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視線注がれぬ人

レモンから連想する物語は、様々な論争を生んだ。しかし、その論争の中にその人の話題はなかった。

まさか私にこんな大役が回ってくるとは。
部下の披露宴で、私はスピーチを頼まれたのだ。
勿論、二つ返事で回答した。
彼は何事も卒なくこなしてしまう理想の部下だ。ときに説教を浴びせたこともあったが、彼は何も言わず私についてきてくれた。
彼からは何も欠点が見えない。
だからこそ大役に私を選んでくれたことが嬉しかった。
ただ欠点がないということは、少しばかりではあるが、私にジワジワと恐怖を与えていた。

披露宴の日が近づくにつれ、その恐怖は肥大していった。彼の華やかな場で失敗など許されない。
できる部下、尊敬できる人達の前。
スピーチの内容を外したら一生の恥である。

恐怖は着々と私の体を蝕んでいった。思考することを放棄しないと体がもたない。

彼への言葉は、徐々に自己のものではないものに変わっていった。


当日、披露宴は全く滞りなく進んだ。
彼のことだ。きっとこの日のために、入念な打ち合わせやリハーサルを重ねたのだろう。
分刻みの狂いもなく、私の名前は呼ばれた。

私は徐に用紙を開き、マイクに口を近づけた。
「ただいま紹介に預かりました、新郎の上司にあたります——」
数十人が私に視線を一気に受ける。彼等が主役という場ではあるけれども、瞬間的には私が主役だ。視線の数に欲求が満たされていく快感があった。
前日までの恐怖が嘘のようであった。
私は気持ちよく口を動かした。
「人生には三つの坂があります」
用紙ごしに数十人の視線を感じる。
「一つめは上り坂。上り坂というのは——」
スピーカーごしに数十人が耳を傾ける。
「二つめは下り坂。下り坂というのは——」
「そして、三つめが……まさか」
ここが決まり手である。私は得意気に周りを見渡した。

しかし、そこには用紙ごしに想像していた世界はなかった。

ウェルカムドリンクをじっと見つめる者、
席次表をぼんやり眺める者、
ただ体だけをこちらに向けている者。

何十人もいるはずの会場で、誰も私に注目などしていなかった。

体温が一気に下がった。
用紙にはまだ長々と文字が続いていたが、見失った。
沈黙が不自然に長引くせいで、先程までなかった視線が一気に向かってきた。
集まる視線はナイフのようだった。

どうにか言葉を見つけなければならない。
早くこの場を立ち去りたい。
しかし、どうしても言葉が浮かばない。

焦るほどナイフは体にめり込んでいく。

助けを求めるように彼を見ようと試みた。
このときに、私はスピーチ中に彼を一度も見てなかったことに気がついた。

彼を目を見るのが怖かった。彼はできる部下である。私を蔑むような目をしていたら、もう立ち直れない。

恐怖に怯えながら彼の目をみた。

意外にも彼は普通の目をしていた。

安堵した私はようやく口から言葉がでた。
「おめでとう」
これしか出てこなかった。
でもこの一言は紛れもなく私から出た言葉だ。


私は想定していたより少ない拍手を浴びながらマイクから遠ざかった。

先日、その人は不慮の事故で亡くなった。
葬式には、それなりの人が来て、それなりの人が涙を流した。
その人は棺桶ごしに数十人の視線を感じただろうか。



あやしもさんの作品の素晴らしさに乗っかりました。


以下、企画に久々に参加させていただきました。


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