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13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

上のトップの画像は、石山合戦がはじまる直前に、左女谷(佐目)道場に本願寺から届いた文書と、十兵衛屋敷跡から見える「陣屋の山」。白い三角あたりが「信長陣前桜」があったあたりかと思われます。

今回は、佐目と本願寺と光秀の関係を追いたいと思います。

1. 09.明智神社と、光秀近江出身説

これに続く話しを書こうと思って、色々とつなぎ合わせてきたら、13.まできてしまいました。

1575年 (天正3年)
越前、東大味の明智神社の伝承は、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、兵を送り込もうとした所を、しばらく住んで世話になった光秀が住民を守るため勝家に申し入れをしてくれたおかげで助かり、色々な非難にも屈せず、神様として感謝してきたという伝承です。

佐目もガッツリやられてもおかしくないのに、腑に落ちる撃沈した伝承が残っていなくて、東大味が助けてもらえたのなら、身内に優しい光秀公は佐目だって助けてくれたんじゃないの!! という、スケベ心がでて、今に至っています。

2. ん?佐目っバリバリ、本願寺一向衆!

1570年(元亀元年)9月7日 本願寺より、佐目に届いた密書です。
信長 Vs. 浅井長政 姉川の戦いが6月28日 二ヶ月ちょっと後です。
これから、10年にも及ぶ 石山合戦のはじまりです。
1577年(天正5年) にも、届いています。
二回目は、鉄砲で有名な雑賀衆の鈴木孫一からです。
母親の年代には、有名人なのだそうです。

佐目谷道場檄文2

内容は
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密使を以て、 進達せしめ候。 扨て近日、 仏敵信長め、 大群もて石山の御営へ押し寄せ侯趣注進これあり。 防戦の用意有りと雖も、微力の為、敵対がたし。 御宗旨の退転、此の時と実に嘆かわ敷く存じ候。 早々、中の郡 ( 犬上、 坂田、 愛知、 神崎、 蒲生 ) の門徒、 加勢せしむ可き様、 取り計らい給ふ可く候也。
               九月七日  楠太郎石エ門  下間与四郎
            近江国犬上郡 左女谷道場へ
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秘密の使者に届けさせました。近日、仏敵信長め が大軍で石山本願寺に押し寄せてくると注意してくれた人がいて、防戦の用意もしているけれど、微力なので、近江の中の郡(ごおり)の門徒を集めて、応援しにきてね。

と、いう感じでしょうか。
「なんで、いきなり 仏敵信長め」なのかとかとか、年表を眺めていると、どう考えても 同時多発的信長包囲網を誰かが仕組んだとしか思えないのだけど、とりあえず そこはスルーします。

送り主は、本願寺の坊官家 家老?下間頼廉(しもまらいれん)かな。
「近江国犬上郡 左女谷道場」は、現在、佐目にあるお寺ではなく、明智家が佐目にやってくる前の1472年、豊郷の白鳥弘誓寺が、美濃伊勢の教化の為、本願寺門主から依頼され、移ってきた「法蔵寺」です。今は、彦根の川瀬にあります。下の図が、中の郡( 犬上、 坂田、 愛知、 神崎、 蒲生 )です。

近江中郡

なんと広い。法蔵寺は、近江七弘誓寺から発展していて、蓮如上人の時代に、比叡山衆徒の本願寺破却に際し、近江中郡の門徒がご真影を守護する大役を務めた「江州番方講」で、この広い範囲の門徒を集めて来てくれ!という文が届くという事は(たぶん、佐目だけでなく、檄文は他所にも届いているとは思いますが)、結構なポジションにあり、まだ門徒が少なかった頃から、越前と連絡を取りながら、美濃・伊勢に門徒を増やす基地で、ネットワークも広く持っていたのではと思われます。

光秀が育った佐目・多賀には、本願寺門主近くを守る番方の法蔵寺僧侶と、いざとなったら駆け付ける僧兵、門徒がおり、甲賀出身の祈祷も薬もつくり、武田信玄や島津など全国の武将とつながる山伏の多賀坊人が近くにおりました。

坊人・僧兵

余談
本願寺からの檄文の最初「密使を以て」とあったのを、ごえんさんは「忍者」が持ってきたと書いておられたけれど、山科合戦の時の西美濃の門徒さんの活動を書かれた本
「下間賴慶の軍令を持った信濃の巫女と見えし女、近江路から多賀の山越えで美濃路へかかる。」とか、「山科本願寺の詳細不明のため山越えにて、山科に赴く。そのとき上石津の時山から江州へ向かう山中で、巫女に出会い共に心中を話し合い、疑いなき情況の急を知り、軍令書も受け取り、そのまま国元へ帰り、西美濃の十ヶ寺へ知らせた。各寺は早速準備した。」とありました。先に佐目によってから美濃に向かったというコースで、佐目にも同じ巫女の姿をした密使も来ていたのでしょうね。

