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ことりと僕とにいちゃんと鳩 3

☞1

その日、12月の末には珍しく、からりと晴れた青空の土曜日、僕とにいちゃんは、同時刻に一緒に家を出て、駅前の琴子の家まで琴子を迎えに行った。にいちゃんは母に

「汀の受験する中学、僕と同じ学校は汀の性格にあまり向かないと思うし、他の、僕の学校と同じくらいの通学時間で汀が通える所を考えているから一度、どの程度通学時間がかかるのかだけでも今のうちに見ておいた方がいいと思う、僕は殆ど現地を知らないまま受験して、初めのうち通学には結構戸惑ったから」

言葉巧みに母に交通費他諸経費を申請してごく穏便に僕を外に連れ出してくれた。母が熱心にかかわっている『会』の子ども達は信仰を同じくする兄弟姉妹と『会』の人達の呼ぶ信徒と、外界の人間の子どもが親しくすることをその雰囲気で柔らかく、それでも確実に牽制していた。親和性と言う名前の檻だ。だから僕の友人は表面的にはマコト君だけという事になっていた。だからこの日にいちゃんから

「琴子も一緒だって言わない方がいいよ、聞かれてない事に答える義務もないしね」

そう言われていた僕は余計な事は一切言わなかった。とはいえ、ついこの前、来るべき終末とその後の神からの救いを待望して止まない会衆一同の目の前で

「神様なんて信じてない」

意図せずとんでもない暴言を吐いてしまったらしい僕を母は以前ほど積極的には『会』に帯同しなくなっていた。あの草原の子羊の前で僕は、いずれ炉に投げ入れられるべき異端者という事になるらしい、要ははみ出し者だ。でもひとつの集団、人間の塊の中でそういう立場にいる事を、僕は割と平気だった。僕は自分の家にいてさえ欠陥品で不備ありの、大人をがっかりさせる類の子どもなんだ。そういう立場でいることに僕は生まれた時から慣れている。

そしてこの時の、母とにいちゃんとの会話の中の「僕と同じ学校は汀の性格的にあまり向かない」という言葉は、にいちゃんの優しさだ。「入れない」じゃなくて「向かない」。僕が駅に向かう冬の小道を僕の歩幅に合わせてゆっくりと歩くにいちゃんに

「入れないじゃなくて、向かないって言ってくれるのがにいちゃんの優しさやな」

そう僕が言うとにいちゃんは、とても不思議そうな顔をした。みい、何言ってんの。

「そんな事ないよ、あんなの、専願で出願するなら大体の子は普通に合格できる。コツさえ掴めばそう難しい事じゃないよ、勉強じゃなくてテクニックだ。にいちゃんは本当にあの学校がみいには向かないと思ってるだけだよ。みいは感受性と共感性がとっても高い。あと想像力。人の心の襞をきちんとひとつひとつ数えてあげられる、優しいんだ。あそこはね、みいみたいなまともな神経の人間には全然向かないよ。授業中、設問の解答を間違えると担任に分厚い教科書で顔面を殴られて、進路希望調査の志望校欄にある程度のレベルの学校を記入できない子は教師からも周囲からも人間扱いされない、とにかく文Ⅰを理Ⅲを書いておけばそれで良し、適正も志も関係ない、そういう場所。そこにいる全員が競争相手なんだ。本当の意味での友達なんかできない。」

にいちゃんの『コツさえ掴めばそう難しい事じゃない』という考え方自体が、もう天才のそれじゃないかと僕は思ったけれど、僕はそれについてよりも「友達なんかできない」というその言葉が微かに耳の奥に引っかかった。にいちゃんは小学生時代いつも友達、赤いランドセル達に囲まれていたから。僕がその事について、にいちゃんは学校に友達がいないのと聞いたら、いない訳じゃないけど、あそこでは僕だってどちらかというと偽物だからな、にいちゃんがあの学校で同級生とやっているのは友情の錬成じゃなくて無味乾燥な表面だけの社交だよ、にいちゃんはみんなの事を騙しているんだ。それで卒業と同時に終了してさよならしてログアウト、そんな感じだよ。にいちゃんはそう言ってから

「みいにはにいちゃんの轍は踏ませない、みいには13歳から18歳の6年間を心から謳歌してほしい。本来なら、誰にもみいのその6年間は奪えないんだ」

にいちゃんは真面目な顔で僕にそう言ってから、琴子の家、琴子のお母さんのお店の2階のある琴子たちの暮らす住居部分の扉のチャイムを押した。自称『か弱くて低血圧』でにいちゃんが客観的に評すると『布団への執着がすごい』琴子が約束の時間に布団から這い出せないかもしれないから何かプレッシャーを与えて欲しいと言うので、にいちゃんが「じゃあ僕達が家まで迎えに行くから、絶対に起きてよ」と約束をしていたからだ。そんな低血圧で布団への執着の凄い琴子は玄関のチャイムの鈴によく似た電子音を聞いて扉の奥から返事を大声で返事をした「今開けるから!」布団から這い出してくることは出来たらしい。でも、玄関のドアを何のためらいなく全開にした琴子は上半身にTシャツだけを着て下半身を覆うはずのデニムを左手に抱えているというあられもない状態だった。琴子が女子校という性別がひとつしかない世界で普段かなり大らかに過ごしている事も、元々琴子が「他人の目を気にしない」という感覚の振れ幅が大きいのもよく知ってはいたけれどこれには流石に僕も仰天してとっさに琴子の着ているTシャツからむき出しになっている白い太腿を見ないようにした。それで僕が目を逸らしたのと同時に奥から

「琴子!服をちゃんと着てから玄関開けなさい、みいちゃんがびっくりするじゃない」

琴子のお母さんが、琴子のその中途半端な状態を慌てて叱責する声が聞こえた。でもこの時の琴子のお母さんは『みいちゃんが』とだけ言った。

この場合、どちらかというとびっくりしなくてはいけないのはにいちゃんなのでは。

でも当のにいちゃんは僕のように慌てて琴子の体から目を逸らす訳でもなく、かと言って目の前の琴子の腰の括れとか、太ももの付け根に視線を這わす訳でもなく、顔色ひとつ変えない冷静ないつも通りの涼しい顔で琴子がその場で履き始めたデニムを腰の高さまで上げてフロントのトップボタンを留めてやっていた。琴子、宅配の人とかガス屋さんとかもっと言うと琴子の家が女所帯だって知っている変質者が何食わぬ顔でチャイムを鳴らしているのかもれないんだから迂闊に玄関ドア全開するなっていつも言ってるじゃない、しかも半裸で。みいがびっくりしてるよ。

「そう?ごめん、みい」

琴子は僕に少しおどけた笑顔で僕に謝罪したので、いいから服をちゃんと着て琴子、それににいちゃんだってびっくりするよ、僕がそう言うと琴子は、今度は少し首をかしげて考えるフリをしてから僕にこう言った。

「そう?すまん、希」

琴子とにいちゃんの関係はとても不思議なものだった。琴子は小学2年生の時、琴子のお母さんが親戚の持ち物だと言う駅の近くの小さな料理屋さんだったお店を引き継いで今のお店を始め、店舗の2階に自宅を構える形で隣の市からこの町に引っ越してきた子で、その時からにいちゃんと琴子はとても仲の良い友達、親友だ。母の言葉を借りると「母子家庭で水商売」の家の子の琴子は、保守的な田舎町とそこにある小学校の中で当たり前のように揶揄とからかいの標的になった。原理主義的で保守的で同調圧力に飼いならされた小集団はいつも異端者を許さない。それで周囲からいじめられた可哀相な琴子に王子様のように手を差し伸べたのがにいちゃんだった、という訳では全くなくて、ある日そういうくだらない事で琴子を指さして嗤ってからかった挙句、教室の設置図書で琴子の頭を軽く小突いてきたクラスの男児に対して、

「アンタ、それもういっぺん言ってみな、大体アンタん家のパパだって昨日ウチの店に来て散々ウチのママに絡んで『俺と嫁はもう3年も何にもないんだよ』って言ってたで、ぐでんでんに酔っぱらって」

