれたり、こっそりと買って岩波少年少女文庫のカバーでカモフラージュしたジャンプとかコロコロとかその手の本に連載されていた漫画の単行本を僕に貸してくれた。にいちゃんは母の機嫌を保ち、そうする事で僕への風当たりを弱めるために、学校から強要された坊主頭を我慢して電車で1時間半かかる中学に通い、そしてその学校でトップの成績を取り続けた。在学中1度も主席の座を誰かに明け渡したことが無いという記録は関西広域からずば抜けて頭脳の優秀な男の子をかき集めて構成されているその学校では異例中の異例の事で、母は授業参観や保護者懇談の日にはとても足取り軽く上機嫌で京都に向かって出かけて行った。普通電車しか停まらないギリギリの限界ベッドタウン、平たく言うと過疎地の駅から。

そのにいちゃんの学校の同級生には医者とか弁護士とか何かの会社の経営者だとか、とにかくかなり裕福な家の子どもが多くて、うちのように地方銀行勤めの中途半端な役職の父親と専業主婦の家庭の子どもというのは少し珍しかった。けれど『成績、学力、模試結果それがすべて』という校風のその学校の中では、どんな家庭のどんな出自の子だろうが、上位、もとい1番である事こそが最も価値のある事で、その点はとても平等だった。だから授業と学習に対して意欲のない怠惰な子どもはそれがどこの誰でどんなに親が学校に温水プールがひとつ建設できてしまうほどの寄付金を積んでいようが、教師の持っている分厚い教材のファイルのフチでフルスイングでぶん殴られる、そういう学校で、その点が母の教育方針にとても合致していたのだと思う。

にいちゃんはそのまま、中学と高校の6年間、完全無欠の学年1位で居続けた。

そうやって、母の自尊心と虚栄心と自己愛とを満たし、結果、僕を守り続けてくれた。

☞4

それでも、僕達にはほんの少しだけ母の厳しい監視と管理の目が緩んだ時期があった。それが僕が小学校に入学して、にいちゃんが中学2年生だった時期、でもその中でも半年間程度のことだったけれど、母が妊娠して出産をしたのだ。産まれたのは女の子だった、僕達の妹だ。

妹は、僕とは7歳差でにいちゃんとは14歳差だったので、それは一般的には少し珍しい年の開き方なのかもしれない。僕がその事実を母のお腹が確実に妊娠だと分かるくらいに膨らみ始めた妊娠7ヶ月の時期に聞かされた時、少し嬉しいような恥ずかしいような不思議な感覚にとらわれて、かと言って生まれつき頭の回転の良くない僕は脊髄反射的に気の利いた返しなんかできる筈もなく、あまり表情なくふうんとだけ返事をした。そんな僕に対してにいちゃんは穏やかに微笑んで

「そう、よかったね、赤ちゃん、元気に生まれて来たらいいね、お母さん体を大事にね」

少し機械的に文節を区切りながら、日本語用例集のお手本のような受け答えをした。

この頃には完全に自分の立場というか、持ち得る天性の美しさとか王子様のような自身の資質を把握した振舞いを身に着けていたにいちゃんは、普段から自分の笑顔のグレードを5段階位にコントロールしていて、母に向けてはグレード1程度の笑顔しか向けなくなっていた。最高グレードの笑顔というか本気でゲラゲラ笑うのは家の中ではもうあまり無くなっていたかもしれない。例えばそれは琴子と一緒の時、帰宅途中の田舎の木造の駅の夕暮れ、至極どうでもいい事を話している時によく発動しているようで、僕にとってもその頃それは家庭内では少しレアなものだった。にいちゃんはそのグレード1の笑顔を保ったまま「みい、にいちゃんが2階で宿題みてやろうか」と僕を誘って2階の自室にむかって階段を上がっているその時、母に聞こえないように細心の注意を払った絶妙な音量で「きも」と言った、それが僕の耳にはちゃんと聞こえた。その時にはグレード1の笑顔はにいちゃんの顔の表面からはもう消えていた。

