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【2019忍殺再読】「スズメバチの黄色」

 九十分くらいの映画が好きです。もちろんその倍以上のものでも、半分くらいのものでも良いのですが、時計が一回りしてきて、さらに半周進んだあたりで終わる、そんな長さがちょうど体質にも合っているようです。
……『陽気なギャングが地球を回す』、伊坂幸太郎
 年中そんな感じだったからたまにやって来る90分以下のわかりやす~い作品は砂漠のオアシスって感じよ
……『映画大好きポンポさん』、杉谷庄吾【人間プラモ】

最大強度、最高純度

 物理書籍オリジナルエピソード。特筆すべき点としては、ストーリーがおもしろいことですね。それだけです。それだけですがそれがぶっちぎりです。最早、観る映画にして読む麻薬です。一頁目を開くと一瞬で時間が消し飛びます。遺伝子に刻まれた王道を、創作熱の炉にかけ、技術と思考の鎚によって鍛え上げた「本物」です。

 おもしろさ一点突破エピソードと言えば、昨年の「クルセイド・ワラキア」を思い出しますが、「クルセイド~」がSF的奇想やハイコンテクストなあれこれによっておもしろさを様々な方向に拡散させているのに比べ、本作はそれらの要素……どころではなく「スズメバチの黄色」という小説を構成する全ファクター(文章・配役・キャラデザ・段組み・行替え・章立て・装丁・脚本・舞台設定・ビジュアルコンセプト・この後私がガタガタぬかすこと、etc……)をストーリーのおもしろさ、それ一本に絞りこんで全つっこみしています。読み取る全てが純度100%の「おもしろい」に変換され、それが物語の流れになってゆく読書体験は、蒸留された原液を丸ごと飲み干すようなものであり、脳で刺激が炸裂し燃え上がり……全身が爆発して、死ぬ。忍殺には種々おもしろいエピソードがありますが、エンターテイメント・ノベルとしての強度という点に限れば、本作が最強であると私は思います。

 ニンジャスレイヤーサーガ内の位置づけとしては、トリロジーとAOMの狭間に位置し、設定補完的な意味でファンサービス度の強い一冊となるでしょう。一方、トンチキ展開(ありますが)やトンチキ設定(ありますが)やトンチキ言語(ありますが)を抑えているという点で、ニュービー向けともよく言われてますね。また、そういった表層的な部分だけでなく、根っこからニンジャの話ではないこと……本作を読むと忍殺本編のモータルエピソードですら、ニンジャのお話であったことに気づかされます……つまり、物語を「ニンジャ」や「カラテ」を使って語っていないことが特徴的ではないでしょうか。これは、何が「ニンジャの話」を「ニンジャの話」足らしめるのか、さらに詰めるならば、ニンジャスレイヤーにおける「ニンジャ」とは何なのかという重要な部分にもつながりましょう。個人的には、アイサツのシーンがカットされていることが非常に重要かなと。

ニンジャ存在感、女子高生性、そしてソンケイ

 本作において「ニンジャ」と「カラテ」の代わりに用いられている言語、それはやはり「(本物の)ヤクザ」と「ソンケイ」になるでしょう。つまりは主人公・火蛇の持つ語彙ですね。更にこの両者を接続する言葉(本編で言うところのディセンション/ハナミ儀式ですね)として、火蛇は「ファッション」と「サイバネ」を持ち出すわけですが……それはまあ次項で触れるとして……ここで重点するのは「ソンケイ」です。前々から思ってたんですけど、ソンケイってヤクザの血中カラテ粒子が体外に飛散して大気中のエテルと結合したもの(参照)のことですよね、たぶん。つまりニンジャ存在感や女子高生性と同じもの。ていうか、過去のシャード読み返したら、わりと直球で匂わされてました(女子高生性=カラテ=エテル粒子説は私の妄想です)。同じものを違うものとして語ることは、忍殺の肝。一頭の真実は、撫でる群盲の数だけ答えが変わる。ただ、突き詰めればそれらが同じであったとしても、突き詰めることには意味はなく(ダウト。SFとしては大いに意味がある)、特にカラテ被爆者/観察者/読者にとって、答えが出力されるまでの各々の過程……「お話」に意味がある。ゴミ捨て場で拾った指輪と、恋人から送られた指輪は、異なるということです。ましてや、このスズメバチの黄色は、まがいものが本物になる過程の物語ですから。