琴子はそう言ってその子の家庭の内情をクラス内で声高に暴露した後、相手の顔面を右ストレートでぶん殴り、その勢いで尻もちをついたその男児に馬乗りになって容赦なく顔面をタコ殴りにした。

「ママを馬鹿にするヤツは絶対に許さない」

琴子は当時から誇り高く、滅法口が悪く、年齢の割に男女の機微に長け、そして物凄く喧嘩が強かった。要するに同級生の男児のからかいに押し黙って涙を堪えて屈するようなタマではなかった。どんな一言で相手が押し黙るのか、そして相手の何処をどう殴れば相手が立ち上がってこられなくなるのか、それをよく知っていた。それでその騒ぎを聞きつけて職員室から慌てて駆け込んで来た担任教師に対して、誰がどう見ても加害者である琴子の弁護人に立ったのがにいちゃんだった。にいちゃんは琴子の下で泣いて詫びを入れている被害者の男児が、琴子の家の稼業と母親を差別的な表現で侮蔑した加害者であり、琴子がその不当に対して行き過ぎた暴力ではあるけれど、果敢に立ち向かった事を教師に説明して、更にこんなことを言った。

「生まれた場所や、皮膚や、目の色や、姿かたち、とにかくその人にはどうにもならない事、生まれつき持っている物を指さして嗤うのは絶対に間違ってる。その報復が暴力である事よりも、そちらの方が罪だと思う。少なくとも僕にとっては」

その言葉が、当時も今も端正に美しいにいちゃんの唇から発せられた時、その隙のない言い分に担任教師は驚嘆し、クラスはしんと静まり、琴子の渾身の一撃で鼻血を出して嗚咽していた男児も琴子とにいちゃんに異議申し立てをせずに鼻血を拭いて素直に謝罪したと言う。

「あの時教室が、光降り注いで、海は割れ、そして天使が祝福のラッパを吹きましたみたいな雰囲気なったんよね。8歳の希の神がかった弁護人ぶりはやばかった」

いつだったか琴子はその時の事をこんな風に言って僕に笑いながら話してくれた。それでその騒ぎのすぐ後、にいちゃんが琴子にしか聞こえない小声で、馬鹿だなあ正面からわかるようにやり返したって君が損するだけだよ、暴力なんて不毛だよ。と言った時に琴子は

「この子は涼しい顔して深謀遠慮を脳内に張り巡らせてるタイプの最高に食えないヤツだと思ったの。天使みたいな見た目と全然違う、面白い。それでスゴイ好きになって、友達になろうって言ったの。それからずっと親友」

『食えないヤツ』

そこは僕と琴子でにいちゃん評価の分かれるところだ。それで、2人は何となく男女に透明な垣根が出来上がる年頃になっても、そしてそれぞれ私立の男子校、女子校と別々の学校に通うようになってもずっと一緒だった。だから僕の周りの人たちは琴子とにいちゃんとは、友達ではなくて、そういう仲なんだと邪推していたけれど、普段いつも2人を見ている僕は全然そんな風に思わなかった。大体この半裸で男子高校生の前に平然と出てくる顔だけは華憐な琴子と、その半裸の女子高校生を前に眉ひとつ動かさずに服を着せてやる母親みたいな態度の端正すぎる顔面のにいちゃんの間にはおおよそ、その年頃の男女の間にある青臭くて生々しいものの匂いがしなかった。あるのは姉妹のような兄弟のような信頼とそれぞれの存在に対しての練達。愛はあるのかもしれないけれどそれは恋じゃない、セックスじゃない。

「人類愛みたいなもの」

財布が無いとか、ママ私の定期知らないとか言って琴子が廊下の奥で大騒ぎしている間に、僕の周りのみんなはにいちゃんと琴子が付き合ってるって思っているみたいだけど全然違うよねと僕が言ったら、にいちゃんからはそんな壮大な答えが返って来た。琴子が今ここに裸でいても僕は何も感じないし、琴子が全裸ならとりあえず僕は服を着せる事に専念すると思うと特に表情無くにいちゃんが僕に言うと丁度、白いケーブル編みのセーターの上に鮮やかなブルーのダッフルコートを羽織りながら僕達の目の前で靴を履いていた琴子は僕とにいちゃんに向かってこう言った。

「何?見たいの?裸、おっぱいとか?」

「いい、そんなあるのか無いのかわかんないもの」

琴子は無言で兄ちゃんの足を思い切り踏んづけた。

☞2

にいちゃんが、僕のために考えていてくれた学校のひとつは琵琶湖疎水の近くの駅を降りてほんの少し歩いた場所にあった。12月の京都は時折雪が降り、琵琶湖から湿った風の流れてくる僕達の住む町よりもずっと空気が乾燥していて、頬に触れる風が皮膚を切るように固く冷たかった。でも僕は琴子とにいちゃん、2人で電車に乗って遠くまで出かけていると言うその事実だけでもとにかく嬉しくて、それが僕の体温を平熱以上に上昇させ、寒さを一切感じていなかった。琴子だけが寒いヤバイ京都の冬嫌いと言って僕にしがみついて来て、僕の隣のにいちゃんは琴子、そんなにのしかかったら琴子の重みでみいがつぶれちゃうよと言って笑った。

「僕が通っているのと同じ男子校だけど、校則はそんなに厳しくないらしいし、勿論坊主も強要されない。通学の為の乗り換えが1回なのもみいには楽じゃないかな、山科乗り換えなら京都駅乗り換えよりも簡単で早いよ。今の模試の成績でもそれほど無理しなくてもいい範囲だし」

「私的には制服がブレザーなのがポイントが高い。みいは絶対ブレザーが似合う。希の学校の古臭い学ランはどうかと思う、あと帽子」

うるさいなあ、あと1年の辛抱なんだから琴子は黙っててよ。にいちゃんは琴子を小突いた。僕は学校の外観が僕の予想をはるかに超えて大きい事に驚いて辺りをきょろきょろと見まわしていた、僕の行っている小学校とか僕の家の近くの中学校とは全然違う。広い校庭と巨大な校舎、その周囲を囲む木立。にいちゃんの学校もそうだけれど、この学校の中には普段山盛り男の子だけが詰め込まれて勉強していてその中に女の子は1人もいないのか。そう思うとなんだか変な空間だなと思った。せっかく楽しく外出している時にあまり思い出したくない事ではあったけれど、神様は人間を「男と女」に作ったと言う大前提のあるあの『会』の考え方でいうとこれは自然の摂理に反するという事になるんだろうか。

「みい。どした?ちょっと思ってたのと違った?」

にいちゃんが少し心配そうに僕の顔を覗き込んだ。にいちゃんはいつもこうだ、僕が自分の意思に反して喜んだふりをしたり笑ったりしていないか、それを僕の表情の小さな変化から読み取ろうとする。にいちゃんは僕に優しい。そこが琴子と僕の『にいちゃんの評価の分かれる所』だ。

「え、ううん、大きい学校だなってびっくりして。あと、ここに来る途中に動物園があったけど、僕達あそこに行った事あるよね、あの中に小さい観覧車があるところ」

「1周1分くらいしかしない小さくてすっごい古式ゆかしいヤツね、覚えてるよ、みいが6つの時だ」

「ここに通ったら、たまに動物園に寄れるかな」

僕がそう言うと、琴子とにいちゃんは顔を見合わせて笑った「みいは本当に可愛いな」。それで僕は的外れで少し幼い事を言ってしまったらしい自分を恥じた「今ここにお母さんが居たら叱られたね」。

