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もうさせない、裸で泥遊び

かれこれ10年以上前に、自然豊かなところで子育てがしたくて、神戸から長野の山奥に引っ越してきました。当時、長男が2歳。次男が生後3ヶ月のことでした。

当時、どろんこ遊びをたくさんさせてあげたくて、子どもが望めばいつも泥遊び。いくらでも土はあるので、いつまでも泥遊びができる環境を嬉しく思っていました。

どろんこ遊びをしていると、たいてい子どもは服を脱ぎたがります。そして、真っ裸になっていることもよくありました。洗濯を考えると、裸で遊んでくれる方が私もラクなので、脱ぎたいときには脱がせたまま遊ばせていました。

そして、長男が小学校に入った頃から、私は息子のために性教育をどうしようかとあれこれ考え始めました。なぜなら、学校ではちゃんと性教育ができない状況にあるなと感じたからです。

私が中学校の性教育で感じるのは、ただ人間の体の機能としての生殖器を扱い、淡々と妊娠の様子を伝えていて、それが、機械の取扱説明書のようでとても冷たく感じ、そして、自分の生殖器がとても遠くに存在しているように見えると思いました。本来は、きっと、性教育って温かい雰囲気の中で、素晴らしく神秘的なことを伝えるものだと思うのですが、実際にはそういう感じではなさそう、というのが、私の印象です。

そこで、国内外の性教育の本を読んでいきました。特に、小学校に入学する前の幼い子どもたちへの性教育ってどのようなものかをふさわしいのかと疑問を持ち、調べていきました。

その結果は、とてもシンプルなものでした。性教育の根底に流れるものは「自分の体は大切。そして他者の体も大切」だということを子どもにしっかりと伝えていくことです。そして、具体的に「からだで水着で隠れるところは、人に見せない触らせない」ということを日常の中で伝えていく。たとえ親であったとしても、子どもの水着で隠れるところを触らなければならないときには、子どもの許可を得てから、大切なものを触らせてもらっているんだと思いながら触れること。特に幼少期にこの2点について意識することで、子どもが小学校や中学校になってからの性教育をスムーズに受けとめていくための土台が築かれるとのことです。

私の子育てを振り返ってみて、子どもたちが幼い頃には全裸で遊ばせていたことを猛烈に反省。まだ裸で人前に出ても恥ずかしいという感情が弱い幼い子どもだからOKというわけではないのです。そして、子どもたちは「カンチョー」遊びが大好きな点も、私は猛烈に反省。「カンチョー」は水着で隠れるところを攻撃するので、本当によくないなと思いました。我が家に居候をする欧米人たちが、日本の子どもたちが「カンチョー」している姿に閉口していた姿を思い出します。

私の三男はまだ幼いので、上の子どもたちの反省から、育て方を変えました。「自分の体は大切。そして他者の体も大切」ということと「水着で隠れるところは、人に見せない触らせない」ということを意識して育てています。

全裸で泥遊びをさせないようにしているし、お風呂では水着で隠れるところは自分で洗うようにさせています。お風呂あがりには水着で隠れる部分は必ず自分で拭いてもらうようにしています。そして、息子が「カンチョー」をしようとしたら、私は真顔で「やめて」と伝えています。

性教育って思春期になる前に始まるのではなく、幼い頃から始めることができます。小さな日常の中で始められます。自分の体が大切。他者の体も大切ということを伝えるのに、幼すぎるということはないのです。



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