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ことりと僕とにいちゃんと鳩 2

☞1

「自分にそぐわないものを身につけ続けるって本当に苦しい、僕は僕の事を自覚した瞬間からずっとそう思っているから、ああいうのを見ると、突発的にむしり取りたくなる」

12月、僕達の住む地域は、関西とは名ばかりの、まるで北国のようなしんとした寒さに包まれる。その寒気はご丁寧に雪まで運んで来る事もあった。それは本格的な雪への備えのない僕達の町の道路を渋滞させ、橋を凍結させ、時折車のスリップ事故を発生させていたので、普段、雪の無い時期は母が有無を言わせず車に乗せてにいちゃんを駅まで送迎しているのを、にいちゃんが「雪道の運転は危ないから送迎はいいよ」と母に告げ、にいちゃんは降雪と凍結のある冬場は母の監視の目を離れて毎日歩いて駅に向かうという自由を手に入れていた。僕はその時期の夕方はよく、重く湿った冬の曇天の下、にいちゃんの帰宅の電車の時間に合わせて学習塾の自習室を出て、駅に向かうその薄く雪の積もった道の上をさくさくと音をたてながら駆け足をしていた。にいちゃんと琴子と僕、3人で一緒に帰宅するために。

ことりが天国に引っ越しをしてから3年経って、にいちゃんと僕の中でことりは3歳になった。ことりの誕生日の12月には僕とにいちゃんでこっそり小さな苺のケーキを買って来てお祝いをした。3歳のお祝いに用意した小さな苺と、その周囲を飾るリボンを模したピンクのクリーム、その上にきらきらした銀色の砂糖菓子が乗ったケーキは「ことりはきっとこういう可愛い感じのが好きなんじゃないかな」と言ってにいちゃんが選んでくれたものだ。勿論本人から感想は聞けないけれど。僕達はあの日「僕達だけは終生、ことりの兄でいてやろう」と誓い合ってから毎年ことりの誕生日のお祝いをしていた。ことりは、実体を持たないまま僕達と同じように年を取る。にいちゃんはこの小さな誕生会のことを

「ある意味、法事のかわり」

そう言っていた。実際にことりは誕生日も、にいちゃんの言う節目節目の法要も全て両親から忘れ去られてまるで初めから居なかった子どものように扱われていた。あの日僕達がその表情さえ知らないまま細かな骨になって帰宅した、その骨の納められた骨壺のちいさな白い包みは、和室の一隅にひっそりと置かれた母の着物の入った桐箪笥の上、小物用の小さな引き出しの中に詰め込まれたままになっていた。でもその忘れ去られたことりの骨はある時から、にいちゃんがそれを持ち出して僕達の部屋の本棚の隅にそっと置くようになった。それをするにあたってにいちゃんが母と、どう交渉したのかは僕にはまったく不明だ、分からない。

そして、0歳だったことりが3歳になったという事は、僕は10歳になり、にいちゃんは17歳になったという事で、小学4年生になった僕は中学入試を視野に入れて学習塾に通う事になった。と言うよりそれは4年生になってすぐ、僕の意志希望を全て無視して母から言い渡された既決事項だった。ただ中学入試をするとしても、逆立ちしたってにいちゃんと同じ学校に合格することは難しいと入塾テストで判断されて最下位クラスに割り振られた僕は、それでも『あの、開校始まって以来の天才の希君の弟』として、学習塾の特Sクラスの、以前のにいちゃんの担当の先生から「君はやればできる筈」と全く根拠のない期待のまなざしを向けられていた。そして母からは市立中学への進学を絶対に許されず、とにかく一生懸命学習塾に通い受験勉強をして、それなりの中学校の合格通知を手に入れなさいと言われていた。でも僕にはその「それなり」がどういうものなのかよくわからなかったし、中学入試についての勉強には全然興味が持てない、というよりそれは難解すぎて僕にはあまり理解できないものだった。だからと言って母に「塾も私立中学も別に行きたくないから、やめたい」などと言おうものなら、早晩僕に命の危機が訪れる事はもう十分過ぎる位よくわかっていた。あのにいちゃんさえ中学入試に際しては母に一切逆らう事を許されず涙ながらに丸坊主になったのだから。僕はただ唯々諾々と指定された曜日と時間に学習塾に行き、指定された教室の指定された座席に座って、仕方なくあまり興味の持てない旅人算を習ったりしていた。

「どうしてたかし君は、お兄さんより10分も先に家を出て行ってしまうんやろ、僕は絶対に、にいちゃんと一緒に出掛けたいから玄関で待つのになあ、ふたりは仲が悪いのかな」

一度、塾の算数のテキストに出てきた文章問題について母にそう言った事がある。その時僕は余計な事を言ってしまった事にすぐ気が付いた。でも母が珍しく僕の部屋、と言ってもそれはにいちゃんの部屋でもあるのだけれど、母がにいちゃんの居ない時間にわざわざ僕の所にやって来て僕にこう聞いた事が、僕は少しだけ嬉しかったのかもしれない。

「汀、塾のクラスの学習の進度はどうなの」

それで僕が、その質問の答えとしてそう答えると母は僕の事を何か気味の悪いものを見るような顔をした、木陰の湿った場所にある大きな石をひっくり返した時に見られるもぞもぞと動く何か得体のしれない小さな生き物、そういうものを見ている時の顔、そしてそれから深いため息をついてこう言った。

「もういいわ、あんたには本当にいつもがっかりさせられる」

そして表情のない表情で僕の横っ面を一発引っぱたいてから部屋から出て行った。僕は相変わらず母にとってはにいちゃんの付属品ですらない母の人生の欠陥品だった。だから、この頃僕は何となくこんな事を考えていた

(ことりの顔は僕の方に似ていたのかもしれないな)

ことりは僕たちきょうだいの中では僕側の子になるからきっと僕に顔も似ていたんじゃないかな、神様に選ばれなかった欠陥品の方の顔だ。残念だなあ、にいちゃんの方に似ていたら絶対にすごくきれいな女の子で、そうすればきっと、病気があってもお母さんから愛されて大切にされた筈なのに。

僕はにいちゃんにこの僕の考えをそのまま伝えた、それは冬の夕暮れの帰り道、にいちゃんと琴子と僕の会話の中、ちょっとした話の隙間の閑話休題のつもりで。その時の僕にはなんの他意もなかった。だって僕とことりは選抜漏れでにいちゃんだけが神様に選ばれていることは僕の中では純然たる事実だったからだ。

「ことりはきっと僕に似ていたんだと思うよ、だって僕とことりはにいちゃんみたいに神様には選ばれなかったんだから」

でも、その僕の言葉を聞いた時のにいちゃんの哀しそうな、そして針に指先を突然貫かれたを時のような表情、鋭利な痛みと哀しみの入り混じった複雑な表情から出てきた言葉は、僕にとってはかなり意外なものだった。17歳のにいちゃんはそれは美しくて、その美しすぎる男子高校生の存在はにいちゃんの通う高校の周辺にある複数の高校の女の子達の間で知れ渡っていたらしい。それは琴子が僕に教えてくれた。

「お陰で2月の私はチョコレートに全然不自由しない」

でもその琴子だって高校生になり、中学部のセーラー服から高校部の紺色のブレザーとネクタイのデザインに替わった制服をひとつの乱れも無く清潔に纏い、肩甲骨の辺りまで伸ばした真っ直ぐな髪を、これは相変わらずにいちゃんが細かい編み込みにしてひとつにまとめた、とてもきれいな女の子というよりは女の人になっていた。その姿で中学と同じデザインでも寸法がずっと大きくなった学ランを着たにいちゃんと駅に一緒に降り立つと、そこは恋愛映画のスクリーンをカットして持ってきて張り付けたみたいな不思議な空間になった。小雪の舞う田舎のがらんとした取り立てて何もない無人駅の改札の向こうの僕を見つけて、その僕に向かって笑顔で手を振る美しい2人は、僕には神様に選ばれたとても特別な人達に見えた。