「みい、そういう考え方はしない方がいい。みいはみいの考えるように行動して発言したらいいんや、少なくともにいちゃんの前では」

「そうやで、みい。そしてみいは永遠にそのままでいてくれ」

琴子もそんな風に言って僕を撫でまわした。あんまり急いで大きくならないでよ、みいは私の永遠の弟なんだから。そうやって琴子が僕の髪の毛をくしゃくしゃにしている時、にいちゃんの携帯が微かに鳴った。にいちゃんはその画面を確認すると、少し慌ててあたりを見回して深呼吸してからその携帯に出て、とても小さな声でひとことふたこと、言葉を発した。その時のにいちゃんの少しはにかんだような笑顔。突然上気した頬。鼻の頭を掻くのはにいちゃんが恥ずかしい時に出る癖だ。誰だろう。でもにいちゃんが親しくしている友人の名前を僕は琴子意外誰も知らない。にいちゃんは電話を切ってから琴子にこんなことを言った。

「琴子、ごめん、ちょっと」

「あ?ああ?アレ?その辺にいるの?」

「ウン」

「いいよ、行きなよ、私はみいと行きたい所があるから」

アレがソレでコレだとか言う2人の会話は僕には全然内容が良く分からなかったけど、ともかくにいちゃんは急用らしい。いつもは冷静であまり焦るという事が、最近では僕に学園際のミスコンの女王だという事実が露見した時位しかなかったにいちゃんがかなり慌てていたので、とにかく緊急事態なんだとそれだけは僕も理解した。だから僕は『大丈夫だよ』とにいちゃんに言った。いいよ行っておいでよ。

「にいちゃん、僕は大丈夫だよ、琴子と楽譜を見に行くんだ」

「そうそう、みいには私のパパに会って貰わないといけないし」

それで僕達は動物園の前で一旦別れた。「終わったら連絡するから、ごめんねみい」の「み」の発声の前に、にいちゃんは地下鉄の駅の方向に戻る僕と琴子とは逆の方向に猛スピードで駆けて行った。僕はにいちゃんがあんなに全速力で走るのを久しぶりに見た。にいちゃんは普段の生活の中ではあまり慌てて走ったりはしない人だ、駅にも電車の時間と自分の歩行速度を計算して電車が到着する時間ぴったりに現着する事が常で、いつも驚く程冷静で落ち着いている。でもつい3秒前までここにいて、そして今は全速力で僕からどんどん離れていくにいちゃんの背中は、焦っているとか、慌てているとかいうよりは

「にいちゃんの足が地面に付いてない気がする」

「わかる。アレは邪魔はしない方が無難よ、馬に蹴られるから」

馬?どこに?この時の琴子の発言は10歳の僕には少し難しかった。でも本当に速力ではじけるように駆けて行ったにいちゃんの胸骨の内側には、体内の隅々にまで酸素を送り続ける心臓の他に、もうひとつ早鐘を打ってにいちゃんの全てを揺らす何かが突然飛び込んで来たんじゃないだろうか。僕は全速力のにいちゃんの背中が曲がり角を曲がって見えなくなるまで少し首をかしげてそんなことを考えていた。そうしたら琴子が僕に聞いた。

「みい、お腹すいてる?」

午前中に家を出てここまで、3つの学校を外観だけだけれど、地下鉄とバスで見て回ってもう時間は昼すぎになっていた。ちょっとすいたかも、と僕が言うと、琴子はデニムのお尻のポケットから携帯を出してきてどこかに電話をかけた。琴子はいつもあまり荷物を持たない。代わりにあらゆるポケットというポケットに色々なものを詰め込んでいる。僕は女の人は、母もそうだけれどちまちまとした小物を小さなカバンに詰めて移動する生き物だと思っているけれど、琴子は少し違うみたいだ。サバイバル向き、無ければ現地調達、何処にいても生き残るタイプ、その生来の頼もしさで高校では後輩にとてもモテるそうだ、琴子の通っているのは女子校だけど。

「よし、みい、駅のすぐそばにホテルがあったでしょ、あそこ行こう。パパが丁度今そこにいるらしいから」

琴子は僕のコートのフードを引っ張った、琴子のパパはホテルにいるの?仕事?僕は琴子に訊ねたけれど、琴子は、いいからいいから行こう、そう言って僕を引っ張ったまま地下鉄の駅の直ぐ向かいにある山の斜面を削るようにして建つ瀟洒な、そしてまるで要塞のように巨大なホテルの正面の長い車寄せのある玄関に向かった。バッキンガム宮殿の衛兵隊みたいな服装のドアマンが、にいちゃんのお下がりのキャメルのダッフルコートを着た僕と、ロイヤルブルーのダッフルコートを着た、一見姉弟に見える僕達を見て、美しく完璧な角度で挨拶をした。

「いらっしゃいませ」

その上品な発音の白い手袋の衛兵の挨拶に、琴子が「どうも!」と片手を挙げてなんだか妙に物慣れて強そうな挨拶をして通り過ぎたその先の、メインロビーに飾られている吹き抜けの天井を貫く巨大な金と銀のクリスマスツリーの下に立っている人影が僕達の姿を見つけて、小さく手を振りながら琴子の名前を呼んだ。

「琴子ちゃん!」

「パパ!これ!みい!希の弟!」

名前を呼ばれた琴子は、僕をその人の前に押し出した。でも僕はその時、ちょっと混乱して、すぐにその人への挨拶の言葉が出てこなかった。だって目の前にいる琴子のパパだというその人が、琴子の髪質と髪色に似た真っ直ぐで少し暗い栗色の髪を肩まで伸ばして綺麗に整えて、黒の柔らかな素材、多分カシミヤのロングコートを折りたたんで片手に下げ、鮮やかな赤いベルベットのワンピ―スを着て、マコト君のお母さんの履いている、琴子曰く「クッソ高い」美しい形のハイヒールを履いた『女の人』だったからだ。

でもそれにしては、ずいぶん背が高くて、肩幅も広い気がする、琴子に向かって嬉しそうに手を振っていたその掌もなんだかとても大きい。それでも僕の目の前にいるこの艶やかに微笑むこの人は女の

「みいちゃんね?希とはまた違う顔立ちなのね、元気な男の子らしいお顔。初めまして、琴子がいつもお世話になってます」

いや、少し高めに発声してはいるけれど、この声は男の人のものだ。

☞3

琴子のパパは自分の事を

「鳩子って呼んでね」

なんだか不思議な名前で呼んで欲しいと言い、そして僕にとても優しく微笑んだ。なんだかにいちゃんみたいだ、グレード100位のうんと優しい笑顔。それを横で聞いていた琴子はダッフルコートのポケットに両手を突っ込んでゆらゆらと揺れながら、鳩子じゃないやん、ホンマは鳩太郎やんと横やりを入れるように悪戯っぽく笑った。琴子のパパ改め鳩子さんは、もういちいち口の減らない子ねえ誰に似たのよ、駒子ちゃんが琴子の年頃の時はこんなんじゃなかったわよと琴子を軽く睨みながら言った。駒子ちゃんというのは、琴子のお母さんの名前だ。

琴子と駒子と鳩子、外見だけは全員女の人で構成されたなんだか奇妙な家族。

清楚に美しい顔面でいちいち振舞いの雄々しい女子高生の琴子と、その琴子によく似た顔と性格の粋で豪快で優しい小料理屋の女将の母と、艶やかな赤いワンピースを着た美しい父。

どういう事?

