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「平成美術」展の鑑賞と勉強会

 先日、京セラ美術館で行われた「平成美術 泡沫と瓦礫 1989−2019」を観覧し、ラボ仲間との勉強会にて取り上げた。
 この展覧会はタイトル通り、平成史に照らし合わせながら日本における様々なアーティスト・作品を取り上げており、私(現代アートをきちんと知ることもなく大学院に入った)にとって初見の作品や情報に溢れた魅力的な展覧会であった。それと同時に仲間との考察を通し、現代アートの「アーカイブ」問題をはじめ、様々なファクターと問題点を知ることができた展示だった。

 まず展覧会についてだが、この展覧会は、椹木野衣監修の元、14のアーティストグループが展示する形で開催された。椹木氏が「平成」に対して考えた「うたかた(Bubbles)」と「瓦礫(Debris)」のキーワードに沿って、平成年間を3つの時代①うたかたの時代(平成元年~13年,1989−2001)、②うたかたから瓦礫へ(平成13年~23年,2001−2011)③瓦礫の時代(平成23年~31年,2011−2019)と捉え、アーティストを起用したようだ。本来ならここから作品について語るべきかもしれないが、本展に置いては一点一点の作品ではなく、この美術展のあり方について考えてみたい。

 勉強会を始めた時、私はこの展覧会に対し、作品考察とその時代背景が気になり、議論を進めて行った。しかし、その中で『國府理「水中エンジン」再製作プロジェクト』を通し「アーカイブ」の問題について話し合うことで、この展覧会の孕む問題点が気になるようになった。
 この展覧会では過去作品を再展示したものとアーティストの手によって再制作され展示されたものがある。そして水中エンジンのように故人の作品を他者が再制作したものも存在する。他者によって再展示されることは他のアーティストにもあることであり、アーティストが故人であることもままある。しかし、故人の作品が故人の意思を伴わず復元された時、それはあくまで模倣された全く別の作品であり、本展示でもこの作品は「再制作プロジェクト」とされており、勉強会内でも「アーカイブ」とは異なるという見解に落ち着いた。
 現代アートを「アーカイブ」する上で作品が「オリジナル」であることは必須であろう。ただそれらを「オリジナル」と定義する要素は作品によって異なる。作品自体の「物質」であったり、それを構成する「プログラム」や「概念」であることもあるだろうし、それのある「場所」や「時間」、「状況」であることもあるだろう。
(少し話が逸れるが昨年行ったバンクシー展を思い出した。そこに本物の作品があったとしてもあの形で展示された作品には何の意図も価値も見出せなかった。唯一ディズマランドの動画は面白かったが、それはあれが「場」を選ばない作品であったからだろう。どこでどう使われようと「オリジナル」だということだ。つまりバンクシーの作品において必要なのは「場所」なのだ。)
 私たちはこの水中エンジン再制作プロジェクトにはその「オリジナル」を満たす要素がないと考えられたということだ。これは現代アートのアーカイブの難しさとともに、その無限の可能性を感じる考察だ。非物質化の進む現代アートにおいて「アーカイブ」の概念をどう捉え、実行していくかは脱ホワイトキューブを実践するアーティストたちに対し、美術館の「アーカイブ」機能がどう働いていくのかを考える重要な点だと感じる。

 私はこの展示を観た時、冒頭でも述べたように、初見の作品や情報に圧倒され「平成美術」としてではなく「平成の現代アートの抜粋」として展覧会を捉えてしまっていた。勉強会を終えて改めて考察すると、時代背景を伴い展示することで、より作品が作品ではなく歴史的資料の一部として提供されていたように感じられる。これは椹木氏の意図でもあるのかもしれないが、現代アートが受け手に対し、問題提起の契機を与えるものであるとして、私は時代を超えてもまた「今」の視点で作品を通して考察させる力をアートは持っていると考えている。もちろんそれぞれの作品が当時の社会的背景を持って作られていることは認識しているが、第三者が敢えてそこに時代背景を伴わせて展示することによって鑑賞者である自分が思考の枠をはめられたような感覚になったのだ。あの時私は、「今」の美術展にいたのではなく、どこか博物館に近い場所にいたような感覚であった。
 もちろんこの展覧会が現代アートのアーカイブの必要性や資料化することを目的としていたとも感じているが、「平成」という時代を思い起こし、更にそこに「平成美術」というジャンルを作り上げてアートを分類したいのだとしても、これはより議論のあるものでなければならないし、美術館という場において現代アートを扱うのであれば、現代アートがもたらす鑑賞者の想像力や考察力を促すような、もう少し余地を残したものであるべきではなかったかと感じる。この点においてはこれが「平成美術」の議論の始まりとして提供された美術展だとも感じる部分もある。しかしながら、やはり強すぎる監修者の意向は鑑賞者を自由な思考へと駆り立てるものではなく、現代アートに触れさせる時、そのことを最も奪ってはいけなかったのではないかと強く感じる結果となった展覧会であった。

 作品やこれら構成を経ることで多くの学びを得られたことは事実であるし、アウトサイダーアートの展示についてはまた改めて考察しておきたいと思っている。私にとってこの展覧会から得たものは多いのだ。そしてまた、私のこの考察も展覧会の一部の要素を取り上げているに過ぎないことを申し添え、勉強会のまとめとする。

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