「もう一度、原点に戻ること」………『新型コロナは、まだ分からないし、終わりも見えない』。
テレビやレコーダーを買う時に、同じ時刻に放送されている2番組を同時に録画できるものもあります、という電気屋さんの勧めに対して、そこまでしないと思います、ということを言って、断わった。
一番組だけを録画できる機械を買ったのは、予算的にも、少しでも安く、という気持ちがあったからだけど、購入してしばらく経って、微妙な後悔が出てきた。
見たい番組は、意外と同じような時間帯に、同時にやっていることが多い。
そのために、最終回なのに、全部を録画できなかった「又吉直樹のヘウレーカ! 最終回シリーズ」(2020年3月24日放送)をやっと見た。
「科学」は絶対ではないこと
最終回。テーマは「科学」だ。歴史をひもとくと「花粉」とはどんな役割をもっているのか?、新たに見つかった病原菌の正体は?など数々の謎が解明されるまでも、された後も研究者は奮闘を続けてきた。植物学者の塚谷裕一さんは科学は「絶対」ではないこと、1つずつ解明されることの積み重ねという。放送3年間で100人を超す科学者に会い、言葉を交わしてきた又吉が、今感じる「なぜ」の力と「科学者」の魅力を語りつくす。
その中で、新型コロナへの対応についても、話題が及んでいた。
(以下は、番組の内容の引用を元にしていますが、個人的にまとめているため詳細は違っている可能性があります)。
「コロナに関しても、専門家の言葉も2転3転した」。
アメリカ国立アレルギー・感染研究所
アンソニー・ファウチ所長が、常にこう断り続けた。
「この発言内容は、今後、変わることがある」
それは、新型コロナウイルスという存在が人類にとっては「未知の存在」で、分からないからスタートしているから、分かったと思えたことが、その後に違っていた、ということがあるのは当然で、問題は、その過程も隠さず、そうやって確実な事実を積み上げていく、ということだった。
分からないものを認めた状態。無理にこうだと決めたら、違った場合に対処できない。みんなが科学的になってきた。事実が曖昧にしか理解できないのを、当事者として分かってきている。
植物学者であり、感染症の専門家ではないけれど、塚谷裕一氏が、こんなようなことを話した。
確かに、一時期では、「わかる」を焦るのは無意味だと理解してきたような空気があったけれど、ワクチン接種の段階になってきてから、これを忘れがちになっている、と思った。
ワクチン接種が順調に進んだからといって、おそらくそれだけで大丈夫にはならない。すでに、変異株が出現していて、そのことに関しては「まだ分からないことが多い」のは事実だから、これからも「分からないことを認めた状態」をキープし続けるしかない。
そうした行為は、気持ちに負荷がかかるけれど、その大事なことを忘れがちになっているのを、「ヘウレーカ!」の最終回を、2ヶ月遅れで見たことで、改めて気がついた。
「終わりが見えない」こと
とても個人的なことなのだけど、2018年の年末に、突然、19年間の介護生活が終わった。その後、1年間は心身の消耗を回復するために、なるべく休養をして、やっと体調が戻ってきたと思ってきた頃に、コロナ禍になった。
それは、他の人と同様に、未知の経験であり、戸惑いも多く、怖さもずっと続いているが、コロナ禍の中で過ごしているうちに、既視感が出てきた。それは、介護をしていて、最も辛いことの一つ「いつ終わるか分からない」という感覚が蘇ってきたことだった。
その介護に関する、介護者にとっては「常識」である感覚は、思った以上に広く知られていないことが、介護中は意外だったし、不思議でもあったが、その「いつ終わるか分からない」介護環境に、知らないうちに適応せざるを得なかった。
その適応は、あとになって考えると、「今の瞬間だけに集中する」ことだった。それは、「副作用」として、「先のことが考えられなくなる」ということもあったけれど、それよりも辛いのは、そんな風な時間感覚で生きているのが「自分だけではないか」と思ってしまうような孤立感だったと思う。
介護の時には、同じような環境にいる人たちがいてくれたおかげで、とても助けられたが、コロナ禍になって感じたのは、「いつ終わるか分からない」環境になっている、ということだった。だから、ほぼ無意識のうちに、終わったはずの介護環境にいる時の感覚を、少し取り戻していた。
希望の「副作用」
「いつ終わるのか分からない不安」にいることは、人間にとっては、とても辛い状況だと言われている。だから、この時までに終わる、という言葉を信じたくなる。
だけど、今のように「ワクチン接種でコロナ禍終了」みたいにも聞こえるような「希望的」な言説が出てくると、それが薄い恐怖につながるのは、そうならなかった時の「副作用」を想像してしまうからだ。
希望を持つことは、必要な時はあるけれど、それが裏切られた時に一気に絶望になることもある。それならば、今までと同様に「いつ終わるか分からない」という前提の感覚を取り戻し、これから、さらに長く続くかもしれないコロナ禍に備えないと、危ないのではないか、と個人的には思っている。
これが杞憂だったり、考えすぎだったりした方が、とても嬉しいのだけど、実際は分からない。だから、「いつ終わるか分からない」という気持ちの構えを持続させた方が、安全なような気がしている。
介護の時に、その環境に適応するために、今しか考えない、という気持ちの状態を気がついたら保っていたけれど、それは、先のことが考えられなくなることよりも、孤立感の方が辛い部分もあった。
今回のコロナ禍では、みんなが「いつ終わるか分からない不安」の中にいる。それは辛いことでもあるのだけど、自分だけ、という孤立感は少ない。だから、個人的には「いつ終わるか分からない」前提であり原点を続けられている。
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