3. 近江戦国山の道 佐目と関係する武将

一向一揆

この図は、信長・秀吉の伊勢攻めルートなのですが、改めて佐目というのは結構なポイントだったんだなぁと思いました。今となっては、多賀大社と伊勢神宮を結ぶ道として佐目の「両宮橋」が紹介されている位で、戦国に関係する話は「仏敵信長」位しか聞いた事がありませんでした。

幼い頃、近所のお寺のごえんさんから、週一回、お話を聞いていたはずなのに「仏敵信長め」と仏門におられるとは思えない言葉を聞いた事と、「殺生すると地獄に落ちる」しか覚えていないボーっとした子供でした。
 
そして、今ごろ、明智光秀近江出身説がきっかけで、『多賀町大君ケ畑 かんこ踊り』という資料を読んでいて、みつけました。戦国の道を。

大君ケ畑というのは、佐目と伊勢に続く鞍掛峠の間にある村で、東近江市永源寺と共に、木地師の惟喬親王(これたかしんのう)伝説があり、江戸時代は 200戸 馬80頭 100人もの人を収容できる旅籠群があったと言われています。現代では、行き止まりの山奥というイメージで想像もできませんが、昔は伊勢との境の村であり、美濃へと続く五僧(島津越え)への抜け道もあり、賑わっていたのです。タカヤ抜けという崖崩れがいつの時代かにあり、衰退したのだとか。

さて、では、浅井長政・織田信長・豊臣秀吉 といったメジャーな戦国武将と佐目の戦国古道のお話を。

 3-1 浅井長政

『角川日本地名大辞典』昭和54年刊行
 元亀(げんき)三年(1572年) 九月織田信長の小谷城攻めの頃、浅井長政は島若狭入道・同四郎左衛門に対して「将に大君ヶ畑江自其方被及違乱由候。左様に候え者、石寺浜辺へ通路相留、長島為に不可然様に其聞候。如何候哉」と述べ、大君ヶ畑への両名の違乱が反信長方の伊勢長島一向一揆の為にならないと指摘している。(浅井三代文書集)

島若狭入道は、近江坂田郡飯村出身の島若狭守秀安 その子四郎左衛門秀宣のようで、島左近の祖父かもしれないという説もあるようです。あーびっくり。やたらと、この年は多賀のお寺が焼かれているので、信長かと思っていたら、大君ケ畑では浅井家臣が暴れていたということなのですね。
どゆこと? とにかくこの時期、浅井長政と本願寺一向宗は仲間だったという事ですね。

 3-2 織田信長

       信長が焼討ちを見た陣屋「信長陣前桜」

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十兵衛屋敷跡から見える山が「陣屋の山」です。今はなき佐目小学校の校歌に「朝日は昇る 陣屋の山に」と歌われる程、佐目にとって故郷そのものの、象徴的な山です。

この名前が正式名称でないという事を知ったのも、この頂上に「信長陣前桜」の伝承を見つけたのも最近です。本当は「信長の陣屋山」だったのです。私達には「誰?その人?!」という実在が怪しい人「室三郎」の伝承が伝えられていました。昭和46年 井伊直弼の子孫の市長が発行された「彦根・犬上営林組合」の記念誌のコピーです。

信長の陣屋1

この陣屋の山の頂上には、以前は畑もありました。頂上なのに、かなり平なのです。その一部は、今も植林されず春になると山桜が咲き、湖東平野やびわ湖が見えます。もちろん、信長が焼討ちを見たという「小屋寺」のあたりも。陣屋の頂上は、佐目から行くのには骨がおれますが、美濃に逃げるには都合がよい場所で、その場所に立つと、焼討ちを満足げに見ている信長の様子が目に浮かびます。

また、ここから少し移動して、高室山まで行くと360度パノラマで近江はもちろん、美濃伊勢の様子もうかがい知れます。比叡山の焼討ちも見えたはず。佐目は、「仏敵信長」と伝わるバリバリの浄土真宗門徒の村です。「信長の」が抹殺されて「陣屋」という名前だけが残ったと考えると、とても腑に落ちます。

光秀や信長が、ここから近江の戦略を考えたかもと妄想するのも、楽しいです。大河ドラマでは、どうなるかわかりませんが、前回書いた足利義昭上洛の時の「近江戦国の道」が見えます。