 とはいえ、同じものである以上、そこから読み解けるものがあるのも確かなわけで。「カラテ」とはエゴを現実化する力であり、それに被爆した者はある程度秩序だった(情報量の落ちた)個の世界に押し込められるわけです。足元がおぼつかない旅路の中で「足場」を得られた安心感が、ソンケイへの尊敬に転化する。要は、何もかもがあやふやな世界において、自分をしっかり持ってる奴はかっこいいし頼っちゃうってことですね(度を超すカラテに被ばくすると発狂しますけど)。ましてやネオサイタマは、我々読者のいる現実世界よりも、はるかに自他の境界線がぐちゃぐちゃなわけで。墨龍さんとか、組織運営がクソ不安で、完全に黄さんのソンケイに目が眩んでいる。手近にある足場にすがりつくのに必死で、周りが見えなくなっている。ソンケイはヤクザとして生き抜く上で必要な指針ですが、長の立場に立つならばそれを冷静に分析し、道具のように使用できなければならない。文脈に流されず、「同じもの」として割り切らなければならない。ソンケイの輝きの中で踊る火蛇や黄の姿が美しいのは、彼らが一人のヤクザに過ぎないからだと思います。

 そういう点でも、ラオモト・チバというキャラクターは、やはり凄まじい。格がべらぼうに高い。若きヤクザの帝王が気のいいチンピラの元でお世話になる……というストーリーから普通想像される、軟化や葛藤が一切ない。いや、ありはするんですけれど、余りにも優秀すぎて、特に悩むこともなくその学習をさっさと終え、読者が追い付くエピローグではそのことを説明までしてしまう。彼にはソンケイは尊ぶ心も、火蛇たちへの感情移入もあるのですが、同時に、自分を含め全てを駒として合理の盤上に上げることができる。ソンケイに惑い、ソンケイに憧れ、ソンケイを歌い上げるこの物語の中で、ただひとりソンケイの仕組みを解体しイーグルの視点から自由自在に操作してみせる様は、まさしくヤクザの帝王と呼ぶべき格でした。私はエピローグの描写が好きですね。多くの登場人物が野望の未来に向けて目をギラつかせているなかで、彼だけがそのギラつきをごく当然のものとして身にまとい、ただ一人、過去をふりかえる余裕を持っている。アガメムノンとラオモトが彼に教えた視点と合理は、彼に内に余裕を作り出す力を与えた。真の帝王の器はあまりに大きく、その内に「帝王」を満たしたとしても、未だ人間性を注ぐ余地がある。

イエロージャケットを着るということ

「本物」のカンフー・カラテを奮う黄先生、「本物」のサイバネ職人たる吉田、「本物」の地下ブランド「T:イディオット」、死に絶えた「本物」のヤクザとソンケイ、「偽物」のスシがあふれる街、そして、スズメバチの群れに紛れ込んだ別種の毒虫、蠱毒……。「本物」というキーワードはこのエピソードの中で幾度となく繰り返され、ヘルガの人工マンゴーの挿話によって一つの回答を与えられます。

 人工マンゴー繊維に塩味をつけると酒のつまみになり、甘味をつけると茶のアテになる。安物だが、ヘルガはそれをちゃんと丁寧に盛り付ける。すると、本物のような見栄えになる。何事もそういうものだ、とヘルガは言っていた。

