ルーチンワークと惰性

仕事をこなすという表現がある。
この「こなす」は本来「やりこなす」という意味だと思う。

やりこなすの意味は、ものごとをうまく処理する。

よって仕事をやりこなす。と表現した場合、仕事を完遂した。やり遂げた。という理解ができる。

しかし、仕事をこなす。という言葉にはどうもやっつけ仕事というイメージがつきまとう。

こなす(熟す)を辞書で調べてみると、

与えられた仕事などをうまく処理する。

とあった。

この「処理」という表現になんとなく引っかかるのかもしれない。

できれば仕事に対しては誠心誠意、心を尽くした対応でクライアントの要望に応えて満足してもらいたい。

その一連の行為を「処理」として片付けて良いのだろうか。また、自身が顧客として仕事を依頼した際に、もしも「処理しておきました」と言われたら、どんな気持ちになるだろう。

生きていくために仕事をしている人が大半だ。もちろん本質の部分では「自分のため」に仕事をしている。

とは言えども、仕事そのものを自分目線で考えてはいないだろうか。

あなたがその仕事をしなくても、世の中は回る。
それでは、なぜ仕事をしているのだろうか。

結局は人の役に立つため。社会に貢献するため。
これに尽きると思う。

習慣と惰性

人は習慣を身につけるまで3ヶ月を要するという文献を見た。

なかには21日など諸説あるが、とにかくある行為を習慣として身につけるには、それなりの期間が必要だということ。

この習慣を身に付ける経緯で気をつけなければならないことは、慣れによる惰性であろう。

慣れてくると気が緩み、いつしか惰性に変わる。
作業の意味を考えずにルーチンとして、それこそこなす。

そう、こなしているのだ。まさに処理。

思考停止というワードも一時トレンドになったが、仕事における作業とはすべて意味があるため「なぜ、こんなことをやる必要があるのだろう」と感じることがあれば、それは改善のチャンスやタイミングなのであろう。

取り組み始めた頃に最適だった対応が、現在も通用するとは限らない。

新人はマニュアルに基づいて日々業務を行うものだが、いつまでもマニュアル片手になぞらえた対応で満足していると、現場も自身も成長は見込めない。

常に疑問を持ち、いかに働きやすい環境にすべく工夫するのか。

それを自らの意思で行動できる人は強い。責任権限がないということを盾にして、その場にしがみついているともしかすると職責を失うことにもつながりかねない。

毎日、同じような日々を過ごしているからこそ、当たり前のように仕事をこなすのではなく、常に新しいことや改善点を探して、最適解を求めることが思考停止することなく考える力を養うのではないか。

と、現場へ向かう電車の中で考えるのであった。

日々、さほど変わらない日常で題材を決めて文章を書くこの行為が、未来に何らかの形でつながることを信じて、今日も駄文を書く。


それでは、今回はここまで。

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