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「毒親育ち」からの卒業を目指して--まずは「共感力」を薄めてみる。

長く交際してきた恋人と婚姻届を出した。

結婚=社会的・法的制度という認識が強いせいか、提出する前日も提出する瞬間も「ああ、これで業務が手離れする、よかった〜」と、私はどこか仕事のような気持ちでいた。

交際してからの数年間、毒親育ちの私は、親から受けてきた暴力を無自覚に彼に向けていた。その事実に気づいて距離を置き、自分と向き合いながら、私たちは互いにおかしなところを指摘しあって、傷ついたり傷つけながら隣を歩いてきた。

年も重ね、互いに古傷を持つ猛者と仙人のような心境で、今は、からかいあって一緒に暮らしている。

結婚制度反対者だった彼と毒親育ちで毒質的だった私。その二人が「結婚」するという事実は、私たちが共に茨の道を乗り越え、さらに続く人生の山道を互いに信用して並んで歩く決心がついた証しでもある。

私は、”家庭を築く恐怖”を乗り越えた。

私にとっては奇跡だ。

父の不貞行為、母の暴力、血みどろで子どもを利用する夫婦喧嘩とセックス。兄からの性的虐待。自立を妨げる依存etc.。

私自身を不幸にすることが親への復讐になる」と思って、男である彼と交際を始めた私が、自分の幸せのために、自分のために生きようと彼とパートナー契約を結べたことに、大袈裟に奇跡のようだと感じてしまう。

そんなふうに今は考えているけれど、「何事にも期待をせず、結果のみを受け入れる」精神で絶望回避の防御姿勢で生きているからか、イベント時は淡々とした思いだった。

当日は普段着で役所に行ってその後は日常生活にただ戻るつもりだったし、結婚にまつわる様々な事柄も業務感覚で「こなす」気持ちのほうが強かった。

ところが、長年にわたって結婚に反対してきた恋人は、前夜にアイロン台を出してくると正座してワイシャツの皺を丹念に伸ばし始めた。

「え、もしかして役所にワイシャツを着ていく感じですかね?」
「うん。ネクタイも締めるよ。お祝いのシャンパンも冷蔵庫に入れたし、レストランも予約したよ。美味しいものを食べて飲んでお祝いしようね」
「お、おう…」

お礼を伝え、私も当日は綺麗な格好をして二人で役所へ。
その後、お疲れ様会のような打ち上げ気分の私に対し、「どうですか? 夫と交わす初めてのシャンパンのお味は?」と彼が言う。それを聞いて私は思わず噴き出した。なんだその台詞は…というツッコミと「ああ、この人は(諦めがついただけかもだけど)結婚を嬉しく思っているんだ、がらにもなく浮かれているんだ」という驚き。それに続いて、じわじわと私の中で込み上げる羞恥心と混乱と戸惑いと喜び。滅多に顔色が変わらない私が顔面ヒートでモゴモゴと返事をし、耐えかねて二人で大爆笑。

私は、幸せを、恥ずかしく思ったり、押し隠さなくてはいけないと、本能的に抑圧してしまう。その蓋を彼は開けて穴の中に隠れている私に呼びかけてくる。出てきて一緒に踊ろうよと手を伸ばす。

幸せだと素直に笑える心は、とても眩しくてとても強いものだと思う。

そうなりたい。
幸せなら幸せだと、嬉しければ嬉しいと、過ぎ去ってしまうその瞬間に、そう感じ分かち合える人になりたい。


1.なぜ素直に幸せだと表現できないのか

けれども、私もひねくれているし、彼もひねくれている。
自分というものを理解していないことも多々ある。

「愛というのは形がない。愛していると言うのは簡単だから余計に胡散臭い。そこに努力は伴わないから。君のために何かを準備したり、君が喜ぶことは何だろうって一生懸命考えて、用意する努力こそを君に認めてもらいたいし、認めてもらいたいがために僕は頑張り続けている」

愛情表現をめぐる会話で、彼がそう言ったことがある。

面倒くさいやつだなぁ〜と思いながら聞いていた私だけど、その言葉を聞いた後、お腹を抱えて大笑いした。それを真面目くさった顔をして彼が訝しむので、私は涙を拭って彼に答えた。

