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【2018忍殺再読】「ベイン・オブ・カトー」

マスラダやべーよ 

 AOMシーズン2、第3話。ニンジャスレイヤーがあっちこっちのニンジャを順々に殺してゆくモータルニンジャレジスターな風味を感じるエピソード。初読時は起承忍殺起承忍殺起承忍殺とひたすら掌編を積んでゆく型式かと思ったのですが、リロイとジェシという軸が加わり、キンジャールというボスも用意されたことで、一本のエピソードどしてキュッとしまった印象があります。ニンジャスレイヤーが徹底して物語の外から突然割り込んでくる存在=「赤黒の死神」として描かれているのも印象的。「連続ドラマ」の側面を持つAOMの主人公である以上、マスラダは「変化を描かれる」主人公であり、その内面・人間味が強く出ていることが多く……ゆえに今回のような描かれ方をされるとその怖さに驚かされます。そういえば、AOM開始直後の彼は、素顔が見えてないこともあって超怖かったんですよね。マーセナリイ・マージナルとかヤバかった。今回、「赤黒の死神」を再度蘇らせたのは、リロイとジェシの物語を描く上での要請だと私は思っているのですが……さて、真意はボンモーのみぞ知る。

 とにかくイカれているのがお友達紹介方式でシンウィンターに辿り着こうとしているところです。全く意味がわからない。ジグソーパズルを組み立てる時に絵を見ずひたすら組み換え続けて完成を目指すような狂気の沙汰。シルバーキーの命という時間制限を前にして、「もっと効率のよい方法を探そう」ではなく「もっと急いで順々に殺していこう」となる思考回路は、明らかに「ニンジャを殺す」以外の手段を持っていない者の発想であり、とにかく恐ろしい。ケーキを切るとき、手元に定規しか持っていないのならば、定規でケーキを切り分けるしかない。人を探す時、ニンジャを殺す以外の手段しか持っていないのならば、殺しまわって探すしかない。目的と手段が一致していない歪さが生む嫌悪と恐怖。そして一つの手段しか持っていない不器用さが生むカワイイとカワイソウ。「ニンジャスレイヤー」の名が、呪いのようにマスラダを定義している……。

満足成仏キンジャール

 シーズン2感想の恒例となりつつある過冬ニンジャ好き好きのコーナーですが、今回も最高でしたね。過冬幹部ワイズマンの会議も百点満点中五億点のかっこよさでしたし(敵幹部集合シーンのかっこよさに定評のある忍殺)。序盤にマスラダに連続忍殺された三バカトリオもそれぞれ、自分の個性をいきいきと伸ばし、実に楽しそうに邪悪行為を行っていて幸福な気持ちに満たされます。熊エンハンスメントとかいう使いどころがなさすぎるジツを与えられたにも関わらず、心折れることなくそれを最大限生かせる天職に就いたベアゴージの人生には涙がこぼれますし、「使われることのないペンションの維持」とかいう虚無の暗黒以外の何ものでもない業務を割り振られ、それでも腐ることなく人生を楽しんでいるチェンバーレインにはちょっと尊敬の念を覚えます。

 で、キンジャールですよ。これまでのスリケン特化ニンジャは、連射(スリケニスト)、飛距離(シャーテック)、狙いの正確さ(これもシャーテック)、威力(ツヨイスリケン)の四ついずれかを重点して描かれることが多かったので、彼のテクニカルなクナイ戦闘は大変新鮮なものでした。うまい奴が使えば超強いけど初心者だと扱いが難しい格ゲーのキャラみたいですね。また、初読時は単にかっこいいカラテ強者の側面しか読み取れなかったキンジャールですが「シンウィンターに敗北し、諦め熱を失ったニンジャたち」というワイズマンのコンセプトを踏まえて読み直してみると、色々な発見がありました。最も印象的なのは、マスラダの「過冬のシンウインターはそれ程までに忠誠を誓いたい相手か」という問いかけへの返答、「……あの方は恐ろしいお方だ。だが俺は戦士として死ぬ、ただそれだけの事よ。貴様を殺してな!」でしょう。よく読むと、シンウィンターへの言及と、己が爆発四散をも承知の上で戦う理由の説明が「だが」で断絶してるんですよね。そこにシンウィンターへの忠誠はない。圧倒的な力に熱を吹き消され、永遠に続くライフアフターデスの中で全てを諦めていたカラテ戦士は、イクサによって一瞬だけかつての熱を取り戻し、その熱を死によって永遠に固定した。その背景は一切語られていないにも関わらず、キンジャールのイクサからは彼がたどった敗北と諦念、そして凍えるシトカを脱し、死出のオキナワ旅行へと臨む喜びがにじみ出ていると思うのです。

