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偽りの関係

“こどもの前で夫婦喧嘩をしてはいけません。両親が攻撃し合っている日常で育った子は、人同士が支え合うことを信じられなくなり、人間不信になります”。

そーらしい。

私も、こどもの前で夫と小さい揉め事はあるが、大ゲンカは避けている。だって人間不信になるんでしょ?人のことを信頼できなくなるんでしょ?大変じゃないですか。

しかし、困ったことに、こどもの前でケンカをしない、と決めると、夫と話し合いもできなくなる。うちの場合、お互い頑固なので、話し合いはたいていケンカに発展するからだ。こどもが寝た後で、と思っても、お互いに仕事と家事でクタクタで実現せず、くすぶったままの火種がいくつもある。

こどもに「ああ、おかあさん、今日は元気がないなー」くらいのことは言っていいのかもしれない。でも、「おかあさん今日ワイドショー見てたんだけど、殺人事件の詳細やってたの。思わず見ちゃって、あとから想像しちゃって怖くなったんだけど…」。などという話題は出さない。ショッキングなニュースなんて、安易にこどもと話題にするべきではない。

母親とこどもというものは、とても近い関係で、小さいうちはなんでも話せるような間柄に見える。それなのに、親はずいぶんと隠し事をしているんだな、と思う。当たり前だけれど。

なんでもかんでも、隠し事せずにこどもに話してしまう親は、やっぱり問題だ。自分の悩みやネガティブなニュースについて思ったことを、何の取捨選択もせずにこどもに聞かせれば、人によっては傷として残るかもしれない。

こんなに近くにいるのに、本音で話せない相手。幼いこどもたちが全力で自分に寄りかかってくるのを見ると、ふと気が緩んで、自分も寄りかかってみたくなる。豹変した母親を見て、こどもはどんな顔をするだろう。

虐待やネグレクトをしてしまう親は、このラインを踏み外してしまう人なのかもしれない。とても親しくて近い関係だから、自分の苦しみをぶつけてしまう。私だって、ちょっとそんなことを想像してみたりするくらいなんだから。

ネガティブな本音トークをしない代わりに、こどもに禅問答のようなことを仕掛ける楽しみがある。「幸せってなに?」とか「1番大切なものって何?」とか聞くのだ。言葉が出始めていれば、適当に「シンカンセン!」などと答えるので、私はそこから新幹線にまつわるその子の幸せについて考えることができる。もう疲れて、自分が何をしたいのかもわからない時、こういう禅問答をして、気を紛らわしている。

言葉を多く持たないこどもの発言というものは、不思議だ。予言めいている。「しわわせっていうのはね、おやまにのぼって、ヒューっとすべって、オチャをのむことだよ!」などというパターンもある。意味がよくわからないので、こちらで勝手に解釈する。そのとき、こどもの言葉は私の心の本当のところに届いていて、そこには親としての仮面もない。

なんでも話せる友達親子、という言葉が流行って、それは今でも継続していると思うけれど、それはこどもが親になんでも話せる、という意味だ。親が本気でなんでもこどもに話していたら問題だと思う。

この先、こどもが大人になって、いろいろ人生悩んでいたとしたら、昔話として少し話してもいいけども。

こどもに、年齢相応に話す内容を選ぶ、という当たり前の話なのに、そんなことにもちょっとひっかかる不完全な私。私は友達にもあまり遠慮なく、本音でズラズラと話すタイプなので、なんだか不思議な関係だなあ、と思ってしまうのだ。

夫とは波風を立てないし、テレビで遠慮なく流れる凄惨な事件にめちゃくちゃ動揺してるのに、スルー。嫌なことがあって落ち込んだときも、そんな話題は触れずに、禅問答をして気を紛らわすおかあさん。そんなの私のキャラじゃない。私は本来は、そんな自制の効く人間じゃないのだ。

こどもも、私のそういう不安定なところは、ある程度お見通しだと思うけれど、それでも、私はこのままブレーキをかけ続ける。

正しいか間違いかはさておき、本音で話すことが相手への好意の表れ、みたいなやり方をしてきた私にとって、こどもに隠し事が多いのは、なんかごめんね、とさえ思う。

こどもにしてみれば、親に本音でぶつかってこられても迷惑なだけ。と、知ってはいても。

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