でもそのにいちゃんが僕に放った言葉はこうだ。

「そんなことないよ、むしろ選ばれなかったのは僕の方だ。僕は色々不備と間違いだらけの人間で、みいの方がずうっと完全な人間だよ。正しい感性、優しい性格、10歳でもう謙遜とか遠慮とか、人間の正しい弁えを知ってる。にいちゃんはみいの方がずうっと神様に選ばれた人間だと思う。それにことりは体が弱かっただけで、きっとうんと可愛い女の子だったはずだよ。ほんの少しだけ、遺伝子の偶発的なずれみたいなものが無ければ今日だって元気に家で僕達の帰りを待っていた筈で、世界にそぐわないのは僕の方。ホラ、あんな感じに、似合わないものを無理やり体に括りつけられている人間なんや」

そう言ってにいちゃんは駅前の銅像を指さした。駅前には僕達の住んでいる地域、今は石垣の一部しか残っていない城の城主だった武将の銅像が建てられていて、クリスマスの時期から寒さが和らぐ春先までの間、どこの誰が思いついたのか知らないけれど毎年クリスマスツリーのように電飾が周囲の生垣とか街路樹のついでみたいにぐるぐると巻き付けられてライトアップされていた。しかもそれはご丁寧な事にいくつかのパターンで赤や青や黄色にチカチカと点灯までする仕様になっていた。琴子はこのちょっと酔狂な冬のライトアップが初冬の時期、駅の前の広場を珍妙に彩るようになると毎年必ず

「うわ、今年もアレやってんの、毎年のことやけど可哀相すぎてめっちゃウケる」

と言ってお腹を抱えて笑うし、僕も琴子があんまり笑うので、その電飾の銅像が可笑しいというよりは琴子の爆笑する姿が面白くて一緒になって笑った。そこにサンタの帽子とか衣装が追加で装飾されていないのがまだ救いと言えば救いだった。でも確かににいちゃんの言う通り400年前の戦乱の世を駆け抜けた冷酷無比な天才肌だったと伝えられているその人が、今、城どころか近くには小さなスーパーがひとつしかない小さな田舎町になったかつての城下町で、ちょっと風変わりなクリスマスツリーみたいに扱われているのは確かにそぐわない感じがした。いや気の毒というべきか、それを指したままにいちゃんは続けてこう言った。

「自分にそぐわないものを身に着け続けるって本当に苦しい、僕は僕の事を自覚した瞬間からずっとそう思っているから、ああいうのを見ると、突発的にむしり取りたくなる」

それはどういう事だろう、僕はにいちゃんのその言葉をとても意外なものに感じた。にいちゃんが人生の中で身に着けているものなんて、みんなにいちゃんの為に神様が誂えた特別なものばかりじゃないかと僕は思っていたからだ。全方向から見ても隙の無い端正な顔立ち、如才のない立ち居振る舞い、女の子の中ではすらりと背の高い方の琴子よりもまだ頭ひとつ高い身長、毎回全国模試の上位者に名前を連ねる成績。だから僕は首をかしげた、にいちゃんそれってどういうこと?

「にいちゃんはみいが思ってるような人間じゃないって事だよ、それにみいはそんな風に卑屈になることなんかない、みいは本当にいい子だ。中学入試もにいちゃんと一緒に良い学校を探そう。別に東大進学率がとか偏差値がどうとかそんな事は全然問題じゃない、要はみいに合ってるかどうかやし、みいが通って楽しい事が一番大事。冬休みに僕と外観とか雰囲気だけでも見に行こう、にいちゃんもみいにどうかなって考えてる所がいくつかあるから」

中学入試を回避するのは、今のお母さんの様子からは難しいけど、みいがここなら行きたいと思える所を選んで、にいちゃんからお母さんに上手く言う事くらいはできる。みいは、出来るだけ自分の気持ちに反することをするな、自分が心からやりたい事だけをしな、そうしないと自分が段々おかしくなるぞ、自分が自分のものに思えなくなる。にいちゃんはそう言って僕に微笑んだ。琴子はそれなら私も一緒に行く。みいを面白いとこに連れ行ってあげるから、いつにする?冬休みの前半?と言って楽しそうに、もうすっかり暗くなってしまった冬の空に向かって白い息を吐き出しながら笑った。

この頃のにいちゃんは、その品行方正な行いの裏で、だんだんと母の制御下から抜け出しつつあるように見えた。それはにいちゃんのスペックが、どちらかと言うと僕と同様に平均的で凡庸な母の手に負えるものではなくなりつつあったからだと僕は思っていた。にいちゃんの通っているような学校、にいちゃんの言う「地獄の受験収容所」みたいな学校ではどこも高校2年生の段階で高校3年間のすべての履修科目を終了する。だからこの時のにいちゃんはもう高校3年間分の教科書をほとんど全部頭に叩き込んでいて、東大だろうが京大だろうが医学部だろうが大体合格圏内に捉えてしまうくらいの実力を保持していて、各予備校の模試の結果も数字と記号でその事を分かりやすく母に伝えてくれていた。それをもってにいちゃんは来年、3年生になった時に通う予定の予備校とか、今後の進路とかそういうものに母の口を挟ませないよう「うん、大丈夫だよ、全部僕がやるから、みんなそうしているんだから。大体高2にもなって全部お母さんまかせの同級生なんていないよ、そんなの恥ずかしいよ」と言って母を柔らかく牽制できる賢さというより、狡猾さを自分のものにしていた。

(あなたが僕に提示していたゴールは大学の合格迄だった訳だから、そこにさえ辿り着くのならもう僕に文句はないだろう)

あの言い方にはそういうにいちゃんの強い気持ちが隙間なく詰め込まれていたのだと思う。「みんなそうしているんだ」「そんな同級生なんていないよ」。17歳のにいちゃんのその言葉はなにかその言葉自体の持つ意味よりももっと他の、強い母への拒否というものを含んでいるように思えた。もちろんその時10歳の僕にはそんなことを言語化してはっきりと理解していた訳ではないけれど。でもにいちゃんのあの言葉と態度の主な成分はきっとこういう事だ。

『この線から内側、僕の中に、絶対入ってくるな』

冬のひと時、僕達はいつも電飾の武将の前で凄くくだらない事、電飾の銅像が夜中どうも動いてるらしいと僕の小学校で噂されている事とか、琴子の通う高校の前に出没した下半身裸の変質者を琴子が猛追して学校のある山の山頂で捕獲したら警察と高校の先生とついでににいちゃんにまで危ないから本気でやめろと怒られた話とか、そんな話をしてひとしきり笑った後、駅前で缶コーヒーをひとりに1本ずつ、計3本買ってそれで手のひらを温めながら家路についた。駅から歩く時、背の高いにいちゃんは琴子が部活で使っているギターを背負ってあげる。琴子は音楽がとても好きで高校では軽音部に入り、毎日結構な重さのギターを背負って通学していた。にいちゃんから言わせると「やばいくらい煩い」というそのエレキギターを僕は大好きで、僕もそれをたまに触らせてもらっていた。琴子が「ギブソンのレスポール」と言っていた朝焼けのようなきれいな塗装の大きさも重量も何よりその値段もとても高校生の女の子が持つような代物ではないそれを

「パパに買ってもらったの。パパなんか私の財布よ、ある日突然可愛い娘と妻を捨てて出て行った人なんやから、ギターの1本や2本買ってもらって当然やわ、それでもまだ全然おつりがくる」

そんな風に言っていた。琴子はその清楚に美しい顔面でいつも普通に恐ろしい事を言い大胆な行動に出る。駅からその口の悪い琴子のお店兼自宅まで徒歩5分、琴子の家から僕達の家まで徒歩10分、僕より頭ふたつ分大きくてその分歩幅も大きいにいちゃんは僕に歩幅を合わせて、薄く雪の積もった田舎道をゆっくり並んで一緒に歩く。

僕達は仲のいい兄と弟だった。

☞2

自分の大部分をかたち作っていた部品だったはずのものが、それはこの場合にいちゃんの事だけれど、自分の手をするりと抜け出して自動制御で動き始めていたこの頃、母は焦燥感に苛まれていたのだろうか。それとも中学入試の準備をイヤイヤながら始めた僕が母の想像を遥かに超えて馬鹿すぎたせいなのか。もしくはそれまであまりに雑に扱ってきたことりの魂への懺悔と贖罪の気持ちが突然萌芽したのか。母は、妙な集まりに参加するようになっていた。

