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「死ぬなら一人で死ね」と言っても言わなくても、どのみち人は一人では死ねない件

 2019年5月28日、川崎市・登戸駅近くで、登校中の小学生たちを背後から刃物で襲撃した男がいた。小学生女子1名と保護者1名が亡くなり、男自身も自分の首を切って死んだ。まことに救いのない事件である。
 この事件を受けて、「死ぬなら一人で死ね」という声がネットに溢れた。今は、「いや、そんなことを言うべきではない」「その考え方は誤っている」という反論も溢れている最中だ。
 大丈夫。一人で死ねる人はいない。「一人で死ね」と言われて一人で死んでも、誰かを巻き添えにして死んでも、いずれにしても、人は一人では死ねない。

「孤立死」「孤独死」の死者は、一人で死んでいるのか?

 現在の私は、貧困と生活保護というテーマを守備範囲の一つとしている。すると、「孤立死」「孤独死」という問題が、必ずついて回る。

 ここ数年、生活保護世帯の概ね80%が単身世帯だ。そして生活保護世帯の半数以上が、すでに高齢者世帯となっている。大家さんたちが生活保護世帯の入居を渋る理由のうち大きなものに、失踪リスクと死亡リスクがある。高齢かつ単身となると、いずれのリスクも低くない。
 なお、「ギャンブル等による家賃の取りはぐれ」は、ないわけではないのだが、福祉事務所から大家さんに直接家賃を支払う「代理納付」という制度がある。家賃までギャンブル等で使い込んでしまう人の場合、家賃を払えないと住居を失うわけだから、本人も代理納付を了承するだろう(本人の了承が条件)。ギャンブルに使えるお金が減るのは嬉しくないかもしれないが、住居喪失は、たぶん、もっと嬉しくないはずだ。

 本人にとっての失踪は、しばしば、対人関係の問題を解決するための唯一の方法だ。話し合いや小さな実力行使で日常的な対人関係の問題を解決することは、社会的孤立の中で生きてきた人々にとっては、ほぼ不可能な無理難題だ。

 孤立死は、失踪する元気がない人、元気があっても不慮の病気か何かに見舞われた人、住まいの外に助けを求める余力もなくなった人の、「自らの人生が終わる」という形での問題の終了とも言える。通り魔殺人などで、誰かを巻き添えにして死者を増やして自分も死んだわけではない。
 では、その人は、本当に「一人で死んだ」と言えるのだろうか?

 死者には何も出来ない。自分の死後の遺体処理もできない。自分の肉体を表舞台から去らせるためには、多くの人々や機関の力を借りることになる。事故物件サイト「大島てる」や「特殊清掃」という用語を思い起こすまでもない。身寄りがなければ役所が遺体を処理するのだが、どのような名目で、何の費用によって行うのか。生活保護の8つのメニューは、1つだけ使うことも可能だ。遺体の火葬などの処理には、生活保護の「葬祭扶助」が使える。それでは、「本人が死んでから葬祭扶助を適用する」という取扱いはアリかナシか? この問題は、ここ数年、ときおり生活保護界隈で議論になる。

 死ぬ瞬間を一人で迎えたとしても、誰も巻き込まないわけにはいかない。誰も来ない樹海の奥だろうが、誰も発見しそうにない寂しい海辺だろうが、少なくとも生態系に何らかの影響は与えている。

 どこでどういう死に方をしても、他の人間との関係、他の生物との食べたり食べられたりという関係から自由になることはできない。

「一人で死ね」は、言っても言わなくても同じこと

 事実として、人は一人では死ねない。
 その人が孤独のうちに死んでも、他の人間や他の生物との関わりは終わらない。肉体が分解されて、いわゆる「自然に還る」という状態になったら、原子や分子として自然環境の中で循環することになる。それは、人間を含む他の生物と関係するということだ。

 死にたい人に「一人で死ね」と言うことは可能だ。誰も巻き添えにしないという意味でなら、その人は「一人で死ぬ」ことが可能だ。しかし、実質的に「一人で死ぬ」ことはありえない。

 「死ぬなら一人で死ね」は、言っても言わなくても同じこと。だって誰も、「一人で死ぬ」ことは出来ないのだから。

自分の「デス・ノート」を書くのは自由

 人間やっていたら、ときにドロドロした感情、グログロした衝動を抱えることはあるだろう。憎いあんちくしょうに対して、「死んでほしい」「殺したい」「生まれてきたことを後悔するくらい痛めつけたい」などと思ったことのない人間は、いても稀なのではないだろうか。

 あるいは痴漢。若く美しい女性を見て、どれほどイヤらしい妄想や願望を抱いても、頭の中にとどまっている限りは問題になりようがない。頭の中にとどまっていなくても、相手が紙やフィギュアなら問題になりようがない。

 しかし、相手が生身の人間となったら、全く異なる問題だ。あなたの願望を、相手が歓迎するとは限らない。「殺したい」という願望に「喜んで!」と応じる相手は、心中の場面を除いて考えにくい。相手には、まず意向を尋ねられる権利がある。断る権利がある。自分を破壊するような相手の願望を受け入れない権利がある。いきなりの殺人は、これらすべての権利を踏みにじる。だから、社会が受け入れないことになっている。

 「デスノート」を書くのは、その人の自由だ。書いたら確実に相手が死ぬというのであり、「書いた」「死んだ」の関係がハッキリしているのであれば話は別だが、実際には、そんなデスノートは存在しないのだから。

新しい禁句を作っていいのか?