  戦国が見える 360度パノラマの高室山

検版用近江出身説20191124

検版用近江出身説20191125

元亀4年(1573年)5月 この写真にも写っているあたりの多賀の木を芹川から流し、松原で大船を2~3か月、信長は佐和山に常駐して職人にハッパをかけて作ったそうです。話を盛っているのではないかと思う位です。

そして、この船で、坂本に行ったり、びわ湖の対岸の高島をせめ、例の田中城を光秀に与えています。が、やはり真水の琵琶湖では具合が悪く、小さな船に作り替えられています。光秀が琵琶湖を使った戦いで活躍したと言われているのも、陣屋や高室山から琵琶湖を見てシュミレーションが可能だったからと考えると、ガッテンできます。

そして、信長軍は本願寺一向宗 北伊勢攻め・長島侵攻で佐目を通ります。

天正元年(1573年)
7月に元亀から天正に改元
9月4日 第二次長島侵攻 信長は北伊勢をめざして出陣 織田軍8万
 26日 近江勢は、八風峠・おふじ畑( 大君ケ畑)を越え、桑名方面へ進んだ
と、あります。先の地図ところを通っています。 

天正二年(1574年)
7月13日 第三次長島侵攻 織田軍 12万
wikipedia がネタ元なので、織田軍の数字は不確かですが 第一次 5万
第二次 8万 第三次 12万と 信長一番の大軍投入です。

この戦いには、佐目の事をよく知る犬上衆も参加していますし、少し前には多賀の浄土真宗の寺も焼かれています。バリバリ本願寺と通じている佐目の村がやられていてもおかしくないのに、何も伝わっていないのを不思議に思っていたので、光秀佐目出身説が浮上してきて、もしや光秀が連絡して「逃げろ」と言ったからかもと妄想をはじめた次第です。

 3-3 豊臣秀吉

実は、豊臣秀吉を泊めた事があるので「木下」という名字にしたという村の人がいて、いつの事?と調べている時に、見つけました。

天正十一1年(1583年) 正月
既に、光秀も信長もこの世にはおりませんが、秀吉と敵対する柴田勝家派の伊勢 滝川一益を3手にわかれて7万の軍で攻めています。
北から、
・佐和山からの五僧越え( 土岐多良越え)  からの伊勢入り
・鳥居本から、佐目を通っての大君ケ畑越え
・佐和山から、八日市・日野・安楽越え
結構、滝川一益が粘っている間に 賤ケ岳の戦いがはじまります。 

 3-4 今も佐目に残る「近江戦国 山の道」

上記の戦いに使われた古道が、今もたぶん その時のままの状態で一部残っています。今の国道や、更にその前の犬上川沿いの「追憶の道」が出来る前の道で、川づたいではなく、山から大君ケ畑に抜ける道になります。

伊勢、美濃から やってくると現在山城A跡かも、と言われている場所を通り、佐目の入口にきます。そこには、まず虎口のような(関所のような)場所があり、クネッと曲がって、十二相神社に降ります。

村の入口には、地蔵堂があり、左を見ると神社の祠と4本の大きな杉の木。
右に降りて、すぐが「十兵衛屋敷跡」です。明智家が住んでいた場所は、佐目の守りの為には、意味のある場所です。

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写真 突当りの左が十二相神社本殿 右へ降りると すぐ十兵衛屋敷跡
   写っているのは@信長隊安土衆 です。 

4. 光秀、と本願寺が佐目道場でつながっていたら1

さて、佐目と光秀の関係を調べてくると、佐目や佐目道場が絡む戦いに光秀は絡んでないのですよね。石山合戦では、信長に助けてもらわなければならない程、へたれだったし。そこへ越前東大味の「光秀に助けられた」という伝承とか、本願寺が本能寺の変のおかげで助かったという話とか。
本願寺と光秀が法蔵寺佐目道場を介して、つながっていたら面白いと思って時系列で並べてみました。
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1570年5月12日 本願寺顕如より多賀西徳寺に軍用金150両要請
    9月7日 法蔵寺佐目道場へ檄文届く
    9月12日 石山合戦 はじまる
        西徳寺 信長の兵火にかかる
   ★西徳寺は、多賀大社の真ん前にある由緒あるお寺です。

1571年2月 信長近江の道・びわ湖水路確保の為、佐和山城・坂本城確保
    5月 第一次長島侵攻(長島一向一揆)北伊勢攻め
   ●    (光秀・秀吉の名前なし) 
   9月 小川氏降参/信長 守山金ヶ森( 一揆の聖地) 攻める
     延暦寺焼討ち   /光秀坂本城主に 琵琶湖の水路抑える

1572年敏満寺土田念仏寺(3月10日)・水谷浄願寺
            ・中川原西音寺
・木曽照蓮寺・藤瀬浄通寺 焼討ち
   ・  浅井長政 大君ケ畑に言及(前出、浅井三代文書集)
              こうなると、誰が多賀のどの寺を焼いたのかわからない。
  (信長陣前桜) 信長、陣屋から小屋寺焼討ちを見たのはこの時期?

