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【#母の言葉】(どんな状況に至ろうと)それは自分で選んだ結果

 姉が精神を患ったことも、兄が難病を患ったことも、それは自分で選んだ結果だと、ある時、電話で母はそう言った。

 皆さん、お久しぶりです(・∀・)長いことnoteから離れていました。今回は、二か月前くらいに母と電話で話した時の内容について書いていこうと思います。

 あれから随分と時間が経ちましたが、どうしてもこのことについて、冷静に、そして深く思考を巡らせていました。一体、母はどういう思いでそう言ったのか、そのことが頭から離れずにいました。

 私自身、人生を悟った気になったつもりはありません。40年近く生きていても、こうだと結論付けるに足るほどの経験はできていないのだなと感じることも多々あります。

 よく、運命、宿命、使命などといったものについて語られるドラマやアニメなどの作品を視聴することがありますが、どれだけの作品を観ても「自分の人生は言うほど劇的なことは起こらないものだな」と思うのです。

 そう思うからこそ、人生を悟るに足る経験がまだ足りないのかもしれないとも感じるのです。これまでに自分が経験したようなことは、多くの人たちが幾多数多経験するようなことばかりで、自分の存在価値が「特別だ」と思ったことは一度もありません。

 今年、年が明けてからというもの、感染拡大を見せるオミクロン株の猛威には、きっと誰もが不安を感じていることだろうと思います。

 2019年12月以降、2年あまりが経過してもなお、一向に終息の兆しを見せず、感染者数が波を打つごとにウィルスは社会から実に多くのものを奪い続けています。

 もう元に戻ることのないこの変化により、「本当は今頃こうだったはずなのに」「まさかこんなことになるなんて」といったことに思考を巡らせる人たちもきっと増えたに違いありません。

 誰一人として予想できない状況が目の前に広がった時、ある時から突然自身の立ち位置がこれまでとはまるで別のものになった時、微塵も同様しない人はいないかもしれません。

 私個人としては、どういう状況に立たされようと、生きている以上、飯を食い、風呂に入り、寝ることは欠かせないことですから、誰がなんと言おうとしていいと思っています。

 「働かざる者食うべからず」これを意気揚々と公言できるのは、社会が安定的に、そして円滑に循環している時で、そうではなくなったにも拘らず万人にこれを言うのは、ちゃんと現状を捉えていないだけではなく、ただこれまでの在り方に従属しようとしていることに等しいと言えます。

 社会的なパラダイムシフトが起きた時には、慌てて焦って行動を選択すると二次的な災難が降りかかってくることも十分考えられます。むしろ、それで済めばまだいいほうで、下手すれば中長期的に災難が降りかかり続けることもあるかもしれません。

 ですから、私個人としては「これまでの考え方を切って捨てる」という、生きて死ぬまでに滅多にない選択をするタイミング、それが、環境の急激な変化が起きた時ではないかと考えています。

 そういう時の行動選択が結果的に正しかったか間違っていたかというのは、その時になって初めて実感することであって、選択する時には誰にもわからないものです。大方、ギャンブル的な選択に近いと言えるでしょう。

 世の中には切った張ったで毎日をギャンブルのように生きている人たちもいるのかもしれませんが、そうでなくても人生はギャンブルのようなものです。いつ何が起きても不思議はありませんからね。

 運、偶然、奇跡、そういうものに人並外れて恵まれている人もいたりしますけれども、そんな人をいくら羨んでも自分の人生とは微塵にもリンクしません。得てして、多くの人たちが羨んだり憧れたりするような人物たちというのは、それとはかけ離れた苦労をしていたり、現在進行形で苦悩を抱えていたりするものです。

 アニメ「BLEACH」(ブリーチ)で、藍染 惣右介(あいぜん そうすけ)の「憧れは、理解から最も遠い感情だよ。」というセリフがありますが、これはなにも憧れに限ったことではなく、その逆もまた然りで、貧しそうに見えたり、障がいのある人たちを見て哀れんだりするようなことにも同じように言えることだと私は思います。

 人の生き方を惑わすのは、極端に壮絶な悲劇なんかではなく、「中途半端な安定」であると思います。五体満足で普段の生活には支障のない健康体、なおかつ経済的にも裕福でも貧乏でもない中途半端な生活水準に慣れて生きると、なかなか自分の未来の指針とすべき事柄に気付けないまま歳だけを重ねてしまうのかもしれません。

 人々の注目を集める人物というのは、究極に貧乏か、究極に裕福か、究極に頭が悪いか、究極に頭が良いか、究極に足が速いか、究極に面白いか、究極な悪人か、、、といったように「突出した経験や特徴を持つ人」でしょう。

 そうではなく、大して突出した経験や特徴を持たない人というのは、これまでに従属した思想に支配されて生きることを選択するしかない、そう思い込んでいるのかもしれません。そういう人が大半であるというのが今の社会構造において顕著に表れています。

 突出した経験や特徴を持つ人とそうではない人、自分はどちらの種類の人間だろうかと考えてみると、後者であることは間違いありません。しかし、そのことを恥じたことはありません。