きっかけは、僕の通っている塾で僕と同じ学年の、でも在籍クラスが僕と同じFクラスじゃなくて特Sクラス、かつてにいちゃんがそのクラスの王として君臨していた最高ランクのその場所に在籍している生徒のお母さんの誘いからだった。にいちゃんと同じ志望校を目指している小柄で大人しい印象の男の子、マコト君と言う名前のその子のお母さんは、隣町で整形外科医の夫とクリニックを開業していた。学期末の保護者懇談にはピカピカのレクサスLC500でやって来て、このあたりには絶対に売っていなさそうな鮮やかな色のニットのワンピースにカシミアのコート、それととてもきれいな形のハイヒール。たまたまその人を駅前で見かけた琴子が「アレ、ルブタン。クッソ高い靴」と言って僕の耳元でささやいたその値段で僕を卒倒させそうになった靴を履いて背筋をぴんと伸ばし、都市部から遥かに離れた田舎のベッドタウンの、中間層から少し上の家庭の子供達がすし詰めになった学習塾の鈍色のリノリウムの床を力強く踏みしめて歩く脚力の強そうなお母さんだった。要するに自分とその周辺の事にふんだんお金がかかっていて派手で勝気で強そうな人、少なくとも僕にはそういう印象の人だった。その人が母に「同じような母親が集まって子育ての事を相談したりする集まりがあるの」と誘った事がきっかけだった。

『同じような母親』という文言に母が惹かれてしまった事だけは、僕にも分かる。

レクサスとカシミアとルブタン。

その『会』の存在について僕達は

「屠られた子羊は
力、富、知恵、威力、
誉れ、栄光、そして賛美を
受けるにふさわしい方です」

母がこんな文言が開いて1ページ目に印刷された羊のイラストを箔押しした茶色い合皮の表紙の本を特別優しい笑顔で手渡してきた時に知った。母はそれを「読みなさい、幸せになるための本よ」と言って僕達に渡してきたので、僕はとりあえず開いてみたその本の中身の文字の細かさに困惑して、にいちゃんの顔をそっと横目で盗み見たら、にいちゃんは(これは素直にハイって言わないとまずいやつだから)という顔をしていたので、僕とにいちゃんは行儀よく「ハイ」と返事をして、母が部屋から出て行ってから、それをもう一度パラパラめくりながらにいちゃんに聞いた。

「にいちゃん、これ何」

「多分聖書だね。ホラ、みいも昔、幼稚園の卒園式で園長先生からもらっただろう『こどもせいしょ』あれの大人用のちゃんとしたヤツを適当に抜粋して編集した本だと思う。この最初のページのこれは多分黙示録だよ」

にいちゃんは僕が全然知らない事を本当になんでもよく知っている。僕は感心して表紙の1ページ目をめくった場所に書かれているにいちゃんが「多分黙示録だ」と言っていた短い文章を読もうとした、けれど最初の1行目から漢字が難しくて読めなかった。

「『…られた子羊』?」

「ほふられたって読むんだ、この場合は神様に捧げるために殺したというか…そういう意味、多分。これは正しい行いをして神様を信じて選ばれて救われようみたいな感じの内容の本なんちゃうかな、読まなくても大体分かるよ」

「救われる?何から?」

「世界の終わり」

「え!世界ってやっぱり終わるの?それっていつ?来年?」

僕はびっくりしてにいちゃんに聞いた。にいちゃんが僕に語る事はいつも真実で、にいちゃんの言葉は僕の人生においての法であり摂理だった訳だから、そのにいちゃんが「世界の終末」を口にした時、僕は一瞬それを信じてしまった。にいちゃんはそんな僕を見て笑って

「違うよ。まあ、この世界もいつかは終わる日が来るのかもしれないけど、それがいつなのかは誰もわからない。地球もあと50億年後くらいに爆発して跡形も無くなるとかそういう話は昔から物理の世界にあるけど、これは多分そういうんじゃない。不安だってことかな、みんな予測不可能な災害とか突発的な不幸とかあとは理不尽な運命とか、そういうものに巻き込まれるのが怖いんだよ、ついでにそういうものに直面した時の判断とか選択を間違うのも怖くて嫌だ。そういう時神様が出て来て「ハイこれが正しい選択です」って言い切ってくれたら楽やん。お母さんはそういう気持ちなのかもね、とにかく自分の筋書きから物事が逸れたり、失敗したりすることを極端に嫌がる人だから、憎悪しているって言ってもいいかもしれない。それがしんどいんだろうな。そんな時に神様が出て来て正しい答えはこれですよって言ってくれたら、誰もそれを間違いだとは思わないし楽だし飛びつく。神様っていうのは絶対知で絶対善、そして全能、そういう設定なんだから」

「神様はそんなに正しいのか…」

「僕はそうは思わないけどね、神様だって必ず間違う事はある。みいはにいちゃんのいない時にお母さんにこの『会』に連れていかれそうになったら塾の自習室に行くとか言って出来るだけ逃げた方がいい、普通の教会の日曜学校とかなら全然いいけど、こういうの、あんまり善いものじゃないよ」

にいちゃんはいつでも正しい。ぼくはウン分かった、と言ってその教科書の半分くらいのサイズの本を自分の学習机の上にうずたかく積まれた塾のテキストの上に置いた。にいちゃんもその本を雑に自分の机の一番上の引き出し中に無造作に放り込んで、それから独り言みたいにこう言った。

『幸福とは幸福を問題にしない時を言う』

「えっ?何?にいちゃん」

「芥川龍之介のことば。ホラ『杜子春』とかを書いた人だよ、みいはまだ知らないかな。人間は本心から幸せだと思っている時に、幸せについて全然考えないってこと」

「ふうん。じゃあお母さんは今、不幸なの?」

にいちゃんという完全無欠、完璧で完全体の息子がいても、その次と次の子どもとして欠陥品の僕とことりが続いた事が母の心を不幸の底に落としているのかと、僕が「不幸なの?」の次の言葉をそう続けようとしたその時、にいちゃんは僕の言葉を遮るようにして僕にこう言った

「みい、勘違いしたらダメだよ、お母さんがもし今、自分を不幸だと思って嘆いているとしたら、それはみいのせいでもことりのせいでもなくて、多分僕のせいだよ」

でもそれだって僕にはどうしようない事なんだよ。そうにいちゃんは言って少し寂しそうに笑ったので、にいちゃんの言葉は僕には全然理解できない不思議なものではあったけれど僕はもうそれ以上の事は何も聞かなかった。それで話題を変えようと思ってにいちゃんに、ちょっと前に旅人算の問題文を読んで、たかし君がどうしてお兄さんを待たないのかなと疑問に思った話を母にしたら、どうもかなり失望させたみたいでフルスイングで叩かれたという話をしたら、僕の頭を撫でて

「可哀相だったな、痛かったろ。でもにいちゃんも昔同じこと思ったよ、みいは僕の事、待ってくれるだろうなって」

と言ってくれたので、単純な僕は嬉しかった。

そしてにいちゃんが折角「お母さんに『会』に連れていかれそうになったら適当に何か言って逃げろ」と忠告してくれていたのにも関わらず、にいちゃんが僕の傍にいない土曜日の午前中、僕は母にこう言われて上手く言い逃れも雲隠れも出来ずに、その『会』に連れていかれる事になった。というよりは、母の筋書きの中にある決定事項を僕がうまく立ち回って逃げおおせるなんて事はまず不可能で、その点、にいちゃんは僕をいつも少し過大評価していた。

「汀、今日は先生から大切なお話が聞けるからお母さんと来なさい」

僕がハイとかイイエとか言うそれよりずっと速い速度で母は僕に、にいちゃんのお下がりのラルフローレンのボタンダウンシャツと紺色のカーディガンを押し付けてきて早く着替えて来なさいと促した。こういう時「でも僕は今日は塾の自習室に行くんだけど」とか「友達と約束があるから」などと言おうものなら、母の怒りの感情は3秒程度で臨界点に達し、恫喝された上で両頬を殴打されることを流石にこの頃は僕も経験則で理解していたので、母から先手を打たれてしまった事案について僕はもう絶対に逆らわなかった。母の言うそれがどんな『会』なのかは分からないけど、僕の真理と真実とはいつもにいちゃんの手の中にあるのだから、とにかくその先生の大切なお話を黙って聞いていれば特に問題はないんじゃないだろうかと、僕は思った。

