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【2019忍殺再読】「エッジ・オブ・ネザーキョウ」

思想と行動:タイクーン

 AOMシーズン3、第二話。その思想に反発するもの、その思想に賛同するもの、そしてかの国をとりまく政治的な情勢について。内外賛否複数の視点を交えることで、第一話でイメージビジュアルとして描かれたシーズン3の舞台「ネザーキョウ」が、より立体的に描かれる。「ネザーキョウの縁」と題されている通り、本エピソードは隣国UCAとの国境線・ネチャコ川や入国者を検問するセキショを舞台としています。それと呼応するように、より突っ込んで描写されることとなったこの舞台の「境界線」は、ぼやけていたタイクーンの輪郭をより明確にし、その解像度を高めることとなりました。そしてその結果、その実態が明らかに……とはいかず、むしろその逆、解像度が高まったことでよりわからなさが増したというのが、この忍殺流明智光秀の一筋縄ではいかないところ。カラテの王たる思想とは別に、言葉にされぬままに積み重なれられてゆく、オダへの執着と明らかにジツに寄った呪術・魔術・詐術の数々。記述されている思想と、描写されている行動の違和……言い換えるならば、エゴとカラテの齟齬とでもなるでしょうか。描写されるほどに、それは増大し、わからなさも膨れ上がってゆくのです。

 しかし、本話感想の時点で、タイクーンというニンジャの不気味さに触れるのは性急と言えるでしょう。ムラサキの挿話も、暴君の人間味を強調するものとして、素直に読めるものでした。「地名の上書き」「インターネット弾圧」と、その隠された実像に迫る要素が配置されてはいるものの、現時点でのそれらは「本人が風土そのものとなるリアルニンジャ特有の強大なカラテ」「強靭なエゴを持つがゆえに、ある種の愛嬌へと転じる現代的価値観とずれ」と、一般的な解釈が可能なものでした。この時点でのタイクーンは、その名乗り通りのカラテの王として読み解くことが可能な存在であり、先のブラド・ニンジャやドラゴン・ニンジャのエピソードを参照されることで導きだされる「ネットがわからなくて偏見を持っているおじいちゃん」以外のなにものでもありません。この「リアルニンジャネットおもしろ話」は、表層ではありますが……しかし、真実の一側面です(でないと「大体わかった」でマスラダくんがニンジャを殺せるはずがない)。アイエエの小説としてのおもしろさは、ただの擬態ではなく、それもまたこの小説の真実の一つであったはず。マルノウチスゴイタカイビルに笑ったあの頃を、どこが忍者なんだよ!とツッコんだあの頃を、ボンモーは「インターネット」を使って、再び我々に返してくれました。

建前と本音:スピアフィッシュ

 エゴとカラテの齟齬。タイクーンに感じる違和。それは、本エピソードにおいて底知れぬ不気味さではなく、あくまでもタイクーンの統治がへたくそであると解釈できるものとして描かれます(今となっては、それが真実ならどれほどマシだったか、という感じですが……)。つまり、建前と本音を使い分け、ネザーキョウの価値観を都合よく利用しているニンジャの登場ですね。再読して驚いたのは、この役割を担っていた、スピアフィッシュさんが、非常に魅力的だったこと。ザックとのやりとりや、職場である事務小屋の様子が詳細に描かれたこともあり、彼の造形はどこか奇妙な実在感をもって我々の前に立現れます。中でも、ザックの財布から金を抜くシーンがよい。めちゃくちゃよい。「邪悪な半神」「人外の怪物」からかけ離れた、その生活背景すら透けて見える生々しさがそこにはありました。

 自宅のキッチンの汚れや、ゴミ箱の中身すら垣間見えるようなこの「生」の反応! この他にも、スピアフィッシュは、記号化された「センシ」とは程遠く、ネザーキョウという職場で、なんとか日々をうまくやっている、サラリマンめいた立ち振る舞いを我々にたっぷり見せてくれます。

