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『ナッキーからの手紙』短篇集の5

                       おおくぼ系

短篇集を編んでみたくて、短編を一作ずつ掲載します。ヨロピク!

〈ナッキーからの手紙 あらすじ〉
久方ぶりにナッキー姉から二十枚を超す自筆の手紙がきた。エッセイともいうべき彼女の語りは、いつも面白くて内容もある。心して読まねばならないと、近くのショッピングモールのカフェを読書どころに決めた。そもそもナッキーとの接点は、私に作家豊嶋高雄についての執筆依頼が来たことによる。彼女は、装飾デザイナーであり美意識が高かったし、サロンともいうべき多くの人とのつながりを持っていて、彼女を知ることにより作家であった人間豊嶋高雄を知ることになった。ナッキーの紹介によりサツマ大島を取材旅行するが、そこで豊嶋高雄の遺稿にかかる一つの事件に遭遇することとなる・・・。


 

あれからどれくらいの月日がたっただろうか、田中成子から、自筆での二十枚をこした手紙をもらった。前回会ってから一年以上はたっているはずだが、しっかりした表書きの文字を見ると、つい先日のなつかしさがにじみ出てくる。ボリュームのある手紙は、こちらも気合を入れて読まねばならない。二日たち、やっと初冬になったかという、カラッと晴れた小寒い日であった。朝からなんとなく沈んでいたが、気分転換を思い立ち文庫本といっしょに手紙をショルダーバッグに放り込むと、近郊のショッピングモールを目指した。モール内の連続していく雑多な店舗を眺めながら居場所となる喫茶店を探した。コーヒーの香り立つ、モダンな店、いやここはおごそかすぎると通り越し、さらに歩みをすすめると、外出しカウンターのつつまし気なオープン・カフェがみえ、そこに決めた。五脚並んだカウンター椅子の端に座り込み、脇にバッグを置いた。一呼吸おいて、カプチーノを注文すると、舞台設定はととのったのだと、心を鎮めて、端が留めてある厚い和紙の束を取り出す。

拝啓ではじまって簡潔な時候のあいさつ、さらに近状のこまやかな様子と続いている。三ページをめくると私の送った短編小説の寸評があり、それらが突然、ひとりの人物をキーワードとして語る方向が乱れて、成子氏固有の転調がはじまった。そして彼女のリズムにしだいに引き込まれていく。ペンの走りを感じ、めくるめく成子姉(ねえ)様のサロン物語の世界がーー後にナッキーサロンと私は名付けたのだがーー彼女の作品世界が便りのなかで展開されていく。

ナッキー姉(ねえ)と知り合ったのはいつだったか、もう六、七年は過ぎているようで確かには思い出せない。この辺のアバウトさは、いつもの私であるのだが、ただ出会いのきっかけは明らかであった。それは……地方在住作家の私に執筆依頼がきたことによる。それも小説ではなくてノンフィクションであったが、どうしようかの選択の余地はなく、どうしても書かねばならなかった。お世話になった方からの紹介であったからだった。

大戦の末期にサツマ大島の海軍秘密基地においてのことである。学徒動員により文学青年が海軍将校として召集された。彼はボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりして自爆するという震洋特別攻撃隊の指揮官として赴任し散華する運命であった。が、基地のある地元の女性に恋をした。相思相愛となり、戦時下における、まさに死をみすえた究極の愛であったのだが、彼が出撃する直前に終戦となった。そのいきさつを書いた小説はベストセラーとなり、将校から一転著名な作家となったのであるが、この恋多き文筆家は、その後の執筆活動とともに浮名を流す。戦争の中で愛を貫いた二人は戦後の混乱期に結婚したのだが、作家の奔放さにより、最愛の妻であるシホと果てしなき確執が続き、浮気をなじられる作家と、なじる妻は病がこうじて精神病棟へ入る羽目になる。妻に付き添い介護しているうちに自身も錯乱し入院するという事態に陥る。このいきさつを題材にして十六年かけて書きつづった小説『死に至る痛み』がまたもベストセラーとなり、ここに豊嶋高雄文学がなりたった。さらに月日が流れ、人気を博した苦悩する作家豊嶋高雄が死去して二十年以上が過ぎシホも生を閉じた。この節目において『豊嶋高雄とシホの解析及び研究』というひとつの文学研究書をものしたいとの企画がもちあがって、執筆者の一人として参加してもらいたとの依頼があったのだ。

手紙のつづきは、彼女より二十以上も年上であった豊嶋高雄とつき合っていたという誇りを伏線に編みこみ、時々の高雄への想いや実像に触れて、そこを重心にしながらも、きらびやかな彼女の交友関係のサロン活動へと誘っていく。これがいつものパターンであり、姉らしさにあふれている、いわば交遊エッセイ、あるいは私小説ともいえるものである。

彼女は一人、列車にのり熊本へ向かっていた。前の向かい席に麻のスーツにズボンの折り目がまっすぐで、紺のネクタイにワイシャツはダブルカフス、青い玉色の靴下にストレートチップの靴を履いた紳士が坐した。人物の上から下までの衣装にこだわる細かい観察眼は、服飾デザイナーとして自身の工房をもつナッキーならではのものである。

「どこまで行かれますか」との質問に「熊本までです」と彼女が答えると、

「私も、ちょっと仕事で、しばらくご一緒させていただきます」

と、会話が続き、紳士は田処幸一と名乗り、名刺を差し出した。

製薬会社の代表との肩書をみて、ナッキーは、夏になると首や手が赤くただれて紫外線負けをするのですと述べた。すると、

「直してさしあげますよ。信じてください。九州には月に一度、出張で来ますから、その時に薬を持ってきます。今度サツマでお会いしましょう」と、話は急な展開で進んでいった。さらに来月は、サツマ市の中心にある城址山にある国際観光ホテルを訪ね、大保社長の健康管理と処方薬を届けるとのことであった。

ナッキーはサツマ大島市出身であったが、奇遇なことに大保社長もサツマ大島に縁があり、そのよしみでつながりがあった。彼女の実家が市の中心繁華街にあり、父は柳田電機店を営んでいた。父は世代の近い大保社長とは面識があったのである。それで田処氏は、翌月に大保社長のホテルを訪問する際にぜひ一緒に行きましょうと、彼女の同行を願ったのであった。

一月後、田処氏とともにホテルに同伴することになり、大保社長へ、柳田電機店の娘ですと、あいさつすると、

「ああ、柳田さんはよく覚えておりますよ。昔、私がアイスキャンデーを自転車に積んで売り歩いていたときに、毎日三十本も買ってくれました。ありがたかったです。あの頃の中央通りは人であふれていましたね」と、なつかしがられた。大保社長は、その後、サツマ市に居を移してキャンデイの販売からパチンコの遊技業さらに観光事業を興して大成功し、郷里出身の名士となったのだ。

三分の一ほどになったカプチーノのカップを口に運びながら、列車での出会いのくだりを読み直したときには.なんとなくフィクションではないかと感じた。なぜなら偶然にしてはできすぎている気がしたからだ。しかし、そんなことはどうでもいいことのようにも思える。

