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とある情報セキュリティセミナーに泣きながら参加した件

 2020年8月某日。
 私は、とある情報セキュリティセミナーのワークショップに参加していた。泣きながら。泣きながらでも参加できるのは、オンラインの強みだ。

 私は今でもときどき、ICT技術の最低限の習得やスキルアップを続けている。今は、ほんっとに最低限の最小限に絞らざるを得ないけど。
 5歳からハンダゴテを握り、18歳からプログラミングでお金を稼ぎ、「断続的にプログラミング歴40年」と言えなくはない私にとって、エンジニアモードの時間をなくすことは身体に悪い。
 この時も、セキュリティに関する若干のスキルアップのため、ワークショップに参加していた。

参加者の身の安全に関する当然の配慮

 セキュリティに限らず、イマドキの技術は「コマンドやプログラムやOSの、あれをこうして」といったところにとどまらない。人間や社会や政治を理解していないと無理。そんなわけで、そのワークショップのお題はズバリ、「ネット上のプロパガンダ対策」だった。しかも某国の民主化運動とその弾圧が題材。誰もが知ってる最近の、というか現在進行中のホットすぎる題材。

 そして参加者はグループに分かれ、「弾圧する国家の立場で、民主化運動家たちに対するプロパガンダ工作を行う」方法を検討した。
 民主化運動側に立たない理由は、「その国の意向を汲んで」「スポンサーの意向を汲んで」といったことではない。
 ワークショップのファシリテーターは、理由を次のように説明した。

「皆さんがその国に行った時、その国の法律に基づいて逮捕されるようなことが万が一にもないように、ここでは全員、国家の立場として行います」

 当たり前と言えば、当たり前の配慮だ。
 どこの誰が参加しているかわからない。
 そこでのやりとりが、どこにどういうふうに漏らされるか分からない。
 情報セキュリティの最先端を学ぶためのワークショップが、将来、参加者の誰かが忘れたころに逮捕される原因になるのでは困る。「それでも良いという方だけ参加してください」という条件を設けるわけにはいかない。少し考えれば分かることだが、そんな条件を設けても意味がない。

政治的に無色透明だったり中立であったりすればよいのか?

 では、もう少し当たり障りのない題材を選べばよいのだろうか? 残念ながら、そうではない。 
 情報セキュリティとプロパガンダを題材にする以上、実のところ、何を選んでも同程度の当たり障りはある。

 万全の注意を払いながら、あまりにもホットすぎて政治的すぎるこの問題を取り上げて、しかし、他のどのテーマを選んだ場合とも大差ない安全を確保しながらワークショップを進行させたファシリテーターに、私は心から敬意を表したい。
 しかし私は、参加しながら泣いてしまったのだ。オンラインでよかった。そして理由は、その国の政権、または民主化運動への思いではない。そこに、技術者にとっての「あたりまえ」があったからだ。

イデオロギーは技術を縛れない

 技術は、モラルやイデオロギーで縛ろうとして縛れるものではない。技術自体に自律性があり、技術者集団や専門家集団独特の動きがありうるからだ。そこを資本や政治が縛れるかというと、実のところは微妙。技術の自律性に資本や政治が絡んだときの動きは、予測がつくようでつきにくい。資本や政治力が、超絶的に強大な「一強」である場合を含めて。

 だから「プロパガンダ」という技術の話をするときに、社会運動や政治のあり方について、最初に「これが正しいとする」という前提を置く必要はない。むろん、「この前提のもとに◯◯をする」ということはありうる。けれども、「これが正しいという前提を置く」ということで検討を進めるのは、「大日本帝国は絶対勝つ」という前提のもとに戦略戦術を検討した旧日本軍と同じなのだ、技術者的には。

誰にも生存権がある。技術者たちにもジャーナリストたちにも

 技術者や技術に関わる個人にとっての最大の正義は、今日も明日も来年も10年後も、自分自身が「まあまあだ」と思える暮らしと仕事があることだろう。何をもって「まあまあだ」と考えるかは、人それぞれであるとしても、最低条件は「我が身や大切な人々の生命身体生活が、一定の安全と安心のもとにあること」だろう。

 私は「元技術者」であり、現在は報道に携わっている。もちろん、職務の上で危険を冒すことはある。しかしそれは、「安全や安心を守る方法を知った上で、敢えて」。そうするにあたっては、「ここで、このことを報じる人がいないと、この許されない出来事が知られないままになる」といった相当の理由が必要だ。それがない人を、報道の同業者や同業団体が守る筋合いはない。もちろん報道においても、むやみやたらと危険を冒す必要はないし、そうすべきではない。ましてや、責任を持てない誰かが、当人にそれを期待すべきではない。
 今、このくだりを書きながら、「なぜ、私はこんな、当たり前以前のことを書かなくてはならないのか」と、涙している。