「きっと、それが愛だよ。愛情だよ!」
「……? 違うよ、一緒にしないで。愛は努力もしない嘘だけど、僕のものはきちんと努力がある。形を成している」
「愛だよ、少なくともそれがあなたの愛の形なんだよ。私は気づかなかっただけ。あなたの努力が愛情ゆえのものだということに」

互いに呆れるような顔で見つめ合い、彼はやっぱり否定し、私はしみじみと「素直でない者同士だと、絡み合った糸を解す作業の連続なんだなあ」と実感し、諦念とともに年月を費やす意味と覚悟を感じていた。


そういう私は、自分の感情に疎い。
特に「幸福」や「喜び」をその瞬間にはキャッチできず、手を引いてもらわなければ、後から気づくことが多い。

浮かれる感情を即座に自粛し、摘み取るシステムとも呼べるものが、私の脳には埋め込まれているとしか思えない。

可愛げがないと言えばそれまでだけど、これもまた毒親を服毒した結果に会得した生き残り戦略の結果なんだろうと思う。


そう思ったきっかけは、結婚してから受けた毒反応があったからだ。

婚姻届を提出するまでは丸く穏やかな発言をしていた親が、婚姻届を出した途端に、毒づくようになった。

婚姻届を出してお祝いをした後日、滅多にやらないことや彼の容量を超えて奮闘した疲れが出て、彼は数年ぶりに風邪を引いた。
その話を聞いた母は「コロナ? 浮かれてレストランなんかに出歩いたせいだね。結婚してすぐ死ぬんじゃない?」と言ってみたり、結婚指輪の話を自分から聞きながら「ま、興味ないけど。どうせダサいのだろうし。せいぜい恥ずかしくないものにしなさいね」と言ってみたりetc.。

なんて性格が悪いんだ!!!!!!!!!!

と娘は思い、同時に「なんで、『ただ一緒に喜ぶ』ということだけが、これほど難しいんだろう?」と不思議に思い、陰鬱な沼に足を踏み掛け、慌ててその足を引き上げて洗浄。

いや、私まで悲しまなくていいんだ。
なんとなくこういう反応が来ることはわかっていたじゃないか、私よ。


私たちの親子関係は、もぐらたたきに似ている。

ゲームセンターにある箱型のゲーム機。
その中に押し込まれたもぐらの人形が、穴から顔を出した途端、ハンマーが襲いかかる。顔を出したもぐらを叩き潰して暗い箱の中に押し戻すと、ハンマーを握った側にはポイントが加算されて勝者になる。
もぐらは、叩き潰される前に慌てて顔を引っ込めばセーフで、叩き潰されたらアウト。それでもゲーム終了の音が鳴るまでは、別の穴から顔を出し続けなくていけない。

私が、親ではない”他人”から幸福を受け取る時、親はハンマーを振り上げる。私というもぐらには「調子に乗るな!」というハンマーを、私に幸せだと感じさせた誰かに対しては「うざい、消えろ!」というハンマー。


死ぬ発言はともかく、結婚によって引き起こされた親の反応について彼に愚痴ると、彼は肩をすくめてケロリと言った。

「親子という独特な関係性は確かにあるよね。親はあくまでも子どもに”教えたい”。たとえ、そういう立場でなくなっていてもね。君の嫌いな親孝行もそういうものでしょ?」


私は孔子を学んだことがないから理解しているわけではないけれど、「孝」という考えがどうしても受け入れられない。敬いを取っ払って、あけすけにものを言えば、子に対する愛情が歪で人間性も未熟さが目立つ両親に対し、おそらく孔子の言う「仁」=思いやる心を持つことに抵抗を覚える。
「孝」という字を前にすると、私は道徳の難しさに直面し己の不徳さを批難されている気持ちになる。「人間ができてなくてすみません」と頭を下げつつも「拷問を通過しないと徳って積めないのって変じゃない?」という気持ちにもなる。

人はきっと死ぬまで成熟し切れないのだと思う。

親はたいへんな仕事だ。

でも、やみくもに、親だから年長者だからと敬わねばならないのは大嫌いだ。
本当に徳のある人にのみ敬意を示さなきゃ、敬意は随分と安っぽいものになってしまう。


--と皮肉なことばかり考えている私の心を親が知らないわけがなく。私が親子関係を気まずくさせているのも違いない、わはは。
と笑う私に彼は首を振った。

「いや、ない。申し訳ないけど、君の親は、君のお兄さん夫婦の面倒は見続けてるのに、君に対しては随分違う態度をとる。そういう自意識は受け入れないのに、どうでもいいところでマウンティングして『親』アピールするのは変でしょ」
「はい」
「ごめんね、君の両親を悪く言って。でも、親子であっても、おかしなことに付き合う必要はないし、理解する必要もない。共感には限界がある。限界があるから、自分として生きていける