「にいちゃん、なあに?」
「ううん、なんでもない、みい、赤ちゃんは妹らしいよ、嬉しいやろ」
「よくわかんない」

僕は7年間にいちゃんの下の弟、2人兄弟の末っ子をやっていた立場で、今度は突然兄になると言われて若干困惑していた。そしてその相変わらずはっきりしない態度が母をイラつかせていた。にいちゃんだけが「うん、僕も汀が生まれるって聞いた時はなんだかよくわからへんかったからなあ」と優しく微笑んで僕の頭を撫でてくれた。

ところで母が、この妊娠を決意したのは母の姑にあたる人、即ち父の実母で僕達の祖母の言葉によるものだと僕は思っているというより、にいちゃんがそう言っていた。それは祖父の7回忌の法要の為に宝塚にある父の実家を訪ねた時、祖母は法要が終わってから用意されたお膳の前に並ぶにいちゃんと僕を交互に眺めて、京都の名門私立中学で学年トップ、相変わらず美しい顔面で伏し目がちにすると長いまつげが頬に影を落とす、食事をしている箸の上げ下ろしさえ上品で、年々伸びていく身長が既に父を追い抜こうとしているその濃紺の詰襟姿のにいちゃんを惚れ惚れとした目つきで鑑賞した後、その完璧に美しいにいちゃんの隣で、炊き合わせのサトイモが箸でつかめなくて不器用にそれを箸で突き刺している僕を一瞥してから

「…汀ちゃんは…相変わらず希ちゃんにあんまり似てないわねえ、お兄ちゃんにもう少し顔だけでも似ていたらねえ…」

悪気無く様式美的に、毎回恒例になった僕への分かりやすい落胆の言葉を伝えて更にこう言った事、それが契機だ。

「でも男の子2人だと先が寂しいわねぇ…」

この姑、僕の祖母には実子として、父の他に男の子があと1人と女の子が2人いた。長男である伯父、その下の父、あとは妹達。僕の叔母達であるうちの1人は父の育った宝塚の家でそのまま祖母と共に暮らしていて、もう1人はこの宝塚の家の直ぐ近く、雲雀丘花屋敷というとても可愛い名前の阪急電鉄の駅の近くに住んで普段からよく行き来していた。祖父は僕が生まれる直前に亡くなってしまったていたけれど、配偶者である祖父を亡くしても娘2人に囲まれていた祖母は特に寂しい風でもなく、そして元々割と裕福な父の実家に遺された不動産などの収入のお陰で暮らし向きに困るような事も特にないようで、偶に顔を合わせる孫の僕達にも何かと本や玩具を買い与え、傍目にも割と幸せそうに暮らしていた。僕はこの祖母からの場合によっては暴言でさえある「汀ちゃんもお兄ちゃんに似たらねえ…」というに言葉ついて、この頃にはそれが他人から受ける僕の固定された評価としてすっかり慣れてしまっていたので、この祖母の言葉をとりたてて気にすることも無く、目の前に並んだ食事の、子どもの僕には苦手というよりおおよそ食べ物に見えない量も彩も上品すぎる盛り付けの八寸や焼き物の中で唯一僕の好物だった水菓子のメロンをにいちゃんの分も貰って、更にそれをにいちゃんに切り分けてもらいながら食べていたので、その言葉をごく穏やかな笑顔で、でも一呼吸置いてから

「本当にそうですねえ、お義母さんは娘が2人も、羨ましいわ」

そう言って笑顔で会話を続けている母の手元のハンカチがきつく握りしめられている事に気が付かなかった。この日の法要と会食が一通り終わり、にいちゃんは玄関で見送りの祖母を前に