鳩子さんに促されるまま、通されたホテルの中のレストランの個室で、東山を一望できる大きな窓を横目に僕は琴子に小声で聞いた。鳩子さんがトイレに立った隙に。

「だから、あの人が私の実の父なの。希に聞いてない?私が小学1年生の時にパパがタバコ買ってくるって言って何の書き置きも伝言もないまま突然失踪したの。それでそれから6年近く経って京都で今のあの姿で発見されて、ママと正式に離婚したの。でもママとパパが夫婦じゃなくなっても私のパパである事は変わらないから、こうやってしょっちゅう会ってあげて色々お金を使わせてあげてる。高校の学費も当然パパ持ちだし、ここの会計も勿論パパ持ち。あ、みいのプレート来たよ」

白いジャケットを着たウエイターが清潔な笑顔でキッズランチプレートを僕の目の前に置いてから一礼して下がると、琴子の前にも黒いワンピースに白いサロンエプロンのウエイトレスがズワイガニとトマトのクリームパスタを置いて一礼した。琴子は手馴れた仕草で手元にあるピカピカした銀色のカトラリーを手に取ると、ホラみいカニいる?そう言って僕のお皿の端に少しだけパスタをくるくる丸めて置いてくれた。

「ありがと。いや、そうじゃなくて。どうしてパパが女の人になったの、声も低いし、背も凄く高いけど、鳩子さんは爪の先も髪の毛もあのワンピースもお化粧も全部凄くキレイで、今、完全に女の人なんだよね、でも男の人で琴子のパパ?」

「パパ、みいがパパの事、凄くキレイだって」

「あらっ、ありがと。噂通り素直な子ねえ」

僕が琴子に状況確認をしている間に鳩子さんは、いつの間にかトイレから戻って来ていた。そしてふかふかとした布張りの椅子に静かに着席してから、手元の白いナフキンをとても優雅な仕草で膝に広げ、みいちゃん、冷めないうちにおあがりなさいねと言って僕に食事を勧めてくれた。この美しい、琴子の父であり鳩子さんという名前の女性でもある人の笑顔は本当ににいちゃんの笑顔に似ている。顔の造作に似ているところはひとつもないのに。だからという訳ではないけれど、僕はつい、この優しい笑顔の人にとても正直な僕の疑問をぶつけてしまった。鳩子さんは僕が何を聞いても何故だか許してくれそうな気がしたから。

「あの、どうして琴子のパパなのに女の人の恰好をしてるんですか、初めは男の人だったの?鳩子さんは、男の人と女の人の間の人って事?」

この時僕は、鳩子さんに対して何かしらの親近感を感じていたのかもしれない

『貴方も僕と同じ神様の失敗作で選抜漏れの人間なんですか』

そうしたら、鳩子さんは、自分の前に和牛のポワレが置かれたのを見て、とても上品な、でも低い声でウエイターにありがとうと御礼を言ってから、僕に質問の回答の代わりにこんなことを聞いた。

「ねえ、みいちゃん、和菓子って好き?」

「え?ハイ。僕は大好きです。にいちゃんはあんまり食べへんけど」

「そうねえ、あの子、希は甘い物苦手よね、しょっぱいものが好きだって。だったらね、みいちゃんの住んでいる町の隣の市に大きな和菓子屋さんがあるのを知ってる?『鳩屋』ってお店」

知ってる。昔からある老舗で、あの地域どころか関西全域にその支店があって、最近では東京のデパートにも出店している大きなお店だ。僕の家にもいつもあの店の紙袋があってその上品な千鳥格子模様の和紙の袋は母がいつも綺麗に畳んで納戸に仕舞っている。でもそれがどうしたんだろう。僕は少し不思議そうな顔をしていたのだと思う、鳩子さんはそんな僕の顔を見てまたあの優しい笑顔で僕にこう言った

「あたしね、その店の息子だったの。本当は、あたしが3代目を継ぐ筈だったのよ。だからあたしがあのまま男だったら、琴子が4代目の女主人ね。あたしねえ、昔々、まだ男だった頃はそりゃあ、賢くて親に従順ないい子だったのよ」

琴子のパパ、鳩子さんは、老舗の和菓子屋の長男として誕生して、厳格な両親、特にお母さんにとても将来を期待されて育ったのだと言った。

「あたしね、子どもの頃から自分で言うのもなんだけど、とにかく頭が良くて、見た目も良くて兄弟の中で母の一番のお気に入りだったの。そして長男で跡取り息子。だから名前に屋号、お店の名前の一文字が入ってるのよ『鳩』って。母はあたしに物凄く期待しててね、立派な経営者になってこの鳩屋を継いで盛り立てなさいってそれは必死だったのよ。だからあたしも頑張ってそれに応えようとしたの、母が喜んでくれるのがあたしも嬉しかった、最初のうちはね。あたしね、希と同じ中学と高校に行っていたのよ、それで大学もすぐそこの京大ってわかる?みいちゃん、そこに猛勉強して入学して、大学を卒業してからは自分の実家と取引のある大阪の広告代理店に入ってそこで3年営業とか経営なんかのお勉強させてもらってから、25歳で父の後継者として自分の実家の会社に入ったの。そこまでは母の希望を全部余すことなく具現化したのよ。成績優秀で品行方正で眉目秀麗な鳩太郎ちゃん。でもねえ、あたし、中学生くらいの時からはっきり自覚していたんだけどね『男』じゃなかったのよ」

僕は鳩子さんのその『男』じゃなかったのよという一言がよくわからなくて鳩子さんの顔を真っ直ぐに見て聞いた。どういう事、鳩子さんは女の人なの、男の人なの。

「え、じゃあ鳩子さんは生まれた時から、その…女の子なのに男の子の学校に行ったりしてたん?」

「ううん、そうじゃないの、体は完全に男の子だったのよ、今は違うけど。でもね、男の子の体に女の子の魂が宿ってそのまま生まれてきてしまうって、そういう事もあるのよ。神様が間違えたのよ」

神様が間違えたのよ。

にいちゃんも前に同じことを言っていたな神様だって必ず間違うことはある」。

「だからねえ、大学を卒業して他所で修業して実家の会社に入って、立派に父の片腕を務めるようになったあたしに母が、次は結婚をしなさい、それで次の代の跡取りを作りなさいって言い出した時に本当にどうしたらいいんだろうって、もう泣きたかった。あたしはそれまで母の期待も希望も全部叶えてきたけど、それだけは無理なの。あたしは本当は女の子なのに普段は自分の心に固く蓋をして着たくも無い灰色とか紺とか暗くて単調な色味の背広を着て、ネクタイをして、髪も、なんせ実家は食品を扱う稼業でしょう、だから職人さんみたいに短く刈り上げて、そこまでは何とか自分を殺して我慢できたけど、内面が完全に女のあたしが女の子と結婚して女の子とセックスして子どもを作りなさい今すぐ、なんて言われたらもう卒倒するわよ、絶対無理よ」

「パパ!」

琴子はとがめるように言い、次いでテーブルの下で鳩子さんの脛を蹴り上げたらしい。

「いた。あ、すまん琴子」

鳩子さんは何故かそこだけ父親っぽい言葉遣いで謝罪した。僕はその時は謝罪の意味がよく分からなかったし、それよりも鳩子さんの半生の続きが気になって鳩子さんにこう言った。

「でも、琴子のお母さんと結婚したんでしょ?」

「琴子のママ、駒子ちゃんはあたしの友達だったの。家が近所で、子どもの頃からの親友。駒子ちゃんは子どもの時から、あたしが本当は男の子じゃない事を知ってたのよ、それを知っていて素知らぬ顔してずうっと友達でいてくれたの。優しい子なのよ、今も昔も。駒子ちゃんのお家もお商売をしている家でね、元はちょっとしたお嬢様よ、まあ顔と性格はこの琴子とほぼ一緒だけど。でね、あたし、母に執拗に結婚をしろ、見合いをしろ、もう何人か見繕ったから覚悟を決めなさいって言われて途方に暮れてしまって。何しろ母の期待に応える事に人生を支配されてきたもんだから、それにどう抗っていいのかその方法も全然分からなくてね、それで25歳のある日、これはもう死ぬしかないんだと思ったの」

鳩子さんはそこまで一気に話すと、手元のグラスの水を一口飲んで少し微笑んだ。

「だって自分にそぐわないものを身に着け続けて挙句、体が一切反応しない女の子の体に触って子どもを作りなさいって、出来ないわよ、だったら京大に受かる方が全然楽だったわよ、必死に努力さえすればよかったんだもの。でもこれは努力とかそう言う問題じゃないじゃない。だから凄く苦しかった。その、自分は本当は女の子なのに女の子と結婚しなさいって言われる事以前に、あたしは自分の思う事を自分の思うように一切やらないまま大人になってしまっていて、何だかおかしくなっていたんだと思うの。そうよね、体の性別と心が一致してない、自分は女の子だって思っているのに男子校に入学して、自分がやりたい事もやりたくない事も全部一切考えずに母の期待と希望を叶えることばかり考えてきたんだもの。それで、いざそれが出来ない絶対不可能ってなった時にどうしたらいいのか、その考えの行きつく処はひとつよ『もう生きていても仕方ないから死のう』。あたし、家にあった登山用のロープを持って近くの神社のある山の中に分け入って、そこで首を括ろうと思ったの。でもその時にふと、大好きな駒子ちゃんにだけは、ちゃんとお別れの挨拶をしないとって思ったのよ。死ぬ前、最期に駒子ちゃんの声が聞きたいなって」