「私は正しい」と「あなたが正しいかもしれない」の共存

 いずれにしても、各個人の価値観の部分は、技術とともに押し付けられるべきではない。これが、現時点では一般的な技術の考え方。その個人やその価値観が消えても、技術や成果物は残るから。
 この考え方が共有されていることは、たとえば原発推進派と原発反対派が議論する上での最低限の前提でもある。仮説とその検証を中心としている科学研究の方法論でもある。
「自分は現時点では、この根拠に従って、これが正しいと主張する」
ということは、
「同じ根拠を理解し、違う背景と違う根拠のプラスアルファを持つ人は、異なる見解を持つかもしれない」
ということと両立する。

 ともあれ私は、そのセキュリティセミナーの時、自分にとっての当たり前が「当たり前」である世界にいた。
 あの世に追い出されることなく、そこにいられた。
 今もこれからも、そこに居たいと思う限り、居られるだろう。
 政治的に正しい何かを持った誰かがいて、それに基づかないものが許されない世界もあるけれど、それは世界の全部じゃない。
 「価値ある研究は正しいイデオロギーから」といった、自然科学畑の人間にとっては耐え難い主張を飲み込まなくてはならない世界もあるけれど、私はその世界にいなくていい。
 私はそのことを実感し、そのことの有り難さに身体を震わせ、パソコンの前で泣いた。

障害者は「生きるために障害者運動家に」というけれど

 障害者の世界では、しばしば「障害者になると、生きるために障害者運動家にならなくてはならない」と言われる。
 2005年に障害を持った私も、生きるために障害者運動に関わることとなった。数多くの人々からの助けがあって、2020年現在の今の私がいる。そのことについての感謝は、今後も揺るがないだろう。

 いわゆる「新左翼」系の年長の練達の運動家たちからも、さまざまな助けを受けた。「◯年◯月、運動家Aさんとの出会いがなかったら、その後の私はない」といったクリティカルな出来事は数え切れない。
 その運動家たちは、私に助けの手を差し出しただけではない。その数十年前から、実質ある達成の数々を重ねてきた。背景は往々にして、「時代年代のめぐり合わせで、同じことをする人が日本には他に誰もいなかった」ということである。誰も注目せず、誰も価値を認めないけれど、自分たちに必要だからコツコツと取り組んできたということだ。それを「なかったこと」にするなんて、ありえない。

 とはいえ、報道や研究をしている立場上、彼ら彼女らが「達成」としているものを、私が100%の鵜呑みにすることはない。時代背景や事実として確認できることがらによって、常に検証や再評価を続けている。現在進行中の出来事は、リアルタイムに。
 検証や再評価は、彼ら彼女らの思想信条が何であるのかとは可能な限り切り離す。「その人だから」「その人たちの思想信条が正しいから」という理由で「達成(または失敗)に意義がある」という評価をすることは、自然科学に根を持つ私には出来ない。それでも、2020年9月現在の彼ら彼女らの達成への認識と敬意は、今後にわたり、私の中から100%消えてしまうことはないだろう。

私は、「私ではないもの」になれないまま生きていきたい

 私は今も、自分が生きて暮らすために、障害者としての権利主張や権利拡大の営みをやめないわけにはいかない。「権利の主張ばかりでは」と言う人々もいるが、権利を主張しつづけなければ、限りなく縮小させられていくばかりの現実がある。そのことは、おそらく今後も変わらない。そういう意味では、私はセオリー通りに「障害者は、障害者運動家にならなくては生きていけない」のである。

 とはいえ、私が私でなくなるような「イデオロギー」を受け入れることはできない。その結果として障害者としての私が生きていけなくなるのなら、しかたない。私が生きていくことをやめるしかないだろう。この5年か10年ほど、そんなふうに思いつめていた。誰にも相談できなかった。誰にどう相談すればよいのか、見当もつかなかった。

 結局、10年以上にわたる彼ら彼女らとの接触や付き合いとの中で、私が私でなくなる「イデオロギー」は、結局は1片も受け入れられなかった。
 ある時、「もう接するのが無理」と感じ、距離をおいた。それは私自身の生存の危機に直結した。具体的には書かないが、今も余燼がくすぶっている。今後、その余燼が大きく燃え上がることもあるかもしれない。そのことへの恐怖はある。虐待親から逃げてきた子ども、DV配偶者から逃げてきた人に似ているかもしれない。
 障害者になったら、障害者であるゆえのハンデや制約があり、それを本人や周囲がどう捉えるかに関わる政治があり、異議申し立ての可能性があり、そのことの社会的意義がある。それはわかる。でも、それは新左翼的イデオロギーでなくてはならないのか? もしそうであるとすれば、あまりにも理不尽だと思う。その理不尽さへの怒りもある。

 今後しばらく、私は泣きながら、自分が自分でいられる世界にいる時間を増やしていくことだろう。
 願わくば、それが私の「生きる」ことにつながる道であるように。

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