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「好き」と「モテ」について考える。

大抵の人は「モテ」が大好きだ。
承認欲求を満たしてくれるばかりでなく、ビジネスになる。
いつの時代もモテビジネスはサクセスストーリーに繋がる。

周囲から好かれる。
好かれるとは、言い換えれば「求められる」ということ。
モテは、不特定多数の欲望の対象になることを意味する。

その覚悟とそれを上回るエネルギーをコントロールできるからこそ、モテはプラスに働く。モテを語り、モテをもって人々に幸福をもたらすことは覇者の為せるワザ。ゆえに人はモテを追い、モテに狂わされる。


ここでは、半径2メートルのモテについて考えようと思う。
なぜなら私は「モテ」に全く興味がなかった人間だからだ。むしろ「SO WTF」「分別を持て」とずいぶん上から目線でモテに無関心なつもりでいた。

ところがどっこいである。

気が滅入っていたある日、モテ男の一言に、私は打ちのめされた。
神と出会ったような感覚。啓示のような何か。
モテこわ。え、何。こわ〜〜〜と感じ、考えを整理しようとPCを開いたわけだ。

こいつはモテるわ……
モテってなんやねん…

という疑問の前に、私の中にある”モテ男への抵抗感”を先に整理しておこうと思う。なぜなら、思考停止になる危険性があるほど性愛をめぐる価値観があまりにも違いすぎるからだ。

1.デミセクの「モテ」

私はデミセクシュアルだ。
30歳くらいで初めて己を知り、恋愛をめぐるこれまでの苦悩に納得した。通称デミセクは、深い関係性という一定ラインを越えないと誰かに対して性的欲求を覚えない、という性に関するアイデンティティを指す。

デミセクシュアル(demisexual、半性愛)
デミセクシュアルとは、他者に対して基本的に性欲を抱くことはないが、強い愛情や深い友情を持った相手に対してなど、ごく一部の場合に性的な欲求を抱くこともあるセクシュアリティです。 恋愛感情に限らず、愛情や友情、絆がベースになる点でデミセクシュアルと言っても様々です。

同じデミセクでも、そのあり方は様々だと思う。
だからか、そもそも私の「好き」という感情も、一般的なものと少しズレているらしい。ジェーン・オースティン小説のヒロインの心情の動きにおおかた共感できるのに、それでもマイノリティの恋愛観なのは解せない…。

私の場合、人間はあくまでも”人間”。容姿は、遺伝子の差異+個人投資を反映したに過ぎない容れ物だ。デブだろうがガチムチだろうが”個性”に過ぎない。その人の”持ち味”のひとつでしかない。もちろん特定の部位に特別の美しさを覚えることはあっても、それを持つ人と「体を重ねたい♡」と性欲に直結することには眉を潜める。思考回路に大きな欠落があると疑いたくなるからだ。

顔や容姿が整っていようが、頭が良かろうが悪かろうが、たまたま良い遺伝子を持って生まれたのか、他人より努力しているかの違いに過ぎない。そんなものでその人の全てを測ることなんて到底不可能だ。私は美人ではないけれど子どもの頃からモテた。「憧れ」の要素を持った子どもだったからだ。少し成長すれば一番にならなくてもモテた。「体型」のせいだ。大人になると適度な社交性とともに恋愛に対する”拒絶”を身につけた結果、しつこい男にモテるようになった。「陰」やミステリアスさで探究心をうずかせたせいだ。

だから何だろう。私は他人から一方向的に「憧れ」を持たれるのも、一方向的に「性的欲望」の対象になるのも嫌いだった。探究心も然りだ。そこに「好き」という感情を感じ取れないからだ。

その人が笑う。泣く。話す。
私とその人という二人の世界が知らずと築かれる。
その人だけの痛みや輝きを感じ取るのだ。

私にとって「誰かに特別さを覚える」のはそうした瞬間だ。皆が触れらない箇所に触れる瞬間だ。隣に座って時間も忘れて話し込む。その人の「独特」を拾い上げる。彼/彼女の瞳の様子。癖。声の抑揚の奥にある感情。そして、相手から打ち明けられることで、彼/彼女の古傷に初めて触れ、なんとなく「わかり合える」ような気持ちになれる。

わかり合うことなんて不可能だけれど、誰かの胸の奥深くに隠されていたものに触れられた瞬間、確かに何かそこには私たちだけの”特別”が生まれるのだ。


今の恋人と出会い、何度か体を重ね合わせてもベッドに横たわっている私はどこかいつも虚しさがあった。肉体的な不快感を超えても「この関係性はいつ終わるだろう」と、彼の隣に横になりながらカーテンの隙間から漏れる光をいつも見てた。