「またお正月にお邪魔します。おばあちゃん、風邪なんかひかないでね、元気で」

如才のない、グレード2程度の笑顔で完璧に挨拶をした。当然祖母は涙を浮かべる程感激して、ええそうねまた来てねとにいちゃんの手をとった。祖母は僕達以外にも数名存在している孫達の中でもにいちゃんが一番のお気に入りだった。対して弟の僕はそんな挨拶の言葉など一切頭には浮かばないし、浮かんだところで僕はそんな流れるように美しく言葉を口の端から紡ぐことなどとてもできなくて、ただ

「…ばいばい」

とだけ言って力なく手を振り、僕は隣にいるにいちゃんと比較した時の凡庸さを更に際立たせ、帰りの車の中で普段よりも長く母から説教された。宝塚のインターチェンジから中国自動車道に乗り、新名神に乗り換えて自宅付近で高速を降りるまでそれが続いたのでそれは時間にして約1時間。挨拶の声が小さい、食事の仕方が汚い、人の目を見て話しをしなさい。それに希も汀は来年は小学生なんだから赤ちゃんみたいに食事の世話まで焼くのをやめなさい貴方がそんなだから汀がいつまでたってもしっかりしないのよ。

僕は、にいちゃんにまで火の粉が及んでしてしまった事が少し悲しくて自宅に戻ってからにいちゃんに小さな声で謝った、にいちゃん、さっきは僕のせいでごめんね。

「違うよ、お母さんの今日のアレは八つ当たりだ『女の子がいないなんて可哀相ね』っておばあちゃんが言ってたやろ、お母さんは他人から持ってないわねとかできないでしょうとか言われるととてつもなく蔑まれて…ええと難しいか、馬鹿にされている気持ちになるんだよ。相手に特に他意がなくてもね。僕もみいも生物学上男やし、こればっかりはどうにもならないよ。まあおばあちゃんもたいがいやけどな、どうでもいい事だよ、みいはそんな事気にしなくたっていい、ホラにいちゃんとお風呂に入ろう」

僕はそういうものなのかなと思い、にいちゃんにそう言った「そういうものかな」にいちゃんは、みいは気にしない事だよ、おばあちゃんもお母さんも目が曇っていてみいの良いところが全然見えてないんだ、2人とも愚鈍な人間だよとそう言った。

「グドンなニンゲン?」

「アホだってこと」

その会話から、大体1年後、僕達兄弟には妹が追加加入した。母の目的達成への執念には恐ろしい物があると思う、姑である祖母が、男児ばかりを産んでいる母を憐れんでなのか取り立てて他意無くなのかそれとも明確な悪意のある言葉だったのかそれは知らないけれど、女の子がいないなんて可哀相という、僕には何がどう可哀相なのか未だに理解できない言葉を投げかけられてから、一念発起して妊娠する、それは少し分かるけれど、狙い通りの女の子を産むあたりは母の執念というか、目的達成への熱量のようなものに畏敬の念すら感じる。そうやって母は望み通りの、女の子をこの世に産みだした。

でもひとつだけ母にとって計算外だったのは、妹が染色体の偶発的な異常によっておきてしまう先天疾患の子どもだったことだった。その時の医療技術では妹の状態は何をどうすることも出来ない、出来るのは時間を稼ぐだけだという事だった。妹が生まれた時からそんな重篤な状態だったという事、それを僕が知ったのはずっと後になってからの事だけど。

妹は僕の家の近所の市立病院で誕生した後、異常が確認されて即、そこから片道1時間かかる大学病院に搬送された。妹が生まれた田舎の市立病院には周産期センターとかNICUと呼ばれる場所が無かった。そして搬送先のNICU、そこには父と母しか入室する事ができなくて僕達兄弟はとりあえず産後の入院が済んだ母が退院してきてからも妹に会う事が叶わなかった。だから僕はせめて妹であるその子の顔を写真でもいいから見たいと思い、一度母に頼んだ事がある、妹の写真が見たいと、そうしたら母は

