『純粋異性批判 女は理性を有するのか?』を読んで【基礎教養部】

今回、私が読んだ本は『純粋異性批判 女は理性を有するのか?』です。

Yujin君が最初に書いていたので、僕も最初に書いておこうと思います。

僕は、女が嫌いです。好きだと言っている場合でも根底には生物の機能として見てでの発言であり、心を許せるといったようなことを思って言ったことは一回もないです。そもそも、心を許せるかとかを考えてしまっている時点で女が嫌いなのはわかるでしょう。

振り返れば、小学校のころの経験が影響していると思います。

ただ、自分でもわかっているのは、そもそも前提として自分自身が女を信用しない姿勢を持っているから、女が嫌いになるということです。信用しようとしない、愛そうとしていない者がなぜ、その対象から信用されるのか、愛されるのか。

そういうことです。

では、いつもどおり本を読みながら思ったことを載せていこうと思います。

「関係」が見えなくなる女たち

一客観的にみてそうでしかないものを男と女が見た時に、なぜ多くの女がそれに反した判断をするのでしょうか。その答えとして、女には「騙されたい」という欲望が体内の奥深くに潜んでいるからだと書かれています。

個人的に思うのですが、良くも悪くも女は騙されるに適応がありすぎます。一番それを感じるのは、ディズニーに関する彼女らの態度です。本当の意味で夢の国なのですが、あそこまで世界観にどっぷりと浸かることができるのはすごいなと思います。僕はどうしてもあのようにはなれません。なぜならそれは「夢の」国だからです。そもそも世界観にどっぷりと浸かることができるということは、その場に安住し、その領域から離れないでその安全圏で満足するということです。つまり、新しい道の場所や経験に挑戦することを避け、冒険をしないことを意味します。すでに知っていること、慣れ親しんでいるものに囲まれることで、心地よい安心感を得る代わりに、自分自身を未知のリスクにさらしたり、新たな発見をすることがむずかしくなっていきます。客観的に見るとは、様々な物事から共通の何かを抽出する必要があるため、様々なものを見なければいけません。その様々なものを見るがそもそも困難であるため、客観的に見ることがそもそも厳しい可能性があるのではないかと思いました。

女を男に変えてみると?

女がよく言うようなセリフの主語を男にして展開したとたん、こんなにも感じるものが違うのかという感想を持てるぐらい衝撃的でした。女を主語にしたら、まああり得るよなと思えたものを男を主語にした瞬間おかしすぎてあり得ないとなったからです。

女が欲しいものはただ一つ

これと決めた男によって死ぬまで愛され保護されること、そして幸福になることであると書いてある。それを追求しすぎると、婚活で売れ残る女のようになっていくのだろうと思った。

女は真実より幸福を求める

だから、ディズニーでどっと浸れるのだろう。夢であるという真実より、おひめさまになれる幸福を求めるのです。個人的にですが、まじめな恋愛には互いの調和が必要だと思っています。盲目な恋はだめであり、無理なく自然に接することができることが大切だと思います。だから、僕は一般的な恋愛のようなものが理解できない。恋愛は友達とするものではない。パートナーとしてずっとそばにいる人間がわがままなままなのは耐えられないだろう。実際、結婚後の生活で、こんな人とは思わなかったといった文句はたくさん聞くが、それは幸福を求める人間と真実を求める人間が一緒になるとき、何か共通となるものを持つ必要が生じ、たいていの場合、真実を求める人間(男)がその願いを聞き入れてしまったからだ。無理なく自然に接するということが最初っから崩壊しているので、こんなことになるんだと思った。

ジェイラボ内に目を向けて思ったこと

「関係」が見えなくなる女たち

で安住の地にずっといて満足し、心地の良い安心感を得る代わりに、新たな発見などを捨てるといった内容を書きました。そこで思ったのですが、今のジェイラボもそのような性質の人が多いとも思えるので、気を付けていきたいなと思いました。





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