筆のおどる紙面では、謎の紳士、田処氏についてのコメントがさらに続いていく。氏は、会社を息子さんに譲り、現在は、アメリカのロスアンジェルスに在住しているとのことだった。カリフォルニア大学で薬学と生体学の博士号を取るべく学んでいるのだが、このたび帰省したのだという。彼は防衛大学校を卒業して海上自衛隊に勤務し、定年後に事業を始めた。折り目正しい服装は、自衛隊の規律のたまものであると笑う。自身、空手を収めており、大保社長を訪ねたもう一つの理由として、大保一族のひとりが少林寺流空手道場を立ち上げて、日本全国及び海外へも支部を広げつつあったが、その総本部が入来市にあり、そこを紹介してほしいとのことであった。

腕時計を見ると、読みだしてからゆうに二十分以上たっている。カプチーノは底をついたが、さいわいにカウンターには私一人である。人の行き来するモールのなかで、ポツンとしてひとり謎の手紙を読み解くのは、場違いの環境で、あほらしくもあるが楽しいことである。ナッキー姉の想いはどこにあるのか、ほうけたように集中して感じ取ろうとするのだが、皆目わからない。

一月後に、田処氏は総本部の公式道場で門弟の一人と立ち会った。ナッキーもまた付添人としてその対決を眺めている。ルールは寸止めとして、大保総裁が審判をつとめるとなった。長身の田処は力を抜いてふらりとたっている様に見え、白い道着に濃紺の袴を着けていた。その立ち姿を美しいと姉は思った。

空手着の相手は、腰を落としてにじり寄ってくる。

イヤーという気合の下で対戦相手が仕掛けてくる。両者のうでが激しくもつれて衝突すると、間合をみてか、お互いがパッとさがり距離をとる。三度ほどそれをくりかえしたとき、相手のケリが飛んできた。田処は、足刀を手で軽くいなすと、反対側へ回り込んだ。と、さらに半身をひねって回しゲリが飛んでくる。田処が、上半身をそらしてかわすと相手の横後ろにピタリとつき、相手の右ひじをつかまえた。

「そこまで!」と、低い声が飛んだ。

「田処さんは空手というより合気じゃな、捕まったら負けじゃ」

田処が総裁へ向き直ってうなづく。

「最初は空手を学んだのですが、専守防衛の考えを貫くには、攻撃をいかにかわすかで合気の道に変わりました」

「なるほど……そいで精神が首尾一貫するんじゃな」

 ナッキーはこのようなやりとりは理解できなかったと書いている。しかし謎めいた紳士との交流について、なおも書きすすんで行く。対戦が終わると、一休みののち、道着のままの田処が運転するレンタカーの助手席に乗り込んで道場を後にした。

「発祥の地、本家中国の少林寺拳法は、こんなものじゃなくて、頭で釘を打つまで鍛える。素手で石をくだく。毎日からつづけて、何年もかけて鍛錬すると神経がマヒし、痛みを感じなくなるそうだ。体そのものが凶器と化す。まだお目にかかったことはないが、世界は広い……」

 田処のつぶやくようなセリフを聞いたが、何も答えることはできなかった。一時間ほどして火の山が見えだし、湾の見えるサツマ市の外れに出た。細い車道を山に向かって登っていくと、登りきったところに開かれた公園があった。

「サツマに来たときには、いつもここに詣でるのです」

と、田処が車を止めた。外国の軍艦が入ったときには、艦長らが必ず訪れる銅像がある記念公園であるという。ナッキーは、話には聞いていたが、はじめて来た場所である。築山のてっぺんをめざして手すりのついた急な階段を上ると、台座があり、その上に、天空に向かってすくっと建つ東郷元帥がいた。

「成子さん、しばらくそっと見ていてください」

田処は、元帥に対して丁重に一礼すると、湾にうかぶ火の山に向かって対峙し型をとった。きえーええつ! どこからこんな声が出るのか、静寂の中を突風が切り裂いたかのような気の呼び起こしに、ナッキーは鳥肌が立った。火の島に対して無心に何かを訴え、一体化するような、ひとつの魂の存在に神々しさを感じた。

人の所為は、究極には祈りへとつながっていくのか? 祈りに行きつくことで何かに収束していくのだろうか、私は、そう言えば豊嶋高雄もクリスチャンだったと思いだした。

 ナッキー姉は東都の女子美大に通いながら、別途にモード学院でクロキーやデッサンを学んでいた。そこでは自由な表現で個性的に生きることが芸術の主眼であるべきだと教えられ、白川祥子の「工芸」というアトリエサロンを紹介された。そこで林芳雄などの著名人と交わることで芸術について多大な影響を受けたという。ことに白川祥子の美意識はすさまじかったと述べる。

「近頃は芸術学校を卒業しただけで、芸術家になってしまう。そうなったらおしまいだからね。成子さん、社会に出てからが本当の勝負よ、命をかけて美と取り組むの。芸術家であるとかそうでないかは、見る人に任せていればいいの」

これを口癖のように聞かされた。白川のアトリエには、のちにデザイナーとして有名になる宅間博史や、評論家の林芳雄がよく顔を出し、特に林は陶器については目利きであり、李朝の陶磁器、白磁などについて詳しく教えてくれた。また陶磁器にかかわらず、芸術とはなにか、音楽、絵画、織物、工芸についても自身の審美眼と思考を鍛えぬいた厳しさを持っていた人だったと、感嘆した。それらの影響を受け、ナッキーの卒論は、「日本民芸の動き」ということになった。

 著名人が立体的に展開していくナッキー独自のサロン語りに没頭して、かれこれ三十分を超えていた。午前十一時を過ぎ、モールもざわめきが増してカウンターの客も一人増えている。ウエイトレスさんにカフェオレを新たに注文した。もう少しで読み終わる。

 ナッキー姉の服飾デザイナーの仕事とは、自身のアトリエでサツマ大島の特産品である島紬などを素材にして、その婦人にあった洋服を創作することがメインであるが、同時に紬の販売普及をも兼ねている。高度成長時代にはいり島紬が高額の訪問着としてもてはやされたのであるが、紬は普段着であって正装にはならないといわれて、低く見られていた。販路を創り出し拡大することも仕事のひとつとなっていた。

田処氏と偶然知り合い、いくたびか相まみえるうちに、伝統的な日本人の心を持ち続ける氏に対して、大島紬の和服をお召しになりませんかとさらっと勧めたところ、購入できる呉服店を教えてくださいと快諾された。それではと日本橋の某呉服店をすすめていたのだが、その時、ナッキー姉は青山の画廊を借りて、はじめての創作服飾の発表会を行う計画を進めており、準備に没頭していた。ために、それっきりでこの件は失念した。

青山通りをすこし入ったビルで姉の個展が開催された。一階の間口はやや狭いのだが中に入ると、まず薄紫のラメドレスを着たマネキンがきらびやかに出迎える。しぶい赤のパーテイドレスがつづき、フリルのついた絹のワンピースにビキニパンツのトルソなどが立ち並ぶ。テーマは〈躍動するエレガンス〉だ。開場とともに知人など数人が押しかけて、ナッキーはほっとした。