鳩子さんは、駒子ちゃん、琴子のお母さんに暇乞いの電話を、そうとは告げずに、それとなく永遠の別れを告げようとしたそうだ。でも、夜中に突然かけた電話に3コールで出てくれた琴子のお母さんの声を聴いた瞬間、鳩子さんは涙が次から次に溢れて来て止まらなくなってしまって、まともに言葉を繋ぐことが出来ないまま嗚咽と鼻水をすする音だけが電話口から電話口に流れてそれは全く会話にならなかったらしい。それでも琴子のお母さんはその鳩子さんの嗚咽を1時間近く黙って聞いていてくれた。駒子ちゃんはね、そういう子なの。相手が哀しんでいる時に細かい事を聞かないけれど、そして安っぽい慰めや励ましの言葉も全く使わないけれど、その沈黙がとても優しい子。そう鳩子さんは言った。それはそのまま琴子の性格だから僕にもよくわかる。琴子も、昔妹のことりが死んでしまった時、僕にその事を細かく聞き出したりはしなかった、ただ静かに「哀しいね」とだけ言って静かに僕の手を握ってくれた。そして鳩子さんが子どものようにしゃくりをあげながらひとしきり泣いた後、鳩子さんの口をついて出てきたのは

「駒子ちゃん、あたし死にたくない、助けて」

そんな言葉だった。鳩子さんはその時、死ぬことが怖くて怖くて登山用のロープを握りしめたまま真っ暗な山の入り口に立ち尽くしていた。駒子さん、琴子のお母さんは、鳩子さんに今いる場所を聞いた、そこどこ、鳩太郎、そこから絶対動かずに私の事待っててね。

「駒子ちゃんは、真夜中の山の麓に自分の車であたしの事迎えに来てくれたの。あたしは、足が付くと面倒だから家から歩いてきていたのよ、誰にも知られずにひっそりと死のうと思ってたから。みいちゃんもあの辺の事は分かると思うけど八幡様のお山の麓よ、ばちあたりよねえ、八幡様の山中で首吊ろうなんて。それでね、駆け付けた駒子ちゃんがあたしの事見つけてあたしを抱きしめてくれたの。鳩太郎がずっと苦しんでいるのを知ってたのに、何もしてあげられなくて、言ってあげられなくて本当にごめんね、でも絶対に死んだりしないで、そんな事になったら、親友の鳩太郎が死んでしまったら私も死んじゃうって。駒子ちゃんはね、本当に優しい子なの、その優しさがね」

奇跡を産んだ。それが琴子だ。2人はどうしたら鳩子さん、もとい鳩太郎が周りにそれと知られずに、そして誰も傷つけずにこの現実をやり過ごす事ができるのか、有り体に言うと、自分の子供を作る事ができるのかを考えて、結果、いちいち細かい事を画策するのを好まない豪快な駒子さん、琴子のお母さんはとんでもない結論を出した。

「この話はねえ、みいちゃんて今いくつだっけ?10歳なんでしょう、もの凄く言いにくいから少し端折るけどね、うーん…駒子ちゃんはね、とにかく鳩太郎は5分、好きな男の事でも考えてなさいって言ったのよ、それ以外は何も考えちゃダメって、そしたら何とかなったの。それでそのたった1回で琴子が出来たのよ」

「とんでもねー話」

琴子はパスタを食べ終わって、今度は小さなアイスクリームのガラスの器を手に取りながら悪態をついた、よくそんな話実の娘と10歳の子どもの前で出来るよね。

「そう?でもこれはね駒子ちゃんのあたしへの一世一代の優しさだったのよ、とんでもなく間違った方向だけどね。そしてそういう行き過ぎた、しかも明後日な方向の優しさは結局いい結果を産まなかったけどね。駒子ちゃんもあたしと同じ、親に過剰に期待されて育って、何でもよくできて、相手の期待に応える事が人生では一番大切なことだって思っている子だったの。まあ古いお家のお嬢様って多かれ少なかれそう言う生き物なのよ。あたしはね、そこに付け込んだの、その当時は一切そんな風には思っていなかったんだけど、結果そう言う事なのよね。あたしは自分で戦うべき戦場で、自分の保身のために駒子ちゃんを盾にして利用したことになるんだもの」

「でも、生まれてきた琴子は本当に可愛かった。勿論今でも可愛いわよ、ちょっとあたしが思ったのと違う感じに育ってるけど。あたしの両親は、駒子ちゃんがあたしの子どもを妊娠したって聞いて驚いたし順番が違うってあたしを叱ったんだけど、よく考えたら悪いご縁じゃないじゃない?同じ地域の、同じような家、商売敵でもない。それにあたし達は同い年の幼馴染で親同士も気ごころが知れてる。つり合いが取れてたのよ。だからまあ順番の事は目をつぶって、駒子ちゃんのお腹が目立たないうちに結婚させて2人に所帯を持たせようってとんとん拍子に話が進んだの。それであたしは妻を娶って妻帯者になってその数か月後に琴子のお父さんになった。傍から見たら順風満帆の人生よ、出来の良い老舗の跡取り息子、美しい幼馴染の妻、生まれてきた可愛い娘」

そこまで話してから、鳩子さんは、みいちゃん、お腹いっぱいになった?アイス食べる?そう言ってメニューを開いた、右手の薬指に小さな赤い宝石のついた指輪の光る大きな手。やっぱり男の人なんだ。僕は小さな器に品よく盛られたバニラアイスを注文してもらった。鳩子さんは話をするのが上手だ、それで人に何かを勧めるのも上手だ、押しつけがましくない。言葉のどこを探しても棘も険も無い。そういう所もにいちゃんによく似ている。

「でね、ええとどこまで話したのかしらね、ああ結婚して幸せになったところまでね、で、結婚してからの数年はとても幸せだったの。勿論それは普通の結婚生活とは全然違うんだけど、仲の良い女友達同士で子どもを育てながら共同生活しているって感じよね。駒子ちゃんは元々商売人の娘だから、お店に立たせても帳簿をつけさせても何でもよく出来たの。親戚にもお客様にもいいお嫁さんが来てくれてよかったねえって言われたのよ。和菓子屋とか料理屋はねフロントに立つ女将で全てが決まるの。駒子ちゃんは頭もいいし、あの通り美人だし、うってつけだったのよね。それであたしは奥に下がって一生懸命営業をしたり、店舗拡大のためにあちこち飛び回ったりしていて、あたし達があのお店にいる間、売り上げの前年対比、ええとね、前の年に比べて、その年に稼いだお金の事ね、その数字は凄かったのよ。だからこのまま自分の「本当は自分は女だ」って気持ちには固く蓋をしてみんなで幸せになろうと思ったの。だけどね、ある日突然気づいたの、じゃあ駒子ちゃんはどうなるのって。あたしは女だから、駒子ちゃんの体にはあの日以来一切触らずに来たのよ、だって素面でも酩酊しててもそんな事絶対できないし。これ深い意味はまだ考えなくていいからね、みいちゃん。それは駒子ちゃんもあの時のアレは緊急の救命措置みたいなものだから気にしないでって言ってはくれていたのよ、まあ今も昔も豪快な子よ。でもあたしは自分の本性を胡麻化して、駒子ちゃんにはあたしの為に虚構の夫婦の片棒を担がせて、このまま周りの満足だけの為にこの先の人生を使わせていいのかなって、駒子ちゃんにもし好きな人が出来たら?それでもあたしの保身の為にこんな生活を続けるのかしら。そう思ったらもういてもたってもいられなくなってしまって、こんなウソだらけの生活を一生続けていくのかしらって、そうしたらね」

