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もう何度啜ったか分からない位に腫れた鼻と、軋むまで枯れた喉と、瞼の裏に映る、何か、とてもおそろしいもの。目を閉じるたびに現れるそれに、涙もおちおち拭えなくなって、眼球が溺れそうなほどの塩水を溜めてから、白い布にその液体を押し付ける作業をした。幾ら身体を掻き抱いても、何かが足りない感覚と埋まらない感覚と、コンパスを失くした旅人のような、そういう類の間違いの感覚を消せなかった。何も考えたくないと思うほど声が大きく多くなっていって、増幅して重なり喚く人間の声がどうにも醜すぎるように聞こえた。首筋に手を掛けて、親指の先で喉仏をぐいと押す。両手を輪のように形作れば首裏で八本の指を合わせて首を絞めた。脳に酸素が行かなくなると、頭にある血管が全て膨れるような感覚と一緒に、今まで頭の中にあった音が止んだ。次に耳から入る音も小さくなった。その間にも塩水が垂れて、液体が混じって身体を濡らした。首を絞めれば何かを考える隙がなくなる事に気がついてから、その数秒の幸福のために私は力を尽くした。幸福をどれだけ長く保てるか、どの指で喉を押さえるのが一番効果的なのか。少しずつ慣れていく自分が誇らしくすらあった。首を絞め掠れた声を漏らしていれば己の地獄を見なくて済む。けれど癖になって痣にならないように気をつけた。首を絞める痛みと痣の痛みを一緒にしたくなかった。体液が喉を濡らした。涙と鼻水と、唾液と胃液のようなものが混ざって指先に纏わりついた。不快ではなかった。首を絞めれば瞼の裏に映るものも消えてくれた。

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