 カラテの研鑽を積めば憑依ソウルの格差は均されるということ、あるいはサンシタであっても強力なソウルが憑依したならば恐るべきニンジャになるるということ。ロボニンジャが「ニンジャ」な理由もこれでしょう(ニンジャと同戦力ならばソウルがなくともそれはニンジャ)。同じであっても、過程が異なるならば、それらは異なっている。しかし、その過程が観察されなければ、それらはやはり同じもの。ゴミ捨て場で拾ったと知らなければ、恋人から送られたと気づかなければ、指輪は指輪でしかありません。これはカラテの話です。数字の大小の話です。文脈を削ぎ落とした、単純な力比べの話です。「丁寧に盛り付ける」ことは、人力で本物と同じ出力を再現するのにはある程度のコストが必要だというだけの意味であり、別にボタン一個ポチ~で済むならば、それでも同じです。なぜならばカラテとは、ニンジャのイクサとは、そういうものですから。しかし、『スズメバチの黄色』は、ニンジャの話でもカラテの話でもありませんでした。人工マンゴーの挿話を憑依ニンジャとリアルニンジャを絡めて語る作品ではありませんでした。これは、どこまでもヤクザとソンケイの話なのでした。

自分が本物になれないなら、せめて、本物で身を固めたいと火蛇は考える。

 本物とは、本物に見えるものでした。ストリートで生き抜くためには、周囲を威圧する本物である必要がありました。他を圧倒するカラテが必要でした。スズメバチの黄色を装着すれば蠱毒はそれを黄と見間違えて恐れるでしょう。偉大なヤクザを我が身に憑依させ、圧倒的なカラテの出力で、ニンジャのようにイクサに勝利することができるでしょう。しかし、それでは、カラテは高まっても、ソンケイが高まることはありません。高まったように他者から観測されるかもしれませんが、それに意味はありません。なぜなら、本物とは本物に見えるものであり、ならば当然、自分からも本物に見える必要があるからです。「ソンケイを廃るようなことをしたら、自分を裏切ったことになるのさ」と火蛇が語る通りです。カラテは違います。カラテは、他に対する結果です。フジキドがトリロジーの最後に「全てに意味があったのだ」と気づけたように、後付けでそれに紐づく過程を証明することがあっても、それはやはり後付けであって、どこまでも重要なのは結果です。ソンケイは、己がポイントを集めてゆく過程(を己が観察すること)が重要なのであって、それが他にもたらす結果(を他が観察すること)は、あくまで副次的なものにすぎません。黄色のジャケットを羽織り、それを日常的に使うということ。服に着られるのではなく、服を着るということ。『スズメバチの黄色』という小説は、SFであり任侠ものであり青春譚であり、そしてファッションの物語だったと私は考えています。

未来へ…

 未来の話ということで、最後に、未来のない奴の話をしますけど、まあ、蠱毒なんですけれど…………いいよね。本編にはもう一人、脳外科医という名悪役がいるんですが、私は蠱毒が好き。初読の時は、黄とは別側面のヤクザを象徴する「スズメバチの黒色」とでも呼ぶべきキャラかと思ったのですが、再読によって印象が変わりました。こいつ、ソンケイが腐ってるのではなくそもそもソンケイという概念がわからないんだと思うんですよ。ヤクザが共有する文脈を、生まれつきもっていない。スズメバチの群れに紛れ込んだ、別種の毒蟲。そういう意味では、脳外科医と同じく、ヤクザ物語に紛れ込んだ異物と言えるかもしれません。

 蠱毒の何が一番好きかって、生き延びるために何でもするくせに、常に最善手ではなく、多くの人間を苦しめる選択肢を選び続けるところです。こいつが存在するだけで、多くの人間が苦しみ、それが最善手ないがゆえに蠱毒が追い詰められ、さらに多く人間が苦しむという、クソみてえな無限ループが生じる。このループ、蠱毒すら幸せにならないんですよ。自他含め、まさしく全てに有害をふりまく害虫です。組織という閉鎖空間にこいつをおいた場合、最後の一人になるまで永遠に人間が殺し合うことになる。名は体を表してますね。「蠱毒」です。存在するだけで自他全てを滅ぼすシステムそのものでありながら、どうしようもなく生きたくて生きたくて、しかし生きたところで欲望が満たされることは決してない。どんづまりでありながら、それでも走り続ける彼の地獄行は、火蛇の成長譚とはまた別に、胸に迫るものがありました。

■物理書籍版で再読
■2019年12月16日