「吸いもしないタバコを買ってくるって言って突然私たちの前から行方をくらました、と」

琴子は、今度は小さなデミタスカップのコーヒーを飲みながら父である鳩子さんを軽く睨んだ。この話聞くたびに本気で信じられないと思うけど、パパもさあ、そうなる前にどうしてママにひとこと相談しないわけ?あと普通逃げる?可愛い盛りの私を置いてよ?みい私の小学校の入学式の話聞きたい?だってこの人、入学式の前日に失踪したんやで。

「仮にさあ、パパとママの間にそういう女同士の友情に彩られた美しい秘密の物語があったとしてもよ、当の娘の私はなーんにも知らなくて、ただただ楽しみにしてた小学校の入学式の前日に突然パパが家から居なくなって、それがどうしてなのか、もしかしたら自分のせいなのかもって考えて目が溶ける程泣いたんやから。その頃はね、みい、パパとママと私3人でこの人の実家の敷地に巨大な家を建ててもらって住んでたんやけど、もう翌日から母屋も我が家も上を下への大騒ぎよ、どうして鳩太郎はいなくなったの、駒子さんどういう事なのって、おばあちゃんが泣いて大騒ぎしたのスゴイ覚えてるわ」

琴子の祖父母は、妻と娘を棄てるような形で何も言わずに出て行ったのは鳩子さん、鳩太郎の方で、別に琴子のお母さんの方に非がある訳ではないのに、何故か琴子のお母さんを糾弾した。でも何か全く理解できない晴天の霹靂みたいな困難に直面した時、人間はその原因や責任を自分には負いたくないものなんだろう。そうだと思う。それで琴子の祖父母はこう言ったそうだ「貴方がしっかりしていないから」。でもそれに対してこの琴子にそっくりな琴子のお母さんは、その言葉と態度に憤慨して、大暴れしてその家を出て行くというような真似はしなかったらしい。

「私なら絶対そうするけどね、ママは変な所で辛抱強いの、私と違って。それで失踪したパパの事をおばあちゃん達は八方手を尽くして探したけど、結局パパは見つからなかった。当然よ、この人ね、外国で女の人になってたんだもん。警察は事件性が無いと失踪届けは受理しても捜索はしてくれないし、興信所も『32歳の男性』を探していた訳でまさかそんな素振りも見せてなかったパパが女の人になって偽名で暮しているとは思わへんわ。それでもうパパ、鳩太郎を副社長から解任して、パパの弟に跡は任せますっていう話になった時にママはね、パパの両親親戚取引先一同の前でこう…深く頭を下げてね、『鳩太郎さんをもう許してあげて欲しい』って言ったんやで。鳩太郎さんは周りの期待と希望を全部飲み込んで応える事に自分の人生全部を費やしてしまって自分が自分じゃなくなってしまったんだって、鳩太郎さんは幸せではなかったって、そして何より私が軽率だったって。私もその場にいたからよく覚えてる。それが私が1年生の時。それから一度ママの実家に戻ってそこに暫く居て、それで今度は実の両親にアンタどうすんのご近所に外聞が悪いわって言われ続けて、まあそうやんな、蝶よ花よと育てた元お嬢様の娘が、突然旦那に逃げられて元旦那の家の目と鼻の先にある実家に帰ってきたらそりゃあそう言われるわね、大体あの辺も超保守的な田舎やし。それで、今のお店を親戚の人から貰ってみいのいる町に引っ越したの。その内、パパとママはなんだかんだと連絡を取り合ってそれで正式に離婚する段になって初めて私は真実を知らされたんやけど、もう本当に相当驚いたもん。だってさあ、みい、6歳のあの日に突然いなくなった周りの子のパパよりずっと恰好良いと思ってた私のパパが、6年後に再会した時にはこのそこそこ綺麗な、でも妙に背の高いおばさんになってたんだから。あの時から私は大抵の事には驚かなくなったもん、パパが失踪して6年後に再会したらママでしたってどうよ、誰も信じないよねえ、みい」

僕は、琴子が今住んでいる街に引っ越してくる前の事を全然知らなかったので、そんなちょっと設定が突飛すぎて荒唐無稽な映画のような話が琴子の人生の中に存在していたなんて全然知らなくて、アイスクリームスプーンを持って口を開けたまま2人の話しに聞き入っていた。そうしたらデザートのアイスが溶けた。

「…なんかすごい生涯だね」

「いや、まだ死んでないから」

琴子がいつものように真顔で僕に突っ込むと、鳩子さんは食後のコーヒーの入ったデミタスカップを持って微かに優しく笑った。

☞4

食事の後、鳩子さんと琴子と僕は、鳩子さんの運転する車で山の斜面に立つ静かで瀟洒なホテルから観光客でごった返す繁華街に出た。鳩子さんの運転する真っ黒で大きな外国製の車は後ろのシートが僕の家のワゴンのシートの3倍くらいふかふかだった。琴子は慣れた様子でシートベルトをしてから、パパ、みいとタワレコに行くから河原町三条のとこまで送って。みいはねえ、パパと同じでキースリチャーズが好きなんだよ、渋くない?と鳩子さんに機嫌よく話しかけた。やり取りだけ聞いていると本当に普通の父と娘だ、見た目は完全に母と娘だけど。

「アラみいちゃん、良い趣味してるわ。いつかあたしともタワレコか十字屋に行きましょうね。今日はあたしこの後仕事があるからここでお別れなんだけど。この子にも散々たっかいギターとか貢いできたから、そのうちにみいちゃんにも買ってあげたいわねえ、楽器は?出来るの?」

「駄目です、いいです、あんな高いもの。それに僕はにいちゃんと違ってピアノが全然駄目でバイエルで脱落しちゃって、ギターはお母さんが絶対許す訳ないし」

僕は激しく首を振った、琴子のギターのとんでもない値段を知っていたからだ。でも、そうなのか、琴子の音楽の趣味というか好みはこの鳩子さんから来ているんだ。

「ああ、希はこの手の音楽は全部嫌いよね、ギターはガットギターの類以外は全部「うるさい音」って言うし。希とみいちゃんは、本当に全然似てないのねえ、でもそれはいい事よ。それにあたしはみいちゃんを見てるとほっとする。ほんとに優しい子。勿論希もいい子よ、でもあの子はいい子すぎるの、出来すぎなのよ。あの子を見てるとね、昔の自分を見てるみたいで苦しくなる。周りの期待に応えすぎるのよ、もうあれは脊髄反射みたいなものね。希はあたし達親子の恩人なの。あの子がいなかったら今こんなふうに琴子とは会えていないもの。そしてみいちゃんはその希のパイロットバードなのよね」

パイロットバード?何だろう、それは何ですかと僕が聞く前に、琴子が僕の隣でこう言った。

「パイロットバード、水先案内人の事、希はみいがいないとダメなのよ」

「それは逆じゃない?」

「うーん…それはみいが自分がどんなにいい子で凄い子なのかわかってないから」

「ふうん、そんな事ないと思うけどな」

鳩子さんは僕達を京都の中心地まで車で送ると、その人波の賑わいの中に、僕達を降ろして、じゃあねみいちゃん。琴子、あとコレね後でケーキでもみんなで食べなさいと言って琴子の手のひらに小さなぽち袋を握らせていた。うん、ありがとパパまたね。そう言った琴子の表情はとても柔らかかった。そして鳩子さんは別れ際、運転席の窓を半分位開けて僕にこうことづけた。

「みいちゃん、希にね『思うように生きなさいよ』って鳩子さんがまた言ってたって言っておいて。自分が心からやりたい事だけをしなさいって、そうしないと自分が段々おかしくなる、自分が自分のものに思えなくなるのよって」