 人生において自分が特別な存在でなければならない理由など、それを必要とする人がいて、必要としない人がいる、ただそれだけのことです。

 「夢、希望、目標、そういう類のものを胸に抱いて生きることが人生である。」などと言う人がいれば、その言葉を信じた人たちのうち、実に多くの人たちが幾多の挫折、絶望、失望に遭遇します。

 私たちが考えなければならないのは、人生における成功が如何に漠然とした抽象的虚像であるかということで、そこに重点を置いた選択が万人にとって確実で正解であるわけではないことに気付かないといけません。

 成功という言葉の意味を遠目に見て考えてみると、その比率たるや天文学的な数値であることに気付かされます。

 何を以って成功と結論付けるか、それは時代によっても全く意味を異にします。縄文・弥生時代なら狩猟で獲物をより多く捕えられれば成功と言えるでしょうし、戦国時代なら敵将の首を討ち取れば成功と言えるでしょうし、学歴社会ではより高い点数を取り志望校や志望大学に合格すれば成功と言えるでしょうし、スポーツなら身体能力の優れた選手やチームワークの優れたチームが国や世界のトップに立って初めて成功と言えるでしょう。

 そうして勝ち取った富や名声が誰にとっての成功なのかを考えた時、当然それは勝ち取った個人や組織や国と言えますが、誰もがそういう意味の成功を目指すべきとするのが人生なのかと問われれば、決してそうではありません。

 だから私は、人生というものを勝ち組や負け組などと表現することを容認しません。誰の人生を基準に勝ち負けを決めるのか、いくらの資産額を基準に勝ち負けを決めるのか、それはそうしたい人たちの自由なのかもしれませんが、私からすれば自分とは関係のないくだらない基準として切って捨てるものでしかありません。

 人生をかけて手に入れたものは全て、一つ残らず手放してこの世を去ることが100%確定しているにもかかわらず、どうして人は人生という運ゲーにあれこれと意味や理由を取って付けるのでしょうね?

 そのほうが人間らしいからでしょうか。そのほうが幸せだと思えるからでしょうか。そのほうが幸せだと思ってもらえるからでしょうか。

 「この世に人として生まれるはずの人たち」は一体どれくらいいたのでしょうか。「生まれてから80年くらい生きるはずの人たち」は一体どれくらいいて、どうして早々にこの世を去らなければならなかったのでしょうか。

 結局この世は、おおよそ数十日から数十年の間を生きられる可能性のある人たちで回っているのであって、この世に「生まれるはずだった人たち」や「数十年生きられるはずだった人たち」はカウントされていません。

 元より、人類史が始まって以来、無数の人たちの世代交代の末に今を生きていることを鑑みれば、わずか80年ほどの人生における成功などに一体どれだけの価値があるのか、よくわかりませんね。

 今となっては、人類を存続させる価値が本当にあるのかどうかすら曖昧になってきているような気さえします。

 あらゆる分野における記録の塗り替えは、間違いなく社会を発展させ、便利にし、人々の生活を豊かに変えてきたはずでした。しかし、現在に至るまでに払い続けてきた多過ぎる犠牲無くしては適わなかったことです。

 犠牲とは、死に限らず、苦悩、差別、侮蔑、裏切り、搾取、これらすべてを含むでしょうね。そうした犠牲の上にある成功の価値とは、それほど称賛に値すべきものなのか、私は小さい頃から疑問に思っていました。

 大人になり、自身の欲を満たしては求めるといったことを30歳になるまでに繰り返してみた結果、幾度となく失敗を重ね、実に多くのことに気付かされたものです。

 ただ、「正常な感覚を破壊するほどの強すぎる刺激だけは求めてはならない」これだけは信じて間違いはなかったと今も思います。自身が耐え得る刺激には限度があり、人によってもその限度は異なります。

 もしかすると、その限度を超える行動を選択してしまうと、精神を患ってしまったり、予期せぬ難病を患ったりしてしまうリスクを高めてしまうのかもしれません。

 母が姉や兄の話をしていた時に私に言った「それは自分で選んだ結果だ」と聞いた瞬間はその言葉の意味がわかりませんでした。むしろ、なんてひどいことを言うんだと、若干怒りさえ湧き上がってきたほどでした。

 ですから、その場では母にその真意を聞き返すことをせず、「そうなんだ」とだけ返しておいたのです。

 「自身で抱えきれないほどの力やお金を手にすることに魂を支配されると、いずれその反動により精神を患ったり、病に伏したりするなどして身を滅ぼすことになるよ。」と、「身の程を弁えて堅実に生きなさい。」と、母は私に言ったのかもしれないと今は思っています。

 たとえ親の言葉でも意味を履き違えて認識すると、時には真逆の意味として認識してしまうこともあるので、一旦時間を置いて、冷静にじっくり考えこむことは大事だなと最近はつくづく思うようになりました。

 40歳になろうとする今、改めて大事なことを胸に刻めた気がします。親の言葉は何度も脳内で反芻する。その度にしっかりと自分と向き合うようにしていきたいです。

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