試験問題を問うということ(入試改革と、我々はいかに誤ったか)

問題74.文中のセゴビア先生の発言のうち、あなたが正しいと思うのは次のどれか。
(A)「お前らが受けたのは教育じゃない、調教だよ」
(B)「お前らが受けたのは教育じゃない、調教だよ」
(C)「お前らが受けたのは教育じゃない、調教だよ」
(D)「お前らが受けたのは教育じゃない、調教だよ」
(E)「お前らが受けたのは教育じゃない、調教だよ」

(アレハンドロ・ザンブラ「選択問題」[原題 "Multiple Choice"]、メーガン・マクダウェルの英訳版より一部和訳して抜粋)

アメリカのSAT、イギリスのAレベル、中国の高考(ガオカオ)――こうした標準化された統一学力試験(standardized testing)は、多くの先進国の教育システムにおいて象徴的な存在となっている。こうした様々なテストは、個人の知性、いわゆる「学力」を一般に測るものさしとして、普遍的に価値を持つものとして用いられてきた。これらのテストが「教育」というもの全体のイメージを支配的に定義してきたといってもいいだろう。

教育と、絶え間ない「試験地獄」のイメージの結びつきはあまりに強い。「〜せよ」「〜字で書け」のように、試験問題に特徴的な文体を文章に取り入れてみるだけで、内容にほぼ関係なく、その文章にはなんだか疑いの余地がないような一種の権威が感じられる。このような効果を利用して、試験問題の文体を物語の舞台装置としてパロディ化したのが、アレハンドロ・ザンブラ、清水義範、品田遊などの作家らの作品であった。

こうした試験問題にまつわる神話やミームが、より共感しやすく普遍的な「あるあるネタ」として消費されていく一方で、実際に教育産業で生徒に課されていく学力試験の数も際限なく増加の一途をたどっている――多くは、教育制度の成果に説明責任や生産性の概念を徹底する、という理念のもとに。

2001年、米国の生徒のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)の成績が低下したことを受けて、ブッシュ政権は「落ちこぼれ防止教育法」(No Child Left Behind Act、NCLB法とも)を施行したが、その成果は議論を呼ぶものになっている。NCLB法が定めた、試験成績に基づくデータ重視の政策のもとでは、 低学力の生徒が多い学校をいち早く特定して改善するという名目で、連邦政府が各校に実施を義務づける学力調査テストの数が増やされた。これにより、生徒の学業成績や進退に深くかかわることになる競争試験(high-stakes test)型の統一学力テストが数多く実施されるようになった。これらの制度化された試験の多くはピアソン社やカレッジボード社などの企業によって民営化された民間試験であり、生徒や教師に心理的にも経済的にも大きな負担を与えた。なお、OECDが発表している国別統計によれば、2000年から2018年までのアメリカの生徒のPISAの成績推移において、「アメリカの生徒の読解力、数学、科学の平均的な成績は同程度にとどまり、大きな改善や低下は見られなかった」([m]ean performance in reading, mathematics and science in the United States remained about the same in every PISA assessment, with no significant improvement or decline)という。

NCLB法から20年が経った今でも、我々は「試験ありきの『失敗した』教育制度を変革する方法は、より多く、より良い試験を生徒に受けさせる制度を作ることだ」と信じてやまない。つい最近も、文部科学省が日本の大学入試における統一試験制度を改革する案を発表した。英語のコミュニケーション能力や、質問のないところから答えを見つけ出す「思考力」など、グローバル化がさらに進む現代社会に必要な力を、新しいカリキュラムに合わせた新しい試験で生徒に身につけさせようというものだ。

この教育改革の一環として、文部科学省は、全受験生を対象とした共通学力試験である「大学入学共通テスト」(旧センター試験)の変革を試みた。それまでの試験が多肢選択問題のみであったのに対し、新たに設けられる試験では、学習したことを応用する創造的な能力を試すために、記述式の短答問題が一部含まれるようになる、というのが当初の触れ込みであった。しかし、導入が予定されていた1年前である2020年には、記述解答の採点方法について十分な規制やガイドラインがないことが指摘され、試験制度全体への不信感につながったため、この計画は中止された。また、すべての解答を従来の試験と同様に採点するには時間と人手があまりに足りず、「模範解答」と文面上似たような解答しか認めないような単純化された採点方式がとられてしまうのではないか、という懸念も指摘されていた。

設問(ケ)
傍線部(F)「車内に響く」とあるが、この小説の舞台は電車である。この舞台をなぜ著者は選んだか。その心情を、自由に想像して記述せよ。
<解答番号9>
解答
<ケ> [正解] 普段電車の中で出会う人々とは、特にコミュニケーションを取らないので、何を考えているかは分からず、見た目から判断するしかない。他者とのコミュニケーションを描いた本作品において、テーマと舞台を一致させることで、その正解のなさをより読者に伝えようとする意図があると考えられる。 (20/20点)
あなたがコピーアンドペーストで導いた答えは完璧な正解である。ちなみに、この小説の著者・品田遊は舞台の設定した理由は「特にない」とインタビューなどで答えている。

(品田遊、error403、株式会社コルクによるウェブページ作品「現代文<100点満点>「採点」(品田遊『止まりだしたら走らない』<リトルモア2015年刊行>より)」より、一部改変して抜粋。この作品は品田遊による短編集「止まりだしたら走らない」の試し読み・宣伝ページであり、同短編集の中の一作品を題材として、Webフォーム上で「受験」できるオンライン試験のようなインタラクティブな形態をとったセルフパロディ作品である)

