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「自分の言葉で話す人」はなぜ面白いのか

かなり長い間困っていたことに、「しっくりくる説明」が見えたので書く。

困っていたこと:「自分の言葉で話す人」は面白いので、知り合いになりたい。でも、「自分の言葉で話す」ってどういう意味だ?うまく言い換えて説明できなかった。

「自分の言葉で話す人」は面白い。とても仕事が出来る人でも、「借り物の言葉で話している感」がある人がいて、話していても(私にとっては)つまらない。

今働いている会社の面接においても、「自分の言葉で話している」が採用基準として存在する気がしている。でも「自分の言葉で話す」は、誰にでも伝わる説明ではない。何か言い換えの説明をずっと探していた。

言葉というのは全部借り物だ。「自分の言葉」とは、独自用語を使う人のことでもない。「自分の言葉」って何だろう?

ヒント:熟達の研究における、「合理的な意思決定」から「直感的な意思決定」への変化

「経験からの学習」のP40ぐらいに書いてある内容がヒントになった。

「熟達者」の特徴は、「直感的に意思決定」することができる点にある。素人から上級者の段階まで、意思決定は合理的に行われるが、熟達者は、状況やアクションに関する膨大なレパートリーを有するため、直感的な判断が可能になるのである。

最初に思い出したのは私がよく行くマッサージ屋さんだ。ここの店長は毎回全然違うことをする。違いすぎて謎だけど、店長なりのパターン認識の中から行われているのだろう。聞くと理由を答えてくれる。でも「体の中に通っている『線』」のつながりで説明されるのだが、私にはわからない。ただ、店長の中に論理があることはわかる。

どの本だったか忘れたけど(棋士の羽生さんの本だったかも)、ひらめきと直感の違いの説明があった。ひらめきは理由を説明できない。直感は最初に結論が出るけど、その後考えたら何かしらの説明ができる。上に書いてある熟達者の場合、状況を見て最初に「パッ」と答えが出てきて、そのあと考えると、なぜその結論に至ったか言語化がある程度出来るのだろう。

結論:熟達者が持っている「状況やアクションに関する膨大なレパートリー」から出てくる直感的な答えを、後付けで説明しようとすることが、「自分の言葉で話す」なのでは。そして、その熟達者の独自の因果律が面白いのだろう!

で、結論は↑これ。

なぜその話は聞いていて面白いのか。それは熟達者が持っている「経験則からくる独自の因果律(理論)」が私にとって新鮮だからなのだろう。だから聞いていて「へえ〜」って思う。

考えてみると、私が話していて面白い人の特徴には、対話の中で「わかんないんですけど、こういうことかなと思いました」というフレーズが出てくる気がする。で、その後に段々と理由を説明していく。もしくは、頭の中では直感的な答えが出てきていても、先に「理由」まで言語化して、その上で話し始める人もいる。このケースもわかる。説明の中に「新鮮な因果律」がどこかにあるからだ。

対話をしているときに、直感的に出てくる答え以外から「回答」を持ってこようとする人は「あまり面白くないな」と感じる。つまり、「そんなことはわかってるよ」という反応になる。これは知識として知らなかったことでも、普通に考えたらわかることを「因果」として説明されると、「そんなことはわかってるよ」という反応になる。あ、ここも結構な面白いところだな。だって、「知らないこと」なのに、聞いたら「そんなことわかってるよ」という反応になるのだ。つまりそれは「そんな予想可能な因果を言うんじゃねえよ」ということなのだな。

どうやったら、自分の言葉で話せるのか。

つまりある分野において、経験をつみ、直感的な結論が出せるぐらい自分の中に「独自の因果律」をつくりあげるということだろう。で、この結論は、自分が読者だとしたら、「そんなことはわかってるよ」という反応になる部分だ。だからもうちょっと何かを書く。ちなみにここの段階で、以下に何を書くかは決めてないけど、何か書いた方がいいから書くのだ。