僕はその言葉が一体何を意味しているのか全然分からなかった。でもその言葉を僕に伝える鳩子さんの優しい表情の瞳だけがきつく光を帯びているのを見て、その言葉の持つ意味については何も聞かずにハイと返事をした。そして鳩子さんの車が僕達の前を走り去った時、僕は鳩子さんのさっきの言葉が以前にいちゃんの口から僕に投げかけられた事があるのを思い出した。

『みいは自分が心からやりたい事だけをしな、そうしないと自分が段々おかしくなるぞ、自分が自分のものに思えなくなる』

あれは、鳩子さんからにいちゃんへの言葉だったんだ。

でも、どういう意味だろう。

「みい、行こ!タワレコだよ。みいが再来年無事に京都のどこかの中学校に進学したらさ、ここにはしょっちゅう一緒に来ようよ、誘うから。私大学もこっちにするつもりなの、そうしたらパパの所から大学に通うし」

「え?お母さんは?」

「ママは私が高校卒業したら今付き合ってる素敵な彼氏と再婚してその人と一緒に暮らすんだもん、そうなったらもうあのお店も畳むの」

「え!そうなの?」

「ウン、パパも知ってるし。この間、パパとママと私と彼氏で会って食事したんやで、凄い空間と空気が広がってて、彼氏がちょっと怯えてたけど」

そうなのか。でもそれで琴子は寂しくないのかな、僕は咄嗟に考えた、一度はお父さんに捨てられたと言って泣いていた琴子、そして再会したらそのお父さんが何故か女の人になっていた琴子、そして今度はお母さんが再婚するからお父さんの所に行く琴子。僕ならどう思うだろう。

「琴子はそういうの平気?寂しくないの」

僕は琴子が心配になってそう聞いた。この華憐な顔面にして豪快で雑な琴子はその反面とても寂しがり屋なのを僕は知っていたからだ。でもそうしたら琴子は

「え?何で?全然!私、2人に物凄く愛されてるから」

とてもいい笑顔で僕にそう言った、自分は両親の愛を一身に受けている自信と確信があるのだと。その事について、琴子が琴子のお母さんの愛情を疑わないのは僕にも分かる、どんな時も琴子のそばにいて琴子を育ててきたお母さんだ。でもさ、琴子のお父さん、鳩子さんは一度は、あの特殊な事情があったにしても娘である琴子を置いて失踪したんだよね、そういう経緯があるのにどうしてそう思えるの。僕の疑問に琴子はタワーレコードの洋楽CDのコーナーで、新譜のライナーノートを読みながらこんな話をしてくれた。

「それはね、私も、パパが京都で発見されてそれでママがこの不自然な関係を一度離婚という形で清算しますって言った時には驚いたしショックだったよ。うーんとね、それはあのパパが『鳩子』になったっていう事実よりも、パパがおばあちゃんの期待に応えるためだけに私をママに産んでもらったっていう事がね。それなら私はパパの人生の部品てことじゃない?だから、そんな風に友達同士で無理やり作って産まれたらしい私にパパは愛情なんてあるのかなって、いや無いだろうって思って。だから面会したいとか交流したいとかそういうパパからの要望には一切結構ですって応えなかったの。今までみたいにお金だけ頂戴って。パパはママと離婚する結構以前から私の名義の口座に送金だけはしてくれてたから、それも山盛り」

琴子の言いそうな事だと思った、琴子は怒るとしつこいし長いんだ。

「でもね、その事を希に話したら、琴子、それは違うんじゃないかって、そのお父さんだった人はとても苦しんだんじゃないかって、だから一度会いに行こうって言って私を引っ張って行ってくれたの。中学1年生の時かな」

「どこに?」

「パパのお店」

「鳩子さんのお店って何」

「沢山あるよ、レストランとか飲み屋さんとかバーとか。そういうのを沢山経営してるのよあの人、根が商売人なの。でもその時にパパがいるからって私たちが行った場所は木屋町のショーパブ」

「何それ」

「パパの持ち物のお店の場合は、パパみたいな人が歌って踊ってお酒が出るお店」

「それって子どもが行って良いところなの?」

「確実に駄目。しかもさあ、その時私たち制服だったの、京都の難関男子中学と名門女子中学に通ってる中学生の2人が制服のまま。お姉さん達がキラキラしたドレスを着て踊ってるお店に一歩入ったらもう超目立って目立って大騒ぎよ。それでそこのお姉さんがね、ママ!大変!中学生がご来店よ!って言ったら今日みたいな真っ赤なドレスのパパが奥から飛んできてね、私の事一目見て「琴子ちゃん!」て言ってその場で泣き崩れたの。1時間くらい泣いててもうスゴイ困ったし大変だった、私にしがみついてごめんねえって言って離れてくれなくて」

「それで、お化粧がぐしゃぐしゃになってマスカラが溶けて真っ黒い涙が流れる迄泣いてるパパの顔みたらもういいやって思ったの。パパは本当に私に会いたかったんだなあってわかったから。その心情を今140字以内で答えよって言われたら困るけどね、私現代文苦手やし。でも会ってみたらもういいやって思えた。パパが女の子なのに何かの手違いで男に生まれて苦しんでるのに、周りにそれを言い出すことが出来なくて、それでつい周囲の期待にお応えしてうっかり私が出来た事と、私を娘として愛している事は全然別物なの。希はねえ、パパがどんなに苦しい立場にいたのか、私の話を聞いて直ぐわかったんだって、私なんかよりずうっと先に。だから赦してあげて欲しいって泣いてるパパの横で希が私に言ったの。真実を何ひとつ話せないまま、一番大切な人に赦しを貰えずに生きるのはとても苦しい事なんだよ、琴子って」

僕はこの時ふと、ついこの前、にいちゃんの『男子校のミスコンの女王』だという経歴が僕に露見して、それについて真っ赤になりながらそれでも僕にその画像を見せてくれたことを思い出していた。あの時にいちゃんが着ていたのは琴子の中学の時の制服だった、あの時にいちゃんは僕に何て言ってた?

「もし、みいに『にいちゃん気持ち悪い』って言われたら、にいちゃんは助走をつけて2階の窓から飛び降りるつもりやったから」

学園祭のお遊びの筈の女装を弟の僕に『気持ち悪い』と言われたら2階から飛び降りる覚悟だったにいちゃん。その後、僕があの『会』でうっかり、男と女の間の人もいるのにその人達は救われないのかと言ってしまって母から殴打78回超の刑を受けたとにいちゃんに言った時に僕を抱きしめて肩を震わせていたにいちゃん。

「あの、あんな、琴子、にいちゃんが学園祭のミスコンの女王って話知ってるよね?僕が見た画像でにいちゃんが琴子の中学校のセーラー制服を着てて」

「ああ、バレたんでしょ。希から聞いた。でもあれいい出来やろ、可愛くなかった?パパがお化粧の仕方教えてあげたんやから」

琴子は欲しかった楽譜とCDを会計してから一度外に出ようかと僕に言った、それでさっきパパに貰ったお小遣いでケーキ食べようぜ、みいと言って。

「うん、それはいいんやけどな。あの、僕はにいちゃんがこれまで僕に言ってきた事と、鳩子さんが僕に今日話してくれた事と、それと、今琴子が僕に話したことを総合して判断した結果な、というか点と点を線で繋いでいったその先にな、ある答えが導き出される気がするねんけど」

「あ」

タワーレコードのテナントの入っているビルを一歩出て、僕が琴子に僕の推論を伝えていたその途中、琴子は僕の言葉を遮るように小さな声を上げて、三条通の東の方角から歩いてくる背の高い女の子に目を留めた。僕も琴子の視線の先のその女の子を見た。肩くらいの長さの髪の毛に、濃紺のピーコートを着た綺麗な女の子。コートの下の白いプリーツスカートの裾から覗くふくらはぎはとても華奢で細い。でもなんだかすごく背が高い。隣を歩く長身の男の人とそう変わらない身長、それに僕はあの顔をどこかで見た事がある。

