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ウクライナについて無理はやめよう、先は長い。

 2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻して、そろそろ2週間。
 残虐な話が人一倍苦手な私は、気づかないうちに体調を崩していた。

野菜が減らない

 私は、野菜と豆が大好物。厚労省は「1日350g」が望ましいとしているけれど、下手すると1食でそのくらい食べてしまう。
 ところが、2月に入ったころからキッチンの野菜の減りが遅くなっていた。その時は、「寒いしウツっぽいし料理めんどくさいし」ということだろうと思っていた。
 ウクライナ情勢は、2021年冬に入るころ、アフガニスタンと入れ替わるように世界の関心を集めはじめており、2022年に入るとさらに緊迫していた。我が家では、2匹の猫ともども、緊張が高まって侵攻に至るプロセスを毎日のように見てきたことになる。我が家の日課の一つは、2猫と私の3名全員で東京新聞を読み(猫たちには私が要約読み聞かせ)、BBC世界1分間ニュース(英語)を見ることだ。

食欲がない

 2月中旬になると、目に見えて食欲が激減した。米も減らない。小麦粉も減らない。カロリー不足でフラフラしてきたので、お菓子でなんとかカロリーだけは確保して体重の激減を防いでいた。そんな食生活が続いたら健康を害するだろうけど、そんなに長期化はしないだろうと。

お通じ悪化

 2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始した。
 私の体調の最大の課題は、お通じの悪化だった。繊維質もカロリーも不足しているわけだから、お通じは悪化するに決まっているわけで。

ジャンクフードと甘いものが食べたい

 2月が終わるころ、やたらと甘いものとジャンクフードだけが食べたくなった。私は胆嚢を切除してしまったので脂肪がほとんど消化できない。ポテトチップスのようなものは、ほぼそのまま排出される。だから、揚げ物はむしろ体重増加を抑制するのに使えるというおトクな体質なのだけど、塩分の摂りすぎはまずい。もちろん、炭水化物でカロリー摂取過剰になれば、普通に体重が増える。

お通じ、さらに悪化(たぶん脱水)

 同時期、お通じがさらに悪化した。ポテトチップスをはじめとするスナック類で繊維質はそれなりに摂取しているはずなのだけど、ガチガチに固まって出口渋滞を起こしてしまう。
 これは、ごく軽い脱水症状だったと思われる。私は精神的なストレスを受けると、すぐ軽い脱水症状を起こす。ストレスの原因には、思い当たる節がありすぎた。ウクライナ情勢だ。

立ち直れ、食生活 

 問題のありすぎる食生活が2週間ほど続いていたにもかかわらず、血圧その他には影響は現れていなかった。体重もほとんど変化なし。
 3月に入ると、食生活を立て直す努力を少しは払えるようになった。甘いものが食べたくなったらドライフルーツや蒸しサツマイモ。ジャンクフードが食べたくなったらナッツ。ドライフルーツもイモもナッツも過剰摂取しようと思えばできるけど、お菓子やスナック菓子に比べるとやりにくい。「お値段が高いから」ということもあるけれど、カロリーや塩分や調味料の摂取という面では効率が悪い。同時に微量栄養素や繊維質が摂れてしまう。食べすぎ防止に注意を払わなくても、自動的にリミッターがかかる。1週間連続して食べ過ぎることは難しい。
 そうこうするうちに、お通じも正常化してきた。
 この調子で、無理なく食生活を立ち直らせていこうと思っている。

猫が人間よりも賢く見える

 前述のとおり、我が家の日課の一つは、全員で東京新聞を読み(猫たちには私が要約読み聞かせ)、BBC世界1分間ニュースを見ることだ。
 私は結果として、5歳と4歳の猫たちに嘘をついてしまった。灯油価格高騰のため灯油ファンヒーターもエアコンもケチケチ使わねばならないことを世界情勢と紐付けて猫たちに説明しつつ、「でも、本当の戦争にはならないと思うよ」と自分に言い聞かせるように語っていたからだ。
 同時に、猫たちには「しんどいと思ったら無理に見なくていい」と言い聞かせている。私の職業柄、日本と世界の痛苦を見聞することは避けられない。泣き出したり、後ろ姿に緊張をみなぎらせたり、救われる成り行きに露骨にホッとしたり。ときには、受け止めきれないこともあるようだ。
 2022年3月初旬現在、スマホやパソコンから「ウクライナ」「Ukrainian」という音声が流れると、猫たちはその時々の自分たちのキャパに応じて接し方を変えてくれている。様子を見て他の部屋に行ったり、走り去ったり。3月9日は、「東京新聞の1面がほとんどウクライナ」と言っただけで2匹とも走り去った。でも新聞を読み終わって「BBCのニュース見るよー」と声をかけると、4歳の方は部屋に戻ってきて、なんとも言えない緊張感を漂わせながら、爆撃の遠景を含む映像を一緒に見た。知らなきゃいけないことだとは思っているらしい。でも、日常使っている日本語だからこその生々しさは避けたかったらしい。私にも「このニュースは重要だけど、母語では読みたくない」という時はある。
 人間は、さまざまな大人の事情に即座の判断や反応を妨げられてしまう。猫たちの率直さと生き物としての賢明さには、ときどきハッとさせられる。

いちいち衝撃を受けてどうする?(受けてしまうけど)