それで、大人しく母から指定された衣類に着替えて、以前渡されたあの羊の箔押しの本を、学習机の半分の面積を埋めている塾のテキストの山から掘り出し、母の運転する車の後部座席に大人しく乗車して到着したのは小さな木造の教会だった、だと思う。白い漆喰の壁に赤茶色の屋根のその上に小さな白銀色の十字架が立てられていたから。でもそれは僕が小さいころ通っていた幼稚園の隣にあった教会、ゴシック様式風の豪奢な造りの教会とは少し違う、簡素な印象のあまり大きくない建物だった。それでその中に、ぞろぞろと母と同じような年頃で母と同じような雰囲気の上品なワンピースやスーツの女の人ばかりが吸い込まれていくのを僕は少し奇妙に感じた。

なんだか小学校の参観日みたいだ。

その教会らしき建物の扉を開けて、その中の吹き抜けの小さなホールになっている空間のもう一枚の扉を開けると、そこは小さな礼拝堂だった。細長く作られた広い空間に長椅子が2台ずつ10列程整然と配置され、その間を貫くように真っ直ぐ作られた通路の正面、一段高くなっている場所にオーケストラの指揮者台のように説教台が設置されていて、その真後ろの壁には日光が差し込むとその説教台にとりどりに色のついた美しい光が落ちるようにはめ込まれている抽象的なモザイク画のような、大部分は青であとは緑と白と少しの黄色のガラスで作られているステンドグラスが設えられていて、それは僕には晴れた日の草原に1匹だけ寂しくぽつんととり残された仔羊に見えた。その青い光の当たる場所に、母が『先生』と呼んでいる60歳位に見える清潔で穏やかで理知的な印象の細身の男の人が立ってにこやかに僕達を手招きしていた。「ようこそいらっしゃいました」と言って。

そこに不穏な感じは無かった。でも何かがちぐはぐな、妙に空気が重たく停滞した空間がそこにあって僕は、母に促されて長椅子に着席した後も何だかそわそわして、首をしきりに動かしては礼拝堂の中のあちこちを観察していた。そうしたら母に小さな、でも険のある声で注意された。

「汀、少しは落ち着きなさい、あんたはいつも本当に落ち着きが無い」

礼拝堂の長椅子にどんどん母と同じくらいかほんの少し年上に見える年ごろの清潔で少し高価そうな衣類を身に着けた女の人が、それはまるで母の複写のような、その手の女の人達がすべて収まり切ると、静かな祈りの言葉の後に、母の言う「大切なお話」が始まった。『先生』ははじめ礼拝堂に集まった満員の聴衆を前にそして背後には草原の仔羊の青い光を浴びながら、この世界について、虚構だらけで虚無的でまるで濃い霧がかかったような光の無い今の世界で私達は底の無い不安の中にあります「皆さん、そうですよね」そんな事をゆっくりとした口調で語り始めた。

「天災、それに伴う人災、そして世界に蔓延する疫病、皆さんはこの今の状態を何かの予兆、警告だとは思いませんか」

この説教台の上で抽象的かつ不穏な事柄をごく穏やかに語るこの先生が『会』の指導者で、司祭もしくは牧師の役割をしている人のようだった。それでその人の「大切なお話」を、僕はそうかなあ、そういうものなのかなあ、僕はそこまで考えてないけどなと思いながら聞いていたけれど、周りのおばさん達が熱心に頷きながら聞き入っているので、とりあえず僕も話しを熱心に聞いているふりをすることにした。

「私たちは今、混沌の中にいます」

「そして、いずれ必ず我々の世界には終末が訪れます」

『先生』はそう強く言い切ってから、次いで少し声のトーンを上げてこう言った。終末は今そこに迫って来ています。この会の教えを信じ、そして神に選別された存在として神の国の到来を待ちましょう。我々は炉に投げ入れられる悪い麦の穂ではありません。教えを伝え広め、罪を犯すことなく、その『しるし』が現れる事を待ちましょう。そう言って会衆を諭していた。違うな、脅していたと言うべきかもしれない。

「あなた方こそ選ばれた方です」

世界に、まるで清潔な疫病のように誰も傷つけない代わりに確かなのか不確かなのか分からない曖昧で柔らかで口当たりの良い言葉が幅を利かせすぎて誰も何かを強い言葉で言い切らなくなると、もしかしたら人間は多少ばかげていて非科学的で全然辻褄があわなくても、何かを強く言い切ってくれる人に賛同して追従してしまうものなのかもしれない、何かを強く言い切る言葉はそれだけで力だ。そしてそこに追従しておけば何も考えなくて済む。そういう事をにいちゃんも言っていた。この『会』の中にはその先生の他に『牧者』と呼ばれる会に集まった人のお世話をする役割をするおばさんが何人かいて、家族の病気、子どもの進学、事業の行き詰まり、この場にいる健康の事、そんな個々人の細かなことについて、人生相談のようなそれでいて、ただの妄信の伝達のような事を行っていた。

その日、先生の話の後、母もまたその『牧者』のおばさん達が作るいくつかの輪の中の1つに入ってしきりに何かを相談してそれから白い封筒をそっと渡していた。僕はその時、それが何だかよくわからないまま、その輪から少し離れた場所で母のその『相談』が終わるのを待っていた。そうしたら母のいる人の輪の中の中心の、小さなビーズの飾りがついている赤いセーターを着ていた上品そうなおばさんとおばあさんの間位の年齢の人に手招きをされた。こっちに来なさいと言って。その人は気が進まないままのろのろと移動して来た僕を、自分の目の前の小さな丸椅子に座らせてから、なんだか無理に作っているような不自然な笑顔で僕にいくつか質問をした。学年とか兄弟のこと、お兄ちゃんとは仲がいいのとか、今どんな事が楽しいのとか、心配事はないかとか。でも僕は初対面のその人がどうして僕にそんな事を聞いてくるのか、質問の意図が分からなかったし、何より僕は知らない大人と話す事があまり得意ではなかったから、曖昧にそして覇気のない返事でそれをやり過ごしていたら、おばさんも僕との会話に詰ってしまった様子で、突然、僕にこんなことを言った。

「汀君、この会の教えを信じて、お勉強を頑張ってね、あなたも神様に選ばれた子なのよ、神様に間違いはないの、全知全能の方よ、必ず幸福にしてくださるの」

そんなことを突然急に言われても、僕は神様に選ばれた覚えが経験的にも実感としても全然無かったので、つい、つい心に仕舞っておけばよかった本心を口からぽろりとそこに吐き出してしまった。

「えっ、でも僕は妹と同じで、神様から選ばれなかったんです。妹なんかさっきの先生のお話みたいに本気で火に焼かれてしまって今は骨だし。それに神様だって間違う事はあるって、絶対じゃないって」

僕の言葉を聞いたおばさんは、ほんの一瞬だけ怖い顔をした。大人の、特に女の人の表情の変化にとても敏感な僕にはそれが微かな事でもよく分かった。僕はそういう事を厳しく訓練されているタイプの子どもだったから。でもおばさんはその0.3秒後にすぐに元の笑顔を作り直して

「まあ…どなたが汀君にそう言ったの?」

と僕に聞いた。

(あ、これはまずいヤツだ)

僕はそう思った。その時の母の顔は僕には恐ろしくてとても見られなかった。母は、鬼のような顔をしていたに違いない。表面上はそう見えなくても僕にはわかる。

「えーっと、おにいちゃん…」

僕がそのおばさんにこう答えたその瞬間、僕は母に、母の口から出てきた「まあ、この子ったら…ちょっとすみません」という上品でごく柔らかな口調の一言とは裏腹な物凄い力で左腕を引っ張られて外に連れ出された。母は決して体の大きい人ではないけれど、こういう時どこから出て来るのか物凄い力が出る。そしてそれは容赦なく乱暴で酷く痛い。母は片手で28㎏ある僕を礼拝堂の外、ホールから小さな小部屋に繋がっている薄暗い廊下に引っ張り出した。そして僕の身長に合わせて床に膝をついた姿勢で僕の両肩を掴んで僕の顔を覗き込んでから、静かに、でも決して黙秘権を僕に行使させない低い声で僕の瞳から目を離さずにこう聞いた。

「汀、アンタ、希から何をどのくらい聞いてるの?」

何を?

