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【自分は、自分の大切な人】ということ。

私が元夫との事で何が一番こたえたか。

それは不倫に始まる様々な負のものが、最も信頼していたパートナーから与えられる...ということに極まる気がします。

嫉妬や怒りもありました。

でも結局そんなものよりも、大切に思っていた人が自分に一番の苦痛をもたらす、ということ。

年が離れており異国での生活で頼りきっていた面もあり、全面的に受け入れて認めてくれていると信じていました。

裏切り自体よりも、そこから引き起こされる事柄によって、自分自身や積み上げた過去が、全て否定されていく気がしました。
そして、どんどん自分が “取るに足らない人間” という気持ちになっていきました。

その思考はなかなか消えていかず、
自分で、自分を大切な人にする
それがどれくらい難しい事であるかを実感しました。

誰かに大切にしてもらうことを、人は当たり前のように望みます。もし自分を想って大切にしてくれる人がいたら、その力を借りたら良いと思います。

しかし一方的に受ける取ってばかりいると、結局「他者を利用した」という後味の苦いものに、二人の関係が変容してしまうことがあります。

受け取って与えて、そうやって互いに大切に出来るのなら「慈しみ合う」素晴らしい関係になれるのではないか。

それでも一番長く自分と付き合うのは自分自身です。
死が迎えに来て、この世を離れる迄いっしょ。
ひとり取り残される哀しみもありません。

この世を離れたら自分という自我とも離れられるので、その後のことは考える必要もないことだと思います。

「“自分”を失うことが恐ろしい」と、彼は以前私に言いました。

私はそれは解放のようで、自我という器に囚われていた私の、もうそれは“私”とは言えないものが、解き放たれてまた宇宙と一体になるのは赦しであると思っています。
薄らとですが、自我が芽生える前の感覚を憶えています。それは心地よくて優しい世界でした。

「世界に自分を見つけて以降」の方が私は寂しくて、いつも何かを探している感覚が離れません。

生まれる前の世界に戻って行けるなら、死は決して怖いものではない気がしています。
肉体を持つ限り、体という入れ物はこの世にどうやっても残りたくってしがみつくもので、それは生き物としての当然の本能です。

死に向かうまでに、苦しみもがき、肉体はあらゆる物質を出していきます。
それは一般的に、醜く見えたり汚いと感じるものたちです。

あまりにも日常がキレイになってしまって我々は忘れていますが、生き物は臭いものです。
石鹸と水で洗い流さなければ、汗やよだれや尿や便、そのほかの体液であっという間に臭い出します。それがある意味自然な姿なんだと、看護師という仕事から学びました。


それらを汚いと捉えるか、人間という生物の真実の一面と捉えるのか。
外側の身体がそうである様に、内面もまた同じなのかもしれません。
臭く醜い自分を、受け入れて赦し、それでも、
いいえ、それゆえに愛おしく大切だ...と思えたら。

他者を赦すのは難しい...そしてそれよりもっと難しいのは、自分を赦すことです。
自分自身の受容と慈愛は、自己を赦しつつ育まれていくものかもしれません。


長くなるので、このお話はまた次回に譲りたいと思います。

「自分は、自分の大切な人」
この本で出逢った言葉です


道で行き合う者同士
慈しむのも、憎むのも、理解するのも、傷つけるのも
何かの約束なのだろうか
可能性ばかり孕んだ只の偶然なのか

答えを知りたくて、何かに出逢いたくて
人は皆、それぞれの旅を続けている

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