ある時、彼の体の傷に気づいた。触れると、彼は子どもの頃に受けた手術の話をしてくれた。幼い彼は病院でいつも泣いて怒っていた。すべてが恐くて、病院食のまずさにうんざりしていた。特に適当に切られ、適当に茹でられた野菜は何よりも許せなかった、と。小さな暴君の可哀想な話を聞きながら笑う。
肩の傷は成長線だ。小柄な私とは無縁の初めて聞く傷の名前。皮膚が裂けるほどの突然成長なんて想像もつかない。鉢植えの木が鉢を破って根を生やし、壁を抜けて枝を伸ばす。大木に成長する暴君。

幼い暴君はいつでも怒っていた。母親の料理に激怒し、全ての材料を立方体に切ることを要求した。母親はさぞかし困り果てたことだろう。そんな小さな暴君にとって、何よりも恐ろしかったのは入院経験や不快なごはんでもなかった。ドイツに引っ越し、ポーランド語で話す家族を他人に見られることだった。泣いてドイツ語を話すように懇願したと言う。

彼の祖父はドイツ軍にくわわって戦った。私も何度か会ったことがある。車椅子に腰掛け、認知症になったおじいさんは物珍しげにアジア人の私をいつも見上げていた。おじいさんはいつもポーランド人であることを隠していた。ドイツ人のドイツ語を話し、ドイツ人としてものを語った。

終戦して長い年月が経っても、母親の食材の切り方に怒るような子どもが、ドイツで自分のアイデンティティを知られるのを恐れたのだ。まだ、5歳になっていなかったかもしれない子どもが。

「不思議だね」

裸の彼はシロクマにそっくりで、私は天井を眺めながら不思議がるシロクマの肩を撫でながら、どんな時よりも彼という人間を近くに感じた。

「こんな話、誰にもしたことがなかった」

その時、私が何と答えたのかは覚えていないけれど、彼の体は生きているのだと感じた。撫でる手に感じるひんやりとした肌、その奥に感じる温もり。私のよりも確かな音で刻まれる鼓動。時々鳴るお腹の音。彼の命と人生を守ってきたその体には、その時々の古傷がある。見えるものも、見えないものも。

私たちは決して、ひとつにはなり得ない。異物同士で、触れ合うことができても、完全にわかり合えるわけでもない。もしかすると、彼のその経験に彼という人を私は感じても、彼自身はそう思っていないかもしれない。

それでも確かに、その瞬間から私の心の中に彼という存在が生まれてしまった。彼を知りたいと思った。「日本人から白人というだけでモテる勘違い野郎」という第一印象を超えて、生まれや育ち、外見そういったものを取っ払ったその奥にある「彼」という人間を知りたいと思った。

彼は、その傷によって私にモテたのだ。

良い面も悪い面もお互いに知っていく。互いの好きなことも嫌いなことも知り、無言でも機嫌がわかり、何を考えているのかも予想できるようになる。彼によって私は思い知らされるようになる。私もまた生々しく生きている人間なのだ。毛嫌いした恋情を持ち合わせている。デミセクでない彼は私以外を見ても欲情するんだと知れば、不公平感に憤りを感じ、彼を独占したいという思いに駆られることもある。

彼に私は悩まされている。
惚れた相手が自分の思い通りにならないのはなんて辛いものだろう。これはツケを払わされているのだろうか?関係を大事にせず、薄情だった過去の精算が今やってきてるんじゃないか?

心底「彼からモテたい」と思うようになった。
彼が、私の思い通りになる人じゃないからだ。


特定の個人を対象にしたモテ。それが私の「モテ」だ。


2.擬似ポリアモリーの「モテ」

私にはAくんという知人がいる。

Aくんは高校時代からの知人で、兄の同級生だ。中肉中背で容姿はとても平均的。私も平均的だけれど、彼はそれを上回る平均男。自分をよく見せようと飾り付けることすらしない。ひとまず私にとって彼は魅力の欠片も感じない存在だった。

なのに、とにかくモテるのである。
そして慎みを知らない。

高校時代から、なぜだか平均男の周りにはいつでも複数の女の子たちがいた。休み時間になれば、教室で交際相手でない女の子に膝枕をされてる。自ら擦り寄り、女の子に撫でられてそうしているのだ。そうなれば他の女の子たちも寄ってきてペットのように可愛がる。隣の教室からは年上の彼女が迎えに来る。それでいて浮気もしている。私だって誘われる。気まずさを覚えるのは私だけ。

