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読書感想 『君は永遠にそいつらより若い』 津村記久子 「手を差し伸べる人」

 著者の、他の作品を最初に読んだ。「この世にたやすい仕事はない」(リンクあり)
「バランスのいい大人」という印象が残る作品だった。
 ただ、登場人物には、それぞれの個別で複雑な背景があり、存在に説得力があった。

 最近、他の作品が映画化されるという話を聞いた。
 以前から、一度は読みたいと思っていたので、ミーハーなきっかけであっても、やっぱり読んでみようと、改めて思った。

「君は永遠にそいつらより若い」 津村記久子

 タイトルには、不穏さが潜んでいると感じるけれど、読み始めると、基本的にはゆったりとした時間が広がっている。

 主人公は大学4年生。
 入学時から、バイトをして資金を稼ぎ、勉強の対策をしたおかげで、自分の地元の公務員試験にも受かり、あとは卒論を提出するだけの、ぽっかりと空いたような時間が流れている。それは、ゆっくりとしているけれど、どこか重たく、同時に1日の区切りのようなものがあいまいで、いつの間にか夜中になり、何かあると、すぐに朝がやってきたりする。

 アルバイトなどの予定はあるものの、すでに講義は少なく、何かをしなくては、といったことも減り、そうした中で、人間関係だけは、学生生活の中で作り上げてきた関係が変化したり、さらには、少しずつ、偶然が重なって、新しい出会いがあり、そうした動きの波が重なり合い、突然、激しく動き出す。

 そして、急に非日常がむき出しになる。だけど、それは、いつも存在していて、見ようとしなかったり、出会わずにすんでいることで、それも、近づこうとしなければ、顔も合わせないような出来事だったり人だったりもするが、そこにうっかり足を踏み入れてしまうのに必要な要素の一つが、若さであることを、若くない読者は思い知らされるような気持ちになる。

 ただ、この学生時代の、区切りのない、もったりとした時間の流れや、変化の不規則さのようなものは、なつかしく、そして、この作品は、時間の流れの変わり方の描写が、それと意識させないような巧みさがあるから、唐突さをそれほど感じない。

 だから、すでに古臭い表現かもしれないが、ハードボイルドな気配がある。

傷つけられた人

 登場人物は、本当は誰でもそうなのかもしれないが、傷つけられた過去を持っている。
 それは、人によっては、過去になっているとは思えず、まだ「現在」のままのように、心の中にある。
 
 よく使われる例えがある。
 心が傷つくことを、きれいな紙がくしゃくしゃになってしまい、だから、その後、回復して、紙のしわがなくなったとしても、以前と同じように完全にまっさらにはならない。だから、人を傷つけてはいけない、と言われるような例えだ。

 それと並行するように、言われる言葉もある。
 傷ついた人の方が、傷ついた分だけ、優しくなれる。
 こちらの方が、ある時代まで、一種の格言のように使われていたが、ここのところの使用頻度は少なくなっている印象がある。それは、本当に傷つけられた人にとって、その出来事が、気持ちの中では、まだ「現在」のままの場合には、まるで優しくなることを強制されているように感じる場合も、あるからだと思う。

 それでも、この小説の登場人物たちは、傷つけられたことが、その出来事によって、心に(場合によっては体にも傷跡が残っていたとしても、そのことが、かえって、周囲の人たちへの気持ちの動きに、より敏感に働くように、作用しているようにも感じる。

 例えば、付き合っている女性の心身ともに傷ついている状況を、自分のことのように、自己陶酔気味に語る知人の男性(河北)へ対して、遠回りに異議をぶつけたことへの報復として、レストランでの食事中に、トラブルを起こされた。その際、登場人物の一人は、こうした細やかな気持ちの動きをしている。

