成すべきこと/悩み

各時代における優れた人々が、それぞれ偉大なる先人達の意志を引き継ぎ、各々の時代の問題・病理・腐敗を解決・解消することに取り組むことが善であるというのは確かですが、同様に、
同時代の浮世の人々の喜びやから騒ぎにまぐわることなく、絶対的真理を追求することも、また善である。
更に、もしも同時代が救えないほど闇の力に侵されているとすれば、もはや同時代においては沈黙を選んで、後世に守るべき不滅の遺産を引き継ぎ隠し守り抜き、未来において真に心の正しいごく一握りの天才性を有する人々に不滅なる知的財産が届けられて、そして、それが彼らによって相応しく用いられることを信じて、同時代の問題の解決に取り組むのではなく、先の天才たちと神に尽くすことの方が、より正しいのだろうか?
この点が、私には判断できず、何をすべきなのかが、自分の頭ではわからないのです。無論、同時代の悪に対して、美と愛と善でもって対抗することは、同時代を生きる人々の魂のみならず後世においても人々の魂を鼓舞して救うことにも直結しているため、この2つは切り離されることでもないのですが。
もっとも、神が愛によって、私が善を望むときに、そのときに成すべきことを命じるであろう。

さて、善と悪との絶えぬ戦場であるこの世において、結局、狡い嘘をついて他人を貶めたり自分の罪を隠蔽し、他人に暴力を加えるといった卑劣な「悪」が常に能動的であり優位であるというのに、受動的な「善」や真実は、如何にしてこの不条理に立ち向かい、闘い勝ち得るのだろうか、ましてや、道徳が失われてしまった場において? 祈りと、届かない声をそれでも表現し続けるという、力を持たない微々たる抵抗しか能わないというのに、それでも不滅なのは善なのだから、不思議である、と同時に、無理解を示す大多数の同時代人に腹が立ちもする。
不条理といえば、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出す。この作品は3年以上以前に読んだものだが、なすこともなく無為に時間を溶かす二人の老人が、何の進歩も生産性もないただ会話をするためだけの会話を交わしつつ、来る日も来る日も死を待ち続ける話である。彼らのように、生きるための生に齷齪する生活を送り、その波風の立たない平和の中においても人間のエゴによる戦争状態にそれなりに苦しみもしながら、使命感も目標もなく、ただ自然に与えられた生を自堕落に費やすような人々も多くいる一方で、
生に対して真剣に取り組み、それゆえにこの世の多くの苦しみに辛酸を嘗める者達もある。

ところで、先日なにかの記事において「明治の文豪の多くは厭世主義者である」といった旨を目の当たりにし、真実を真剣に追求する審美眼を持つ人間が、どうしてこの世に憂いと苦と、救うことの能わず諦めるより仕方のないエゴによる大小の不条理を見、なおも人類の愚かさを厭わずにいられるだろうか、と、明治の文豪の特徴であるかのように厭世と形容されていることを不思議に思った。

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