学生時代、落語研究会にいた。私にとって、子供にも老人にも若者にも笑いがとれるのは、顔芸やオーバーリアクションという「非言語コミュニケーション」だった。トークや落語の内容で笑わせるためには、相手の年代によってチューニングが必要で、それがずっと不思議だった。で、そこから自分として考えていたのは、「実は相手は落語を聞いていないのでは。だから聞いてなくても面白い落語をやろう」ということだった。確かに学生の落語なんて真剣に聞かない。だから、もっと直感的な言葉を使わない表現のほうが伝わるのでは、というような判断だ。

この話は、私にとっては「発見」であり、独自の因果律に相当する。つまり、仮に他の人から私がこの話を聞いたら「へえ〜」って思うだろうなということだ。なぜそう思うかをもうちょっと考えてみよう。

1.子供にも老人にも若者にも笑いがとれるのは、顔芸やオーバーリアクションという「非言語コミュニケーション」だ、という話は、なるほどなと認めることができる。

2.「実は相手は落語を聞いていないのでは。だから聞いてなくても面白い落語をやろう」という発見は、この言葉だけだと意味がわからない。「聞いてなくても面白い落語」というのは、ちょっと説明が矛盾している。ただ、この矛盾した説明こそが、この人の中には、言語化できないものも含めた「独自の因果律」がありそうだな、ということで、相手に興味をもつきっかけとなる。

このあたりまで考えると、「自分の言葉で話す人」は、いつも「自分でも言語化もできてないものを話す」の要素が入っているかもしれない。そういえば、私は「わからないですけど」という枕詞をつかって話すのが好きだ。これは誰か放送作家の人がいっていた。「わからないですけど」からはじめれば全部大丈夫だと。

2021/1/4追記:数学者が「すごい定理」とかを見つけるときの話が面白いので追記

科学や数学の場合についても言えることで、実は過去の天才たちは必ずしも演繹的、論理的に考えて問題の答えにたどり着いたわけではなく、そうした天才的業績の場合、むしろ頭の中で問題が全体像として最初に見えていて、答えが先に存在しているという場合が圧倒的に多い。
(略)
ただ、それらの業績を後で整理して教科書に載せる段階では、そういう本当の発見の筋道は捨てられて、整然とした一本道の論理としてトリミングされる。そのため教科書を見ると、あたかもその発見者が何か演繹的な思考を整然と積み重ねていって、答えにたどり着いたように見えてしまうのである。
しかし本当はその発見者は、最初に直観的に答えがわかっていて、むしろそれを自分や他人に説明するために「証明」を行っていることが多い。
(引用:人間の直観力はどのようなメカニズムに基づいているのか

これで思い出したことがある。ダニエルキムさんの「成功の循環モデル」という考え方がある。検索するといろいろ出てくるが、こういう図だ。

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こういうとき、図だけ見て「へー」って思うんだけど、できるだけ本人が自分で言っているテキストを探すことにしている。なぜなら、この図は簡略化されすぎていて、実際にはこの裏に隠れている話が一番面白いからだ。で、検索して出てきたのがこれ。画像が面白いので引用してしまおう。

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・「チーム学習」→「関係の質」
・「内省(メンタルモデル)」→「思考の質」

のように、「○○の質」の裏側にもう一つ因果が説明されていた。この図のほうが、いろいろと応用できる。しかし、日本語でgoogle検索すると、この部分はほぼ省略されている。以下はgoogleで画像検索した結果。ひとつぐらいは、説明していてもよさそうだが、全部抜けている。

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で、これがなぜなのか。たぶん、ほとんどの人が「元ネタ」までたどり着かずに書いているのではないか。その理由は、最初に考えた人の中にだけ「独自の因果律」があるということを体感値として持っていないからだろう。私は本当に面白いと思ったブログ(や書籍)を書いた人には、できるだけ直接話を聞きたいと考え連絡して話してみることにしている。なぜなら、大抵そういう人は、「ブログだとわかりにくいから書かなかったんですけど〜」という話をたくさんもっているからだ。「わかりにくいから省略したな〜」という感じは、文章から伝わってくることが多い。この人はもっといろいろ持ってるな!という感じだ。

twitterもやってます。


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