お前(ら)は何なんだ。

思春期の高校時代は、いろんな恋愛を試すにはもってこいの期間だ。デミセクの私だっていろんな人と交際したが、それでも「交際相手を傷つけない・裏切らない」は誰もが持ち合わせている常識だと思っていた。だからこそ二人の関係性に価値が生まれると信じてやまなかったのだ。ポリシーを持っていたわけである。

そこにきてこの男の存在。
ポリシーを全否定されているようで気分が悪い。

私がデミセクであるように、Aくんと当時のAくんを取り巻く関係性は「ポリアモリー(複数恋愛)」と呼ばれる恋愛のひとつの形態だ。本人たちが良いならそれでいいけど、Aくんにちょっかいをかけられると、デミセクとしては生理的に、ポリシーを持って交際相手に誠実であろうとする人間としては精神的に不快になったのだ。

皆さんは「ポリアモリー(polyamory)」という言葉(概念)をご存知でしょうか。1990年代初頭にアメリカでつくられた、ギリシア語の poly(複数)とラテン語の amor(愛)を合わせた造語で、「すべてのパートナーの合意に基づいて、複数の人と恋愛関係を築く恋愛スタイル」を実践することを指します。

私とAくんは、恋愛に対する価値観と性の指向が真逆なのだ。

私は、愛は静かに深く紡ぐものだと思っている。性関係はそのためにとても大切なものだ。該当部位の形を考えても、下手な相手と適当にするよりは、お互いを知り尽くしたパートナー同士の方が安全で安心、そして満足も得られる。長い間一人のパートナーのみと体を交わすことは、病気のリスクを減らすことにもなるし、免疫や幸福感を上げることにもつながる。色のない言い方をすれば、互いの健康管理も兼ねてるのだ。

ところがAくんは違う。
腐れ縁が続くAくんは今、妻子ある身だ。大学時代からの彼女と結婚。大手企業に勤め、海外を飛び回っている。結婚前から結婚後も、そして子どもがいる今でさえ、不特定多数と体を交わす。
残念ながらパートナーはそのことを知らされていないのだから「ポリアモリー」は成立していない。そこで顔をしかめる私に対してAくんは言う。

「奥さんのことも子どもも愛してるよ。僕の帰る場所だし、どんな人と寝ようが、奥さんとすることも大好き。それは今までもこれからも変わらない。ただ傷つけたくはないから、徹底的にバレないようにしてる。それが義務だと思ってる」

私はAくんのパートナーを知らない。でも高校時代のAくんの彼女の顔を今でも思い出してしまう。彼女は本当に当時の関係性に合意していたのか?と疑問を抱き、考えても仕方ないことだと打ち消す。

私はAくんという人をほとんど知らない。
同じ高校、大学に通った。ちょっかいをかけられながら話せば話すほど、何から何まで価値観が真逆の人だと感じた。おそらくAくんも同じことを感じているんだろう。難攻不落の私もいつか落ちると思っている可能性もあるが、ここまでの腐れ縁だ、おそらくそれ以上の何かがあって私との知人のような友人のような関係を保ち続けているのだろう。

高校時代、レストランで彼と彼の家族を見かけたことがある。お父さんは新聞を読み、お母さんは黙々と食事し、妹は携帯をいじって彼はどこともなくどこかを見ていた。

私はAくんを全く知らないのだ。
だから、彼を形成したものも、今の彼のあり様も、何もわからない。絶対にわかり合えることのないAくんが、どうしてモテるのか、どうしてモテ続けたいのかを私は知らなかった。知りたいとも思わなかったのだ。

私の父も同じような人だ。娘である私はなんとなく気づいていた。けれど母はバレるその瞬間まで疑いもしなかったと言う。

ひとりの人間が生きていれば、その人間特有の「性」のあり方がある。
でも「性愛」は2人以上の人間が結びつかないと成立しないものだ。だから、性愛もまた生き物なのだ。この生き物から離れ、ひとりの「性」を楽しむ者同士なのだろうか、Aくんとそのモテは?

私はとことん重い女だ。今の恋人にそう言われたこともある。
「何が悪い。それが私だ。そんな私を選んだのはお前だろうが。嫌ならやめちまえ、好きならこの重さを受けてみろ」
彼は絶句し、私の答えを受け入れた。彼が私の重みで軋みそうになると、私は慌てて飛び退く。よりかかることなく歩んでいきたいけれど、私だって弱いのだ。その度にAくんの顔が脳裏を過ぎる。

