Autopoint〜その誕生と終焉〜 その1

1883年4月16日イリノイ州ブルーミントンで父ウィリアム、母アイダの間にこの物語の主役チャールズ・キーランが誕生した。
チャールズが生まれて1週間の時にチャールズの母の兄が祖父の納戸で頭を撃って自殺してしまった。
祖父のエベニーザーはブルーミントンで市長を4回務めるなど”ブルーミントンで最も裕福な1人“と評される人物であったが、これに大いにショックを受け家族を捨てシカゴで暮らすようになってしまった。
母は祖父に対し財産などを求めた裁判を起こすなど家庭内での争いも起こるようになり次第にキーラン家が困窮していくこととなる。
農場や家畜などを手放した頃、父ウィリアムは他界してしまった。チャールズが9才が10才の出来事だった。
精神を病んでしまい幻覚を見るようになり行方不明となってしまったチャールズの母アイダは後に精神病院に入院し、残りの生涯をそこで過ごすこととなってしまう。
1905年12月に祖父が危篤となりチャールズはシカゴに呼び戻されたが翌1906年4月には祖父が他界してしまった。
その後ブルーミントンに戻り”ブルーミントンピクルスカンパニー”でアシスタントマネージャーの職に就いたチャールズだが、翌年祖母のメリッサが亡くなり、その遺産を元にウィリアム・K・ブラケンとユリウス・F・ファンクと共に”イリノイピクルスカンパニー”の設立に参加した。

イリノイピクルスカンパニー設立後、チャールズは瓶詰めのシール材の特許を出願し、共同出資者のユリウス・ファンクと共にキーラン-ファンク社を設立しその発明品を販売するようになった。
1911年に”ホワイトクラウンフルーツジャー”の商標を登録をし、彼の発明のスキルが活かされるようになっていたが、ビジネス的に成功を収めているジャーの報酬を享受するのにチャールズを必要としなくなったと感じたビジネスパートナーのユリウス・ファンクは1913年に独自に”ホワイトクラウンジャー社”を設立してしまった。

ファンクに裏切られ失意のチャールズがシカゴの文具店で手にした15セントのペンシルを列車内でじっくりと観察したことで、チャールズが文具業界への扉を開くこととなった。
のちにチャールズはこの時のことをこのように語っている
「このシャープペンシルの印象は粗雑であり、人々はこれよりももっとよりよいものを求めているように見える。万年筆に3.5ドル払うのだからペンシルにも同じだけ払わないわけがない」と。

同年12月にニューヨークの百貨店で新しいペンシルのテストマーケティングを行い大いに成功を収めたチャールズは翌1914年1月にこのペンシルを製造するためにイリノイピクルス社のウィリアム・K・ブラッケンをビジネスパートナーとしEversharp Pencil Company(エバーシャープ社)を設立、4月にはエバーシャープを販売するためのキーラン&カンパニーを設立した。
チャールズは当初ペンシルの製造をジョージ・W・ヒース社に依頼をしていたが生産量が需要に追いついていないことに不満を感じていた。
1915年のサンフランシスコで開催された万博出展でサンフランシスコの大手文具店との契約を結ぶことができた事や万国博覧会に向かう列車で知り合ったビル・スミスの努力によりエバーシャープ社の売り上げは急増していったが、ヒース社による供給不足はますます深刻化していった。
チャールズは供給不足を解消するため、自社でペンシルの生産することを決意し製造設備導入のためにWahl Adding Machine CompanyのWahl氏に近づいたが自社生産ではなくWahl社に製造委託をするよう説得された。
この判断がこの後の彼の人生のターニングポイントの一つとなったのだが、後悔することとなるのはすぐ後の話。

急激な成長により納入されたペンシルの代金を支払えなくなってしまったエバーシャープ社のチャールズは所有するエバーシャープ社の株式でWahl社への支払いに代えたのである。
エバーシャープ設立からわずか1年で会社の支配権を失ってしまったチャールズだったが、営業部長として会社に残りスミスと共にエバーシャープ社の発展に尽力した。
当時ボストン万年筆の担当だったスミスはボストンペンとエバーシャープペンシルをセットにして販売する手法を思いつきアメリカ筆記具業界を一変させた。
同年チャールズは渋るWahlにボストン万年筆社を買収する必要性を説き1917年に買収が完了した。
ふとしたきっかけでペンシルの製造を始めたWahl社がわずか1年あまりでウォーターマン、パーカー、シェーファーに並ぶアメリカの大手筆記具メーカーへと成長したのである。

ボストン万年筆社の最高責任者だったデヴィッド・J・ラフランスが開発したペンシルの設計をシェーファーが入手しチャールズの”Eversharp pencil”に対抗し”Sheaffer Sharp Point”として発表したとき、チャールズは解雇こそされなかったものの営業部長を解任されてしまった。
同年、チャールズは職を辞し自分の発明したEversharpを数千万本も売ることになる会社から手を引くこととなったのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?