 世界は、次から次へと災厄に見舞われている。
 世界各地で政治的な安定性が失われているから、今後も大小さまざまな紛争や戦争が起こり続けるだろう。
 人間がわざわざ戦争を起こさなくても、自然災害が次から次へと起こる。世界的に地殻プレートの動きが活発しているから、世界のあちこちで大きな地震や噴火が続いている。気候変動も、次から次へと「その地では概ね未経験」に近いタイプの気象災害をもたらし続けている。日本に限定しても、台風や大雨にそれなりの備えがあった九州を、地域に蓄積されたノウハウでは対処不能な豪雨が襲っている。北海道で除雪が追いつかず生活に支障が発生したのは、つい先月のことだ。
 新型コロナは日常の一部に組み込まれてしまった感じもあるけれど、現在進行中、そして今後のさらなる脅威化もありうることをお忘れなく。新型コロナがなんとか収束しても、また地球規模の感染症が現れる。2000年からの1000年間は、地球規模での感染症との闘いの連続になると予想されている。

身近な他人への関心を維持しにくいのは自然

 そして災厄は、忘れられはじめるころからが本番だ。
 何らかの大きな災厄が起こって深刻な実態が明らかになると、世界中の関心や寄付が集まる。でも、遠くにいる他人にとっては、所詮は他人ごと。不自然に「自分ごと」にするより、自然に「自分ごと」である問題を気にかけたほうがいい。
 たとえば足元の日本では、なぜ難民認定が異様に厳しいのか。なぜ、数千人もの外国人が難民認定されず、「仮放免」という生殺しのような状態(働けず、住民登録されず、公的保険にも入れない)に置かれ続けているのか。
 住民登録できる日本人に限定しても、数多くの問題がある。なぜ、生活保護の利用者は数%しか増えていないのか。生活保護を利用しやすくする動きが1つあるとき、なぜ、利用しにくくする動きが10個(大げさではない)現れるのか。それは「誰得」なので状況が変えにくいのか。
 私たちは平和な日本から、銃弾やミサイルにさらされている世界のどこかを気にかけられる。それなら、平和な日本で同じ空気を吸って暮らしている「私たち」の中に、気づかれにくいけれども「私たち」と同じように人間として尊重されていない人々がいることを、同じ想像力によって気にかけられるはずだ。でも、そういう方向に向かう人は少ない。
 これは謎でもなんでもない。行こうと思えば簡単に行ける日本国内だからこそ、1回2回の寄付で終わったことにしてしまうことは難しい場合がある。関心を向け始めるのはいい。近寄るのもいい。でも、自分が息切れしない距離感を維持し続けるのは難しい。期待され続けると、ある日、罪悪感から背中を向けて全速力で遠ざかることになる。そうしなければ潰れてしまうから。
 そんなことを何回か繰り返しているうちに、一瞬の善意の源すら枯渇したりする。どうせ、結果として偽善者になってしまう。どうせ、結果として裏切り者になってしまう。自分が偽善者や裏切り者になるだけで済めばいいけれど、自分よりも弱い立場にある人を決定的に傷つけてしまうかもしれない。それなら、「自分のことしか考えてない利己主義者」として認知されたほうがいい。時々こっそりと一瞬の善意を示す機会なら、寄付その他、いくらでもある。

でも大丈夫なのかも、みんな飽きるから

 ウクライナがどうしても気にかかる? それはそうだろう。私もそうだから。ウクライナとロシアには、直接親交のある人はいない。でも、知り合いの知り合いや友人の知り合いがたくさんいる。行ったことはないけれど、音楽を通じた馴染みが形成されている国でもある。でも、だからといって、アフガニスタンを忘れてない? シリアを忘れてない? イラクを忘れてない? 合理的かつ人道的な理由をもって、重要性に優劣をつけることはできる?
 世界のありとあらゆる痛苦に関心を向け続けることは、どこの誰にもできない。そして、災厄は簡単には収束しない。3年・5年・10年といった単位で、人間は飽きてイヤになりウンザリする。
 予言しておきたい。あと3ヶ月もすれば、日本と世界の多くの皆さんは、ウクライナに飽きてイヤになってウンザリし、あるいは次の大事件によって忘却を始めているだろう。そんなものなのだ。過去を振り返ってみれば、誰もに思い当たるフシがあるはず。
 ウクライナ情勢が比較的短期的に収束すれば、期待するようには進まない復旧復興にイライラして関心が薄れるだろう。長期化して世界大戦に発展したり、あるいは泥沼化して経済的打撃が慢性化したりすると、自分自身の生活がウクライナどころではなくなって関心が薄れるだろう。当事者にとっては「これからが本番」という、まさにその時期に。

だから、まずは、あなた自身
 

 遠くのどこかの災厄に心動かされ、1回か2回は寄付したり、その地域や国のショップで産物を買い求めたりすることが精一杯という方は、堂々とそうすべきだ。間違いなく、しないよりマシだから。
 いついかなる場合も、あなた自身、そしてあなた自身が大切にしている人やものごとは、あなた自身にとって最大限に優先されるべきだ。自分が優先したい何かを無理に捻じ曲げてまでしなくてはならないことも、時にはある。でも、その無理が後々に悪影響を残さないことにまで配慮すると、出来ても一生に数回や一年に数回だろう。だから自問してみる。今は、ウクライナは、その時なのか?

 今、私は日本で、2匹の猫たちとともに、まあまあ落ち着いた日常生活を享受している。明日も来月も来年も、日常といえる日常が私と猫たちにあることを望む。私から日常が失われても、世界の遠いどこかの誰かにとっては他人事。その「お互い様」を覚悟しつつ、私はまず自分自身の心身と健康を最優先で大切にしようと思う。


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