 はてさて、一体どこまでが本気なのか。モータルをいたぶるためのデマカセでしょうか。しかし、それらはネザーキョウの、タイクーンの、ありがたき教えであり、デマカセとして用いてよいものではないでしょう。朝礼で社の理念をルーチンで唱えるような、飲み会で上が求める理想の社員像をジョークにするような、そんなスタンスをとりつつも、それはそれとして、しっかり仕事をする。仕事をする上で、その「理念」を使えばうまく運ぶことをよく知っている。それは、心の底から信仰するものではなく、自分の日常をうまくやってゆくための、利用すべき武器である。厳しい教えの、「厳しさ」の、自分にとって都合のいいところだけを、自覚的に切り抜くしたたかさ。それは、決してゲイトキーパーやパラゴンのカラテの高みには届かない、中途半端な自我かもしれませんが、AOMの世界で生活を送る上での、小市民の一つの規範、フーリンカザンの一種と呼べるのかもしれません。

 ……あと、彼の部下もいいですね。今ではすっかりテンプレモヒカン集団にまで解像度が落ち込んだゲニンですが(カネトのお話を挟んだ癖に、何事もなかったように解像度を戻しているのが凄すぎる)、この時点ではまだ方針が固まっていなかったのか、多様性が感じられます。テンプレには違いないんですが、それに種類がある。具体的に言ってやろうか?お前だよ、お前。

 なんでお前だけ、ヤンキー漫画の腰ぎんちゃくみたいなキャラしてんだよ。ちゃんとモヒカンにしろよ。出っ歯を引っ込めろ。

理想と現実:ザック

 それにしても、少年ザカリーが歩んだ物語の過酷さには、目を覆わざるを得ません。彼自身の強さと、ゲニンのおもしろさで薄められてはいるとはいえ、これは、ただの子どもであるはずの彼がその全てを否定し尽くされる、恐ろしく残酷なお話だからです。UCAもまた暗黒メガコーポが支配する別の地獄に過ぎず、インターネットにだっていくらでも制限はあり、希望の象徴である輝く星は邪悪なニンジャが手すさびで作ったまがいもの。頼もしい仲間であるリコナーはいともたやすく皆殺しにされ、彼がこの地で生き抜く唯一の武器であるネット知識ですら、マスラダ・タキ・コトブキにとっては「何も知らない子供のかわいい背伸び」でしかない。ボンモーは、ゲディスト。自分が造形したキャラの構造を知り尽くし、最も的確な手段でそれを破壊するプロです。オキアミ・バーの味を知らない少年の現実認識、一つ一つ心を込めて潰してゆく、その手つきの丁寧さたるや……! 

 ザック本人にそれを突きつけないのは、彼が子どもだからという配慮なのでしょうか(スカラムーシュは大人なんで、問答無用で突きつけられた。ナムアミダブツ)。ちなみに、ザックの代わりに殴られる羽目になったのが、彼よりは客観的な立場から(国外から)ネザーキョウを俯瞰できる読者とマスラダくんですね。やめろ。こっちを向くな。私がザックくんに真実を告げるべきってか? 言える訳ないし、今はその齟齬に目を瞑るしかないだろう。かろうじて残った残骸をかき集め、あるべき形に組み立てられた理想は、己のカラテにすら耐えることのできない危険極まる欠陥建築ではあるが、次へと続く足場になるば、あの甘ったれた男のように他者を招く看板を掲げないのであれば、無言で目を閉じ、見過ごすべきだということなのでしょう。ザックを始め、リコナーというレジスタンスは、ある種の幼稚さを持った決して正しくはない組織ですが、その「正しくなさ」は、彼らが虐殺に抵抗する唯一の手段であり、必要なものなのだと思います。彼らは、ノー・カラテ、ノー・ニンジャという作品原理が証明する「正しさ」に対して発生した抵抗であり、「正しくない」という形のカラテそのものなのですから。