客足のとだえた午後になって、紬の着物をきて袴をつけた田処氏が現れた。身長も高く背筋を伸ばしたシルエットは絵になり、帯には扇子をさしている。同時に文通をとおして短歌を学んでいた江崎先生も駆けつけてくれた。なおうれしいことに、先生はナッキーのデザインした紬のシャツを召していた。この両人の出現に、彼女は言い知れぬ喜びを感じて目頭がうるんできたのだった。

江崎先生との出会いは、沖縄での民族学会で出会い、その後、色の階級や四季折々の色重ね、草木染、あかね染、赤土染など色について学び、同じく短歌についても教えてもらうことになった。そのグループの一人が短歌で最優秀賞を受賞したために、熊本で記念祝賀会があり、列車で出席の途中で田処氏と出会うことになったのだった。奇遇な出会いの田処氏を江崎先生に紹介すると、二人は、親しく談笑をはじめた。

なるほど、こういうことだったのか、ここでようやくストーリーがつながった。いろいろな人との多くの結びつきにのめり込む姉のパワーに目を見張る思いがした。

気が付くと長い手紙は最期の二枚を残すのみとなっていた。

 個展初日の夕刻になり、オープニングを祝っての簡易なパーテイが会場の片隅で開始された。テーブルが三つほど準備され、それぞれにビール、ワイン、酒、取り寄せた黒糖酒、コップが、それにナッツやサンドイッチ、生ハムなどのオードブルがならべられた。ナッキーは飛び回る蝶のごとく三十名ほどの参加者の間をまわり、丁重にお礼を言い、笑顔で飲み物をすすめて回る。宴の盛り上がりも落ち着き、参加者が幾分少なくなってきたとき、周りの着飾ったマネキンや赤紫のガウンをまとったトルソをひと眺めしながら、田処氏が姉へ話しかけてきた。

「躍動するエレガンスの大成功おめでとう、ファッションの花園に遊び満喫しました。ファッション・デザインという成子さんの真実にふれたようです」

彼女の額のあたりに、幅があるトーンの言葉が降ってくる。

「ところで、日本へ帰ってきて半年の間、アメリカへ住む準備をおこなっていました。おそらく今回が貴女と直接お会いするのは最期になるかもしれません。会社も心配ないし、妻も一年ほど英会話を学んで、少しは話せるようになりました。米国の退役軍人の勧めもあって永住することを決めました。薬学に生体学、それに合気の道もですが、まだ青春の気概をもって探求していきたいのです」

 ナッキーは、横に立っているパンツスーツのマネキンに目を向けながら心を落ち着かせた。パンツスーツの胸にはバラのコラージュが一つついている。オーダーの取れた作品だった。

「島国から出て、より広い世界、自由の天地で残りの人生をすごして終わりたい。これが最後の夢かもしれません。成子さんとの語らいでは、いい想い出を作っていただきました。向こうへついたら手紙を書きますので、よろしく」

 この時が来る予感は何となくあった。豊嶋高雄をはじめとしていままでに何人の芸術家や著名人と楽しい時を過ごしてきただろう。だが、いつかはみな分かれ去っていく。ひと時のふれあいが、フラッシュのように輝き、沈黙のフィルムとなって折り重なっていく。

一月後にアメリカから便りがあった。そのレターに同封されていたのは、米国詩人の「青春」という英語の詩と訳文であった。

 小一時間をかけて、ゆっくりとナッキー劇場を味わい、時には回想をはさみながら、コーヒーを片手に至福の時間をすごし、あとづけまで読み終えた。バッグに手紙と余韻をしまい込むと、なんとなく辺りを見回しおもむろに立ち上がった。カウンターのひとつあいた横の席に、妙齢の女性がひとり腰かけて軽食を取っていた。彼女の後ろを通り過ぎるときに背越しのシルエットをなんとなく見つめて、どきっとした。黒い長袖のニットセーターの背にあめ色のちょうどよいほどの髪がゆるやかにカーブしてた。後ろ髪の光沢が何かを主張しているように思えたのだ。明るいカーキ色の背もたれ椅子に調和して、今というときを奏でていた。レジをすませながらそっと観察すると紺色のスキニーなジーンズをはいて足を組んでいる。ああ、フアッションは、女性の輝きを表現する必須のアイテムなのだとの感慨が浮かんできた。


『豊嶋高雄とシホ……』の執筆にあたって、田中成子が豊嶋高雄と親しかったとのうわさを大島出身の女流作家から聞き出し、サツマ市の田中宅を訪問したのが、そもそもの始まりであった。そして成子氏は、私を豊嶋孝雄という異次元文人の世界へと誘い込んでくれた。

射す陽が五月の空気をふるわせる、さわやかな晴れた日だったと、このことは鮮明に覚えている。車のナビが示す家は県都の郊外にあった。広い表通りからニ十メートルほど引っ込んでおり、見通しのいい畑の連なる中に不整形なひょろ長い土地があり、二階建てで、うすいイエローにつつまれた洋館があった。周りは、正木の若葉が伸び終って濃い緑にとりまかれている。開かれた門を入ると前庭は芝があり、とりまく生垣にそって木や花が植えられている。一輪の深紅の薔薇がスクッと立っていて、その横にユリが、早咲きなのであろう、一列に咲いていた。高い方は大ぶりの黄色いユリであった。他のほうは、ややつつましく、くすんだ深紅に染まっている。その花の基調は赤いのであるが、開花した花びらに黒いにじみが入っていた。これがクロユリなのだと思って、しばらく見入っていた。

厚い木でできた玄関の前に立ち、横のホンを押し、しばらくしてドアがあくと、中から小犬が吠えた。それを制して高齢の夫人があらわれた。前もって手紙で訪問をお願いしてあったので、どうぞと中へ通された。広いリビングには木製のテーブルが真ん中にあり、布で出来たコラージュや額ぶち、民芸品の箱、掛け時計、絵画などが並び、天井からのシャンデリアが輝いていた。向こうの部屋はアトリエであるらしく、入り口には仮縫いのトルソがおいてある。

「豊嶋先生との語らいと体験は、私にとっては人生の宝のようなものです」と成子氏は口を開いた。

「先生のことについて、これまで発表する機会は何回となくありましたが、シホさんがいらっしゃるのでできなかったのです。今になって何かを書き残しておかねばとの想いがあり、すこしずつ書き始めているのです。貴男は、あなたなりの考えでお書きになったらいいでしょう」

 私は、張りつめた成子氏のことばを、聞きのがさないように集中して、時おりメモを取った。執筆依頼は受けたものの、豊島高雄の純文学に触れたこともなく、時代の違いもあり小説家としては何ら接点も見いだせず、それ故、暗闇のなかでの模索だった。

「私は、もともと本土の育ちでしたが、父の仕事の手伝いとして、まさに青春の七年間をサツマ大島ですごしました。二十二の時に先生と出会い、そのふれあいの一瞬一瞬は至宝の時間でした」 

