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デザインの師匠-#05 デザインの力-

さて、デザインの師匠編は、今回で最終のお話しとなります。2021年コロナ禍が長引く中、何かしら自分のこれからの未来を考えるなかで、まずは自身のデザインのDNAを整理したいと考えて始めたnoteへの投稿、過去の想い出は、今回で一区切りさせて、今後は、現在進行形のデザインの日々を書き留めていければと考えてます。

表題の件ですが、私のデザインの最初の師匠であり、最後の師匠でもある特別な存在。それは、学生時代、初めて出逢った世界的なデザイナーであり、大学時代からの恩師である、喜多俊之氏。私がアシスタントデザイナーとして勤務したデザイン事務所、IDKデザイン研究所の所長でもありました。

守秘義務の関係で、退職した今でも全てを書き留める事はできないが、喜多さんとの出会いから書いていきたい。

大阪芸術大学デザイン学科インダストリアルコースの学生であった当時の学生番号はD99。これは、1999年入学のデザイン学科の学生番号だ。喜多さんは、以前から大阪芸術大学でセミナーなどを度々行っておられました。

私が3、4回生の時に、初めてインダストリアルデザインコースの授業を担当される事になり、喜多さんは、教授となられました。その後、学科長をつとめられるなど、長く大学の教授をやられてますが、私は、喜多さんの大阪芸術大学の初めての教え子であろうと自負しています。

世界的に活躍する現役デザイナーの座学や実習の中では、沢山の学びがありました。何よりも刺激的だったのは、学生をデザイン事務所に招いての実習で、実際にデザインの現場を肌で感じられた事でした。

当時、喜多先生の授業では、携帯電話のプロダクトデザインの実習を行っていた記憶があります。その講評をIDKデザイン研究所で、先生自らが生徒ひとりひとりの課題の講評を行なってくれたことは、学生にとっては非常に価値のある課外授業でした。

私は、当時、キャンパスの枠を超えて、喜多先生がアドバイザーをされた2002年の大阪デザイナーウィークのボランティアスタッフを志願して、卒業後になんとかデザイン事務所で働ける就職に繋がらないかと模索しておりました。

イベントの大阪芸術大学の学生ボランティア達の活動は、IDKデザイン研究所の管轄になり、その中で、喜多俊之氏のデザイン事務所のスタッフの仕事を直に目にする機会を得ました。

事務所を見学し、スタッフと親睦を深める中で、これは、私が新卒で入所できたとしても、デザイナーとして働けるレベルでは無いと痛感させられました。当時、喜多さんは、SHARPのAQUOSのプロダクトデザインからカタログまでトータルに手掛けておられたので、やはりそれを支えているシニアデザイナー、アシスタントデザイナー陣も、トップクラスの人達ばかりで、今は、独立されたIDKデザイン研究所出身のデザイナーである、株式会社 大沼デザインスタジオの大沼敦さん、RKDSの小関隆一さんが、在籍しており、当時、学生の私には煌びやかで、憧れのデザイナーたちとお話しできるのは、夢のような時間でした。

と同時に、何か技術や飛び抜けた個性や、確かな経験値が伴わないとデザイン事務所に入所しても、戦力としては通用しないんだな。と冷静に分析することができました。そこで、考えを切り替えて、将来、IDKデザイン研究所で働くために職能を身につけようと考えました。

喜多さんが、当時審査委員長をされていた、IFDA(国際家具デザインフェア旭川)の話題が大学の授業ででた事をきっかけに、旭川家具の存在を知り、旭川の家具メーカーで魅力的な会社のお話しを伺うなかで、株式会社匠工芸をみつけて、翌月には、会社見学のために北海道まで赴き、会社見学や面談、就職のための面接も突破し、内定を得て、旭川に移住する事に繋がった。

最初は、2〜3年で家具づくりの技術を学び、早々に地元である関西に戻って、IDKデザイン研究所に入所する目論みだったが、旭川での仕事と生活が肌に合って、匠工芸在籍8年、途中、大阪と中華人民共和国に単身赴任していた時期を含めて、2021年で、旭川移住歴18年になる。

この、途中に単身赴任していた時期というのが、喜多俊之氏が主宰する、IDKデザイン研究所で勤務していた期間で、結果として2年弱という短い期間であったが、学生時代の目論みどおり、木製家具の設計とデザイナーの下地をつくってから、日本を代表するプロダクトデザイナーの事務所で、即戦力として働くことができたということは、日本だけではなく、世界のデザインの現場をデザイナーとして体感することができ、全てにおいて、デザインを最優先とし、真剣に向き合うことができるきっかけになった。

その実務に関しては、日本を代表する企業や、世界的なメーカーとの商品開発などが多く、個別に語る事はできないのが残念だ。

大阪の天満と高麗橋の2つの拠点があったIDKデザイン研究所と、その後、中国は広東省順徳区の喜多俊之設計工作室に赴任。現地では、シニアデザイナーとしての肩書きも付き、中国スタッフとともに、過ごした期間は、濃厚で充実した日々だった。

その後、旭川にもどり、はれてシロロデザインスタジオとして独立宣言をして今に至るのですが、家具メーカー勤務、デザイン事務所勤務時代に得た経験、出会ってきた業界の大先輩達。私が勝手に師匠と呼ばせて頂いた人達と一緒に手掛けてきたプロジェクトは、あくまで師匠や、会社の看板があってこその「経験」であって、自分自身の「実績」としては、ゼロなのだという事をデザイナーとして独立した初期の2年間は、痛感させられた辛い日々だった。

デザイナーという肩書きが伴わない日々はしばらく続いたが、IDKデザイン研究所に在籍していたという誇りとプライドが支えとなり、デザイナーと宣言し続けれているのは、師匠である喜多俊之氏の存在が大きい。

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