 ……で、ボンモーのマジで凄いところは、これだけヘビーな少年の成長譚を、「初めてネットをやって浮かれたガキが、いい加減にしなさいとおかあちゃんに怒られたり、詐欺サイトに騙されたりする」というインターネットあるある原初体験に落とし込んでいるところですね。ブラドのyoutubeといい、一体なんなんだほんと。さすがは「ニンジャ」でサーガをやろうとした狂人、としか言いようがない。異なる感情を呼び起こすレイヤーを複数枚重ね合わせることで、読者の脳をバグらせて異様な感動を出力させるというウルテク。テキストで人の脳みそをハッキングするのはやめて頂きたい。

未来へ…(あるいは、インターネットの夜明け)

現時点でのタイクーンは、その名乗り通りのカラテの王として読み解くことが可能な存在であり、先のブラド・ニンジャやドラゴン・ニンジャのエピソードを参照するならば、「ネットがわからなくて偏見を持っているおじいちゃん」以外のなにものでもありません。

 さて、未来の話をするならば、当然、上の冒頭の続きになるでしょう。小説『ニンジャスレイヤー』には、必ずアイエエの小説の次の段階があるのですから。「ネットがわからなくて偏見を持っているおじいちゃん」……それは果たして本当なのでしょうか。いえ、それも「本当」です。言い直しましょう。……果たして、本当にそれ「だけ」なのでしょうか? 

 そもそも、ブラド・ニンジャ、ドラゴン・ニンジャのエピソード自体がある種の、ミスリードだったように今となっては思えます。スピアフィッシュさんの存在も大きいでしょう。ドラゴン・ニンジャがSNS・ブログを、ブラドがyoutubeを題材にとったように、彼はレビューサイトでのステマを題材にしたトンチキ小話を我々に見せつけてくれました。それは極めてわかりやすい笑いどころであり、愉快で楽しい解釈の落としどころでもありました。

 解釈は、物語を想像し、創造し、異なる二者の間に筋道を通します。「大体わかった」という座り心地のよさは、私たちに安心を与えてくれますし、マスラダに強大なニンジャを殺しうる余裕と力を与えます。しかし、この「大体」が意味するところは、細部の無視・前提の忘却であり、それはこのケースでも同じです。すなわち、ニンジャスレイヤーの「インターネット」とは、我々が知るインターネットとは、全くの別物であるということを、思い出す必要があるでしょう。

 タイクーンの弾圧は、偏見なのでしょうか。感情的な否定なのでしょうか。ネザーオヒガンで長い時を過ごし、我々よりもはるかにオヒガンに精通したかのリアルニンジャは、確かに我々の言うインターネットは知らずとも、ニンジャスレイヤーの「インターネット」の本質を知らないなんてことがあるのでしょうか。ニンジャに名前被りがいない理由。名づけの呪術。ボンモーの十八番。「プリンスジョージ」に「ヤマザキ」と名付けることと、同一の術式を使用した表裏一体の呪法がここにあるように思います。そして、これは前例のある呪法です。すなわち、『ニンジャスレイヤー』の根幹であり、出発点でもある「ニンジャ」と「忍者」……。この二者が同音異表記によって「違う」ことを明記されていたことを考えると、「インターネット」と「『インターネット』」は、その発展形であり、ハードモードと言えるでしょう。

 思想と行動、本音と建前、理想と現実。そして、ニンジャ(忍者)にインターネット(インターネット)。異なる二者の間に一度通ったはずの筋道の再定義。マルノウチスゴイタカイビルを、笑えなくなるということ。シーズン3におけるインターネットとは、今やニンジャを知りすぎた我々の脳をゆさぶる新たなる「ニンジャ(忍者)」であり……そして何より、タイクーンのエゴとカラテを結びつける筋道として、応用できるものになるのではないでしょうか。

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■2020年6月1日