星野源 『POP VIRUS』評 〜"POP”が”VIRUS”を抱えながら"Continues"していくために〜 (2018年間ベスト2位)

星野源 - POP VIRUS

個人的に本作への期待値がグッと上がったのは、大ヒット曲「恋」のカップリング「Continues」を聴いた時だ。SAKEROCK時代からずっと好意的に認知はしていて、ソロとしての2作目『エピソード』にグッと惹かれ徐々に思い入れも強まり、前作『Yellow Dancer』のアナログ盤アナウンスに気づくのが遅れオンラインも実店舗も軒並み予約終了になってしまった時には文字通り地団駄を踏む思いだったほどで元々期待値の高いアーティストではあった。それでも「Continues」を聴いた時には何か物凄いネクストステップに踏み込んだぞという感覚を抱いた。

所謂”洋楽”や国内でもインディペンデントなアーティストを追う熱心なリスナーの多い私のTwitterタイムラインにおいて、星野源の次作への期待値がグッと上がったと感じた瞬間は、近年賑やかな日本語ラップからひいてはシティポップリバイバルにまたがるキーパーソン、STUTSを(MV含めて)大胆にフィーチャーし、最後の銅鑼でそれへのオマージュをよりはっきりと表明するThe Beatlesの「A Day In The Life」の如く全く異なるアレンジのパートをパッチワーク的に組み合わせた文字通り”アイデア”の勝利なシングル「アイデア」の全貌が公開された時と感じている。そしてアルバムの発売が正式にアナウンスされ、まさかの山下達郎、そしてFuture Bassの旗手Snail’s Houseという老若の業師を揃えたこと、再びSTUTS従えMVの世界観もヒップホップ的にし際立ってエレクトロ的なシンセもフィーチャーしたタイトル曲「POP VIRUS」の公開でその期待値がピークに達したと見えた。しかし、アルバム発表後は「あれ、こんなはずじゃなかった…」という空気になっていったのが伺えた。

話を再び「Continues」に戻そう。この曲はCD付属のセルフライナーノーツとTakahashi Yoshiakiによるインタビューでも繰り返し本作の出発点で軸になる曲だという事が語られている。「Continues」はしばしば指摘されるようにChance The Rapperの好む派手なゴスペル的コード進行を軸としていて、星野のリスナーとしてのヴォキャブラリーから考えても少なからずの目配せはあるだろう。とはいえあくまでラッパーであるチャンスとは違いトラップ以降のビート感覚の反映があるわけでもないし、「アイデア」のアレンジのように所謂J-POPの典型的な構造と比べてわかりやすく言語化出来る差異があるわけでもない。STUTSやSnail’s Houseに目配せできるアーティストがこのような楽曲を軸になる曲だと考えた事、ここに共鳴出来るかが本作の評価の分水嶺と言っていいだろう。

前述のセルフライナーにおいて星野は、その「Continues」に”細野晴臣さんへの敬意を込めて”と添えている。星野源にとって細野晴臣とは、SAKEROCKの初期から「Pom Pom蒸気」をカバーするなどずっとリスペクトを表明してきた存在であり、細野自身のライヴやレコーディングへの参加も経てソロデビューに至る際自ら歌うことを決めたのは細野に後押しされてのものだったという恩師でもある。公私共に交流があるだけにプライベートを把握していないとわからないメッセージが込められているという可能性は否定できないが、歌詞は別段細野晴臣という個を強く思わせるものでは無い。音楽的にはどうか?軸となる歌メロやコード進行は、キーを落とせば細野が歌っている場面を想像できないほどでは無いにせよ、時代によって変遷している細野のディスコグラフィのどの時期を考えてもいかにも細野晴臣的なスタイルとは言い難い。ステレオの左右に振られたピコピコとしたシンセは音色的にも初期YMO的ではあるが、星野のリスナーとしての含蓄も考えればこの1点をもって細野に捧げたとするとも思えない。ではこの曲のどこに”細野晴臣さんへの敬意”が込められているのか?いちリスナーには窺い知る事は出来ないのか?とはさに非ずで、タイトルが直接的に表明している”継続すること、受け継ぐこと”の象徴が星野にとっての細野晴臣という事ではなかろうか。