サツマ大島市の繁華街ともいう中央通りのアーケードのなかに成子氏の柳田電機店があり、そのとなりは、はまゆり写真館であったが、店主であった今藤良一は、詩人で、文筆家としてのほうが著名であった。成子は彼を兄(にい)とも慕い、高雄とのいきさつについてもあれこれと相談していた。また、今藤を筆頭にこの通りには、店をひらくかたわらで、詩や歌などをかなでる同人作家が多数住んでおり、一大文化ゾーンを形成していたという。そこへ中央から豊嶋一家が舞い戻ったことにより、文化の香りが、いっそう濃厚になり成熟していったのだという。

「なぜ豊嶋先生と付き合うようになったかというと、中央通りのすぐ近くには、南洋毎日新聞社、県の支庁舎、市役所など、さらにカトリックの協会があって、豊嶋先生はそこで洗礼を受け信者になったの。そして、精神状態が不安定であった先生は、神父さんに誰か話し相手になる人はいないかと相談をした。そうしたら、東都で装飾やデザインを学んで文化人とも交流のあった私がいいとなったらしい……」

 当時の豊嶋は、娘のマキちゃんのことで悩んでいたという。さらに依頼された連載をどうしても書けないと、ウツ病で沈みこんでいる状態であった。誰と話しても心から安心して話せる相手がいなかったという。東都の話を聞かせてほしいと望まれたので、成子が、白川祥子のアトリエに集った文化人などについて、それぞれの個性と印象などについて思い出すままに語ると、楽しそうに聞いてもらえた。市の南側にある小高い山は、高雄の散歩道であり、成子は人目を避けて彼の登る反対側から登り、山頂の広場でおちあった。ベンチに腰掛け大島市街や海を遠望し青い空に浮かぶ雲を眺め、しずかな二人だけの語らいを重ねた。その時に撮ってもらったものだと、柳田成子時代の一枚の記念写真を見せてくれた。

 訪問から二時間近くがたつと、いくぶん、ひと段落した感があった。私は親しくお話いただけたことにお礼をのべ、長居をおもんばかって辞去した。

「ぜひ大島を取材し原風景を感じて、良いものを書いてください期待しています」

との送り言葉を聞きながら、愛車での帰り道で、豊嶋高雄への入口がつかめたことへの安心と、成子氏の気どらない優雅さに人柄の良さと親しみやすさを覚えたので、以降、成子氏をイコール、ナッキーとし、ナッキー姉と呼ぼうと考え一人でにんまりとした。

 その数日後に、ナッキー姉から参考資料や関係本を同封した小包がとどき、私はありがたく受けとった。大島を訪れ会うべき人のリストとポイントが丁寧に書かれていた。ことにハズしてはいけない三人について強調されていて、彼女からも手紙で協力をお願いするとあった。ここまでお膳立てをしてもらうと恐縮が先にたったので、早急に現地取材の旅を敢行することに決めたのだ。だが、変なもので出発の前日に地元のサツナン出版から電話があり、執筆をお願いできないかとの依頼があったのだ。今は集中して豊嶋高雄を書きあげたいので、猶予をお願いしたい、というちょっとした事件があった。

 五月末、島へ向かうレシプロ機は、雲海の上に出て、日の光が雲の白さを輝かしていた。

 執筆に関して手探りの中からひとつの方向を得たことを不思議に感じつつも、サツマ大島と豊嶋高雄を取り巻くさまざまなネットワークの存在におもいいたっていた。あたかも作家高雄を台風の目として取り巻く多くの人々、高雄の熱烈なファンともいうべき人々、そして、彼を祭り上げていく周囲の環境に時流、これはいったいなんなのかと怪訝な面持ちだった。ただ、この作家は巨大なエネルギーをもち、それを放出しながら、逆に巨大なエネルギーを吸収し、さらに巨大化していったのではないか。ナッキーの話からの感想なのだが、多くの人が豊嶋高雄とかかわり彼を支えているという構図、第三者的にながめると、彼はウツを抱えた巨大な問題児とさえ思えるのだが、確かに言えるのは、彼高雄は、まつりごとの本質、まつるに足る人間であったのは確かに思えた。

 謎を秘めながらサツマ大島の空港へ舞い降りた。私は小説家であってジャーナリストではないと考えているが、似たようなものだと思った。人の人生やかかわりに興味を持ち、のぞき見をして楽しんでいる。秘密をのぞくのは蜜の味なのかもしれない。

 レンタカーで大島市へ乗り入れるとホテルへチエックインした。

 四階の部屋からは港が見えフェリーが接岸しており、少しあいた窓からは南風の匂いが舞い込んできた。話に聴いた中央アーケードはすぐ歩いていける距離であることがわかり、最初の取材者の谷川文代氏へ携帯をかけ、アーケード内の喫茶店で待ち合わせをすることとなった。指定された店へ着くと文代氏は先に来ていて待っていてくれた。私はブレンドコーヒーを彼女はレモンテイを注文して取材の目的を告げた。彼女は詩人で東都の著名詩人について学んでおり詩集もものしているという。

「成子さんとは同世代で、彼女や行方進さんなどとフラワーという喫茶店で夜遅くまで文学論も交えてあれやこれやと語り合っていたものです。行方さんも最近は体調がもうひとつで、これから案内しますけど、豊嶋高雄さんについては、詳しい人がいますから、木澤功さんという図書館長をして豊嶋さんで町おこしをしたいと入れ込んでいた人です」

「ああ、木澤さんですね。地元のサツナン出版が〈まるまるサツマ大島〉という観光案内雑誌を出していて、その中で豊嶋高雄文学碑のことについて木澤さんが書いていたので、私も紹介してもらってます」

「そうでしたか、明日会われるのですか。なつかしいので、ちょっと電話してみましょうか」

 彼女が携帯をかけると、すぐにつながった。あいさつが終わると私にモバイルを渡してくれた。 

「初めまして、ええ、無事につきました。明日ですね、九時半に内ノ浦港ですね。よろしくお願いします」

 取材の予定が次々と淀みなくながれていき、ありがたかった。

 しばらく談笑したのち、文代氏に近くの行方宅まで案内された。当人が玄関ドアから顔を出したところで、私を紹介してくれ、彼女はこれで失礼しますとなった。

 初日はとどこおりなく進み、時間をみて車のナビをたよりに高雄が逝去した後に、シホが建てて住んでいた邸宅を拝見しに行き、デジカメで数枚を撮りおさめた。頑丈なコンクリートと鉄の門構えがあり高いフェンスで囲まれている。庭木の向こうに見える、丸いコンクリートの塔を中心にして両翼が伸びた二階建ての家は、まさに豪邸であった。

翌日は昨日におとらずさわやかで、力を持ちつつある南の陽光がまぶしかった。九時過ぎには指定された内ノ浦港について、木澤氏を待った。バッグを抱えた同じぐらいの年齢と背丈の人物が現れ、こちらを目指して歩いてきた。やあ、ようこそ、かって知っていたかのような親密な態度に私も笑みがこぼれた。

