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続・バイプレーヤー オブ 猫を棄てる

 彷蜃斎です。先に投稿した「バイプレーヤー オブ 猫を棄てる」の続編です。正篇と合わせて読んでいただければ幸いです。 
 さて、「猫を棄てる」はまず、春樹さんがお父さんの千秋氏と共に夙川から約二キロ離れた香櫨園の浜に猫を遺棄するためにでかけ、まっすぐ自転車で自宅に戻ったところ、捨ててきたはずの猫が先回りして玄関先で、春樹とお父さんを出迎え、結局その猫を飼い続けたというエピソードではじまります。
 この額縁的挿話は「父は小さい頃、奈良のどこかのお寺に小僧として出されたらしい。」(30頁)とはじまるパートで、春樹の従兄弟にあたる人物から聞かされた千秋氏の幼少期における秘密と呼応関係にあって、それゆえに玄関で棄ててきたはずの猫と再会した際に千秋氏がまず呆然とし、やがて感心した表情になり、最終的にホッとしたような顔をしたことを春樹さんが思い出すというある種のオチにつながっていることはいうまでもありません。
 それはそれで春樹さんの手腕を感じさせるのだが、気になるのは途中に挿入された「どうしてそんな大きな猫を棄てに行ったりしたのか、よく覚えていない。我々が住んでいたのは庭のある一軒家だったし、猫を飼うくらいのスペースはじゅうぶんあったからだ。」という箇所と「兄弟を持たなかったので、猫と本が僕のいちばん大事な仲間だった。縁側で(その時代の家にはたいてい縁側がついていた)猫と一緒にひなたぼっこをするのが大好きだった。なのにどうしてその猫を海岸に棄てに行かなくてはならなかったのだろう? なぜ僕はそのことに対して異議を唱えなかったのだろう? それは――猫が僕らより早く帰宅していたことと並んで――今でも僕にとっての大きな謎になっている。」という部分なのである。そこには、捨ててくることを指示したのが誰で、だからこそ、春樹さんは拒否できなかったのだということが、いわば如実に語られてはいないでしょうか。
 そう思うのは、「彼は六人の息子をもうけ(女の子は一人もいなかった)」(21頁)ではじまるパートで、祖父の死を知らされた千秋氏にむかって、「京都のお寺を継ぐことだけは、きちんと断ってくださいね」と懇願する母の姿を「そのときまだ九歳だったが、その情景は僕の脳裏にまだはっきり焼き付いている。」というように、いわばネガとポジのように対象的に描き分けられていることにあきらかなように思うのです。

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 もう一点、どうしても指摘しておきたいことがあります。それは「もうひとつ子供時代の、猫にまつわる思い出がある。」(91頁)とはじめられる、一見冒頭の挿話と対をなすかのように書かれた「松の木を登っていった猫」とでも命名すべきエピソードです。村上家で飼っていた白い猫がある夕方春樹の目の前で松の木に登り、降りられなくなってしまい、ついには行方がわからなくなったという内容で、「降りることは、上がることよりもずっとむずかしい」という教訓を春樹さんに残したということです。
 初読の際、彷蜃斎はこの白猫のエピソードが子をなさなかった春樹さんの悔恨とでもいうべきもので、父千秋氏の挿話を受けているかのようにも読みました。が、それ以上にこの挿話は無くてもよい。いや、無いほうが圧倒的に収まりが良いように思えました。なぜなら、子孫を残さぬある種の悔恨はその前に置かれた「自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚」(90頁)において、ある意味ではすでに提出済の命題のように思えるからです。
 だとしたら、これはいかなることなのでしょうか。何度か読み直しているうちに、これは小説家としてノーベル文学賞に最も近い日本人作家といわれるまでの高みに上った春樹さんの、半ば正直な現在の心境吐露とも考えるようになりました。
 しかし、現段階における、彷蜃斎の解釈はこうです。さきほど引用した「もうひとつ子供時代の、猫にまつわる思い出がある」の後「これは前にどこかの小説の中に、エピソードとして書いた記憶があるのだが、もう一度書く。今度はひとつの事実として。」と引き取られたとき、春樹さんはまさに語るに落ちたのです。ここで「どこかの小説」といえば、たとえばある読者は『スプートニクの恋人』の中にあったなと思いつくかもしれない。しかしそれは、春樹一流のフェイクなのかもしれないのです。なぜなら、鈴村和成さんという研究者によれば(『村上春樹は電気猫の夢を見るか?』彩流社)、この木に登りその後行方不明になった猫のエピソードは『スプートニクの恋人』以前に『人食い猫』という短篇、ならびに『すばらしいアレキサンダーと、空飛び猫たち』の「訳注」でも使われているというのです。かつて一度フィクションの中で描いた消えた猫のエピソードを、今度は事実としてもう一度使うと宣言したとき、いわばこの猫は特殊な仕掛け(ギミック)と化したのです。
 春樹さんの作品では、しばしば指摘されるある種の場面の使い回しが批判されます、少なくとも、彷蜃斎はそれは存外的外れではないかと考えています。この問題はまた別に詳述したいのですが、とりあえずは次のように考えています。たとえば、女性と猫が似ているというような言い方があります。もしそうなら、春樹さんの作品の始まりで、しばしば妻や恋人が失踪したり、別れ話が持ち出されたりする一連の導入シークエンスというものと猫の消失譚はその反復において、春樹文学の本質に関わる何かの表象なのだと思われます。それゆえに、妻や恋人の失踪譚は単なる使い回しではなく、より決定的に重要なモチーフであったがゆえに、何度でも反復しなければならない事象の謂なのだと推察されるのです。
 しかしながら、そうすると最後におかれた「消えた猫」は実は「棄てられた猫」の変奏(ヴァリアント)なのでないのか、つまり、何度棄ててもその都度舞い戻ってくるナニモノかの謂だったようにも思えるのです。

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