これは細野を軽んじるわけではないが、おそらく星野の音楽性が今とそれほど大きく変わらずとも、もしかしたら10代頃のリスナーとしての遍歴やデビュー後の直接的な出会いのタイミング等が僅かに違えばこれは別の人物とも代替可能だったかもしれないと考える。例えばはっぴぃえんどでの細野のパートナー大滝詠一や松本隆ら、YMOでのパートナー坂本龍一や高橋幸宏。あるいは本作に参加している山下達郎、その達郎とSUGAR BABEを組んでいた大貫妙子。はたまた松任谷由実や桑田佳祐だったかもしれないし、筒美京平や宇崎竜童だったかもしれない。とにかく、70年代を軸として考えて、日本のポップスが現在の形を形成するに至ってのキーパーソン達のバトンを繋ぐんだという意識の表明。実の所STUTSやSnail's Houseらの起用よりも、悪く言えば保守的、教科書的、教条主義的でもあるこういう考え方こそがこのアルバムの軸なのだ。

では翻って考えれば、そのような内実は保守的な作品にSTUTSやSnail's Houseといった存在を呼んでいる意味は何なのか。前述した”教条主義的”という側面を強くして偽悪的な書き方をすれば「若手をレコーディングに呼んで一席講釈を打つため」なんて考え方も出来なくも無い。実際極端に取ればそのようにも書ける側面もゼロでは無いと思うし、偽悪的なと書いたがそもそもソロシンガーとしてのキャリアやお茶の間の顔的な今の立ち位置になってのこの数年という点からともすれば若手的な扱いも受ける星野だが、SAKEROCKからのレコーディングキャリアは15年に及ぶという点をもっとリスペクトすればそろそろそういったベテラン的な振る舞いもマニアックなリスナーに許容されて然るべきとも思う。しかし、核の部分は別にあると考える。

先に細野と代替可能かもしれない人物として挙げたひとり、桑田佳祐。ラジオ等での好意的な発言は幾つか見られるが、公になっているエピソードとしての音楽的影響や直接的交流は細野とのそれと比べると遥かに少なく、星野の音楽性形成においてどこまで重要な存在と言えるかは測り難い。しかし、商業的に最も成功した時期であろうYMOのSolid State Survivor期を含めてもフロントマン的、お茶の間の顔的な露出の仕方とは一線を画していた細野と比べ、保守的な”芸能界”にも躊躇なくアプローチしつつ所謂”洋楽”的アプローチやインディペンデントな音楽との橋渡し役を担っているという点において、現在の立ち位置がより近いのはどの時期の細野よりもサザンオールスターズ初期(『KAMAKURA』まで)の桑田佳祐なのではなかろうか。

そんな桑田佳祐の根幹に迫る論評として、ぜひ一読頂きたいのがミュージック・マガジン2005年12月号での相倉久人によるサザンオールスターズ同年作『キラーストリート』評だ。これはアルバム評という体裁を取ってはいるが実の所アルバムの具体的な内容に関する言及は非常に少なく、桑田佳祐という表現者がどのように形成されたかの考察に近い内容なのだが、そこで相倉が重要視しているのが表現者における”照れ”のあり方、そしてその”照れ”と”ナルシシズム”のバランス感覚なのだ。

桑田と星野の”照れ隠し”的偽悪性が最も重なるのは共にラジオという媒体で顕著に「下ネタ」を振りまく点だろう。しかし今、”照れ”ないし”照れ隠し”的表現は危機に立たされている。いや、危機に立たされているとは守るべき表現のようでもあって適切で無いかもしれない。その「下ネタ」というのも基本的にはホモソーシャルなヘテロ男性コミュニティを前提としたものであった事が露呈されてしまっているし、その行き着く先も”照れ隠しの笑い”を自己弁護に醜悪なハラスメントを振りまく松本人志のような掃き溜めでしかない。そもそも”照れ”る事なく直截的に自分を表現出来る事こそがあるべき社会の形だろう。

しかし、桑田以上に影響を公言している植木等なども含め”昭和的”な”照れ”を伴った表現に影響を受けて自己形成された星野源が、一方でフェミニズムやリベラリズムの観点からも称賛されたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主演やその主題歌「恋」に次ぐシングル「Family Song」でジェンダーや上下関係を規定する言葉を一切用いずに家族の形を描き出すなど価値観の多様化のフロントラインにも立ち、そこに少なからずのコンフリクトを感じていただろう事は想像に難くない。ともすればネトウヨや日本会議的な価値観に流れかねないそのコンフリクトに真摯に向き合った結果の”照れ”の流し場所こそがむしろ表面的を先鋭的に装う事だったのではあるまいか。

