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大叔母を看取った話





身近な人の死を機会に自己整理の為にまとめました。 


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大叔母と約20年越しに再開したのが
去年の4月のこの頃で、
大叔母とは色々と事情があって疎遠になっていたのだけれど、
またこうして会うことになったのは大叔母が末期癌であることが発覚し
余命が告げられたという事が大きな理由だった。




大叔母とは小さい頃に一緒にディズニーランドに行った記憶しかなく、
20年振りに大叔母に会いに、一時的に検査入院していた病院に向かった。
病室をノックして恐る恐る入った瞬間
真っ黄色の髪の毛に指先に真っ赤なネイルをした大叔母が
DSの麻雀のゲームをするのをやめてこっちを見るなり
20年越しに会う私を直ぐに私だと分かってくれて
祖母とそっくりな顔で(大叔母=祖母の妹)
凄く嬉しそうに、でも少し驚いたような笑顔を見てせくれたのが今でも忘れられない。

この時、何故20年越しの私の顔が分かったのか疑問だったが
後に私の母が実は大叔母とは連絡を続けていて
わたしの成人式の写真も大叔母の元にこっそり送っていたからだと言うことが分かったのだけれど。
(それが大叔母の家の目立つところに飾られていたので発覚した)
大叔母は久しぶりに会った私を孫のように扱い、接してくれた。



この時既に大叔母は自分が死ぬことを受け入れていた。
しかも、大叔母は自分が「死ぬまでやりたいこと」を明確にしていた。
「〇〇に行きたい」「〇〇が食べたい」というものから始まり
葬儀場の場所、葬儀で流して欲しい曲まで決めていたり、
棺桶に入れてほしいお気に入りの煙草までカートンで用意していたり
自分が亡くなった後の納骨先のお寺まで
既に自分の中で決まっていて、その全てを実行出来るよう段取りしていたし、実際実行していた。


夏には毎年行っている秋田の温泉に旅行に行きたい、と言っていた。
リウマチを患っていたので湯治目的で毎年通っているお気に入りの宿があるとのことだった。
今年は一緒に行こう、と誘われたことと、
さすがに癌を患う大叔母を1人では行かせられないので
私は大叔母とその夏は秋田に旅行に出かけた。
秋田では数日間過ごした。湯治をする為に山道を歩いたけれど
70歳を越えてもなお、こんなにもアクティブなものかとかなり驚いた。
「ここに私と来るのは最初で最後になるだろうけど
ここは本当にいい場所だから、いつかまた自分でお金を貯めて
毎日生きてくのに疲れたら、ここに息抜きに来るといいよ」と言われても
本当にこの人がいなくなってしまうなんて信じられなかった。


今思えば、やりたいことをやりきるまでなんとか生きられるような
必要最低限な延命治療しかしていなかった大叔母は
本当は身体中痛いところが沢山あったのだろうけど
私の前で殆ど痛いとか辛いとか一言も言わなかった。


夏の旅行以降も変わらず、どうせ死ぬのだから今更辞めないと言っていて煙草を吸っていたし
ヘビースモーカーな大叔母の煙草の本数が減ることは一向に無かった。なんなら検査入院してたときも病室を抜け出して外で隠れて吸っていたくらいだった。
車が大好きだったから運転するのも身体が動かなくなるギリギリまで譲らなかった。
(さすがに危ないので病状が悪化してからは、家族総出でなんとか説得して鍵ごと没収したけれど)

宝石商の仕事を辞め、家で過ごすことが増えたからと
ある日大叔母の家に行くとミシンが置いてあって、
やることが無いから何か趣味を持ちたいと思ったようで
通販で買ったらしきミシンに苦戦苦闘していて
私が来ると嬉しそうにそのミシンを見せてくれた。
裁縫を今までやってこなかったのよね〜、と言いながらも大叔母が頑張って縫ってるの見守り
ミシンの調子が悪くなると直すのが私の役目だった。
その度「こんな器用なことが出来るのは本当にすごいね」と、わたしが学生時代から服の道に進んだことを何度もすごく褒めてくれた。


何度か抗がん剤治療の為に一時的に入院したりもしたけれど
9月になって病状が進行し、身体が完全に痛みで耐えられなくなるギリギリまで
大叔母は自宅で生活することに拘っていた。
最後まで自分らしく時間を使って好きなことをし、
弱いところを他人に見せること無く
死ぬまで自分に向き合うことを辞めることはなかった。

10月に入って、自宅でひとりで過ごすことが困難になり
入院することになったけれど、それでも私が病室に行くといつでも笑顔で迎え入れてくれた。私には弱音を吐くことはなかった。