お祝い事に際して、親が性格の悪い発言をするのは、その言葉が私目線ではないからだ。親は主観100%の言葉を私に向けて投げつける。それをキャッチした私が「どうしてそんなことを言うんだろう…?」と胸を痛めるのは、親の心に過度に共感しているからだ。

幼い頃から親の心をこの身で学習し続けてきたから私は知っている。
『自分たち(親)のおかげでお前(子)は幸せなんだ』物語の終焉を実感し、寂しく感じているのが親の本心なのだろう。けれど、それをうまく認められない(自尊心を守る防衛本能)ために二次的な感情=怒りが引き起こされ、寂しく感じさせている当事者(子=私)を同じ気持ちにさせる言葉選びをしている。

というのが、私への親の”性格悪い”発言のメカニズムなんじゃないか。
全く萌えないツンデレメカニズムが親の毒質の製造過程なのではないか?

つまり、親は、私に対して劣等感のようなものを抱いているのではないか…?



2.毒親は「親」をやめればいいよね、本当は

毒親に育てられた子どもたちは劣等感に苦しむことが多い。

私は幼い頃から自己肯定感が強い。それは、母は兄を選んだからだと思う。劣等である事実は変わりないと理解して受け入れてしまえば、劣等感はなくなる。母に愛されずとも、どれほど噛みついてくる犬に対しても、遊びたいからなんだと察し、泣きながら仲良くなろうとしていたちょっと変な女の子だった私は、誰かに好かれることはできるということは知っていた。

それでも、彼との関係性を複雑にした私の毒質さは、自分では認められない劣等感(愛されたいと望む人の一番にはなり得ない/裏切られる予感と不安)があったんだろうと思う。恋愛経験はあっても自分から誰かを好きになることがほとんどないのも、自己防衛が働いているせいかもしれないし、そうではないのかもしれない。

いずれにしても、毒親と「劣等感」が一緒に語られる時、その劣等感は子どもが苦しむ子どものものとして語られることが多いと思う。


親と物理的に離れると、精神的にも大きな距離ができる。
親がいなくても全く問題なく生きている。むしろ楽になる。「私自身に私は守られている」という感覚を覚えると自然と顔は上を向く。胸を張れば、親からぶつけられる”性格の悪い”発言に対して「どうして、この人はこんな風に言ってしまうんだろう?」と思うようになる。

そこで思い出したのは、「トキシック・マスキュリニティ(Toxic Masculinity)」という言葉だ。

トキシック・マスキュリニティとは、男らしさにまつわる規範、期待、慣行のうち、特に有害で不健康なものを指す。
この用語は、問題の対象が有毒な特定の男性性であること、つまり、不健康であったり、抑圧的であったり、危険であったりするような、特定の規範や慣習があることを強調している。男性性の規範や理想は多様であり、それらの規範や理想が実際には健全である文脈や文化もある。
この用語は、男性であることが根本的に間違っていることを意味していない。しかし、男性のあり方のある特定のバージョンには、根本的に間違ったものがある。

THE HEAD LINE「トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)とは何か?」からの孫引き)

”男らしさ”にがんじがらめになり、女性蔑視・差別や同性愛者差別といった暴力に結びつく「有害な男らしさ」。

これは、”男らしさ”に限った話ではないと思う。
たとえば、私は自由な生き方をしているから「結婚もしないでふらふら自由で羨ましい。けど、その年で未婚だと将来心配だから早く結婚しなくちゃだめだよ」とか「出産してないから若さを保てていいね。でも女の人なら早く子ども産まないとダメよ」と言われたことがある。

誰かに求められる”女性らしさ”というプレッシャー。それを無視して生きている私を直そうとするアドバイス(俗に言う『クソバイス』)。ひっくり返せば、「私だって本当はもっと自由でいたい」、「私だって自分の美しさを維持して磨きたい」という気持ちが少なからずあるから気になって、黙っていられずに口にしてしまうんじゃないか。

