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「善きこと」「善き人」の悪について ー もう、臭いものに蓋はできない

支援活動の中での性被害

 2022年1月26日、精神障害当事者のAさん(女性)が、自らの「東日本大震災被災者支援活動の中で性被害を受けた」という経験をブログ記事として公開しました。相手は、Aさんが参加していた支援団体の運営にあたっていたBさん(男性)です。AさんとBさんの間には既に高裁の提案で和解が成立しており、Aさんが受けたとする性被害の事実は公式に認定された形(地裁でAさんが勝訴)となっています。

 本記事では、関係者の氏名はアルファベットで表記し、直接のリンクも貼らないことにします。私自身は、和解書を見たわけではありません。このような事例の和解書では、今後の事実の公開に関しての一言二言が書かれているはずですが、有無も内容も知りません。全く見知らぬBさん(たぶん一回も会っていないと思います)の名誉を、不用意に毀損したいとも思いません。いずれにしても、和解で一応は決着しているのであれば、それ以上にBさんに何かをする必要はないはずです。

少しは驚かなきゃいけないんだろう、でも?

 Aさんの言挙げを読んだ私は、少しも驚きませんでした。「性」が入らない「暴力」、直接的ではない陰湿な嫌がらせなどを含めれば、支援団体や当事者団体の「あるある」ですから。一時的にそうではない状況を作ることはできるのかもしれませんが、「年」「ウン十年」単位での維持は不可能なのだろうと思います。理由? 「しょうがないだろ、人間がやってるんだから」としか言いようがありません。

 私は「泣き寝入りすべき」「問題にしてはならない」と言いたいのではなく、むしろその逆です。最初から「あるある」と認識すべき。対策も逃げることも反撃も推奨されるべきこと。そう言いたいのです。

 たとえ話をしましょう。小学生を誘拐したり性被害に遭わせることは悪です。空き巣も悪です。しかし、それらが悪であるということは、小学生に対する不審者対策「いかのおすし」や「水着で隠れるところを触られたら、あなたは被害を受けているのかもしれない」という性教育や安全教育、そして窓やドアを施錠することと両立します。

 支援活動や当事者活動など「善きこと」が行われる場の常識は、現在のところ、そうなっていません。小学生の誘拐や性被害、住宅の空き巣に該当するようなことは、「ない」ことになってきました。現実に被害を受けた人が、それらの「ない」はずのことを「ある」と言おうものなら、ガリレオの宗教裁判のような事態が発生します。

 貧困問題や生活保護問題や障害者運動において、私自身は、肉体的な性被害という面では指一本分の被害も受けていません。しかしながら、拒んだことに対する直接間接の復讐は、簡単に数えられないほど受けています。被害を金銭換算したら、いったいどうなるんだろうかというレベルです。相手は男性健常者とは限りません。女性も障害者も、自分よりも立場の弱そうなものを見れば、簡単に加害者になるんです。そういう事実なら、日常的に思い知らされてますよ、ハイ。

障害者は被害者にもなれない

 Aさんが受けた性被害の内容は、強制わいせつ罪にも準強制わいせつ罪にも該当しそうにないものでしたが、東京地裁は不法行為であることを認めています。

 ここまで読まれた皆様は、「なぜ、Aさんは警察に被害届を出さなかったのか?」という疑問を持たれていることでしょう。この疑問に対して提示したい可能性の一つは、「刑法上の罪になるかどうか微妙」です。

 提示したい可能性は、もう一つあります。それは、Aさんが精神障害者保健福祉手帳を交付されている精神障害者であるということです。精神障害者が被害を訴え出ると、「妄想」ということにされる場合があります。はっきりした物証があったり、物証を消えないうちに確保したりすること(身体的接触をされた直後に相手のDNAを確保、など)ができれば良いのですが、そういった対応はいつも誰にでも可能なわけではありません。誰にとっても難しいことは、障害者にとってはさらに難しく、そのことが障害者をさらに不利にするわけです。さらにヤヤコシイことに、本当に妄想である場合もあります。警察が妄想を真に受けて「加害者」を逮捕したら、立派な冤罪です。それは避けなくてはなりません。

 いずれにしても、障害者が障害者であることによって有利になる可能性は極めて少なく、不利になる可能性や落とし穴なら多数あります。

自分が自分を人質に取られている困難

 Aさんは、Bさんから性被害を受けてしまった状況について、「自分自身が生活保護を利用しており、従って支援団体を必要としており、拒んだら支援を受けられなくなるかもしれないと思った」という内容を率直に書いていらっしゃいます。これもまた「取り越し苦労」「杞憂」ではなく、「あるある」です。「自分自身の生存権をはじめとする基本的人権を守るために、自分が基本的人権のうち○○を差し出さなくてはならない」という場面は、残念ながらよくあります。「○○」には「身の安全」「プライバシー」「資源を奪われない」「言論の自由」「職業に就かない」「特定の職業に就く」など、基本的人権の数多くの側面が入ります。

 Aさんのブログ記事の中には、弁護士Cさん(男性)が登場します。C弁護士は、Aさん・Bさんと同じ支援団体の運営に当たる一員でした。Aさんの訴えを聞いたC弁護士は、組織の一員ではなく個人として聴き、組織としての対応は事実上無理であることを示したということです。これもまた、よくあるパターンです。組織として明快な対応は難しいとしても、とりあえず、BさんがAさんに近寄りにくくすることくらいはできるかもしれません。それが、望みうる精一杯でしょう。

 私はC弁護士の対応に、「ここが限界だけど、ここまではする」という個人としての誠意を見ます。けれども、それで解決したわけではないことも事実であるようです。もしも私がAさんの立場だったら、C弁護士に対して怒りの感情を抱き続けることになったかもしれません。共通する経験があっても、そのことそのものの当事者であるかどうかによる差は多大なのです。「連帯」と口にするのは簡単ですが、実行するのは簡単ではありません。ましてや、他人に簡単に「連帯しろ」と言われたりした日には(以下略)。

でも、このままで良いわけではない

 本件に関する希望は、一部の有力社会運動家が黙っていなかったことです。その団体の関係者に対して「真摯に向き合ってほしい」というメッセージを発した社会運動家もいます。生ぬるいといえば、生ぬるいかもしれません。でも、まずはそこからでしょう。

きれいごとではない現実は、それはそれとして

 現実は、美しいタテマエやスローガンのような「きれいごと」では済まない「きたなごと」を常に含んでいます。「きれいごと」「きたなごと」のそれぞれは、「民衆と政権」「反体制と体制」といった二分法の世界のどちらかにだけ存在するわけではなく、世界のどこにでも入り混じって存在しています。生活困窮者は「貧しく清く美しく」の世界にいるわけではありません。政権や富裕層が、「クリーン」「正義」だけの世界にいるわけはありません。支援団体や当事者団体は、その中間のどこかにいるわけですから、もちろん「きれいごと」「きたなごと」の両者を含んでいるはずです。

 Aさんの言挙げは、そこに向き合うための重要な一歩のように思われます。私自身、過去にAさんと「いろいろあった」者ではありますが、本件については素直に言いたい。

 Aさん、ありがとう。
 よくぞ秘密にしないでくださいました。
 くれぐれも名誉毀損その他、被害に被害が重なるようなことにならないように、お気をつけて。

 

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。