どのくらい?

僕は母の質問の意図と意味が全然わからなくて、3秒程考えた後、母があの本を僕達に渡した日、にいちゃんが僕に聞かせるともなくつぶやいた言葉を母にそのまま伝えてみた。僕にはそれ位しか心当たりが無かったからだ。

「幸福とは幸福を問題にしない時を言うって、人間は本当に幸せな時は自分が幸せかどうかなんて全然考えないって」

にいちゃんはそう言っていたよ。と僕が言うと母は困惑した顔をして、少し考えるようなそぶりを見せ、それから

「汀は…希が、おにいちゃんが…」

途中まで何かを言いかけてそれを止め、やがて、何かを諦めたような顔をしてから小さくため息をついてまた立ち上がった。

「お母さんは礼拝堂の中でまだお話があるから、アンタはここで待ってなさい」

母はそう言うと僕をその薄暗い廊下に置いて、またあのおばさん達と先生のいる礼拝堂の中に入って行ってしまった。僕はちょっと何が起きたのか全然分からなかったけれど、母に殴られずに済んだ事にとりあえずはほっとした。

「ねえ、ゲームする?」

すると、その安堵の後、薄暗い廊下の奥の灯り取りの小窓のある壁の下に置かれている長椅子に座った男の子が僕に声をかけてきた。というより、母の勢いに押されて僕はそこに母と僕以外に誰かがいたのを、その子に声をかけられる瞬間まで全然気が付いていなかった。

「Fクラスの子やろ、僕のこと知ってる?」

僕はその子の顔をよく見てから「知ってる」と言った。特Sクラスのレクサスでルブタンでカシミア。

「僕も君の事知ってるよ、あの伝説の天才の弟やろ」

マコト君はそう言って僕に微笑んだ。マコト君は特Sクラスの子にしてはかなり珍しく、Fクラスの僕の事を普通に人間として遇してくれる子のようだった。Fクラスというのは僕の通っている塾の中で中学受験をする子ども達の中では一番下位クラスの事で、対して特Sクラスは関西全域の超難関を狙う一番上位クラスの事。Fクラスの僕からすると特Sクラスは雲の上の子ども達の集う場所だ。実際使用する教室も特Sクラスは塾の入っているテナントビルの最上階にあった。そして僕のFクラスは地下1階、下界を通り越して地下だ。その間には物理的な長い階段と共に、とても深くて暗い川が流れている。Fクラスの僕達は上を見上げては「あいつらはいいよな」と卑屈になり、天上の特Sクラスの子どもたちは地下の僕らの姿を想像して嘲笑する「あいつらは死ぬほどバカだ」。成績と言う名の実力だけが物を言う世界。僕はそれをよく知っていたのでマコト君にこう言った、マコト君はFクラスのヤツと話すと馬鹿になるぞとか思わないんだね。

「僕?特Sだけど、あれは実はママが先生に無理言ってねじ込んだんだ。僕は実力的に特Sなんかじゃないよ、僕はそんなに勉強が好きじゃないんや。僕のお兄ちゃんは割と賢いから君のお兄ちゃんと同じ高校に通ってるけどね、今高校1年生。ママは僕をお兄ちゃんと同じようにしたいんだよ、僕の家はさあ、一族の男の殆どが医者だから、あの中学から高校に行ってそれから医学部に行けないヤツは人間扱いされなくなる、その辺の石ころと同じなんや。僕もとりあえず中学受験に成功しないと家から追い出される予定になってる」

この『会』はなかなか終わらないから、僕と一緒にゲームしようよ。マコト君はふたつ持って来ていたゲーム機のひとつを僕に貸してくれた、対戦とかしようよと言って。マコト君は『僕は小心者なんだ』と自分を評した。だから医者になって一族の列に整然と連なる事を、自分は血も切り傷も手術も骨折も打腱器もその手の事が全部怖くて苦手だから全く望んでいない、どちらかと言うとゲームプログラマーになりたいと言っていた。君のママも僕のママに誘われたんやろ、なんかごめんな。この中のみんなは普通に見えてちょっと狂ってるんや。知ってる?あの相談1回3万円で、あのうさん臭い先生がお祈りして『聖別』した救い主の体とか言うパンが1欠片1万円。その正体はすぐそこのスーパーで買ってきた1斤100円の食パンなんやで、とかそういう事をごく小さな声で特に面白くなさそうに話してくれて、それから

「汀君はええなあ、君のお兄ちゃん、めっちゃ恰好良いし、頭もいいし、面白いし、僕もあんなお兄ちゃんがよかったなあ、ウチのお兄ちゃんなんか全然おもんないし、毎日喧嘩ばっかりしてる」

と言うので、恰好良いとか頭がいいとか羨ましいまでは請け負うけど、面白いってどういう事なんだろうと僕はその部分だけを奇異に感じた。にいちゃんはとても博識で僕に色々な事を教えてくれるけど、だからと言って普段は多弁な訳ではなく、どちらかと言うと寡黙で、特別陽気な性格でもない。むしろその逆の方だと僕は思うんだけどな。そう思ってマコト君に『面白い』ってどういう事なのかを聞いてみた。

「ねえ、僕のにいちゃんが『面白い』って何?どういう事?」

「え?だって中高通して今までずうっと学年トップで、それなのに毎年9月にある学園祭のミスコンで中1から今まで5年間完全無欠の女王なんやろ。もしかして弟なのに知らないの?」

「ミスコン?女王?何が?何で?だってにいちゃん達のあの学校って男子校だよ」

「だから『面白い』んやって。開校以来、成績では他の追随を許してこなかった孤高の天才が女装したらその辺のアイドルなんかよりずっと可愛なんてめっちゃ面白いやん。うちのお兄ちゃんが言うには、来年もう一度優勝したらそっちも学校始まって以来の6年制覇で殿堂入りなんやって。初出場の年なんかあまりにも本気で女の子にしか見えなくて、生徒会と先生から待ったがかかって、在籍生名簿と本人との照合確認があったって伝説があるんやで」

本当に知らなかったの?とマコト君は僕の顔を不思議そうにのぞき込んだので僕は、知らなかったなあと嘆息を漏らした。確かに、にいちゃんは高校生になってから身長が180㎝くらいまで伸びて、とても精悍な顔立ちにはなったけれど、体躯はとても細身で特に服の上からは凄く華奢に見えたし、まだ顔立ちには少年の中性的な雰囲気が残っていたから、お化粧をして女の子の服を纏えば女の子に見えるのかもしれない。美しい物はその性別や生態がどうあれ、何か共通した物を保有していてどこか似通っているものなのだろう。

へえ、帰ったら兄ちゃんに聞いてみるよ。そう言って僕はその日はマコト君と結構長い時間、ゲームをして遊んだ。マコト君は、僕達多分またここに連れてこられるよ、僕毎回ゲームを持ってくるからまた一緒に遊ぼうよと言ってくれた。僕達はあの世界の終末から救われる事を最大命題にした『会』と壁一枚挟んだ廊下で、ひたすら敵を殺して回るシューティングゲームをして仲良く遊んだ。同時にプレイするプレイヤーと共闘して敵を倒すヤツだ。扉の向こうのおばさん達も、来るのか来ないのか全然分からない世界の終わりを憂慮して、いるのかいないのか分からない神様に自分達だけが特別に救われるように祈り、3㎝角に切った食パンを法外な値段で買う暇があるなら、みんなでこういう事をして遊んだほうがずっと有益で楽しいのにと僕は思ったけれど勿論そんな事、母の前では決して口には出さなかった。