 それでは、「○△□◇×!」と主張することは、どうだろうか?

 少なくとも、殺人と同じ意味で受け入れられない行為ではないはずだ。聞いた相手に、「○△□◇×ではない!」「○△□◇×という言葉を聞くのはイヤだ」と主張する権利が実質的に保障されている限り。そういう主張を聞いたら、「○△□◇×!」の主も考え直すかもしれない。新しい考え方、新しい行動の可能性を開くことができるから、言論の自由は大切なのだ。
 なおヘイトスピーチは、この限りではない。主張そのものによって、人を深く傷つけ、取り返しのつかない結果に追い込む可能性が高いから、問題視され、違法とされている。

 私がどうにも抵抗を感じるのは、「○△□◇×と言わないでほしい」という良識に訴える”お願い”、あるいは「○△□◇×は言うべきではない」という規範を作ろうとするかのような主張だ。
 具体的には、今回の事件に関する「『死ぬなら一人で死ね』と言わないでほしい」「『死ぬなら一人で死ね』と言うべきではない」といった言説だ。理由には、一つひとつ説得力がある。

 しかし、「死ぬなら一人で死ね」という主張を、なんとなく日本社会の禁句にしていいのだろうか? 口にしてもならない主張という扱いにしてしまっていいのだろうか? 「死ね」と言っているわけではなく、「死ぬなら」という条件がついているのに?

「死ぬなら一人で死ね」について、もっと積極的に語ろう

 「死ぬなら一人で死ね」の真意は、多くの場合、
「自分や自分の大切な人々、直接は知らないけれど大切に思える人々には、通り魔殺人の犠牲者になってほしくない」
「自分が日常であると信じている場が、望ましくない非日常の舞台になってほしくない」
といったことだろう。それは、当たり前の願望だと思う。私もそう願う。
 では、その当たり前の願望を実現させるには、どうすればいいのだろうか?

 今回の事件では、凶器となったのは料理用の包丁だった。包丁を店舗で販売しなければよいのだろうか? 「そんなバカな」と誰もが笑うだろう。でも、秋葉原事件の凶器がバタフライナイフだったことから、バタフライナイフの販売規制となったという前例なら既にある。
 すべての人が、装甲車ならぬ装甲人となって街を歩き、刃物による被害を受けない状態になればよいのだろうか? 刃物による被害は防げるかもしれないが、これから夏になる。熱中症リスクは、通り魔リスクよりも、はるかに多大だろう。
 凶器となりうる、ありとあらゆるモノを規制することは難しそうだ。被害者になる可能性のある人が、完全な自衛をしつづけることも難しそうだ。
 それでは、死にたくて死ぬにあたって一人で死にたくない人を、AIでもなんでも使って早期発見し、どこかに隔離して閉じ込めておけばよいのだろうか? 

早期発見・早期対処という、実は役に立たない選択肢

 「自傷他害のおそれがある人」を、とりあえず、”ふつうに生きている”と自認する人々の社会から遠ざけておくことは、たいへん魅力的な発想として、広く受け入れられてきた。
 そういう人々が少数派であるという前提が成り立つのなら、もしかすると帳尻は合うのかもしれない。
 被害者となる可能性がある人、つまりすべての人間に完全な自衛を求めることは、人数が多すぎる上、想定すべきリスクが多すぎる。実際には不可能だ。しかし、加害者となる可能性がある少数を監視したり閉じ込めたりすることは、比較的容易にできる。なにしろ少数なのだから、多数派の支配とコントロールに従わされるしかない。数と力では勝ち目がない。
 もしも、「誤って監視して閉じ込めておりました」ということが後々発覚しても、あくまでも少数派の一部だ。形式的な謝罪と微々たる賠償くらいで済む。少なくとも、それを世間が許す。