不特定多数に分散すれば軽くなるだろうか?
ほど良い軽さで人を愛せるようになるんじゃないか?と。


3.個人に触れる、思いやりとは何だろう

そんなAくんから啓示のような何かを与えられるのである…。

何てことはない話だ。
感染病が世界で感染拡大する中、誰もがそれから逃れることはできない。私は外出自粛によって孤独と向き合っていた。誰かと分かち合うことのできない辛さ。分かり合えないという徹底的な孤独に、真夜中に突然、ベッドの中で思いを言語化する前に泣きじゃくる。

そういう時に限って、何も知らないはずのAくんはポンと簡単に連絡をよこす。

私の身を案じ、私の家族の心配をする。
サラッとした短い、淡白な文章。

ほどよいテンポと感覚だ。きちんと私のことを聞いてから、自分の話を少しする。情報は的確で、適当なことを言わない。頭が良く責任感があるように思える。こちらの気配を私の返事からなんとなく読み取りながら、すぐには答えない。数テンポ置いてからアドバイスをし、有効でないと知ると引っ込める。

「皆で乗り越えよう」

そう締め括られた言葉に私は目を覚まされた。少なくともそう感じさせられた。
彼は、そのつもりなどないにしても、確かに彼は私の中に触れた。

彼からすればなんでもない言葉だったに違いない。でも、私は驚いたのだ。この人の「皆」には、私が含まれているということに。私の家族も含まれているのかもしれない。私の恋人のことも。

私の友人たちも「何かあったら助け合おう」と連絡し合っている。それなのに、これほど適切なテンポで、こちらの歩調に寄り添うように会話をする人は少ない。恋人でさえ。私自身さえできないことだ。こいつモテる…と15年以上も経って初めて気づかされる。


なんとなくだけれど、人間には”真心を見極める嗅覚”がある。
社交辞令として、あるいは誰にも言っている言葉ならすぐにわかる。あるいは、自分が誰かに次ぐ存在だということも話をしていれば伝わってくる。自分の話ばかりする人間は、自分のことばかり考えている人だし、恋人やパートナーの話ばかりする人は二人の世界に生きている人だ。
自分の家族の話を散々してから、おまけ程度に「あなたの家族はどう?」と聞いたところでぎこちなさが目立つ。

人は自己都合の解釈の世界で生きているハッピーな生き物だ。つまり解釈の幅が広い言葉ほど相手に自由を与えてくれる。けれど広げすぎると嘘臭さが目立つようになる。

真心を感じさせる何か、をAくんは持っている。
それは何だろう?

Aくんには、自身のテンポがない。

昔から神出鬼没で、なんとなくちょっかいをかけてくる。こちらの様子を見ながら適切な距離を保つ。私に対しては遠くから石を投げてくる。私が近づいてほしくないことを察しているのだ。
そうして、どんな相手に対しても、相手が求める距離を自然ととれるようになったのだろう。自分の求める距離感で、自分に合わせたテンポで会話をしてくれる相手は居心地がさぞいいだろう

お気づきかもしれませんが、私はAくんという人が心底嫌いなのです。パートナーを騙して裏切り続ける姿に自分の父親と家族を重ねるから、いい気がしない。あまりにウザい時にはブロックし、2年ほど忘れていたことすらある。解除したら「悲しかった」と言われたものの、さして悲しそうにもせずいつもの調子だった。そんな程度に思っている相手に、心に触れられてしまったのだ。

そして、ある事実を認めたのです…ようやく…。

そう。彼は、浮気者のクソ野郎だけれど、私よりも人間ができているのだ。

でなきゃ、世界を股にかけて大企業で勤務し続け、異国の地で妻子を養いながら暮らせないだろう。10年以上、パートナーを騙し続けながら幸せだと感じさせて生きている。それで不特定多数の女性を相手にしながら、一人として揉め事を起こさない。

裏切りという点を脇に置けば、すごすぎる。彼は人生をかけて他人とのコミュニケーションに心血を注いだ結果に、この特殊能力「モテ」を自然と身につけ、どうでもいい関係である私でさえ、落ち込んでいる時に無自覚に慰めてしまっている

こわい。実にこわい。
彼の特技に接し、妙な自己反省を感じ、それで悩んでしまったほどだ(結果がこれ)。私は自分で手いっぱいな人間だ。けれど、彼はどうも自分に固執していないのだ。妻子を愛してるけど固執してない。だから多くの人を気にかけ、適度に真心を提供し続けている。

無理だ…私には到底できない…
みんな各自で安心・安全・幸福は確保してくれ…
私は視野も狭いので、Aくんの真似すらできません…

クソ野郎だとは思ってるけど、どうやらAくんは、不特定多数に真心を感じさせるマジシャンなのだ。


4.愛とは何か?