あまり頭の良くない僕にだってそれ位の弁えはある。

その日の夕方、もう日が暮れてから母の運転する車で家に帰ると、一足先に学校から帰って来ていたにいちゃんは、あの『会』に連れていかれた僕を心配して玄関で待っていてくれた。僕が車を駐車場に入れている母よりほんの少し先に玄関の引き戸を開けると、にいちゃんはそのまま僕を捕まえて2階の僕達の部屋に引っ張って行き、部屋のドアを閉めてから、階下に響かないように声を押し殺して僕にこう聞いた。

「みい、大丈夫か、あの『会』でヘンな物に洗脳されてこなかったか?いいか?にいちゃんが今から言う事をよく聞いて?」

「にいちゃん、大丈夫だよ僕は洗脳なんかされてないよ」

「いいから、僕の質問に答えて、みいと琴子の天の神様は誰や?」

にいちゃんが僕の顔を覗き込んで本気で大真面目に質問してくるので、僕もごく真面目な顔で厳かにこう答えた。

「キース・リチャーズ」

よかった、大丈夫だ。にいちゃんは心底ほっとした表情をして僕の事を抱きしめた。僕が「でもにいちゃん、キース・リチャーズはまだ生きてるんやで」と言うと、にいちゃんは抱きしめたまますっぽりと自分の腕の中にいる僕の顔を見下ろして「そうだっけ」と言いフフフと笑った。

実は、僕はこの『会』よりずっと以前に琴子から、にいちゃんが言うには「洗脳」されていた。琴子はどうしてなのかローリングストーンズとかポリスとかそういう古いロックが好きで、それを最初はにいちゃんに向けてこれもあれも聞けと、これもにいちゃんが言うには「布教」をしていたけれど、にいちゃんはあまりそういうのが好きじゃなくて、いまいち反応が悪いからといつ頃からか琴子はにいちゃんの代わりに僕にそれを聞かせるようになった。にいちゃんから言わせるとエレキギターの音色は「機械的でただ煩いだけのもの」らしい。でも僕は6本の弦から生まれる、金切り声で叫んでいるように聞こえるのに泣いているような、猛々しいのに枯れているようなあの音をとても好きになって、その中でもとりわけ僕はキース・リチャーズのギターの音が好きだった。それも勿論琴子の布教によるものだ。琴子はギターと同様にこれもパパに買わせたと言って、当時はまだ珍しくてびっくりするほど高価だったりんごの刻印の入ったMP3プレイヤーでその手の音楽を僕に沢山聞かせてくれた。僕はクラッシック以外の音楽は、洋楽も邦楽も母が毛嫌いしていてそんなものを買ってもらう事はおろか、大っぴらに家の中で聞く事も出来なかったから、琴子が僕に布教と称して提供してくれたあの外国の音楽に触れられる時間は僕にはとても貴重で大切な時間だった。

「よし、みいはこれからもキース・リチャーズを神様にして生きて行くんだ、変なものに染まるなよ」

にいちゃんはそう言って僕の頭を撫でてくれて、それから僕は少しだけ今日見てきた『会』の様子をにいちゃんに話した。にいちゃんの言っていた通り、そこの先生が世界に終わりがもう直ぐ来ると言っていた事、それであの羊の箔押しのある本の中にある「正しい行い」をこつこつと実践し、いつか来る終わりの日に選別され救われる人間になろうと言っていた事、その後そこにいたおばさんに母が相談事をしていて、それが実は1回3万円もするんだと、今日仲良くなった同じ塾の子に教えてもらった事。

「選民思想と聖徒の堅忍。ずうっと昔から言われている決まり文句みたいなもので高校の倫理なんかでも習うよ。みいはつまらなかっただろ、そういうのからはいつも上手く逃げられるといいんだけどなあ。この先、お母さんがあの会に関わり続けるつもりなら、みいは本当に少し家から遠い中学に行くのがいいのかもね」

物理的に距離がある方が逃げやすいから。にいちゃんはそう言って少し何かを考えていたけど、僕はひとつ聞きたい事があるんだけどいい?とにいちゃんの逡巡を遮った。

「あのさ、今日その相談?そいういうのが終わるのを待ってる時に、同じ塾の特Sクラスの子とゲームをして遊んでたんやけど、マコト君ていう子。その子がにいちゃんは、学園祭のミスコンの女王やって、今年もう1回女王になったら完全無欠の殿堂入りやって言ってたけど」

それって本当?にいちゃん実は学校でそんな面白い事してたの?僕がそう聞き終わる前に、僕の顔を凝視していたにいちゃんはだんだん顔色がおかしくなっていって、僕がにいちゃんどうしたの、顔色が何て言うか赤い?そう言ってにいちゃんの顔を見上げるようにして覗き込むと、にいちゃんはそのみるみる赤くなっていく顔面を僕に近づけて来て

「それ…あの…その…それを言ってたマコト君っていう子…隣の町の、南整形外科医院の子?」

「そうだよ、なんだ、にいちゃんも知ってるんだ。にいちゃんと同じ学校の1つ下の学年にお兄ちゃんがいるんだってマコト君は言ってたよ」

「そっか…あのさ、それ聞いてみいはどう思った」

「え?僕もそのにいちゃんを見たいと思った!何でにいちゃんはそんな面白い事、僕に黙ってたの?」

僕がそう言うと、にいちゃんは僕の目の前に静かにそしてゆっくりとしゃがみ込んだ。僕より7つ年上のにいちゃんは僕が生まれた時から僕よりずっと大きい。だからこんな風に僕よりにいちゃんが小さくなって僕の視界ににいちゃんのつむじが入るのはとても珍しい事だ。ぼくはその珍しいにいちゃんのつむじを見ながら、しゃがみ込んだにいちゃんに更にこう言った。

「駄目だった?にいちゃんは、本当にきれいな顔をしてるから女の子の恰好をしても絶対にきれいだと、僕は思ったんだけど」

にいちゃんは、この僕の質問に、言葉で答えてくれないまましゃがみ込んで、自分の顔を両腕にうずめるように隠してうんうんと頷いた。でも、そんな風に反応はあってもしばらく顔を僕に向けてくれなくて、それが僕を少しだけ不安にしたけれど、僕はにいちゃんが腕の中に隠しているにいちゃんの顔をあまり覗き込んではいけない気がして、僕につむじを見せて丸まったままのにいちゃんの横に体育座りしてにいちゃんが顔を上げてくれるのを少しの間、静かに待っていた。

「にいちゃん大丈夫?」

「にいちゃん僕なんか悪い事言った?」

「にいちゃんの学校は意外と楽しそうでいいなって、僕は思ってるんだけど」

僕がそういう質問のような感想のような事を言うとにいちゃんはそのたびに頭を横に動かしたり、縦に動かしたりして、反応はしてくれたけれど、それでも顔を上げてくれるまで約15分位の時間を要した。15分経過して僕にやっと顔を僕に向けてくれたにいちゃんはまだ少し赤い顔で、みいは、僕が変なにいちゃんだと思わないかとか、笑わないかとか、嫌いになったりしないかとかそういう、まず僕の感情の中には起こり得ない事象を、小声でいちいち確認しつつ、携帯の中に保存されているというその例の学園祭の写真を見せてくれた。お母さんとか他の学校の友達なんかには秘密だよと言って。

「これは一昨年、中3の時のやつ」

にいちゃんが僕に携帯を渡す時に触れたにいちゃんの指が妙に冷たいのに汗ばんでいるのが僕は少しだけ不思議だった。けれど僕のその小さな疑問は、携帯の中に閉じ込められているにいちゃんだというその子の画像を見た時にどこかに吹き飛んでいってしまった。

驚愕で。

「…女の子だ!」

にいちゃんの見せてくれた画像の中には、多分琴子の物だろう制服、3本線の襟とそこに白いスカーフを結んだセーラー服を着た背の高い女の子がいた。肩に付く長い黒髪は多分かつらだ。そこにあるのは確かににいちゃんの顔なのだけれど、同時に女の子でもあって、それがにこやかにこちらを見ている。僕はため息をついてから、次に深呼吸をして、それからこう感想を述べた。