 実際には、少数といえども「加害者となる可能性が高い人(自傷他害のおそれがある人)」を判別して監視したり閉じ込めたりすることを認めてしまうと、監視したり閉じ込めたりする側にとって魅力的すぎる選択肢であるゆえに、対象はとめどなく拡大する。判断基準も、どんどんボヤけていく。
 たとえば今回の川崎市の事件では、包丁を振り回した男は、近所の植木の領空侵犯に怒っていたという。では、「植木の領空侵犯に怒る人」「領空侵犯してきた隣家の植木の枝を、勝手に切ったり折ったりした人」を、同じような事件を起こす可能性がある人とみなしてよいのだろうか? 相当の無理があるはずだ。
 その男は、幼少のころから「キレやすかった」という報道もある。どういう「キレる」だったのかは、本人が死んでしまったので分からない。もしかすると、我慢強すぎるゆえに、これ以上の我慢はできないポイントで「キレた」ように見えたのかもしれない。そこまで我慢しなくてよいのだということを学習し、早目に小さくキレることを学習する機会があれば、大きな問題には発展しないだろう。あるいは、身を守るためにブチ切れはするけれども、それで身を守れる状況になったら(恐れられて近寄られないということでも)、目的を果たしたので静かになっていたのかもしれない。やや空気を読めない傾向がある”瞬間湯沸かし器”なら、取り返しのつかないことさえ起こさなければ、特段の問題はなく生涯を終えられることが多いのではないだろうか。
 「キレる」という現象一つを取っても、背景や変化の可能性はさまざまだ。

 場合によっては、もう少し確度高く、「○○という特性を持っている人が、△△という刺激を受けると、□□という行動に走る可能性が◇%である」と言えるのかもしれない。しかし、あくまでも「可能性」でしかない。たとえ「99.9%」であっても。人が必ず死ぬからといって、生きている間に「必ず死ぬんだから、今死んでもいいでしょう?」と言えるわけはない。
「可能性」によって、誰かから何かを奪って良いわけはない。いったんそれを認めたら、とめどなく拡大する。次に奪われるのは、「自分にそんなことがあるわけはない」と思っている誰かかもしれない。これは「可能性」の話ではなく、刑法やその周辺で目立たず進んでいる残念すぎる現実だ。

まとめ:今回の川崎市の事件から何かを考えるのなら

 人は一人では死ねない。「一人で死ね」と言っても言わなくても。
 大切なことだからこそ、禁句にすまい。口にすれば、文章として表現してみれば、反論も異論もある。そのプロセスが、大切なことを本当に大切にできる社会を作る。
 ヘイトスピーチは禁句扱いで吉。しかし、何がどういうふうに禁句であることに値するのかは、法で禁じられる前に、もっともっと考えて語り合っていいはずだ。
 どんな非道なことも、脳内にとどまっている間は許される。書いたからといって何が起こるわけでもない「私のデスノート」に書くことも許される。SNSなど他人の目にふれるところに書くなら、他人の反論や異論を受ける覚悟は必要だが、でも書くことは基本的には自由だ。あまりにもあんまりなら、SNS運営企業や世の中や法のお仕置きを受ける(今、そこは不完全すぎるかもしれない)。だけど、脳内や「私のデスノート」、SNSやブログ、それから実行の間には、大きなギャップがある。実行と他の何かのギャップを広げることこそ、追求すべきではないだろうか。
「危ないものは入手できないようにしましょう」という対処は、場合によっては有効。銃による犯罪は、ほぼ完璧なガンコントロールが実現している日本では、あまり考えなくてよい。でも、万能薬ではない。実質的に不可能な場合もある。
「危なそうな人を遠ざけ、閉じ込め、あるいは見張っていましょう」という対処、「おそれ」「確率」に基づく事前の対処には、実のところ有効性がほとんどない。それどころか、拡大適用の「おそれ」が、現在もう既に危険すぎる。
 この事件を政治利用して、さらに拡大適用が行われないように、注意を怠らないようにしたいものだ。「実のところは意味がない、しょうもない、効果もない対策に、理不尽にも殺された自分が利用されてしまう」という成り行きこそ、亡くなった方々への最大の冒涜だろう。

 大切な子どもであり親であり家族である人々を奪われたり傷つけられたりした方々、学校や地域の日常を奪われて不安にさらされた方々の思いは、推測のしようもない。
 最も望ましい成り行きは、あの事件が起こらなかったことであるはずだ。しかし、取り返しのつかないことが起こってしまった以上、起こらなかった現実は取り返しようがない。「あの事件が起こらなかったこと」は、決して叶わない。

 だからこそ、一見、効果がありそうで魅力的な”なんちゃって解決”に走らない心がけが必要だ。
 今のところ、自分や身近な人々が生命を奪われるような事件に巻き込まれた経験はない者として、私は、その状態が生涯にわたって続くことを望む。すべての人が、そのような生涯を送れることを望む。しかし、その状態は、簡単に実現できるものではない。安易な実現方法に走ってしまうと、さらに実現は遠ざかってしまいそうだ。
「とりあえず、早期発見だの早期対処だのは、意味ないと思いますよ」と繰り返して、本記事を結ぶ。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。