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僕と社会を結ぶもの


昔からネクタイが嫌いだった。
理由は、煩わしいし意味がわからないからだ。
例えば、同じような体に身につける物として、洋服やズボンなどは理解できる。防寒になるし、身体を保護してくれるし、全裸で外出するのは恥ずかしいし、ちゃんとした理由があって身に付けている自覚がある。
だが、ネクタイは違う。
ネクタイは防寒にならないし、身体を保護してくれないし、付けずに外出しても恥ずかしくともなんともない。しかも、付けていると首を締め付けるのでむしろ苦しくなる。
こんな実用性皆無の細長い布をなぜ首に巻き付けなければならないのか。そんな疑問を中学生の頃から持っていた。

だが、最近は理解してきている。
確かにネクタイに実用性はない。だが、ネクタイというのは、世の中では重要な“社会的なアイテム”として使われているのだ。つまり、スーツを着てネクタイを巻いていれば、ある程度社会的に“ちゃんとしている人”だと、勝手に認識してくれるのだ。だから、大事な式典ではネクタイを巻くし、面接でもネクタイを巻くし、サラリーマンになればネクタイを巻くのだ。

そんな見てくれだけちゃんとしていればいいのか?と最初は思ったが、実際それで十分だ。なぜなら、人の内面は誰にもわからないから。だから社会では外見が重視される。内面がわからない分、見た目でいかに自分が“ちゃんとしている人”であるかを訴える。その人にどんな過去があろうと、どんな性格をしていようと、今目の前にいる人にとっては関係ない。対面している人にとっては、スーツを着て、ネクタイを巻き、髪をちゃんとセットし、笑顔で挨拶をして、ハキハキと喋ってきたら、その人は“ちゃんとしている人”になる。

この事実は、僕みたいな人間にとっては、実は救いでもある。なぜなら、僕は基本的に非社会的な考え方をしているので、世の中が内面で人を判断していれば、恐らく社会の中で生きていくことは出来ないからだ。

僕は社会で嘘をつく。
フォーマルな場所では巻きたくもないネクタイを巻き、ちゃんとしている人のふりをする。お客さんには無理矢理口角を上げて偽りの笑顔で挨拶をする。自分が悪くないと思ってもとりあえず謝るし、別に感謝していなくても、お礼を言っておいた方が良さそうだったらとりあえずお礼しておく。

社会では、自分が何を思ったかよりも、相手がどう思うかの方が重視される。だからそれらが許される。

自分のアイデンティティを守りながら社会の中で生きていく為に、僕はネクタイを結ぶ。
ネクタイは、僕の首を締め付けると同時に、僕と社会を結ぶ命綱になっているのだ。

ありがとうネクタイ。
まあ、煩わしいのに変わりはないから、なるべく付けなくていい人生を選ぶけど。


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