「ことりはにいちゃんに似ていた方がやっぱり幸せだったよ、だってにいちゃんの顔で、長い髪で、セーラー服を着たらこんなにきれいな女の子になるんやから」

僕がそう言うと、にいちゃんは驚いたような、哀しいような、それでいて嬉しそうな、とにかく今持ち得る感情を全部放り込んでかき回したような表情をして、僕にこう言った。

「…よかった。もし、みいに『にいちゃん気持ち悪い』って言われたら、にいちゃんは助走をつけて2階の窓から飛び降りるつもりやったから」

「えっ!そんな風に思ってたから教えてくれなかったの?そんな事ある訳ないやん」

にいちゃんは一体何を言っているんだ。仮に明日世界が終わるとしても、僕がにいちゃんを気持ち悪いなんて言葉で表現する訳が無いじゃないか、にいちゃんは僕にとって法であり摂理なんだから、神様なんかよりずっと、僕にとっての真実だ。僕がそんな事を言うと、にいちゃんはとてもおかしそうに笑った。にいちゃんは、みいにとって神を超えるのか、すごいな。僕、宗教でも作ろうかなと言って。

そんなことしなくてもにいちゃんは僕にとって神だ。キース・リチャーズよりもずっと神だ。

☞3

冬休みに入ると、僕は冬期講習の合間に、またあの『会』に連れていかれるようになった。にいちゃんは冬休みに入ったとは言っても「学校が年末ぎりぎりまで冬期補習をしていてあまり家にいられないんやけどみいは大丈夫か、色々と」そう言って僕の事を心配してくれていたけど、あの会の集まりの話しの輪に僕のような子どもがあまり入るような事はなくて、どちらかと言うと、レクサスのお母さんに連れてこられて、その上で僕と一緒に毎回廊下に放置されるマコト君と一緒にゲームができるので平気だった。

あの冬場は暖房の火も無い底冷えする廊下に放り出された、実は特Sと言ってもその中で最下位、受験に失敗したらその時は「隣の県の山奥にある刑務所みたいな中高一貫校にぶち込まれるんや」と首をすくめながら言うマコト君と、2人目のにいちゃんになる事をすっかり諦められて、母の失敗作としてここの『会』に帯同させる子どもである以外、何の意味も持たされていない僕は、親から適当にぞんざいに扱われることに結構慣れていた。マコト君も多分僕と同じように「神様の選抜漏れ」の子だったのだと思う。

だから礼拝堂で「先生」から世界の終わりとこの世の破滅についてのありがたいお話を聞いてそれから

「祈りましょう」

と言われて会堂の会衆が一同手を合わせて頭を垂れている時も、薄目を開けては目くばせをして、周囲の大人に見つからないように細心の注意をはらいつつ、ふざけて遊んだりしていた。

大体、僕はことりが死んでしまった時からここの人たちの言う『神様』なんか全然信じていない。

そういう僕の態度というか雰囲気が『先生』の目についたのだろうか、それとも『会』の中にまだ子どもが少ないから何か教えてみようと思いついてみただけなのか、先生は、ある時僕にあの羊の箔押しの本の最初の所を読んで感想を言うようにと課題を出して来た。僕といつも一緒にいるマコト君に出されたものがそれとはまた違う課題だったのは、僕達が2人で結託して適当な事を答えるとでも思ったんだろうか、まあその通りだけど。何しろ僕達は互いに落ちこぼれとは言え中学受験組の小学生で、無駄だとか無意味だと判断したことは全力で合理的に、言い換えると適当に手を抜くという事をもう既に知っているあまり可愛くない種類の子どもだったから。

それで先生が僕に出してきた課題は『神様がその手で世界を創造されて、その中で人間を神の似姿として、しかも男と女におつくりになった事にはどんな意味があると思いますか、そして君はそれをどう思いましたか、それを今から考えて15分後、先生に教えてください』というものだった、ちょっとした感想文だ。先生はいつも僕のにいちゃんの制服を白くしたような不思議な服を着ていて、銀色のフチの眼鏡をかけ、僕も持っている羊の箔押しをした茶色い合皮の本を右手に携帯して、柔和とも違う、それでいて穏やかとも違う、なんだか不思議な作り物みたいな笑顔をしていた。そして、それ以外の表情をあまり見た事が無かった。

15分経って僕は、何故か先生の前ではなくて礼拝堂の一番前に立たされた。先生やそのほか、あのお世話をするおばさんと、それから他の『会』の信徒の人達、母によく似た主に女の人達の前に。

「さあ、汀君、君があの聖句を読んで感じた事をここで皆さんに発表してください、それが君の信仰の告白です」

先生はそんな風に言って僕にあの何とも言えない不思議な笑顔を向けた。僕の目の前にずらりと並ぶおばさん達は先生の複写みたいな顔で微笑みながら僕の事を見守っている。でも僕は先生の言っている事を概念的に咀嚼して脳内で理解する事が全く出来ずにその場で困惑した表情を崩す事ができなかった。あの先生が指示した箇所の天地創造の物語の感想をここで述べたらそれが僕の信仰の告白になってしまうというのは一体どういうシステムというか理解、展開なんだろう、僕の神様はここにいる神様じゃないのに。そしてその疑問の渦巻く混沌の脳内でこう思った。

(なんか、気持ち悪いな) 

僕はキース・リチャーズとにいちゃん以外何も信じていない。クリスマスケーキも食べるし、初詣にも去年はにいちゃんと琴子と行ったけれどそれは季節の行事だ。僕はこの人達の言う神様なんか信仰も信用もしてない、だから僕は『信仰』の部分は無視して僕の思っていることをそこで正直に告白することにした。

「ええと、僕はここの神様を信じていません、なぜなら、神様に生かして欲しいと思って「ことり」と名前を付けた妹が赤ちゃんのまま死んでしまったからです。それと、僕は、この本の最初の所のお話を読んで不思議に思ったんですけど、神様が人間を男と女に作ったって言ってもその境界線みたいな場所にいる人もいるのにそういう人はどうなのかなって、その人は神様の失敗作ってこと?選抜漏れ?雌雄同体の生き物は?例えばカクレクマノミとか」

そうしたらその時、僕の後ろで次の発表の順番を待たされていたマコト君が僕に小声で

「汀君、カクレクマノミは熱帯魚やぞ、人間じゃないで」

そう言ったので僕は思わず噴き出してしまった。そこで礼拝堂は妙な雰囲気になったまま、僕は先生から説教台の上から降りなさいと促された。その時の先生はそれでもまだあの作り物みたいな笑顔だった。僕は言われるままその説教台を降りて、礼拝堂の一番前の列で待っていた母にその場から引っ張りだされ、駐車場に止めてある車の中に放り込まれて、そのまま家に連れ戻された。その間、母は終始無言だった。でも僕の前半部分が正直で後半部分は意図せずふざけた印象を周囲に与えてしまったあの信仰の告白が、母を静かに、しかし確実に激高させている事はだけは僕にとって明白な事実だった。

帰宅後、僕はその回数を計測して記憶できている範囲だけで言うと、78回母に殴られた、素手ではなくてすりこぎで。素手で人間の体を殴打すると手のひらが痛くなるからだ。母は凶器を持った時にはあまり顔面を狙わない人なのに、この日はまず最初に顔面を思い切り殴打しにかかったので相当頭に血が上っていたのだと思う。だから僕はとっさにうずくまって顔や手や腹部、とにかくあまり殴られると後々生活に支障が出そうな場所を守った。特に体の末端が困る、指をやられると次の日に鉛筆が持てないし、ゲームのコントローラーは更に握りにくい。でもその日の母はその僕の防御行動がかなり気に障ったらしく、僕の体、主に背中をすりこぎで殴打しつつ、時に脇腹に蹴りを入れてくるのでこれはが相当痛かった。その母は息を切らしながら

「アンタはどこまで私に恥をかかせるのよ」

そう叫んで、それはいつもの母の激高時の常套句なのだけれど、次に不思議な事を叫んだ

「希も汀もどうして思うようにいかないのよ」

(希も?)