「湾を超えて向日ヶ浦の入り江へ渡るんですが、水上タクシーがいいでしょう。知ったところがあります。まだ時間もありますので、その前にすこしお話しませんか」

木澤氏とフェリー待合所のコーヒーショップへ入って向かいあってすわった。

「シホさんは龍家の出で名門であり、一族からは真珠の養殖で大成功した名士もいます、一族は篤志家でもあって、本人も東都の女学校をでており高いプライドをもった方でした」

なるほどそうですか、とあいづちを打ったものの、意図するところはわからなかった。強いて考えると、木澤氏いやこの土地の住人の一般的な常識としての考えを説明しているのかもしれないし、小説に書かれたように精神病に陥ったシホさんに対する同郷人としての弁護かなとも思えた。こちらから質問することも特になく、拝聴しつつメモに取った。二十分ほど話して、時間を見てか、水上タクシー乗り場へ移動した。

やや高くなった日を受けて十人ほどは乗れる屋根付きのボートは私たち二人の貸し切りで、きらめく海面を疾走した。船室の窓から海面をみるが、目の高さまで船首で切り裂く波が飛んでくる。十五分ほどして緑の濃い対岸につき、浅瀬に突き出た船着き場に降り立った。さらに浜辺を歩き出したのだが、足元は砂浜ではなく石の敷き詰められた石浜であった。大きいものはこぶしほどあり、青、黄色、ピンク、紫、メノウ色など、それぞれが主張する色彩を有していて、ファンタジーの世界に迷い込んだようだった。日の光に輝き、ほうとため息が出そうにカラフルで、五色の浜と名づけようと心に秘めた。

「今は、潮が引いていますから歩けますが、満ちてくるとこのへんもすべて海となります」先に行く木澤氏が説明してくれる。

山のすそ野にたどり着くと、灌木や雑草の間に横穴式住居ともいうべき半円形の格納壕が並んでいた。壕は人の高さほどに造られており、その一つには復元された特攻艇・震洋が、緑青の船体に百八十一との艇番をつけ、永遠におとずれぬ出撃を静かに待っていた。資料を読んだところでは、豊嶋中尉の率いる特別攻撃震洋隊は百八十一人の隊員を要し、五十一人が特攻隊員だったとある。百八十一の数はそれにちなんで付けたものだろうと見当をつけるが定かではなかった。当該百八十一番艇は待ちわびたのだろう、戦時のリアルの衣をまといながらも、現在のリアル、歴史の残滓としてのモニュメントと化していた。私は何も言えずに、ただながめた。

 木澤氏が、入り江全体を振り返り、ここがすべて震洋の海軍基地であったといい、むこうの突き出した岩壁をさして、

「あの角の岩陰で、特攻出撃の信令を受けとった夜、高雄隊長はシホに連絡を取り、最後の別れをしたのです」と、教えてくれる。

 死をみすえ、お互いを求める愛、すごいシチュエーションに思えたが、舞台が一転して死ぬはずの人間が運よく生き残ったあとの人生は、いったいどうなる、いやどうなったのか。戦後だいぶたってから出現した私は、この悲喜劇のギャップは感覚的論理的にとらえにくい難問であり、ここをどうとらえるかが肝心だと思えた。

「今度は少し山を上り、文学碑に案内します。豊嶋先生の三回忌を記念して、私たちで震洋隊本部跡地を利用し平和を記念しての文学碑を建てたのです。その後、シホさんも亡くなり、長男の雄三さんから文学碑のそばに両親を埋骨できないかとの相談を受け、文学碑の上の段にあった私有地を、寄付を募ってなんとか買い取り、〈豊嶋高雄・シホ・マキこの地に眠る〉との墓を建てたのです。先生との本格的なかかわりは、町立図書館が創設されて、館長になったことが始まりでした。町に文化を根付かせ開花させるために、豊嶋先生の出発点である特攻基地を、文学に昇華させて平和を考えるための聖地として広めたかった、今でいう情報発信ですかね」

「なるほどですね」納得したかのようなセリフを述べた。

「夢を大きくもてで、町の観光資源として整えて、いかに本土へアピールするかがポイントでした。お陰様で映画になりロケもできた」

 正方形に丸い円の空いた文学碑のモニュメントは、日章旗をイメージしているのだろうか、ゆったりとしたソテツの群につつまれて、振り返ると入り江の全景が見渡される。カメラで碑と周辺をおさめ見渡すと入り江の海面がざわざわとして射す光をまき散らしていた。

「この文学碑ができた後にいろいろありまして、シホさんから豊嶋蔵書二千数冊を町へ寄贈すると申し出がありました。町長はそれをうけて、将来は豊嶋文学資料館を建てたいという構想をもったのです。そのため、残っている資料すべての寄贈をお願いしたのです」

「なるほど……」私は、木澤氏の話のなかに熱を感じた。

「ただ、文学資料館構想が、あちこちで立ち上がり、それぞれがシホさんへ接触し初めたのです。サツマ文学文化館をはじめ、ふるさと福島の町から、また大島市の県立図書館は、特に積極的に動き始めた」

「なるほど」三度私はつぶやいた。

 海軍中尉であった豊嶋と作家となった豊嶋は、同じ人物であるのだが、運により軍神となるか文化人としてまつられるかの大きな違いを生じた。陽光あふれる大自然の中に一人たつと、記念碑は大地の歴史的傷跡をいやし、回復させる施術に思えた。むろんこれは、平和であるが故の視点からであるのだが。

「先生の資料をめぐって、この後に争奪戦が起こってですね。シホさん詣が続いたのですが、シホさんは、資料は分割せずに一括して保存してほしいが、自分が生きている間はどこにも渡さないという強い考えをもっていました」

「やはり豊嶋高雄は大作家だったのですね」

と述べるも、なんとなく気持ちがすべりまとまりをもてなかった。

「では、そろそろ引き返して、次は町の図書館へ案内しますか」

 むかえの水上タクシーにのって港へ引き返した。

 木澤氏の運転する車の助手席に乗り、湾沿いに走り、途中の食堂に立ち寄り鶏飯の昼食をすませた。賑わいの通りに出て折れて中に入ると広い敷地に町立図書館があった。平屋建てでガラス戸の玄関を入ると案内デスクの先に書架が並んでいた。こっちですよと、木澤氏が奥のガラスのケースにむかって進み、ケースの中を指さす。

「これが、豊嶋先生が、海軍に志願する前に自作した『成人記』で、七十部限定の非常に貴重なものです。先生の資料収集を始めたところ関西の方ゕら突然小包が届き、あけてみたらビックリしました。当時の古書価格では百数十万の値がついていたものですから」