だって本当に気にしてなければ、何も言わないっしょ。
どうでもいいはずだ。

男らしさなど微塵も気にしていないなら、同性愛の男性が傍にいても別にどうも感じないはずだ。彼は「パートナー」という呼び方に「ゲイと誤解されそうだから使うのに躊躇う」と言った。何がダメなのか。聞かれたら私は女性だと答えればいいだけだ。”同性愛者であってはならない自分”という考えが心のうちにある。私は私で性愛の自由さを許せなくて浮気を恐れている。


毒質の源のひとつは、”らしさ”に固執するからだ。

私の家族は、矛盾だらけだ。

「良いお父さん」「優しいご主人」
「素敵なお母さん」「綺麗な奥さん」
「面白い息子さん」「優しいお兄ちゃん」

その役割を演じるために、父は売春で息抜きをし、うるさい妻を時々殴り倒した。
母は子どもに抑圧して暴力を振るい、自分の性的魅力を父に肯定してもらうことで良妻賢母を、幸せな女性であることを保ってきたんじゃないか。
人より成長が遅くいじめられていた兄が、親からの愛情とプレッシャーと暴力を受け止めるのに、妹に性的に依存することでバランスを保っていたのではないか。

私は、本という世界に、学校という社会に、逃げ道を作った。
「自慢の娘」「可愛い妹」であるために努力し続け、一方で外で自分らしさを模索して育った。そして大人になって崩壊した。自分を捨てるか捨てまいかと迷うことさえあって、大切にできたのは「運が良かった」だけなんじゃないかと思う。

不自由さで身動きがとれず、自分より弱い者を吐口にする。

それは甘えだ。
自分の弱さや愚かさを許して欲しいという甘え、「弱い者への暴力なら誰にもバレないだろう」と化けの皮を厚くし、善良さの欠片もない”善良な社会人”として生きているという薄っぺらな矜持を捨てられない甘え。


良い誰かであることも、悪い誰かであることも、その人の真実だろう。
矛盾しながらも、確かに良い人で悪い人なのだろう。

でも誰かを犠牲にして成り立つ善良さって何だろう。
代償や対価を他人に求めるくらいなら、それは本物じゃない。

子どもに暴力を振るわねば、支配せねば”良い親”を演じられないなら、親をやめてしまえばいいのだ。
まだまだ親にはなれない人間だと気づいてしまえばいい。
誰かの助けを借りられたはずだ。
”有害さ”は認識して初めて向き合えるものだから。


親をやめてしまえば、「大変ね、お大事に」とか「素敵な指輪ができるといいね」と他人への礼儀を持って接することができるはずなのだ。

親と子であっても、別々の命と人生を持つ他人なのだから。



3.共感にも縛られずに繋がり合える”私たち”になりたい

でも、実際に毒を吐く当人はもちろん、そういう自覚はないし、「親をやめてもらえますかね?」と言うのも拗らせるばかりで解決策にはならない(もちろん有害さの度を越す場合は、はっきりと伝えて行動を起こすべきで、私も何度かはっきりと拒絶してきた)。

それに、毒質さは毒親に限ったものじゃない。

例えば、陰口や悪口。
私も陰口をたたく。ここで書いてることも見方によれば陰口かもしれない。

陰口や悪口は、その場で囁き合う者同士の一体感を高め、本人の罪悪感や劣等感を和らげてくれるようでもっと深める。だから自己嫌悪に結びつくものだけど、一方で依存性がとても高い。
だから、悪口を言う人は永遠に言い続ける。
自分も傷つけるのに、言ってる最中は気持ちいいし。
有害な薬物のようなものだ。

だけど、陰口や悪口を言われる側は傷つく。
先日、陰口をたたかれていると教えてもらう体験を二度ほどして、それぞれに対して上記の考えに至りながらも「縁さえほぼないのに、それでも言われるものなのか…」と驚いた。
随分と前に去った場所で未だに私の悪口を言っている人がいるという話さえあって、私自身はすっかり忘れてしまった人が未だに執念深く私を覚えているのかと思うと怨念のようなものさえ感じて気味が悪かった。