僕はともかく、なんでにいちゃんが『思うようにいかない』のだろう。そんな筈はないのに。あの、いつも母にとっての願望以上の存在で、成績も見た目も運動神経もピアノもとにかく全部が完璧で親戚中のアイドルであるにいちゃんが思うようにいかない子どもだったら、僕なんか春にうっかり里山に降りてきた熊か猪だ、害獣だ、発見次第即射殺。僕はその不思議で不可解なひとことの意味を考える事で暫く時間をやり過ごしていたら、突然、母の殴打の手が止まった。

「おい、もうその辺にしとけ」

そう言って僕らの背後で母の殴打78回目超を止めたのは、とても珍しい事に、父だった。出先から直帰してきたという父はその日、たまたま早く帰宅して、その一言で母のすりこぎを振るう手を止めた。母は僕達に父についての不満を、帰宅が遅いとか、子どもを一切気に掛けないとか、その割に希の、にいちゃんの成績や模試の結果を自分の手柄のように周囲に吹聴するとかそういう事を口にする割に、面と向かっては父に逆らわなかった。お陰で僕は解放され、そして檻から放たれた熊みたいに2階に走って逃げた。

父はこういう時、母の暴力行為を一応制止はするものの、僕に大丈夫かとか、怪我はないかとか、そんなことは一切聞かなかった。というよりはまるで僕が見えていないかのように僕をその視界に入れなかった。もしかしたら、父の眼球の水晶体は、外界にある物の中で僕だけが反映しないよう構造になっていたのかもしれない。そのくらい父は僕に無関心で、母の暴力行為の後に僕の事を心配して体の傷を詳細に調べ、必要なら医師に診察させるように母に交渉するのは、いつもにいちゃんの役割だった。にいちゃんはその日、学校の冬季補習が遅くなり、街灯もない僕達の家の周囲がすっかり暗くなってから帰宅した。そして2階の僕達の部屋、2段ベッドの下で、明かりもつけずにただぼんやりと座っている僕の顔を見て、小さな悲鳴を上げた。

「どうしたんや、みい、顔、顔の半分が大変な事になってる」

そう言ってにいちゃんが差し出した小さな手鏡の中には、顔面の左半分に中央が赤黒く、そして徐々に青色にグラデーションカラーになっている大きなアザができていた。母の初回の会心の一撃が効いたんだと思う。僕がそう言うとにいちゃんは

「これ、痛みは?他に傷とか打撲の跡は?背中とかお腹とか腕とか」

そう言って僕の服をめくって腹部を確認して次に背中を見てから、今度は深くため息をついた。背中にも殴打の跡が相当数あったんだろう。背中は僕には見えないからよく分からなかったけれど、にいちゃんが部屋の明かりをつけ、それで僕の目にはっきりと映ったにいちゃんの暗澹とした表情を見ていると、僕はなんだかにいちゃんに申し訳ないような悲しいようなそんな気持ちになってきてしまって、努めて明るく

「大丈夫だよにいちゃん、僕、今日はちょっと言わなくていい事を言って、それでお母さんを怒らせちゃったんや。平気、全部見た目よりは全然痛くないから」

そう言うとにいちゃんは、少し厳しい顔をして僕に向き直り

「みい、それは違う、いくら人前で何か失言をしたからって、みいはまだ子どもなんだよ、何を言って良くて何を言って悪いかなんて大人が教える事で、みいが大人の顔色を伺って考える事じゃない。それに万が一、みいが言ってしまったそれがとんでもない禁句…失言だったとしても、お母さんがみいの体をこんな風に傷つけて良い理由にはならないんや。じゃあみいが今日自分が言って失言だと思った事を今にいちゃんに言ってみな、それがこんなに殴られるに値するような事だったのかにいちゃんが検証してやる」

そんな風に言ったので、僕は今日あった事、あの『会』でいつも通りマコト君と参加するふりをして遊んでいたら、突然、先生にあの羊の箔押しの本の冒頭、天地創造の物語を読んで感想を言えと言われた事、その後どうしてだか、会衆一同の前に引っ張り出されてその感想を自分の『信仰の告白』として発表しなさいと言われたので僕はとても困惑して、つい正直に

「僕は、ことりが死んじゃってから神様なんか信じていないし、大体その神様が男と女に人間を作ったって言ったって、その間にいる人、男でもなくて女でもない、カクレクマノミなんかはどうなるのかなって、それは神様の選抜漏れの失敗作なんですかって」

そう言ったんだ、だってそういうの、不平等だと僕は思ったんだよ、間にいる人っているだろ、そしたらそのままお母さんに襟首掴まれて車に放り込まれて家に連れて帰られて、大体78回殴られた。自分に正直に素直な気持ちを大人に伝えたら僕は大体失敗するんや。そう言うとにいちゃんは急に僕の事を抱きしめて、僕の頭を撫でまわしてから、すごく小さな声で

「みいは本当にいい子だ」

一言だけ言って、それから細かく肩を震わせるだけで何も言ってくれなくなった。僕はにいちゃんの肩が震えている様子から、流石のにいちゃんも僕が酔狂な事を言いすぎたから声を立てずに笑っているんだと思った。

「にいちゃん酷いで、検証してやるって言っておいて、僕の事、笑うなんて」

にいちゃんは僕がにいちゃんの腕の中で膨れて抗議しても、兄ちゃんは何も言わないまま肩を細かく震わせて僕の事を強く抱きしめたまま、しばらくの間、僕の頭を撫でつける事をやめなかった。

その日の晩の夕食は、僕の好物が沢山食卓の上を彩った。カボチャのスープ、ツナのマカロニサラダ、それとから揚げときのこの入った炊き込みご飯。母はいつもこうだ。僕に過剰に暴力を振るった後は沢山美味しいものが僕に出されるし母もいつもよりずっと僕に優しい。その時の僕は大好きなから揚げを沢山食べていいと言われて素直に嬉しかった。僕という人間は本当に小さいころからこの母の暴力に飼いならされていて、それが正しいのか異常なのか、自分が可哀相なのかそうでないのか、そう言う事をあまり考えない子どもになっていた。思えば僕はこの母のサンドバックであり、僕こそが草原に残された生贄の子羊だったのだろうけれど、『家庭』というものはそもそも、その中に閉じ込められている人間には全く客観視する事ができない集団で、しかも子どもでもあった僕は、僕のこの家族が一体正常なのかどうかなんて考えた事すらなかった。知性が足りないと言えばそうなのかもしれないし、呑気だと言われればそうなのかもしれない。

しかも哀しい事に僕はこの母の事をとても愛していたし、同時に愛されたいとも思っていた。僕のこの家族の中では、世界中の17歳の子を集めた中でも多分、とびぬけて理性的で知性的なにいちゃんだけが

「僕も大概おかしいけど、あの人はもっと異常だ、昔はもう少し、歯止めがきいたんだけれど、ほんとにごめんな、みい」

そんな風に母を評して、何故か僕に頭を下げて謝罪をしてくれた。僕は、なんでにいちゃんが謝るの、それに今日の殴打78回超はかなり痛かったけど、病院に行くことにはならなかったからいいやん、それより次の土曜日に琴子と一緒に電車で中学校を見に行くんだよねと、以前にいちゃんが僕に約束してくれていた中学校の下見の日が近づいているのを何も考えずに無邪気に楽しみにしていた。

その土曜日には、琴子が僕が見に行く中学の近くに住んでいる「お財布のパパ」を見せてくれると言っていたから、僕はそれも少し楽しみにしていた。それは琴子の中学入学直前に琴子のお母さんと正式に離婚した実のお父さんの事で、今でも琴子が「仲良くしてあげている」パパの事だ。あの豪快で、でもとても優しい琴子のお母さんの前からある日突然失踪してその末に離婚した『パパ』というのは一体どういう人なんだろう。琴子が小学生になる直前「タバコ買って来るね」と言ってふらりと家から居なくなり、数年後遠くの街で発見された薄情で非道なパパ。だからみいも今度会った時には好きなものを食べさせて貰って良い、希も何回も奢ってもらってると琴子は言っていたけれど、それは一体どういう事なのか、そしてそのパパって一体今は何をしているどういう人物なのか、僕はにいちゃんにそのことを何回か聞いたけれど、現代文の要点の要約も小論文もとても得意な筈のにいちゃんは僕に詳細を説明してくれずに、毎回僕に困った顔をしながらこう言った。

「うーん…すごく説明しにくい。会えばわかるよ」

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