「さすがですね。奇特な方っているものですね。文学の全盛期で、先生の人気もすごかったのでしょう」

「それで町長もここを豊嶋文学資料館にしたいと意気込んでいたんですが、シホさんが亡くなると雄三さんの考えが変わって、資料一式は東都の古書店へ売るというのです。話が違うと、私は再三、雄三さんと交渉し妥当な価格を提示して、町が買いとるからと、一年以上かけて話をまとめたんですが、それが、ある日突然、サツマ文学文化館の方が、お会いしたいと言ってきて、あろうことか買い上げた豊嶋資料一式を昨日船で搬出しましたと言うんです、最後通告ですよ。いったい何なんだ、愕然としましたね」

「そういうことだったんですか」

「買い取り価格は私が提示したものと同一で、これも憤慨もので、怒りの持っていきようがなかった」

 おだやかながら、強い非難の気持ちが沸騰していた。

「そこで、収まりがつかなかったので、一言主張せねばと、南洋毎日新聞に五段ぬき二頁にわたる資料顛末意見書を出したんです。シホ夫人は地元の自治体に残したいという強い想いであり、それにこたえることが出来なかった不甲斐なさを、われわれ町民はかみしめるべきだと」

「貴重なお話を、ありがとうございました」

 私は、メモを取る暇もなく脳裏に刻み込んだ。話し終わると木澤氏はホッとしたような表情で、手塩にかけた豊嶋高雄コーナーをみまわした。

「まあ、案内できるところは、こんなところですかね」

 内ノ浦港へ戻ってレンタカーまで戻ると、私は

「親切にしていただきありがとう御座いました。また、わからないことがありましたらメールで連絡しますので、よろしくお願いします。またお会いできることを願ってます」

と、お礼を述べて大島市へとハンドルをきった。

山を切り開いた坂道を上り、トンネルを突き抜けて一時間も北へ上ると大島市街へ入った。一時停止して、ナビを目的地に設定すると割と近いところにあった。県道を入り込んで狭い道を三つほど折れたところで車を止めた。細い道路の一画に豊嶋高雄旧舎と刻まれた一メートル四方の石碑があり、庭木の先に平屋根の一階建て住居があった。豊島が、シホの精神状態が小康状態になったのをきっかけに東都からサツマ大島市へ移転してきて、図書館長を務めたときの官舎であるという。ナッキー姉の話からすると、この大島在住の時に彼女は紹介により高雄の話し相手となり、ナコちゃんと呼ばれていたというが、シホは快方に向かいつつあったものの、作家本人はいろいろな心労があり深く沈んでいたという。コンクリート造りの平屋の建物は当時としては斬新な住まいであったのだろうが、今は端正に構えたままで静まり返っていた。ーー弱きものをくじかず、倒れるもののうえに自らを築かずーー石に刻まれた句が何かを訴えていた。人気作家の反面、高雄は優しすぎるほどの感性の持ち主であったのだと、意外な側面も見えてきた。

 ホテルへ帰りつくと、私は四階の部屋に直行し、カバンを置くとひといきついたのち、備え付けの便せんを使って、あふれてくるものを活字に変えて書きだした。

ーー感じていた豊嶋高雄の謎は、ナゾのままです。謎めいているから面白くてラッキョウの皮をむくようにひとつひとつ、ああだ、こうだと皆がイジル(?)のでしょうか。むき終わったあとにみな何を見るのか? 芯は何もないただの空間なのか? 全く違った異次元を見ることになるのか? 私の頭はこわれつつあります。先日、聞かせていただいた、高雄が『死に至る痛み』が書けない、いったい何を書こうとしているのか、という苦悩と少しだけかぶるのかもしれません。それだけでもいくぶん彼に近づけたのかとは思いますが、何かが根本的に違い、その違いがわからない。でも書かなければならない。ルポとして書くだけならこんなに簡単なことはないのですが、いやルポとわり切る他はないのかもしれませんーー

文の冒頭に木澤氏と会ったことを書き足し、お陰様で取材ができたことに簡単なお礼を述べると、パーカーの万年筆をおいた。

ホテル名の入った封筒にナッキーの住所を書いて、持参してきていた記念切手を貼り付けた。いつものことであるが、私のレターは、宛先人に読んでもらうこと以上に、自身の頭の整理をすることにあった。もの書きは何かを文字にしてはき出し、さらにもがきながら、表現するに値する何かが降りてくるのをまたねばならない。この内的感情は作家高雄にもあったのではないかーー誰か話し相手がいないかーー何かを模索して救いを求めるあがき、基本は案外同じであるのかもしれない。

 手紙もひとつの作品であり、出来上がると猛烈な虚無が襲ってくる。自身を吐露したことが無為で馬鹿々々しく思えて、恥ずかしくなる。振り切るように部屋を出て一杯ひっかけようと街へでた。

 明日は地元の南洋毎日新聞社へあいさつをして、空路帰るのだ。


 二泊三日の旅を終えて帰宅すると、いくつか郵便が届いていた。

 ひとつはサツナン出版からで、島紬の大家が自叙伝を小説にして書いてもらえないかという、前に依頼のあった話の具体的なことで、当人が描きしるした紬の図案や織る技術を図解でまとめたものが同封されていた。さすがよくできていると感心したが、これをこのまま整理すれば、自然と冊子になり本は出来上がるように思える。小説家の出番が必要なのか大いに迷うところである。

ナッキー姉からもいれちがいに、手記が入った手紙が届いていた。

 手記は、〈出会いと『移ろいの記』〉とタイトルが打たれており、豊嶋高雄との出会いからを自由気ままに書きつづったものの写しであった。ナッキーが大島に移り住んできたとき、シホは快方へ向かいつつあったが作家豊嶋は、うつ状態が深く重症で、彼の心の闇は理解できなかったと書き始めている。そのような最悪のコンデションのなかで彼は書き続け、「夢のなかでの日常のことを、常識を超え夢までも現実のものとして見なし、半ばまだ夢の中にあるように予告困難なことが大波となってかぶり、現実から抜け出せずに苦しみ、人生の幕間に目覚めることが出来ない状態に自分を追い込んでしまったのです」という。

 私は手書き文字のコピーを読みながら、じょじょに作家高雄にふれつつある気がしてきた。ナッキーは重度ウツ病の作家に対して癒してあげるには、ただ話を静かに聞くだけだと思いながら、できるだけ明るく、絵のことなど別の世界に気持ちを向ける様に務めたという。日々の記録を何とか小説にして発表していた高雄が、『移ろいの記』として本にまとめるので「表紙はどんなのがいいか、ナコちゃんと考えてみようか、アイデアをデッサンしてみてください」といわれ、ナッキーはとっさにマジックをもち、スケッチブックに、点描写を使って青空に浮かぶ優雅な雲を描いた。二人の間には雲の思い出が多かったーー以前、画集を送ってもらって、いっしよに観賞しようとページを開いたことがあったが、画集の紙面いっぱいの絵の中に大きなハトが明るい青色の中で翼を広げており、ハトの中にさらにコバルトの空があり、ゆったりした雲が浮かんでいた。高雄は、「空と雲は絵の中には納めることが出来ませんね」と笑った。「雲の形はいろいろとあるけど、同じかたちはひとつもない。昨日、今日、明日と、日常も起きて寝るまですごしても同じ日はない。日記を書いていますが、人間の生活は、一日一日が大切だ」と語ってくれた。『移ろいの記』が出版され、贈られてきたときは、感激がはしった。表紙にはモノトーンながら空いっぱいの白雲がわいていたのだった。扉を開けると、高雄の自筆文字がびっしりとつまって語りかけてくる。「日記で自分の生き方を見つめなおしたい。生きるとはすべてをあるがままに甘受する。平凡な日常のように見えますが、作家としての想像をすることを断念する事で日常を見つめ、一時的に〈ものを書く事〉の限界を固めてしまい、狭い範囲で生きている今を生きぬきひとつのわくに閉じ込めてしまったのです。枠の中の絵のように人間として生きることをひとつにくぎってしまったのです」流れるような科白がおどり出ていた。