日に日に黄疸が目立ち皮膚の色は黄色くなっていたけれど、それ以外は何も変わらない、いつものかっこいい大叔母だった。そんな姿を見ていると、なんだかんだまた体調が安定して家で過ごせるようになるのかも、なんて何度か考えたりもした。


10月半ばごろ、その日わたしが病院に行こうと思っていたとき
付き添っていた家族から連絡が入った。
電話の内容は大叔母が今朝「鎮静」を選んだということだった。
私は鎮静という言葉を初めてその時知った。
鎮静は睡眠薬を使って深い眠りに入り、痛みを取り除きながら最期を迎えるということを聞いた。
その後急いで病室に駆けつけたときにはもう、
大叔母は深い眠りに落ちていて大声で呼びかけても目を開けることは無くて
その日は、朝から先生に
「もうやりたいことはやり切った。会いたい人には会えた。人生に何も後悔は無い。もうこれ以上苦しみながら情けなく生きたくない。このまま眠らせて欲しい」と言ったと聞いた。

まだ何も恩返しできてないし、お別れもしてないじゃん、と思ったし
何で最期まで自分で勝手に決めちゃうの、って思ったけど
春に会った頃から余命に抗って自分らしく過ごせずに
生に縋り情けなく生きるのは嫌だとずっと言っていたから
決められた余命までにやりたいことをやり切れたからこそ出せた答えだったのかもしれないとも思った。
また、それと同時に私では到底分かり得ない痛みにずっと耐え続けていたのだということも知った。
結局その後1週間程で大叔母は目を覚ますことなく亡くなった。

棺桶にはいった大叔母はとっても安らかな顔で眠っていた。
お葬式で流れていた曲は 越路吹雪さんの愛の讃歌だった。
あとで聞いた話によると、大叔母にはかつて恋人がいて
若い頃にその人と死別してからはずっとひとりで生きてきた。
実際大叔母は亡くなるまで家庭を持ったことは無かった。

生前、自分が死んだら棺桶にこっそり入れて欲しいと言われていたものの中には
すっかり色褪せてボロボロだったけどその恋人と思われる人の写真がこっそり忍ばせてあった。
聴いたこと無かったこの曲を亡くなってから初めて聴いて
この曲はかつての恋人に向けた曲なんだと悟った。
自分が亡くなるその瞬間まで、きっとこの人のことを愛していたのだと思う。


大叔母と再開してから約半年間での出来事だったけれど
過ごした時間が濃いものでありすぎて
覚悟はしながら過ごしたつもりではあったけれど
大叔母が亡くなってから暫くずっと心に何か穴が空いたようで
ずっと深く考えることを辞めて過ごしてきた。

今、コロナの流行により自宅で過ごす時間が増えて
ゆっくり何かを考えることができる時間も増えたことで
やっと少し頭の中で整理して向き合えるようになった気がやっとして、
今やっとこうして何かに書き残してみようと思えた。
わたしの今まで出会った人の中で
ここまで死というものに向き合い、苦しみながらも
自分らしく生きることに妥協することがなく
最期までこんなにも潔くかっこよかった人はいなかった。
多分この先こんな人には、もう出会えないのではないかとも思う。



久しぶりに再会した当初気になって
なんで赤色のネイルが好きなの?って聞いた時に赤は女を1番美しくする色だから、と言っていた。

どこまで身体が痛くても苦しくても
最期まで自分の爪に赤のネイルを施すことを辞めずに
自分の持つ美しい女性像を守り続けていた。

きっと、今のわたしだったら死を目前にしてそんなこと出来ない。
ある日突然死んでしまっても後悔しない生き方が出来てるかと言われたら答えられない。
あの半年間がどれだけ凄いことだったのか、
大叔母が亡くなってまた半年経って、ひとりになって
やっと落ち着いて頭の中を一度空っぽにして
亡くなってしまったことを受け入れて理解できた。

人間いつ死ぬか、なんて分からないし
明日突然何かが起こって気付かぬ間に死んでいるかもしれない。
死との向き合い方は人それぞれだと思うけれど
私も自分の最期は、少しでも後悔なくやり切って迎えたいと思った。
既に後悔なんて沢山してきたし
回り道も沢山してるし、間違ったことも沢山したし
何がしたいが明確になってないこともあるけれど
これからの残りの人生は少しでも後悔しないような人生を生きられたなら、

わたしも、いつか迎える最後の日に胸を張って死ぬ事が出来る気がする。


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