「あの子はそう長く生きないのよ。思い出になんか残さない方がいいわ」

妹の病気が判明した時の母の落胆は大変なもので、産後の入院中も搬送先の看護師さんから再三電話があって母を説得してやっとそのNICUに面会に行ったと言う事をこれも僕はかなり後から聞いた。それでも本来予定されていた面会の3回に1回は「上に2人子どもがいて忙しいので」と言い、そう頻繁には行かなかったように記憶している、母はそれ位妹の事を見ないようにして自分の中で蓋をしてしまっていた。何しろ出生後10日経っても名前も付けようとしないので、父も流石に

「おい、出生届けをどうするんだ」

と言い出した位だ。そんな父も相変わらず全てが他人事だった。何しろ我が家は完全無欠で完璧で神の祝福を一身に集めたようなにいちゃんのその後、2匹目のどじょうを期待した弟は兄とは見た目も中身も比較対象にすらならない程凡庸で取り立てて褒めるところの無い子どもで、次いで生まれた妹は長期どころか数ヶ月の生存自体も困難な程の重い疾患と障害を抱えている。人生に持ちうるすべてを他人の羨望に変えられる物しか希求していない母と、そういう母を黙認していた父は、妹に関わるのが面倒だったのかもしれない。だからそれ以上は何も言わなかった。そして僕達の住む小さな田舎の集落で、そういう話は、僕の家の妹が何かしらの問題を抱えていて病院から退院の目処が立たないという事実は、どこから情報が漏れるのか皆目分からないままに瞬く間に周囲に伝播した。

「希君の妹?って病気なの、何か遠くの病院に入院してるって」

近所のおばさん達は何気なく、駅に向かって、もしくは家路につこうとしているにいちゃんに近づいてはそういう意味合いの事を聞いてきた。でもそれは仕方のない事だ。普段母が散々近所の人にやって来た事なのだから、因果応報というやつだ。でも勿論この件は母から厳しく箝口令が言い渡されていたし、聡明なにいちゃんがそんな田舎のおばさん達の口車に乗って口を滑らせるような事はまず起こり得なかった。

「ええ、まあ…」

そう曖昧に言いながら、少し悲しそうに目を伏せるだけて、おばさん達はこの美しい少年に何か非人道的な事をしている気分になるらしくすぐに兄を解放した。実際、他人の事情に土足で踏み込む事は非人道的な真似だ、みいもよく覚えておいたらいい。にいちゃんは僕にそう前置きしてこう進言した

「みいも、近所の人にそういうことを聞かれたら悲しそうな顔して俯くと大体切り抜けられるよ、それで何も察しないヤツはバカだ、無視していい。僕は妹の身体や病気を嫌悪なんかしない、ただこれはあの子のプライバシーだからみんなには言わないんだ」

そう言ってにいちゃんは妹を周囲の好奇の目から守ろうとしていた。にいちゃんはいつも誰よりも正しい。僕はにいちゃんに従おうと思った。にいちゃんは父や母と違って、まだ見ぬ妹にも最初からとても優しいにいちゃんだった。

そして僕は母が「あんな子を産んだなんて周囲に知られたくない、希以外の子どもは全部だめだわ、どうしてなの」と発作的に叫んで泣き出すたびに、僕自身はそう言われることにすっかり慣れ親しんでいるけれど、まだ小さい赤ちゃんの妹はなんだか可哀相だなと思った。それで僕はこの時生まれてから7年で一番勇気を出して、妹の名前を僕が付けてもいいかと母に申し出た、確か土曜日の昼の事だ、テレビでいつもなら母が嫌がって見せてもらえないお笑い番組がついていたからよく覚えている。僕は妹がいつまでも名前がないままなんて可哀相だ、あの子は入院している場所でもまだ名前で呼んでもらえていないんだろう。そう思うとなんだか妹が病院でしくしく泣いているような気がして、まあ赤ちゃんなんだから泣いてはいるだろうけれど、母に疎ましがられるのを承知でそう言った、とてもたどたどしく。そうしたら母はあっさりと、でも至極面倒くさそうに「好きにしなさい」と言ってリビングにあるサイドボードの小さな引き出しからひらひらとした薄い用紙を出してきて僕に付き出した。