ミスコンの女王。

にいちゃんだ。

「にいちゃん!」

僕は思わず、混雑した通りの中心でにいちゃんの名前を叫んでしまった。幸い、行き交う大勢の人の騒めきと、街に延々と流れ続けるクリスマスソングにかき消されて、それは注目を浴びるほどの音量としては周囲に響かなかった。けれど、僕の3メートル程先の濃紺のピーコートで白いプリーツスカートの女の子の耳にはちゃんと僕の声が届いていた。当然だ、にいちゃんが僕の声を聞き漏らしたりするはずがない。

「み…」

にいちゃんは僕の名前を呼ぼうとして一瞬ためらった。でも僕の傍らの琴子がその一瞬を叩き壊すようにこう叫んだ。

「もういいやん希。みいは多分、全部わかってる」

☞5

僕達は、タワーレコードの入ったビルから少し小さな通りを入った場所にある、とても可愛いケーキ屋に入って少し落ち着いた。でもそのお店はあまりにも可愛らしくて、琴子とにいちゃんと、まだ子どもの僕はまあいいとして、にいちゃんの傍らにいた大男には物凄く不釣り合いだった。物凄い異分子感。でも僕はさっき路上でにいちゃんの傍らにいて、この場にも何故か付いてきている大男を気にしている場合ではなかった。だって目の前にいるにいちゃんが女の子なのだから。

「あの…にいちゃん、だよね?」

「ハイ、にいちゃんです」

長い髪はヘアウイッグ、かつらだ、これは鳩子さんと同じ髪型だなという事には座ってから気が付いた。そして薄くお化粧した顔、普段から長い睫毛が更に黒く塗られているせいで、いつもより長い睫毛の影が頬に落ちる。着席してその長身が隠されてしまえば、全方向からどう見ても女の子だ、でもその透明な赤に彩られた唇から漏れた声は確実ににいちゃんの声だった。

「あの、あのね、みい」

にいちゃんは僕に何かを言おうとして、口ごもった。そのにいちゃんに相対している僕はにいちゃんに一体どういう言葉を掛けるべきか、それを真剣に考えていた。ええと鳩子さんと話していた時、その時に僕はどんなことを考えていたんだっけ、鳩子さんの一番の理解者だった琴子のお母さんは、鳩子さんが人生に絶望して死のうとした日にどんな言葉を鳩子さんに掛けていた?思い出せ。

僕はにいちゃんが実はどんな人間でも、にいちゃんはにいちゃんなんだからそれでいいと思っていた。天才で美しくて隙もそつもないにいちゃん。でも僕が好きなのはそう言うにいちゃんじゃなくて、みんなの期待に応える事に少し疲れてきた17歳の高校生のにいちゃんだ。僕と琴子とあの田舎の駅舎でどうでもいい事をお喋りしてくれるにいちゃん。そのにいちゃんは自分の本当の事を言い出せずに今日まできっと苦しんでいたんだ。だったら、そうなら

「…にいちゃん、僕、なんにも気づいてあげられなくてごめんね」

少し俯いていたにいちゃんは、僕の一言を聞いて、顔を上げて僕の顔を真っ直ぐに見てくれた。だから僕もにいちゃんの顔を真っ直ぐに見て、あと一言だけこう言った。

「僕はにいちゃんが大好きだよ」

「…うん」

それだけ言うとにいちゃんはもう一度俯いて、それから突然ぽろぽろと泣き出した。え?何?どうしたの?僕なんか悪い事言った、にいちゃんごめん。でも僕はその、にいちゃんが本当は女の子なのに神様に間違えられて、挙句男子校に行かされて5年間も丸坊主にされて、そういう事にすごく苦しんでいたなら何て言うのか、傍にいたのに全然何もしてあげれられなくてごめんねって思ったんだ、にいちゃんごめん。ぼくは慌ててポケットから水色のタオルハンカチを出した、にいちゃんは僕が差し出したそれを握りしめたまま小さな子どもみたいに嗚咽しながら肩を震わせて泣くので琴子が

「希、気持ちは分かるけど涙引っ込めな、アンタ、今日のマスカラ、ウォータープルーフじゃないで!目元!」

「え、マジで?」

琴子の一言でにいちゃんの涙は若干引っ込んだらしい。凄いぞ琴子。にいちゃんが顔を上げてカバンから小さな手鏡を取り出すと、琴子の指摘した目元は少し黒くにじんでいた。

「にいちゃんちょっとパンダみたいになってる」

「みい、酷い」

僕が笑うとにいちゃんも少し笑った。よかった。それで琴子がトイレで顔直してくるからアンタ達適当になんか頼んどいて、ここはパパの奢りだから、と言ってにいちゃんを連れて行ってしまって、その場には僕と、僕の知らない大男が残された。調度類をすべて青と白を基調にした可愛いケーキ屋に全然そぐわない黒いダウンジャケットの短い髪の大男。

「あの…」

「うん?」

「誰?」

「俺?希の彼氏」

「にいちゃんの?あの…にいちゃんは女の子ではあるんですけど、ええとそれは実は僕も今日初めて知ったんですけど、でも生物学上はというかその、普段は」

「うん、知ってる、だって俺、希の高校の先輩やもん、ほんで君はみいちゃん」

「僕の事知ってるの」

「うん、マコトの友達」

どうも、マコトの兄です。そう言って僕に頭を下げてくれたその人の年は今年19歳だと言う、にいちゃんとは2学年上だからもう高校生じゃない。でもマコト?マコトってあの『会』の子で僕の友達の、あの塾の特Sクラスのマコト君?

「でも、あの、僕はマコト君からお兄ちゃんは高校1年生だって聞いてるんですけど、あの、今その、貴方はにいちゃんの学校の先輩で19歳って」

「マコトから俺の家のことなんか聞いてる?」

「おうちが病院で、一族の列に連なる者はみんな医者になるんだって、そうしないと人間扱いされないってマコト君が」

「そうそう『医者にあらずんば人にあらず』ってやつ。俺なあ、高3で受験した医大に全部すべって、それでもう受験なんかせえへんて決めたんやわ。なんぼ家業が整形外科や言うても俺は人骨なんか怖くてよう触らん、だから同じ切るなら植木屋になる言うて植木屋に就職して家から出たら、なんか家では俺はもう死んだ事になってるらしい。マコトがみいちゃんに言ってたのは、俺のもう1人の弟の方。マコトまで俺の存在自体を伏せてみいちゃんに言わんかったんか。ショックや、お兄ちゃん寂しいわ」

その大男は、テーブルに頬杖をついて少し膨れるような表情をした。僕は、マコト君からにいちゃんがミスコンの女王だと聞かされた日、その真偽をにいちゃんに問いただしたら、そのマコト君ていうのは、南整形外科医院の子かと確認されて、そうだと言ったらにいちゃんが真っ赤になった事を思い出した。そうだ、大体にいちゃんの1歳年下の筈のマコト君に存在を明かされている方の兄が、にいちゃんが中1の時のミスコンで、そのあまりの瑞々しく本物にしか見えない女子中学生ぶりに物言いがついたなんて事を知っている訳がない。それはこの目の前のもうひとりの兄がマコト君に教えたんだろう。

「あの、名前、マコト君のお兄さんの名前は何て言うんですか」

僕はそう言えばこの人の名前を知らない、そう思って名前を聞いた。マコト君が多分あのカシミヤでルブタンでレクサスのお母さんに口止めされていたもうひとりの兄、そして僕が今日初めて会った僕のにいちゃんの彼氏と言う人。

「ひかり」

「のぞみとひかり?」

「そう、新幹線なんやわ」

僕は笑って、ひかりさんも笑った。この人は何を話しても大丈夫な人だ。僕はそう判断してあと2つ質問をした。

「にいちゃんの事が好きなの?」

「うん」

「どうして?」

「だってあんなにきれいな女の子なんやで」

そうなんだ、にいちゃんはとてもきれいな女の子なんだ。そうだね、僕も今日、初めて知ったんです。にいちゃんが本当は女の子だっていう事実を。


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