 両サイドの席の客の動きが止まった。店員が見ていたらかわいそうだな、と咄嗟に思ったけれども、さいわい誰も気付かなかったようだ。あるいは見ていて見なかったふりをしていただけか。
 語るための痛みじゃないか、それも他人の。
 そう言い返してやりたかった。だけどわたしが不注意で無神経であったことも事実なので、黙ってバッグを開けて消費者金融のティッシュで濡れたところを拭いた。河北は、唇を震わせて、深い鼻呼吸を何度も繰り返していた。

 また、その登場人物の過去の傷つけられた経験を聞いた時、もう一人の重要人物は、こんな反応をしている。

「そのガキは今どこにおるんかな」イノギさんは気だるげに口を開き、うつむいた。「ユニセフに怒られてもいいから、どうにかできんもんかな。原付で軽く轢くとか」
「もうおとなになってるやろから原付ではやっつけられんかも」
「ガキをガキのままやりたいな」イノギさんはゆっくりと顔をあげて、わたしの背中越しのなにかをぼんやりと眺めた。わたしを見ているようで見ていない眼差しとも言えた。「そこにおれんかったことが、悔しいわ」 

 ただ、この作品の登場人物のホリガイや、イノギさんに対して、傷つけられた経験があったから優しくなった、などいう、分かりやすくシンプルすぎて、ある意味では傲慢な見方をするのは、失礼だとは思う。それでも、この2人の強い優しさは、読み進めていくと、不思議なくらい突然、駆動するように感じる。

手を差し伸べる人

 自分の経験に引き寄せすぎているのかもしれないが、家族の介護をして、そこで知り合った人たちのことを知るようになってから、世の中には「手を差し伸べる人」がいると、思うようになった。

 あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある。

 18世紀の哲学者であるJ.J.ルソーが、社会を構成させるために重要な要素として、「あわれみ」をあげている。今だと、あわれみ、という表現はネガティブに伝わる可能性があるので、「困っている人がいたら、考えるより先に、手を差し伸べる人」といった意味合いに、個人的には解釈している。

 それは、その人の過去の経験の反映も、もちろんあるのだと思うし、それが、その行動を強化する可能性もあるけれど、それよりも、その人自身の生まれながらに持っている「資質」が、「手を差し伸べさせる」のではないか、と思うようになった。

   そして、その「資質」は、日常的には、それほど目立つ能力でもないし、その上で、その「発動」は、本人にさえ、微妙に違和感を抱かさせてしまうようなものでもあるようだ。

  わたしが児童福祉に関わろうと思ったのは、勿論外部からの情報を加味して心を痛めたからなのだけど、その直接の引き金になった事象については、誰にも話していなかった。それはあまりにもつたなく、衝動的なものだったからだ。(中略)ある部分においては、わたしが自分の進路をまっとうする為の初期衝動であるということにおいては、正当な理由だと思うけれど、それをうまく他の人に説明する自信はまだなかった。(中略)わたしの心持ちは、明らかに標準の大人として不適切だと思われたし、どこか妄想じみてもいた。

 だけど、ホリガイは、人が困っているときに、さらには他の人の「手を差し伸べたい」という意志にも呼応して、「考えるより先に、手を差し伸べる人」であることを証明するような行動を見せる。

 それは、もしかすると、組織の中で働く時には、その枠からはみ出すようなことがあるのかもしれないけれど、個人的には、こういう人と一緒に働きたいと思った。

お勧めしたい人

 この作品が、最初に単行本として出版されたのが2005年。それから16年経って映画化されるのは、その内容が今でも通用するからだと思う。それは、この16年という時間で、社会状況が、向上どころか、厳しい方向へ降下していて、今でも(もしかしたら今の方が)十分にリアルだと感じられるから、映像化されたはずだ。


 それは、一面では、明らかに幸福な状況とは言えない。それでも、今もコロナ禍という、さらに厳しい状態が続く中でも、なんとか少しでも希望を見出したいと真剣に考えている人ほど、年齢などの条件を問わず、お勧めできる作品だと思います。




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