出生届だった。

僕はかろうじて『出生』だけを読むことができたそれを、学校の土曜授業から早めに帰宅していたにいちゃんの所に持って行った、にいちゃん、僕が妹の名前を付けるよって言ったらお母さんがこれを僕に渡して来たんだけど、これどうしたらいいの。

「…あの人、こんなものみいに渡して来たのか」

「うん、僕にはかなり漢字が読めない」

そりゃあそうだよ、みいはまだ1年生なんだから、そう言ってにいちゃんが代読した上で代筆をしてくれた、でもそのにいちゃんだって14歳だ。そんなものを親に代わって書くような年齢じゃない、でも神童から次には稀代の天才と呼ばれたにいちゃんにはできない事が、僕が知り得る限りは無かった、にいちゃんはよくわからない指示や決まりのあるらしい空欄を几帳面な文字できれいに埋めて行って、最後に

「みい、それで名前は?あの子に何てつける事にしたの?」

「ことり」

「ことり?ひらがなで?」

「へんかな?」

「ううん、全然。みいはセンスがあるな、そんな可愛い名前にいちゃんは思いつかないよ。小さくてかわいい女の子の名前だね『希、汀、ことり』3人並べたら平仮名のことりが一番目立つ、僕達は3人きょうだいになったんだね、いい名前だよ」

にいちゃんに褒めてもらえて僕は顔が真っ赤になる程嬉しかった。それでそのまま必要事項を記入した用紙を、本来は父母が提出するのが正式らしい、でも『使者』っていう名前でそれ以外の人も出していいみたい、今から行こうとにいちゃんが言って、そのまま、家のすぐ近所にある市役所の休日窓口に出しに行った。でも後々考えたら、いくらにいちゃんが年よりずっとしっかりした14歳だったからと言って14歳は14歳なんだからあれは正式に受理されて良い状況だったんだろうか、にいちゃんが休日窓口で退屈そうに競馬新聞を読んでいた当直の職員さんをどう言いくるめてこの件を受理に持ち込んだのか、僕には未だによくわからない。

でも妹はこの日、出生から13日目のギリギリの所で名前を得て、初めて法的に生きている人間になった。

「ことりは僕達の妹だから僕達で大切にしてやろう」

にいちゃんはそう言って、市役所からの帰り道、町にひとつだけある小さなスーパーの隅に申し訳程度に設えられているフードコートの中にあるたい焼き屋でカスタードクリームのたい焼きを買ってくれた、いつもそこでつまらなそうに冷めたたい焼きを売っているパートのおばさんが、にいちゃんの顔を見てとても良い笑顔で温かい焼きたてを売ってくれた。この時期、母は自分の望んだ女児というものが不完全な形と命で生まれてきたことに落胆しすぎて僕たちの事が、僕については100%、にいちゃんに関しては50%程度しか視界に入らなくなっていて、僕はにいちゃんに連れられて、普段なら絶対にできなかった買い食いや外出を沢山出来た。その時にはよく琴子も一緒だった。その時期は流行っていた、当時はまだCDが全盛の頃だったから短冊みたいな形の小さなCDを琴子に借りて流行りの歌を聞いたのも、ロックが好きだと言う琴子から、外国の曲を教えてもらったのもこの頃だ。英語の歌をその内容が全然分からないままにそれでも「カッコイイね」と思ったように琴子に伝えたら「その歳でこの良さが分かるなんてみいはセンスがある」そう褒めてもらった時はとても嬉しかった。

