見出し画像

間違ってるわよ



このあいだ、フジテレビ系列で放送されていた“アウトデラックス”という番組が終わった。この番組は、MCのナイナイ矢部とマツコ・デラックスが、“アウトな人々”をゲストに迎えて、トークを繰り広げるという番組だ。

“アウトな人々”というのは、例えば、少年院上がりのアイドルや、一億円以上整形に費やした男性、明らかにおじさんの地下アイドルなど、良くも悪くも、他の番組にはまず出演しないような人が多かった。それ故に、その人達が放つ圧倒的な個性はどれも衝撃的で、面白くて、意味がわからなくて、最低で、最高だった。そんな常識の外から放たれる人間の魅力を感じられるこの番組が好きだった。

最終回で、女装を趣味とする東大の教授が、「私が出演してきた番組の中で、この番組が1番良かった」というような発言をした。それに対してナイナイ矢部が、「そう言っていただけると、今までやってきたことが間違っていなかったようで嬉しい」と言った。すると、すかさずマツコが、「いや、間違ってるわよ」と言い放った。そして続けて、

「だけど、間違ってることは悪いことじゃないのよ」

と言い切った。


ああ、なるほど、確かにな。

アウトデラックスに出演している人々は、どこかイビツで社会の枠にはハマっていないような人達ばかりだった。そういう所がとても魅力的だったけど、社会はそれを全て認めてくれるわけではない。

つまり、明らかに他人と大きく違っている何かを持っていて、それが社会から歓迎されなかった時、社会の中では“間違っている”とされてしまうことがある。

社会が存在している以上、様々な事柄が社会にとって有益か無益か、という尺度で語られてしまうのは、ある程度仕方のないことなのかもしれない。

だが、社会的に有益か無益か、ということと、本質的に善か悪か、ということは全く異なる尺度だ。

マツコはそこを混同せず、社会的に間違っているかもしれない人々を、本質的に肯定したのだ。

最近、様々な人に対して、その人が社会にとって必要か不必要かという尺度で語る人をたまに見かける。

きっと、そういう人たちの世界は人間の社会の中だけで、その外に広がっている広大な世界を想像もしていないのかもしれない。

本当は、世界はもっと広いのに。社会というのは、人間が生きていくための小さなシステムにすぎないのに。

“多様性のある社会に”という言葉をよく耳にするが、きっと、それを実現するためには、まず、“社会の外にも世界がある”ということをちゃんと認識する所から始まるような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?