 作家とは、感性または言葉の魔法使いか。手記を読んでいると私の中にも高雄がのり移ってくる。作家とはひとたらしでなければならないと思いいたった。自身の構築した世界へ誘いおぼれさせる。道に迷いながらも歩き続け、どこへたどり着くこともできない。ときに足を取られ、石を投げられながらも永遠にさまよう存在となる。ただ進み、さ迷うことなのか? 唯一の救いとしては読者がそこにあらわれ伴走者として支えてくれる。ナッキー姉は伴走をこえて伴奏者へと昇華していったのかもしれない。

 手記を読みとおすと日が照らすように何かが湧きでてきて原稿が書けると思えてきた、が、もうひとつ調べなければならないことがあった。反面取材ともいうべき、ノンフィクションには欠かせない、いわゆる裏とりである。木澤氏が情熱をかたむけた文学資料の展開について、サツマ文学文化館を訪問して詳細を確認せねばならなかった。

 電話にて取材の申し込みをすると、さいわいに文学文化館のアドバイザーである上石田文学博士が対応するとの色よい返事をもらった。当日、文学文化館と呼ぶにふさわしい円形ドームを組み合わせ灰白色の石で飾った建物を訪れて、応接室で博士に対面した。

「大島の木澤氏が、自身がまとめた文学資料の話を突然横取りされたといきどおっておりましたが、そのことについてはいかがお考えでしょうか」

 私は小説家から記者へ変身していた。詰問調になるのは致し方ないかとは思うが、小説家としては恥ずかしかった。小説とは真っ赤なウソであり、こまかに文字を書きつづける者は、実は何もわからずにいて、さもわかったように偉大なる虚構のモニュメントを組み立てる。そして創作におぼれて何かが書けているつもりになるが、かえって作品に打ちのめされる。でも必死にしがみつき、あがいて煩悶する。程度差はあれ、豊嶋高雄がそうであったように、それぞれが文字にして狂わねばやっていけない背景を抱えているのであるのだろうが。

「私は、博多大学で文学を専攻していたころから豊嶋高雄とは面識がありまして、彼の文学的センスをかっておりました。文学資料は貴重ですから私どもで保存したいという意向をシホさんが亡くなったあと、雄三さんと再三、再四交渉をしましたが、なかなか難航しまして……」よどみなく経過を説明してくれた。

「決め手は、豊嶋高雄の遺稿や資料は、公共のものであるべきであるということと、高温多湿をさけ温度や湿度の管理が行き届いた施設を整備する必要があること、さらには多くの人が訪れやすい環境であるべきだということでした」

 総合的判断のもとで購入を決断し、購入も公費から支出したものであり、一式千三百十一点の購入金額についても妥当でなんら疑問の残るものではない、取得金額を公表してもかまわないと、淡々として語ってくれた。聞き耳を立てメモりながら、それぞれの立場での正義の主張があるものだと思えた。

 原稿にまとめるだけの材料が出尽くした感があり、私は執筆にとりかかり一週間をかけて二十枚を書き下ろした。ポイントは主に三名の人物からの聞き取りを核にしてまとめたのだが、果たしてこれで豊嶋高雄にせまれたのかどうかの迷いは残った。これだけの枚数では書ききれないのは当然であろうが、人気作家であった人物の一側面をとらえることが出来れば本望であり、描きがいがあったというものである。ことに本人歿後の文学資料のてん末については、ジャーナリズムの観点からの新鮮味をそなえられたと思えたが、とらえ方が難しかった。加えて事実誤認がないか、個人情報をもらし中傷作品ととらえられないか、と気をもむのだ。それで草稿に記述した三名に該当する箇所を抜き刷りして、それぞれに送付することにした。

 お礼のあいさつを述べて、三名に関係個所の確認のお願いをする旨の文書をポストへ投函すると、ほっと一息ついたが、すんなりいくとは思えずに、いくらかの調整が必要だろうとの気がした。

 時間が空いたので、サツナン出版へ連絡を取り、営業一部長さんとともに、一度会ってみてくださいと言われていた島紬の大家の自宅へうかがった。紬を着た老翁は満州からの引き上げであったが、苦労して紬職人として名と財を成したのだという、それを次世代へ引き継ぎたいので、稿料はかかっても是非書いてほしいとのことであった。満州時代からの写真や保存してあった資料を示し、これらをもとに本にしてほしいという依頼に対し、考えあぐねたが、

「私は小説家ではあるのですが、人気作家または著名作家とは言えないし、今回はノンフィクションを書きましたが、ジャーナリストではないものですから」

 なんともあやふやで切れが悪かったが、弁解せざるをえなかった。

「これらを拝見しますと、こういった写真や図解などを掲載した記録誌にすればいいものができるように思います。それに思い出話や注釈を入れれば必ずいいものができるでしょう。作家の仕事ではなく編集によって完成できると考えますが、それでいかがでしょう」

 ーー私は人と人のかかわり合い、また社会のシステムや構造などに興味を持ち、ただ書きつづるだけで、文学という大それたもの書きでもないのでーーこれは飲みこんだ。

「どうしてもと言われれば、それなりの書き手を紹介します」

 私はあまりしゃべりたくない性質だ、だから作品を代わりにして語るのだ。口下手であるので文字でしゃべるのだ。ときに言葉が口から一度走り出すと、止めようもなくこぼれ落ち、結果、自己嫌悪におちいる。精神が壊れるから活字に思いを託すのだった。こういうかたよった考えや気質は……だから小説家なのだが、なかなか理解されにくく、誤解が生じて心中に荒波が立ちやすい。

「写真や図解をいれて解説や思いを書き入れればいいものができますよ」と、部長さんとともに頷きあってその場から失礼した。


 草稿に対してのメールが入った。木澤氏は上石田博士の言い分を認めつつも、憤懣やるかたないと語気が荒かった。要するにおそだしジャンケンじゃないかと主張し、同意を求めてきた。子息の雄三氏と何回も話し合いを重ねたうえで、文学資料の譲渡額のおりあいをつけたのだったが、史料価値を適正に見積もり、町長の承諾を得るのに相当の時間と労力がかかった。サツマ市は、その金額のままで、ある日突然に資料をさらっていってしまった。であれば、もう少しこちらに対する配慮があってしかるべきではないか。そう言われればそうだとは思われる。木澤氏がはき出す憤慨を避けつつも受け止めねばならない。書き表わすということは何かをはき出さずにはいられない所作ではないか。努力をした人が報われずに運とタイミング、それに綱引きが強いものが勝つのが現実だとは考えているが、そうとは伝えがたいし慰めにもならない。ただただ、かしこまってご意見をありがたく拝聴させていただきました、ご自身として主張すべきことはすべきでしょう、との文面を返信した。