自分が悪ければ反省するけど、そうでないことなら理不尽に再び傷つくだけで「陰口たたいてないで幸せになれよ!」と思うほかない。

慎ましく生きているつもりでも、毒に触れるとダメージを受ける。
だからモグラのように地中深くに隠れたくなるのだ。
顔を出せばハンマーが襲いかかってくるから。


という話を友人にすると、友人は「私だったら自分に非がないなら徹底的に戦う」と言いつつ、「でも自分の存在が誰かを苦しめている…ことで悩むのはわかる」という話をしてくれた。

「私の周りには繊細な人が多くて。そんなことで傷つくのかと驚いてしまうようなことで深く傷つくんだよね。だから、それで傷つきもしない神経が図太い私の存在で、そういう人が苦しむこともあって。どうしたらいいかわからないけど、でも『共感』できる私でありたいと悩むよ」

そう言う友人を見て「やっぱり好きだ…」と思った私だけども、私に毒を吐く親も、知らんとこで毒づいている人々も、ある意味では(思い通りにならない/ならなかった)私の存在によって苦しんでいる人たちだ。

親からすれば、私のせいで親が思う”親らしさ”を演じ切れず不満があるから、私に突っかかるのだろう(親戚の多くは、娘の結婚に際して大金をはたくし、彼の家族はとても気持ちよくお祝いしてくれたので、親は自ら”親”比較したはずだ)。

陰口や悪口を言う人からすれば、私に邪魔をされたという思いが強く、そのために罪悪感を抱くはめになった(=”理想の私”の侵害)のだろうから、根に持つのだろう(知らんけど)。


健全なメンタルの友人を前に引け目を感じて傷つく人たちも、私に毒づく人たちも、ぞんざいに言えば、劣等感を他人批判(羨望)でリカバーすることで己を慰めているのではないか。
トキシックな人が、自分の理想(”○○らしさ”)とのズレを、他者への暴力(蔑視や差別)に変換するように。

そういう人とは、どう付き合うのが正しいの?

「付き合わない。捨てる。終わり」と一刀両断する彼。悪意とは戦い、弱さには共感できる人でありたいと手を差し伸べる友人。どちらもその清さに敬服しながらも、私は距離を保って穏やかな関係を築こうとした親の反動のような毒には普通に悩み、クソバイス系の弱さには距離を置くしかできないし、陰口悪口は一方的に傷つけられて夢まで見て結果的に脳が処理してようやく「性格悪ぅ〜。もう忘れよ」と思える。
その程度のことくらいしかできない。


共感には限界がある。

だから、私たちは自分について、他者について学ぶ。
友人が言うように、私たちはたとえ同じ体験をしても感じ方が異なる。
善意を悪意に捉える人はいるし、悪意を善意と思い込む人もいる。

価値観や育った環境、教養といった文化資本の差。そういう埋められない多くの差異を、果たして「共感」ひとつで乗り越えられるのか。

自分より弱い立場の人を平気で虐げることができるのは、「共感」がないからか?

そうじゃないと思う。
そいつが人でなしのクソ野郎だからだ。

人を大切にするという当たり前なものほど難しい。
だから、私たちは自分の尊厳や他人の人権を知り、常に「踏み躙られていい私なんて存在しない」ことも「弱い自分が加害者になり得る」ことも忘れてはいけないのだと思う。

毒質さは、至らなさの結果だ。
環境の至らなさ、社会の至らなさ、個人の至らなさ。
それを救えるのは「共感」ではなく、虐げる仕組みを暴いてNOと止めることしかないはずだ。現実の行動や変化だけが毒質を消すのだと思う。


毒親育ちの私は、自分の幸せや喜びを抑圧する癖がある。
首を出せばハンマーを振り下ろされるから。

毒親育ちの私は、他人の吐き散らす毒を吸い込んでしまう癖がある。
それを察知して逃げることで生き延びてきたから。

いずれも、親の発するセンサーを見逃すまいと共感力を過剰に同調させた結果だ。

私は自分の幸せや喜びを素直に感じ、伝えられる自分になりたい。
他人の吐き散らす毒には「知らんがな」とすぐに忘れてしまう自分になりたい。

だから、共感力をチューニングして薄く低くしていいんじゃないかな。


人と感じ方が違ってもいいでしょう。
人と在り方も生き方も違ってもいい社会なら、共感で繋がらなくても互いを思いやれる形になれるんじゃないかな。


いつか、”毒親育ち”の私を卒業して、私は自分も知らないほど素直な人間として生きていたい。笑い合って、間違ったことを指摘し合って、共に成長していける人たちと共に。

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