突然ですが、先日アニメ「ヴィンランド・サガ」を一気見しました。
辛い話が続くので涙なくてして見れないんですが、面白いです。

慈悲なき時代、惨さと理不尽さに男たちは答えを求めて生きている。「最強の戦士」は何を見つけて「最強」になるのかと。奇しくも宗教のぶつかり合いも背景には透けて見える。

愛という言葉がなかった時代。
愛という言葉が発見された時代。

主人公の父は、我が子に名前をつけた瞬間に「恐怖」を知り、「最強の戦士」となった。心弱き王子クヌークは、愛に対するひとつの答えを得ることで「王の器」に化ける。

私たちが知っている「愛する」の多くは「差別」だという。
愛する王子のため、他人の犠牲に目をつぶる従者の”愛”は「差別」だ。
万人に等しく分け与えるものとして「死は愛そのものだ」と語られる。

わかるようで半分もわかってないぞ。と思ったわけですが、まあ「万人に等しく分け与える」ものがランクアップした愛だということは察するわけです。

すなわち、私の語る「愛」は偽りの愛…というよりも次元の低い未熟な愛だ。Aくんの愛(?)は、問題はあるけれど、幅広く与えられるという次元の高い成熟した愛に近い…と言えなくもない……ごにょごにょ。

では、モテは「愛」なのだろうか?

性愛が絡むとややこしくなるので置いておくと、キリストは世界最大のモテ男だ。ブッダもそうだ。人類に対する愛のなせるわざだし、キリストラブ/ブッダラブのコアファンによって、この特別なモテは時代をまたいで守られ続けている。
そう考えればモテは「愛」だと言える。

でも性愛が絡んだ途端に「愛」は口を紡ぐか、一斉に語り出され聞き取れなくなる。

そりゃそうだ。
個々で性愛に関する指向が異なるならば、答えはひとつではなくなる。教科書がなくなるか、教科書にはたくさんの答えが並ぶことになる。

幸い、私と恋人は、パートナーをひとりに限ることに合意している。
それでも色々と違うからぶつかり合って、わかり合えないまま保留にしている事項はある。例えば「大人の性愛は思想だ」と考える私に対し、彼は「性愛は大人であっても純然たる欲求だ」と考える。私は差別・暴力とも解釈できる性描写やプレイに不快感を覚える。フィクションであっても許容範囲を越えるものは排除してほしいとさえ思う。けれど、彼は「個人の自由を奪うことはできない」と考える。

性愛は「自由」の申し子でもある。

愛と性愛について考えてると、半径2メートルでさえ答えが出なくなる。途端に私は恋人との愛に悩み、Aくんのそれに顔をしかめる。未熟過ぎて答えが出ない。自由を尊ぶというのなら、価値観の違う人間が互いを労るために設ける制約は「不自由」になるのだろうか?

その不自由さを尊ぶこともまた、自由な選択からの決意なのではないか?

その決意を愛と呼ぶのは、未熟な証拠なんだろうか。
ひとりしか愛せず、そのひとりすら傷つけ惑わす私は、ひとりを裏切りながら多くに真心を感じさせるAくんよりも未熟なのか。

答えは出ないし、出すものでもないのだろう。

だって結局のところ、「モテ」の伝道師にだってその目的があるからだ。私がひとりを愛することに目的を見いだしているように。人生の課題が違うのだ。


人は、別に人から好かれなくても生きていける。
恋愛と無縁でも、人は人と関わることができる。肉体関係がなくてもカップルは愛を深めることはできる。

この年になり、経験を踏まえて言えるのは「人から好かれる」ことは素敵なことだということ。誇っていいことなのだ。憧れの的になることも、魅力があることも誇っていい。同じように「人を好きになる」ことも素敵なことだ。素直さ、向上心の表れなのだから。

ただ、”好意を向け、好意を受け取る”という双方向を忘れてはいけない。
どちらかの一方向が傾いて他人を犠牲にすることで成り立つものには、やはり私はNOと言いたい。互いや周囲を幸せにすることを前提にしなければ、その自由に意味はないのだ

「モテ」も「好き」も、愛とともに語ろう。
モテてもモテなくても、もっと大切なのは自分と相手を大事にすることだ。
自分も相手も、関係性も生きているものだから。


いつか、Aくんと話をしてみようと思う。
15年以上も付き合いながら、私たちには恋愛も性愛もない。友情ほどの大切な何かもない。それでも、時には真心に触れ、時には容赦なく切り捨てながらも、ふとした時に何も包み隠さず相談できる相手にはなっている。

これもまた、知人愛・友人愛の何かの端くれなのだろう。
わかり合える日はやってこないだろうけれど、互いに何かを学び合えるはずだ。

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