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皿洗いをする本当の理由。

“自分は死ぬまでにあと何枚の皿を洗うのだろう”

皿洗いをしながら、ふとこんなことを思う。
何千枚か、何万枚か、その途方もなさに思わず手が止まる。いや、未来の皿のことは考えず、今目の前の皿のことだけを考えよう、と慌てて軌道修正する。

手を動かしていれば、とりあえず目の前の皿は消える。
一見、これで皿洗いは終わったかに思えるが、本当の終わりは来ていない。また明日になれば、どこからともなくシンクに皿が湧き上がってきて、気づけば皿どもの巣窟と化している。恐らく、前の皿がシンクに卵を産んでいて、それらが孵化したのだろう。しぶとい奴らだ。

まあ、食洗機なんかがあれば、直接手を下す必要がなくなるので幾分か楽にはなると思うが、それでも皿を根絶やしに出来るわけではない。

しかも、これだけでもクソ面倒くさいのだが、生活の中に潜む敵は皿だけではない。

例えば洗濯。
普段は畳まれて大人しくしている衣服達も、気づけば部屋中に見るも無惨な姿で転がっており、発見しては洗濯機に放り込んで供養してやらなければならない。

掃除もそうだ。
どこからともなく溢れ出てくるゴミやホコリを吸い取っては捨て吸い取っては捨てのイタチごっこを繰り返す。

そんな攻防を、人生をかけて続けなくてはいけない。信じられない。こんなに不毛な戦いを死ぬまで繰り返さなくてはいけないなんて。信じたくない。

僕は皿を洗いながら考える。

なぜ皿を洗うのか?

皿が汚れているからだ

なぜ皿が汚れていたら洗うのか?

汚れたままだと皿が使えないからだ

なぜ皿をまた使おうとするのか?

また皿に飯を盛るからだ

なぜまた皿に飯を盛るのか?

きっとまた飯を食うからだ

なぜきっとまた飯を食うのか?

きっと明日も腹が減るからだ

なぜきっと明日も腹が減るのか?

それは、きっと明日も生きているからだ


そこでようやく気づいた。
つまり、皿を洗うということは、“きっと明日も生きているであろう”というイメージが無意識下に存在するということであり、その未来の自分に対して、その後も生き続けてほしいという、生への肯定的な想いの表れといえるのではないだろうか。

掃除も洗濯もそうだ。もし今この瞬間に死ぬとすれば、それらをする必要はなくなる。次の瞬間もきっと自分は生きているであろうと思っているからこそ、この生を持続させる行為に意味が生まれる。
そして、それらの生を持続させる行為を死ぬまで繰り返すことこそが、実は生きるということの本質そのものなのではないだろうか。

そうであれば、僕がそれらの“生を持続させる行為”が極端に苦手な理由は、明日もまた生きているであろうというイメージが希薄だからなのだろうか?それとも、単なる怠け者なのだろうか?

その辺りは実際よくわからないが、もしかすると、皿を洗うことが生きたいと思っていることの証明だと仮定するならば、逆に皿を洗うことから生きたいと思えるようになることも可能なのではないだろうか?

皿を洗う手が再び動き出す。
皿は順調に美しさを取り戻し、全てをすすぎ終えて、思う。




ああ、皿洗いめんどくせえ。




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