無題

時間外25:00

「残業申請は認めてやるが、それは自分が無能だと吹聴するのと同じだぞ」

 コートを羽織りながら、課長がこちらも見ずに吐き捨てた言葉を思い出す。あれは16時だったか17時だったか。とにかく定時前であることは間違いない。今日は飲み会。予定にない。うちの部門長は単身であり、決算期のこの時期であっても構わず声をかけてくる。課長はその誘いを断ったことはなく、それは当然俺たちの同席も意味する。タイミングが悪かった。下から資料が上がったのは予定から遅れに遅れた今日15時。本社には明日の朝が期限だとひと月前から念を押されている。飲み会に出ている暇はない。

「それはお前の管理が悪いからだ」課長は冷え切った目をしていた。「お前は無能なんだから人間関係を大切にしろ。そう言ったよな?」

 だったらあんたはどうなんだ。あの女は、あんたの、村間課長の知り合いだろうが。

ムラマぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!

 オフィスに絶叫がこだまする。その女が入ってきたのは日付が変わった頃だった。右腕には体液でべっとりと濡れた包帯が巻かれ、包丁が握られている。爛々と輝く瞳は焦点があっておらず、墨で塗りつぶしたような隈がその下に貼りついている。

ああああぁぁぁ!!!!

 泣き叫ぶ声。思わず身が縮む破砕音。奴がいるのは俺の座席の近くだ。電話でも叩き壊したか。それともパソコンか。構わない。必要なデータは既に業務用タブレットに落としてある。タブレットなら業務記録は残らないからだ。指でExcelを操作するのは難しく、恐怖で震えた指先では目的のセルすらまともに選択できない。だが俺が申請した時間外は23時までだ。今は25時。通報すれば無申請労働がバレる。お前は無能だと叱られる。いやだった。心底いやだった。あの胃の底から冷える感覚。足元が抜け落ちる感覚。殺人鬼に殺される方がマシだ。隈の濃さなら俺の方が上だ。

 仕事を、進めなければ。

【続く】