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【2019忍殺再読】「ラーン・ザ・ウェイ・オブ・コトブキ」

クミテは荒野に道を敷く

 シーズン3幕間。コトブキとマスラダのクミテの様子を切り取った掌編。対話を通じて静かに理解を深めてゆくマスラダと、それに真摯に応じるコトブキが作り出すアトモスフィア。通常、カワイイを感じさせることの多い彼らのやりとりですが、今回はどこかおごそかな気持ちにさせられます。その感覚はおそらく、自己理解を通じた致知、自我と外世界の関係性の再認知という、コトブキの語るゼンめいた境地がもたらすものでしょう。しかし、それをあけすけに「動きのキャリブレーション」と表現してしまうのは、『ニンジャスレイヤー』という小説の真骨頂であり、エトコ、ユンコに続く三人目の「サイバーパンクの少女」であるコトブキの神髄でもあります。

 クミテ(組手)とは何でしょう? それは他者に対して奮われるカラテです。しかし、それは通常のカラテとは異なります。カラテとは物理的ハッキング手段であり、要は相手をぶち殺し、コトダマを自発的に発せない状態を強制し、その隙にミームの解釈を好き放題に書き変える凌辱行為です。しかし、本エピソードでマスラダとコトブキが交わすカラテには、そのような苛烈さは見えません。それは、ハッキングするカラテではなく、ハッキングさせないカラテのように思えます。しかしその本質は、防御とも異なります。そう言った自利に根差したものではなく……もっと相手に寄り添った……相手のカラテを明確に定義づけるために、奥ゆかしく置かれた「壁」のような。自らのエゴを押し通すのではなく、相手のカラテの輪郭を明確にするための、カラテと言えばいいでしょうか。

 カラテは抵抗であり、ゆえに、抑圧が必要です。何もない荒野において、カラテを発することはできません。標の一切ない空間において、あらゆる行動は必然性を持ちえないのと同じです(正確に言うならば、自己の肉体・記憶などは荒野における唯一の抑圧・標と言えるでしょう。かつて、フジキドは、サップーケイの荒野において、全力疾走し自分の肉体限界にぶち当たることでカラテを発してみせました)。クミテで相手が差し出した「壁」は、そこから先は動けないという輪郭であり、無明の迷路をさまようための唯一の手掛かりになりえるでしょう。否、何もない無明の荒野に、迷路と言う「ゴールのあるもの」を作り出してみせるのでしょう。水は、コップに遮られることで、形を成す。クミテとは、互いに制限を課し合うことで各々のカラテの形を再確認する手続きなのだと思います。

カタは小箱を揺すり開く

 カタ(型)とは何でしょう? 「リトル・イデア」「防御プロセスの暗記」とコトブキは説明しています。他者を対象とした物理的ハッキング手段であるカラテにおいて、他者に向けられない鍛錬とは、自己改変に他なりません。自分に自分を代入することによって行われる、自我の強化。塗厚を増すことで、形はそのままに、情報量が増え、レコードがより深くコトダマに刻まれる。重要なのはそれが〈青い火〉のように自己の理想を固定して保存する行為とは異なるということです。先に引用した「キャリブレーション」という語彙、そして「この動きはわたしのカラテの基準、常に立ち戻る為のもの」にある通り、それはただ今の瞬間を切り取ったものではなく、今の瞬間にはない、架空の瞬間に向けて精度を高めてゆく変化を伴うものです。また、コトブキは立ち戻るという言葉を使っていますが、これは過去のある時点への後退ではなく、時系列上にない地点への前進を意味すると思います。

 つまり、エゴはカラテは、ニアリーイコールであっても、イコールではないということです。そこにブレがあるからこそ、カラテ者は鍛錬を通して、循環参照エラーを起こすことがないでしょう。かつて、ヴォーパル師は「カラテとは要はエゴよ」と言いましたが、あれは腑抜けたフジキドを動かすためのある種の方便であり(しっかり「要は」と挟んでるあたり、油断ならぬじじいですが)、カラテ欠乏病人のために用意された流動食……単純化された教えだったと私は思っています(ヴォーパル師が、善良なニンジャではないということも理由にあると思います)。エゴとカラテの間にある段差は、それらが走り・流れる度にガタつき、自己を揺すり動かすことでしょう。閉じられた小部屋を揺すり開く力になるでしょう。そして、それは、コトブキに多くの出会いと冒険をもたらした始まりの力でもありました。

 だが、娯楽映画作品におけるカンフー・スターの動きは大きな動きを強調したものが多く、閉鎖空間で動作の再現とキャリブレーションを繰り返す中で、コトブキの自我に疑問がひろがった。

 シーズン1を読んでいた頃、私はコトブキの魅力を「その善良さが、映画の模倣なのか、本心のものなのか見分けがつかない危うさにある」と思っていました。しかし、その解釈は、エトコへの回帰であり、変化をもたらさないリフレインに過ぎません。彼女の道に倣い、私もキャリブレーションをかける必要があるでしょう。自我がもたらす、模倣を越えた疑問。思考力と想像力。閉じられた系の存在し得ない忍殺世界において、〈鳥の館〉は思考実験にしかならないことを、再認識する必要があるでしょう。エゴを絶対視することのない、ガタつきだらけの整備されていない道。ゆえに、前進のための機構が駆動することのできる道。抵抗(カラテ)が生まれ得る道。それこそが、コトブキの道なのですから。

未来へ……

 「ニンジャ相手のイクサにおいて、そんな努力は無駄なのかもしれませんが……」というコトブキの述懐に対し、マスラダが「意味はあるさ」と返すシークエンスがとても好きです。『ニンジャスレイヤー』という小説が備えた、残酷さと優しさがそこにはあります。これは、別に「カラテを鍛えたらニンジャに勝てる」という話ではないんですよね。というか勝てません。たとえ勝てたとしても、それは恐らくその努力とは無関係の外的要因……いわゆる「奇跡」の産物です。それができるなら、ヤクザ天狗は正面からニンジャに勝てている。カラテの大小が全てである忍殺世界は極めてドライであり、その目的に対してならば、まさしくその努力は「無駄」ということになりますが……でも、その目的以外に対してならば、その努力は必ず意味を持つでしょう。本人が望まず放り捨てたとしても、絶対に誰かの手で意味づけがなされるでしょう。『ニンジャスレイヤー』は、真実の上にかぶさった解釈のドラマであり、「全てに意味がある」という祝福であり……そして、それは場合によっては何よりも残酷な呪いでもあるように思います。

 この先、コトブキが、マスラダが、自らのカラテの蓄積に対し、少しでも本人が望む通りの解釈ができますよう。真実の意味づけから逃れられぬのならば、せめて、それが自らの言葉によって成されますよう。コトダマに包まれてあれ、とは、それを願う祈りに他なりません。

■note版で再読
■2020年6月24日