狂人の文学

 最後にリロイとジェシのお話がとても好きだという話をしましょう。「キャラクターの魅力とは他者と関係性の中にある」どこかの誰かが言っていたこの金言に従うように、ユダカとキャリバー、ガンドーとシキベ、デスドレインとランペイジ、アサノとブラックメイル、アースクエイクとヒュージスリケン……忍殺はこれまで数多くの名コンビを生みだしており、彼らもそこに並びうる魅力を備えています。リロイの狂った世界観をジェシが頭ごなしに否定しないのが素晴らしい。勿論そこには「言ってもわかるはずがないという諦め」も含まれているのでしょう。しかし、理解できなくとも、間違っていたとしても、己の世界の外にある他者の世界は、他者の持ち物であり、自分は手を出しすぎるべきではないという弁えがそこにはあります。

 自他の線引きはドライな行為のように見え、実のところ他者を尊重するラブ、リスペクト、ラブの精神の体現でもある。これは「遮るものがない」リロイにはできないことなんですよね(狂人代表のニンジャスレイヤーは他のニンジャの物語を横合いから殴りつけて打ち切る存在です)。ただ、リロイもその狂った世界観を絶対に正しいとしながら、「間違っている」ジェシを励まそうと、「正しさ」の中から悪戦苦闘しています。根っこには相手を気づかう優しがある。相手の間違いを受け入れそれを「正しい」と仮定してやる優しさを持つジェシと、相手の間違いを否定し「正しい」自分ができることは何か考え続けるリロイ。歪な凹凸がかみ合った彼らの友人関係は本エピソードを彩る大きな魅力の一つです。

 彼らが綴る「本物の冒険」と「冒険ごっこ」が重なり合ったロードムービーは、ダグの死という現実を前に終わりの時を迎えます。その死はただのつまらない死で驚きの真相など何もない。現実とはそういうものであり、それを初めて直視した時、少年は大人になることができる。少年時代を終えたジェシとリロイは夢から覚めて天井を見上げ……そしてそこにはニンジャがはりついている。本エピソードで私が最も好きなのがこのシークエンスです。ここには『ニンジャスレイヤー』という小説の神髄が詰まっています。「現実を見ろ!」という叱責に対し、窓の外のクソッタレな現実=ニンジャ同士のイクサの光景を突きつけた小説が真っ当な少年時代の終わりを提示するわけがなかった。不条理の裏にはニンジャがいる。死の裏にはニンジャがある。ニンジャとは、平安時代の日本をカラテによって支配した半神的存在であり彼らはキンカク・テンプルで謎のハラキリ儀式を行い歴史から姿を消したと真顔で断じ、新聞の有名人の写真を覆面型に塗りつぶしてこれが真実だとぶち上げる狂人の書いた文学。欠陥だらけの陰謀論、稚気染みた夢、狂人の戯言を、「全てはニンジャなのだ」の一言で真実へと押し上げるノー・ワン・ゼアの対極。ヴォジャノーイの登場により、正気=正解、狂気=誤りの等号は崩れ去り、リロイとジェシの間にひかれた境界線はただの二つの世界を分かつ壁となります。彼らの旅路は「本物の冒険」か?「冒険ごっこ」か? 二人がその先で得たものは境界線で分かちえない「ダグの死」という解釈の素体であり、リロイがそこからどんな物語を読み取るのか、ジェシがそこからどんな物語を読み取るのかは、語られません。二人の少年が、自分にとっての現実=虚構を構築する材料を手に入れた。これはそこまでのエピソードであり、だからこそ、その先にくる新しい陰謀論の誕生……あらゆる可能性に満ちた「ケオス」の愉快さと不気味さが強く示されているのです。

■note版で再読
■10月20日