1573年   ( こんな中でも、多賀まつりはおこなわれている。えらい!)
    4月 武田信玄没/ 百済寺 信長 焼討ち
    5月 多賀の木を芹川から運び松原で 大船作り開始

『信長公記』より
5月22日、佐和山 (滋賀県彦根市) へ御座を移され、多賀・山田 (滋賀県犬上郡) 山中の材木を取らせ、佐和山麓 松原へ、勢利川通り引き下し、国中の鍛冶・番匠・杣を召し寄せ、 御大工: 岡部又右衛門 棟梁にて、
「 舟の長さ 30間(55m)、横 7間(13m)、櫓を 100挺立たさせ、艫舳に櫓を上げ、丈夫に致すべき 」の旨、仰せ聞かされ、在 佐和山なされ、油断なく、夜を日に継ぎて仕り侯間、ほどなく、7月 3日、出来訖んぬ。事もおびただしき大船、上下、耳目を驚かすこと、案の如し

    7月6日大船で坂本へ 26日この船で高島田中城せめる
      足利義昭 追放 室町幕府消
        8月 浅井・朝倉 滅亡
     9月第二次長島侵攻( 信長出陣) 佐目を通る(信長公記)
   ● 明智光秀は、京都静原山に立て籠り山本対馬守と対峙 
    北伊勢東別所まで首を持参 ( 光秀不参加・秀吉出陣)

1574年   1月 越前一向一揆 →本願寺から派遣された下間頼照が守護に
               7月 第三次長島侵攻 (信長最大の総力戦)
     信長から戦地より光秀に手紙を送っているので、 
 ● 光秀は参加していない。大阪で三好・一揆勢と戦っていた。
    秀吉も越前方面の抑えで、不参加。
  佐目法蔵寺 門徒小林茂兵衛らの懇望により川瀬へ移転(寺伝)
     ( しかし、その後も佐目宛に文書が届いている) 
    
1575年 ?9月 11月 越前東大味( 明智神社)
       明智光秀に頼まれ、柴田勝家が安堵状を出すと伝わる
      (既に信長から指示があったという話もある)

1576年 4月20日 多賀 西徳寺に本願寺より加勢を求む使者
    西沼波・四十九院の門徒も合わせ920人で大阪石山寺へ。300両上納
    (佐目道場は、機能していなかったのかと思いきや)

1577年 2月5日   再び本願寺から法蔵寺佐目道場へ檄文届く。
     今度は鉄砲傭兵集団雑賀(さいか)衆鈴木 孫一(重秀) 連名

1580年 3月14日 本願寺と信長の講和成立
    顕如ら門徒の大坂退城などが条件。
    佐目法蔵寺、顕如の紀伊鷺ノ森への下向に供奉

1582年 6月2日 織田軍の来襲によって鷺ノ森本願寺は滅亡するかに   見えたが、本能寺の変が起こり、突然織田軍が引き上げたため危機を脱す

5. 光秀と本願寺が佐目道場でつながっていたら2

 〇佐目道場に被害は、あったのか。

彦根城博物館編集の『法蔵寺の歴史と美術』(1992年)に、法蔵寺佐目道場は、天文年間(1573年~)以降も本願寺への勤番を務め、石山籠城の褒章として、本願寺十一世顕如から自筆の「十字明号」を拝領したとあります。
活動していますので、主とした方には、被害はなかったようです。

そして、佐目を通って行った信長の北伊勢攻めの1574年に、川瀬村の小林茂兵衛ら門徒の懇望により川瀬に移転と文書では伝えながら、その後も佐目道場宛に本願寺から文が届き、本拠地は佐目であったとあります。「由緒書き」には、1580年石山合戦が終わってしばらくして乱世も落着いてから、寺基を川瀬に移したとあるそうです。

「頼むから、移って下さい」と言われたようなので、壊されたり、焼かれたりした後ではないように思います。戦う気満々の佐目道場の人たちに「大勢の信長軍が徹底的に伊勢長島の本願寺門徒撲滅作戦をする予定だから、場所を移った事にして、しばらく川瀬にいて欲しい」と頼み、しばらく佐目道場をもぬけの殻にしたのではないかと。