”ナルシストと照れ屋だ。本来その両者をバランス良く合わせ持つのがベスト(原文ママ)”という前述の相倉論に立って見れば、日本のマスに向けたステージに立つにおいて”ナルシスト”要素と思われがちな洋楽的な表現の導入やインディペンデントなアーティストの起用といった”尖り方”がむしろ”照れ”要素であるという逆転現象が本作において起きている。星野源の”ナルシスト”的要素というか表現者として重要な自己陶酔を伴ってでも寄って立つ場所はむしろ歌謡曲・ヴィンテージソウル・クラシックロックといった70年代の今となっては保守的な音楽のエヴァンジェリスト的側面なのだろう。この逆転の仕方に”日本のポップス”が”日本のポップス”である事を捨てずに現代的な多様化に真摯に向き合う術が見えた気がして、それが私にはたまらなく感動的なのだ。

『POP VIRUS』というタイトルは川勝正幸の著書からの引用らしく、前述のCDブックレットのものを含め幾つかのインタビューでは”Virus”という言葉に”太古からあるもの”、”しぶとく生き続けるもの”といったニュアンスがあると語られているが、病を媒介する存在…文化的なアナロジーを通せば”毒”とも言い換えられよう側面に無自覚では無いはずだ。過去の文化の引用には常に”毒”がつきまとう。その顕著な例がシェイクスピアやワーグナーのユダヤ人蔑視、D.W.グリフィスのアフリカン蔑視等、現代的な観点から見れば許されるべきではない思想を持ち時にそれが作品に反映されてしまいつつも、それぞれの母語の文化圏すら超えて世界中の文化に影響を与えてしまったような存在だ。世紀単位で遡らずとも、第二次大戦後のThe Who、Led Zeppelin、Guns’n’Rosesといった”典型的ロックスターの武勇伝”的エピソードだってもはや美化されるべきものでは無い。現代の視点を反映した新しい文化を作る時、それら過去の存在は無かった事にしてしまうべきなのか?徹底的に批判すべきなのか?そこで”VIRUS”に立ち返ろう。”VIRUS”は時に人を死に至らせる病をもたらすと同時に、それへの抗体を作るために必要不可欠な存在でもある。過去を無視するでも拒絶するでも無批判に称揚するでも無く、自らの内部に抗体として取り込んで新しい形を作っていく。このアルバムはそんな新しい時代にポップスが目指すべき模範例を築けたのではないか。

STUTSを招いたタイトル曲やSnail’s House参加の「サピエンス」のようなコンテンポラリーな楽曲と、筒美京平のJackson 5解釈の系譜に位置する「Get A Feel」や、Marvin Gaye 『Midnight Love』にThe Isley Brothers 『Between The Sheets』等草創期ブラコンが反映された「Nothing」、といったともすれば懐古的でありふれたポップスと言われてしまいそうな楽曲が、溶け合うでもなくただ並び立つ。前述した「アイデア」やフットワークのBPMに二胡を乗せた「恋」はそれぞれの路線を溶け合わせた楽曲とも言えるが、そうして少なくとも1つの楽曲の中でそのようなアプローチを取る術を持っていることはアピールしつつ、アルバム全体にそれを敷衍させようとする意識はおそらくあえて排している。それはJ-POPにありがちな、アルバムに向けての集中的なレコーディングを行う前からリリースされていたシングル群を入れなければならない縛り故と思う向きもあるかもしれないが、文字通りのアニメドラえもん映画主題歌であるヒットシングル『ドラえもん』からの楽曲が全て未収録な事からもシングル曲の収録も含めて星野が全権をクリエイティブにコントロールしている可能性は十分に考えられる。この明確な意図を感じる流れもコンセプトも薄い並びも星野の意図なのだろう。

その構造もポップスの未来へ向けた一つの提示だ。何もラディカルにならねば多様化の時代に生きられない訳では無い。ただそこに在って隣に在るものをただ在ると認めるだけでいい。そうだ、ポップスはこれでいい。

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