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「日本人は」という大きい主語を、なるべく使わないことで得られたもの。

 今、「日本人」という言葉は、以前よりも複雑な意味合いを持っているし、使うときに慎重さが必要になってきている。

 少し昔は、日本という国土に住んでいる人は、単一民族を前提として(それ自体が不正確な認識だけど)、もっと気楽に使っていた。

「日本人」という大きい主語

 今考えると、無知な部分も多く、恥ずかしくもあるけれど、たとえば、「日本人は、〇〇しがちだけど」という枕詞のように使い、その「〇〇」は、ほぼネガティブな行為や癖や習慣などを入れて、それについて困ったもんだ、といった態度をあからさまでなくても表明する。

 そして、それに続く言葉は、はっきりとは言わないけれど、「私は、その一般的な“日本人”とは違って、そういう行動は取らない」といった認識を、そこで会話をしている人たちと、共有する、ということをしていたことがある。

 今、改めて書くと、恥ずかしい。

 だけど、当時の自分は、その方が頭がいいと思っていたようだ。やっぱり、かなりみっともない。

 ただ、ある時、ふと思った。

 「これを話している自分は、日本人ではないのか」

「日本人」という主語への疑問

 今は、「普通の日本人」という表現は、あまりにもいろいろな意味合いを帯びてしまうので、使うのは難しくなっているが、自分は、一人の平凡な日本国民で、日本人のはずなのに、本当に存在するか分からない「〇〇しがちな日本人」という言い方をして、それと自分は違う、という差別化を無意識におこなっていることに気がついた。

 その時に、微妙な優越感みたいなものが得られたとしても、それ以上、反省もしなければ、向上もしないのではないか、といったことを、なんだか急に思う瞬間があった。

 それは、そんな会話をしている人たちを責めたりするわけでもなく、自分の個人的な思いだった。他の人たちが、本当に似たような感覚なのかは、きちんと確かめたわけでもなかったし。

 ただ、それから「日本人は」といった表現や言葉を意識して、なるべく使わないようになった。

心の中のブレーキ

 それを、人に勧めるわけでもないのだけど、自分だけで秘かに心がけるようになってから、気がついたら、かなりの時間がたった。

 最初の頃は、つい使おうとしてしまうのを、心の中でブレーキをかけていて、それは、ちょっと苦しいことだった。

 その間に、「日本人」という主語の意味合いに、様々な変化があった。

 今は、自然に、「日本人は」といった言い方をあまりしなくなったし、それは、「出羽神」という「欧米では」という表現と、どこか通じることでもあると思うようになった。

得られたこと

 「日本人は」という、大きな主語を、なるべく使わないようになって得られたのは、ささやかな意識の変化だった。

 日本人がしがちなこと。行いそうなこと。それもどちらかと言えばネガティブなこと。

 それに対して、本当にそんな傾向があるのかどうか。調査や統計のような客観的なことも気にするようになったし、何しろ、そんな話題になった時に、自分はどうなのだろう?といったことを、少しは考えられるようになった。

 そうなると、そうしたネガティブな傾向が、自分にも、当てはまることも多く、だから、自分のこととして、考えなくてはいけないことが多増えた。

 さまざまなことに関して、すぐに「日本人は」と言っていた頃と比べたら、少しは考える力がついたように思う。

 それが、「日本人」という大きな主義をなるべく使わなくなって得た、ささやかなことだと思う。


 だから、例えば、最近読んで、かなり感心もしてその通りと思った文章の中の「冷たい日本社会」という表現を、自分はどうなのだろう、と考えられるようにはなった。

 自分も「日本人」で、冷静に考えれば、確かに冷たいところはある。だから、より気をつけて、するべきことがある時はしよう、といったことも思えた。

使いにくくなった言葉

 このことと関係があるのかもしれないが、使いにくくなった言葉がある。

「日本(人)に生まれてよかった」

 これは、何か美味しいものを食べた時、何かポジティブな経験をした時、絶景をみた時に発せられがちな、素朴な感動の言葉、という見方もできるし、そう思っている人は多いだろうから、この表現に異議を唱えたいわけではない。

 だけど、個人的には、使いにくくなり、あまり使わなくなった。

「日本に生まれてよかった」という表現

 この言葉には、「お国自慢」という素朴な感情だけではなく、場合によっては、やはり「特別な日本」や「優れた日本人」というような意味合いも含まれてしまっているように思うからだ。

 昔、自分で使っていた「日本人はさ」という言葉の裏にあったのは、自分は「日本人」だけど、「特別な日本人」だから、そういう愚かな行為に対して批判もできる、というポジションに自分を置いてしまったように思う。

 そのことで、実は、それ以上、考えなくて済んでいた。

「日本人に生まれてよかった」も、そこに「特別性」を設定している場合もあると思う。

 その言葉を使っている人を非難する気もないし、異議を唱えたいわけでもないけれど、自分自身が、「特別性」の考えがありそうな場所に、気持ちよく身を任せることができなくなった。

 その前に、立ち止まって、考える癖がついたので、使いにくくなっているように感じる。(それを屈折した考えと見る人もいて当然だとも思う)。

 ただ、もしかしたら、「日本に生まれてよかった」と思えることが、特に、この20年は、あまりなかった、という個人的な事情も大きいのかもしれない。


(もっと厳密に「日本人」のことを考えたい方には、お勧めできる書籍だと思います↓)。




(他にもいろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。



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