 上石田博士から事実関係の手直しが少しあった。博士はこれから豊嶋研究の成果を出せるだろうと述べ、堂々とした余裕があるように思えた。その陰には無数のわすれられた敗者がいるのだが。

 ナッキー姉からは長い手紙と、中国茶のパーテイへのお誘いカードが届き、豊島孝雄との二人だけの世界について、延々と述べてくれた。……私はナコちゃんと呼ばれていたが、先生は自分の子供の様にとらえていたのかもしれません。赤紫のワンピースを着て会ったときに、とてもよく似合うよと言ってくださったので服には気を使った。〈狂気と紫〉、ヨーロッパ土産にもらった香水のビンに書かれていた言葉で、二人をイメージした合言葉だったと後になってわかったことですがと。

 ナッキー姉は高雄を書き残したいと出版社と協議し、その旨を今藤良一兄に相談したが、「彼は若い女の子が好きだった」とか、あることないことを言われるかもしれない、いまさら本人を傷つけることはやめたほうがいいと諭された。私も取材するなかで高雄は隣に座った若い女の子のお尻をなでたとか、女子大の講義で一人の女学生をひいきにしたため女性軍からのボイコットにあったとか、小話はあれこれ聞いたが、それはそれ、なにせ『死に至る痛み』をあらわした作家なのだからと思う。

贈られた『移ろいの記』の裏扉にも高雄の几帳面な文字がつづられていたとナッキー姉はつづける。

「一人になると繰る術を知っているだろうが、二人になると、妻との対話も防ぐことの出来ない不測の嵐があるかのように、私は不幸を呼び寄せる危険をいつも持っているのです。鬱状態の中で苦しみながら、なお書き続けていくこと。〈夢の中での日常)まで深く掘り込み常識を超え夢までも現実のものとして見直し、半ばまだ夢のあるように予告困難なことが大波となってかぶり、現実からぬけ出せず苦しみ、人生の幕間に目醒めることができない状態に自分を追い込んでしまったのです」……確かに高雄は生きる苦悩そのものであり、連載中であった『死に至る痛み』の原稿は遅れるばかりで、完成するまでに十六年の月日を要した。さらにウツ病はひどくて、ある日、自転車で自宅近くの川べりに転落する事故を起こした。これを機に、見舞いに訪れたナッキーは、意を決してサツマ市へ帰ることを伝える。「そうか、私もこんな体では何もできないけど、またいつか会えたら良いね」が、別れの言葉であった、豊嶋も回復すると療養と新たに聖心女子大学で教鞭をとるためにサツマ本土へ転居するのだった。そしてナコちゃんと再会し、三度ほど会い、ナコちゃんことナッキーも手打ちのそば打って歓待もした。そんなある日、ナッキー姉はサツマ市のスーパーにて高雄と偶然出くわすのだが、彼は、その三日後に出血性脳梗塞で忽然と他界する。六十九歳であった。和紙の手紙は、これで書くことはすべて書いたのだという様に収束していたが、余韻を引く結末であった。

私は最終稿のゲラとスイーツの手土産をもって、成子宅で開催される中国茶の集まりに参加した。民俗学の研究者、建築設計者、装飾の仲間たちなど様々な人が集った。料理は調理師である宮元氏の創作の握りずしや会席料理が出されて、味わいながら、それぞれがうんちくを披露しあった。ナッキー姉は、鉄観音や観音王の入れ方を説きながらパーテイは盛りあがり、私もサロンの住人となった感があった。だが、ここでは豊嶋高雄について語ることはできずに、その後届いた手紙において彼がふたたび息づいていた。

神戸へ向かう同じ船に乗り合わせ、船室で食事をしたときに先生が、いろいろと身上について質問されたので、龍家の一族であることや母方は戦後、沖縄との密貿易でもうけ糖業、紬業で財を成したことなどを語ると、先生はナコちゃんが養女だったらいいなとまで言われた。意図するところはわからなかったが、夜になり六甲のホテルで外交官を定年した弟さん夫婦と親密に食事をしたことはまぶしくて光栄に思えた。さらにサツマ市に帰って結婚したのち先生と再会したときに「結婚して幸せですか」と何度も聞かれたので、「日常も非日常も同じ日はない」と、先生の言葉で返答したことなどが、断片的に織り込まれていた。


 子息の豊嶋雄三をはじめ文学研究者など多彩な二十人の寄稿からなる本が出来あがり送られてきた。私の執筆部分には、五色の浜の軽やかな色彩や格納壕の震洋艇、入り江を見渡す文学碑の写真も掲載してあって、豊嶋高雄をさぐる探偵物語はこれでピリオドであったが、原稿を脱稿したときのやったぞという達成感のエクスタシーを覚えたのはほんの一瞬であり、後は奈落に引きずり込まれてしまった。印刷製本された活字を読むと、いったい何を考えて書いていたのだろうと、反省の念に包み込まれ、恥ずかしさに堪えられない。これはいつものことだった。一定の字数の枠に作品にしてはめ込むと、自由を放棄したかのように、創作は矮小化して思うことの十分の一も訴えずに行儀よくなっている。読む者が、作者の力量以上に何かを見出してくれればありがたいが、そんな都合よいことがあり得るのか……それは読者の力量によるのだろう。原稿から活字を通して製本され世に出ていくことで、本は筆者からサヨナラをしていく。豊嶋高雄とその文学についてもしかりで、遠く彼方へと去っていった。

女性ポップシンガーが、男には男なりの夢があり、女には女の夢がある、運命に出会ったら愛だけを残せ、と高らかに歌う。愛という言葉は、至高の気持ちに満ちており使いやすいのだが得体が知れない。『死に至る痛み』のごとく憎しみに変わるものを愛とは呼べないと私は信じているが、憎しみも愛のひとつの変形なのだろう。シホと高雄、それにナコちゃん、いろんなかたちでの愛があり、それぞれの原風景を示してくれたように思うが、私はいまもって愛がわからないし、小説家としていまだに愛が描けていない。

 二階から外を見回すと、赤、青の屋根や緑の生垣が目に入る。日差しのなかで、私は、ナッキー姉宅の緑こい生垣と芝の庭に真紅のバラと黄色と黒のユリが咲きほこっていたことを、いまでも鮮やかに思い出す。そして、私の心象風景はユリの花の周りにフェアリーがかいがいしく飛びまわって遊んでいるという、言い知れぬ幻想へと発展していくのだが、そのたびに満ち足りたものが浮かんでくる。

 

                       (本作品は創作である)

#創作大賞2023

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