44、展覧会

日本に住んでいると実に展覧会の案内状が多い。日本全体の美術館数は
2020年で約6千件あるらしく、上野や六本木の大型展覧会から企業、銀行
のロビー、デパートのギャラリー、小さな喫茶店やレストランの壁に
展示された個人の展覧会まで多種多様である。画廊のメッカと言われる
銀座だけで235件あると言う。その他、町内の趣味のお絵描きクラブの
展覧会を含めて、大雑把に数えると月平均3,000以上の展覧会が日本の
どこかで開かれている事になる。面白い場所では古い倉庫や古民家など
でも展示される事があるそうな。ぼくの友知人、デザイナーや漫画家の
兄貴経由だけでも展覧会だらけである。デザイナーの場合はクライアント
の為の制作なので自分の作品を展示するだけの目的だが、純粋絵画に
なると販売が目的となり、画廊がその何%を手数料として取得する訳だが、
とにかく日本には画廊が多い。そしてそれらを利用する人々も無数にいる。

無名のアーティストに取っての展覧会は最も自分の作品を発表する良い機会
であり、何かのグループ展で賞でも取れば発展のチャンスがある事になる。
それは無償のデザイン展も同様であり、より多くの人の目に触れる訳である。
それが絵画、文筆、音楽、パーフォーミングに於いても残念ながらアート
のみで生活するにはその人の死後や埋もれっぱなしの人の方が多いのは
アートの歴史が証明している。

アメリカの場合はどうなのか?やはりギャラリー側は利益優先主義なので
例えデザイナーの作品展であっても使用料さえ払えば可能な所もあるが、
ただの作品展示だけの場合は日本と比べ皆無と言っても良いであろう。
ギャラリーには確たるレベルの違いがある訳ではないが、ギャラリー側が
数人あるいは数十人のアーティストをそのレベルによって持ち、展覧会を
している。従ってそのギャラリーに属さないと展覧会は出来ない。有名
過ぎるまでになったSOHOやTRIBECAには小さな個人向けのギャラリーは
存在する。かと言って販売目的でない無利益のデザイナーの作品展覧会など
は殆どないに等しい。作品制作の時間によって1年に数十点出来る人、数年
に数点の人、レンブラント風の作品と漫画や書道ではその量に違いがある。

又数十年前だったか日本人女性アーティストが日本の銀行で展覧会を
開いた事があり、何かのついでに見た事があったが、彼女は日本の
「こより」を使って蟻の行列や、小さな絵にしていたが、アメリカでは
小さな絵はあまり売れない。日本ならば小さな絵でもトイレに飾ったり
家の壁面が小さいので見栄えもするだろうが、アメリカは家も壁も大きく
大きな絵の方がより売れる事になる。又ベッドのヘッド・ボードの上にも
大型の絵が飾られる事が多い。もちろんホテルや病院など公共施設的壁面
は大型でこれは日本も同じであろう。

実はぼくも素人ながらイラスト展を売る目的の為に初めて描いた事がある。
地元コネチカット州のグリニッチの図書館でグループ展5人ほどの展覧会
だったが、ぼくの作品は風刺的で諧謔的な作品で医者や弁護士が笑い
ながら数点買ってくれ、ぼくの作品だけが完売したと後で聞いた。
もちろん25%は差し引かれて小切手が送られてきた。生まれて初めて
自分の作品が売れたのだった。それに味を占めたからか今でも暇が
あればイラストを描いている。現在はデザインの仕事は無く、モリタは
高そうだ、態度がデカイ、会議が嫌い、などの理由で無職である。2年前
にNYで初孫が生まれてからは日本語のブログで残すよりもビジュアルの
イラストで残した方が良策と考え、孫の教育資金の足しになればと売る
目的で75歳から50号、20号のイラストを60点余り描き上げた。言わば
ぼくも日本で発表する場合画廊を探す訳だが。ぼくの作品が売れずとも
孫が少年になり、お爺ちゃんはこんな絵を描く人だったと思ってもらえ
れば嬉しい。

日本がバブル時代の1980年代にはぼくの所属するニューヨーク・アート・
ディレクターズ・クラブのギャラリーで多くの日本人グループや個人の
展覧会が開かれた。その頃のポスターなどの作品は5色機を2回通して
10色、その上にシルク・スクリーン印刷で計12色などというのもあり、
とにかく日本の贅沢さに驚きと羨みだらけだった。もちろん色の数で
その作品の優劣が決まる訳ではないのだが。その頃の名残があって今の
日本のギャラリー事情があるのかも知れない。

日本でよくルーブルやNYのメトロポリタンから持ってきた展覧会が
あるが、それらの数は非常に少なく、本場で見るのとは訳が違うのに
気付く。モナリザが日本の美術館に来ても高い入場料を払って行列を
作り1人数秒しか見られないのは美術観賞とは言えない。過去ピカソ、
マティス、モネ、シャガール、ミロ、ルノアール、デガ、マグリット、
などなどMETやNYのMOMAで本物を見たがその数量が凄く彼らの
発展の道筋が見える。特にMETなどは本当に見ようと思ったら最低
でも1週間は必要かと思う。その位スケールが大きく満腹で見応え
充分になる。

ここ熱海にもMOAというかなり良い美術館があるが、バブル時代の
儲け主義か、国宝の光琳の紅白梅屏風などもあるが、良い物でも古典
から陶器、掛け軸、洋画、などバラバラの作品感が否めない。その
美術館建築の贅は正に無税の宗教で稼いだのであろうと思わせるのだ。
ここはナントカ宗教の経営でやっている事を後で知った。

又日本ではそれほどの知名度がなくても自分名義のギャラリーを
作ったり、郷土の名士として町起こし、村起こしの名目でその
アーティストのギャラリーを作ってしまう事がある。元お笑い芸人の
T太郎などは人間国宝の中川一政の亜流その物であり、油彩と水彩の
違いだけで鰯の干物など全くのパクリである。彼のデッサン力などは
言うまでもあるまい。スペインの闘牛師の絵を見てすぐにバレた。
それがテレビで有名と言うだけで作品が飛ぶように売れた時もあった
と聞く。又彼の美術館は2つありその内に一つは閉館になったとか。
それらの傾向は日本人は少し有名になっただけで銅像を作ったり、
俳優、演歌歌手、今では漫画やアニメの銅像まで作ってしまうお国柄
から来ているのだろう。大したアーティストでなくても町や村起こし
の起爆剤になれば誰も異論はないだろうが、本人の恥ずかしさはどう
なのかと聞いてみたい。そういう入れ物超モダン建築デザインで地方
にも多く存在するが、問題は中身なのだ。

グラフィック・デザイナーとして最高峰とも言われたポール・ランド
は自分の美術館もなければ銅像もない。もし彼が日本人だったら各
都道府県、市町村に美術館や銅像だらけになるだろう。彼の回顧展は
これから幾度となく世界の主要美術館で開催される事だろう。ただ
ポール・ランドが自分でデザインした白と黒の大理石のキューブを
オフ・バランスにして重ねた墓石は銅像以上に素晴らしい作品として
残されている。

終。

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