琴子は中学生になっても相変わらず「みいは小さくてかわいいね!」と言っては、会うたびに僕の事を可愛い可愛いと撫でくり回し、にいちゃんはそれを見てアハハ、ことやめなよみいの髪の毛がエライ事になってる、とグレード5かそれ以上に笑っていた。琴子とにいちゃんは中学2年生の頃に小学生の時分には琴子の方がうんと高かった身長の高低が逆転して、白のスカーフをきっちりと結んだ隅から隅まで清潔な濃い青色のセーラー服を着た華奢で色の白い琴子と、金ボタンに濃紺の学ランを着たどの方向からみても美麗な顔面のにいちゃん、2人が並んで歩いているとそれだけで、田舎町の農道にそこだけ異次元を作り出した。そして偶にその真ん中に立つ僕は闖入して来たサルみたいだった。どう見ても、どう考えてもそぐわなかった。

「ねえ、妹ちゃん、どうしてことりちゃんて名前にしたの?めっちゃ可愛い名前」

琴子はことりが今どんな状態で、何の病気なのか、退院はいつできるのか、そんな事は一切詮索しなかったけれど唯一、この『ことり』の名前の由来だけを僕に聞いてきた。にいちゃんに名付け親が僕だという事を聞いたんだと思う。

「…あの、幼稚園で習った歌が好きだったから」

『ことりたちは ちいさくても おまもりくださる かみさま』 

それは、カトリック教会の敷地の中にある僕の通っていた幼稚園で、確か年中児の時に習った歌だ『こども讃美歌10番』。あまねく命を司る神様というものが優しく小さなことりの命も慈しんで守ってくれるのなら、いっそ妹の名前もそうしてしまえばいいのではないかと、僕は思った。

神様、僕の小さい妹を守って下さい。

でも妹は特に神様に守られること無く生後3ヶ月で死んでしまった。ことりは、近所の人の目に触れる事がどうしても嫌だという母の強い希望で病院から直接斎場に運ばれて荼毘に付され、そして自宅には小さな骨壺になって帰宅した。きちんとしたお葬式もなかった。死んで死亡届が提出され、火葬許可証が出て焼かれてただそれだけ。現在に至る迄僕はことりの顔を見た事が無い、写真が一枚も残っていないからだ。

その時から僕は神様を信じる事をやめた。世界には神様と呼ばれる何かから選ばれる人間と選ばれない人間がいる。同じきょうだいでも僕とことりが選から漏れて、にいちゃんだけが特別に選ばれているように。

でも僕はその選ばれている方のにいちゃんに行き過ぎた羨望を抱いてそれを嫉妬に化学変化させて挙句嫌悪するような事はしなかった。にいちゃんが、ことりが骨になって帰ってきた日に、夜中こっそり僕とことりの骨壺が置いてある和室に降りて来て、ことりの亡骸である小さな骨壺を抱いて僕と一緒に泣いてくれたからだ。

「お母さんは、ことりが可愛くなかったのかな」

「それは分からない。他人の精神構造を…心の中を見通す事はできないよ、それが例えば親でも。でも僕達はずっとことりのにいちゃんでいてやろう。な、みい」

14歳のにいちゃんと7歳の僕は終生、ことりの兄でいつづけよう、絶対にことりの事を忘れない事、そう誓い合った。僕達は全然性質の違う、選ばれた側の人間と選ばれなかった側の人間だけど、等しく1人の小さな女の子の兄なんだ。

そして「それは分らない」というあの言葉、にいちゃんはこの14歳の時はまだ、母にあとほんのひとかけらの希望を持っているんだろう、僕はそう思っていた。あの人のすることはとても僕達には度し難い所があるけれど、何か、何か理由があるんだろう、そうじゃなければおかしいじゃないか。

でもこの時、にいちゃんの胸中に渦巻いていたのは、母へのひとかけらの希望なんかではなかった。それはにいちゃんの体の中を全部真っ黒に塗りつくす程の絶望と怒り。

僕は、まだ本当に子どもだった。

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