これらの政策の根底には、「悪しき試験制度をより良い、より新しい試験で代替すれば、教育はより良いものになる」という議論が共通しているといえるだろう。しかしこうした議論は、試験の良し悪し、古い新しいというものを判断することが、食べ物の良し悪しや、新鮮か、腐っているかを判断するほど単純なことではない、ということを見落としている。一般に、試験問題の質というものを評価するのはやっかいな作業だ。その試験が設定している出題カリキュラムや、受験者に課せられた利害関係など、試験が置かれているさまざまな文脈を加味して考えねばならず、出題された問題だけを見て何かを判断することはできないからだ。正確な評価のためには、教科自体に対する深い理解や、試験制度が持つそうした背景情報に対する知識が求められる。

大学入学共通テスト、高校生のための学びの基礎診断、全国学力・学習状況調査、GTEC、ケンブリッジ英検、中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)――毎年のように新しい「学力試験」が、生徒から「新しい能力」をあぶり出すために新設されている現状を鑑みれば、これらの試験を適切に評価したうえで生徒の正当な学力評価に応用するだけの時間や資源はいくらあっても足りないだろう。加えて、これらの試験の多くは独立行政法人や民間企業によって作成され、そうした試験は実際に出題された問題、問題の作成過程、解答の採点プロセス――などの重要な情報を公開していないことも少なくない。

試験問題を文学的なパロディに昇華した作品群が示すように、我々は試験問題というものを疑ったり、その真価を問うことをめったにしない。仮にそうすることがあっても、「旧態依然的で悪しき試験問題が生徒の自由な精神を損ねてきた」といった風に、お粗末に恐怖を煽るような調子の言説がほとんどだ。聞こえてくるのはいつも同じ、陳腐で散文的な感想でしかない。

教育のためのツールとして見たとき、試験問題と解答は、手紙のようなものだ。一方的で伝達の遅いコミュニケーション方法だし、受け手に正しい考えが伝えられたかどうかは、何度もやりとりをし、長い時間をかけなければわからない。そうしたことを踏まえて、我々にはこれらの試験問題を慎重に「読み」、評価すること、そして、試験を行った後、教室の外で何が起こるかに目を向けていくことが求められている。重要なのは、試験を終えた生徒のために、結果を踏まえて何をするかではないだろうか。

なにかを書くということの目的が、単に「書く」ということだけではありえないように、生徒を試験することの目的が、単に試験を行うことだけであってはならない。生徒のためではなく試験のためだけに行われる試験を重ねていけば、生徒は自分に問われた空虚な問題文からこうした無知や傲慢な態度を読み取って学び、同様に空虚で、見かけだけ権威的な文章、思想を再生産していくかもしれないのだ――清水義範が試験問題にまつわるパスティーシュで風刺的に描いてみせたように。

彼は恩を受けた月坂に、報告と礼を兼ねた手紙を出した。 
その手紙は、国語の問題ができるようになっても、国語力とは何の関係もない、ということをよく物語っていた。いやむしろ、ああいう問題で点が取れるようになると国語力が低下するということを物語っていたかもしれない。
こんな手紙である。
人生における喜びの中のひとつに目標達成の喜びがあるということを知ったこと。それが先生に教えられたことでしょうか。それとも、合格して嬉しい。または、先生はこの世にひとつの才能を送り出すという仕事をした。次は、おかげで合格できましたがご恩は忘れません。今のぼくの気持に近いものをこの四つから選ぶとすればどれが最も近いでしょうか。[中略]
問一 ところで先生って独身なんですか。
問二 今度遊びに行ってもいいですか。
問三 ぼくはよい生徒でしたか。次の中から最も近いものひとつを選べ。
①大変よい生徒だった。
②覚えの悪い生徒だった。
③性格に問題のある生徒だった。
④どうでもよい生徒だった。
⑤幻妙で客体化された生徒だった。

(清水義範「国語入試問題必勝法」より、一部抜粋)

脚注

この文章を書くに至った背景・私が何者かなどを一部ですが脚注として書いておきます。

この文章は、2021年度に私が所属していた大学において、春学期に開講された英語の授業「英語1」(サブタイトル:Know thyself: Exploring why you write)の課題として提出したエッセイ(原文は英語)をもとに、日本語に「再翻訳」したものです。

この授業のシラバスには以下のように書かれています。(強調は筆者)

Why am I (you, not me) writing this (whatever it is that you are writing)? Good question. And I think it's a question always worth asking before writing. In my view, knowing who you are and what your goals are gives you a clearer sense of how you should write. It gives your writing purpose and direction. In this course, we will read and discuss why some well-known writers write. After this period of reflection, you will be asked to give a presentation and write an essay on a topic you feel you must write about.

初めての新制度下での大学入試を終え、実際に施行された制度、そして施行されることのなかった制度について、適切な評価は行われているのでしょうか。教育学にも政治にも明るくない一学部生としては、単なる当事者としての薄い意見しか俎上に載せることはできませんが、同時に、教育、特に初等・中等教育の問題点は(少子化の向かい風も相まって)ますます当事者以外には論じられにくい争点となってきています。ただでさえ教育にまつわる議論は玉石混交ですが、まず絶対数が増えていかなければ、単なる陳腐な感想を越えたレベルの議論は深まっていかないと感じました。

これを踏まえて、私は最終レポートに「書かねばならないと感じたテーマ」として、教育にまつわる話題を選び提出しました。アカデミックライティングとしても、単なるブログ記事としても、粗末な部類の文章ではありますが、なにか議論のきっかけとなれれば幸いです。

最後に、レポートの原本(に近いもの)を掲載して、結びとさせていただきます。


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