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 〇光秀は、佐目を助けたのか

1571年、光秀は坂本城を築いています。そして、そこには琵琶湖の水運を握ていた、本願寺門徒の堅田衆 堅田水軍の棟梁 猪飼 昇貞(いかい のぶさだ)らがいました。志賀の陣で織田に内通したとありますが、この堅田衆は蓮如を匿ったというバリバリの門徒衆で、佐目法蔵寺と縁のある光秀が調略したと考えると腑に落ちます。

そして、猪飼 氏は、本能寺の変に際し明智方に加担し戦死したものと推測されるそうです。

あー、ここにもいた。六角 → 浅井 → 信長 → 光秀
前回の記事で「江源武鑑って・・・」で、六角氏の内紛により六角から離れ、仕方なく浅井になったけれど、光秀の口添えで( ここは妄想) で、信長軍に入ったはいいけど、本願寺一向宗と戦う信長は許せず( これも妄想) 、謀反だけど光秀に味方した人。
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第一次長島侵攻(長島一向一揆)北伊勢攻めの前に、光秀と親しい僧侶が伊勢四十八家を説得に回り、多くを信長方につかせ、戦わずに攻略したという話がWikipedia(桑名市史)にあり、他の戦いを見ていても、無駄な戦闘を避ける為に、光秀は時間がかかっても調略という形で結果を出しています。

そんな光秀だからこそ、
本願寺と戦っている信長家臣の自分が直接、佐目道場を助ける事など出来ませんので、堅田衆経由、小林氏から説得という筋はないかなぁと調べてみました。

法蔵寺佐目道場の移転先が、元南河瀬城があった所で、外門徒の川瀬村の小林茂兵衛さんが、そこそこの力がある商人かなんかでないと「はい、使ってね」と言える場所ではないはずなのです。残念ながら、小林さんは追いきれませんでした。

そこで、当時 南河瀬城があった場所は、誰のものだったのかと調べてみました。
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南河瀬城の元城主のルーツは佐々木京極道誉のお兄さんで池田となり「獅子吼山(ししくざん) 遠久寺(おんきゅうじ)」という天台寺院を1413年に開き、息子が川瀬氏を名乗り、孫が本願寺蓮如との出会いにより宗派を変え、なんと!佐目から分社された岐阜の十二相神社と同じ美濃志津の里に移り「本慶寺」を開祖し、長享元年(1487年)3月27日、92才で山科本願寺で亡くなっています。(本慶寺の資料より) という事は、明智家が佐目にやってきた頃、近江とゆかりの「十二相神社も本慶寺」も美濃にあり、本願寺蓮如の元、信者を増やして行った古参のお寺ですね。

その後、城は、多賀大社大神主の犬上氏の一族の河瀬氏が城主になり( この一族は、 多賀大社の神主の時は犬上姓、一般の時は河瀬姓、ルーツの西城坊家の仏様を祀る時は 菅原姓を使っていました。これは三銀蔵ネタ)、1552年 三好 長慶に降参し城は荒れていたけれど、仏教に信心深かった河瀬氏は法蔵寺の移転を受け入れたとあります。(これはWikipedia) そんな美しい話はないので、裏で色々あった事は想像できます。

そして、それぞれ
・佐目から川瀬に移った法蔵寺は、元の「獅子吼山 遠久寺」の「獅子吼山」をもらい「獅子吼山 法蔵寺」

・佐目に残った寺は、後に「獅子吼山 遠久寺(おんきゅうじ)」の「遠久寺」をもらい「發吼山(ほっくざん)遠久寺(えんきゅうじ)」

・川瀬から美濃に移り開祖した「「獅子吼山 遠久院 本慶寺 
と、名づけられました。志津の十二相神社の近くにお住まいの方を訪ねると川瀬さんという名字で、彦根の法蔵寺の門徒だとの事。なんだこの辺りと佐目のリンク具合は。

光秀が佐目を助けたかという点については、やはり不明と言わざるを得ません。他の多賀の天台宗だけでなく、本願寺派のお寺も焼かれていて、陣屋の山から、信長は焼討ちも見ているのに、すぐ下にある法蔵寺佐目道場に目がいかない訳はないのに、今のところどこからも、信長に「焼かれた、壊された、人が殺された」といった伝承は出てきません。

もちろん、もし「光秀が 伊勢攻めを佐目に知らせた」というのが事実であっても、証拠になる文書を書くはずもないのでムダと言えばムダなのですが、どこかから何か出てきた時に抹殺される事がないよう「可能性」はある、と 書き残しておきたいと思います。

ただし、もし、信長軍に焼討ちにあっていたとしても、「仏敵信長」にやられたとは、なんとしてでも隠したいという佐目気質のようなものも感じていますので、いかに(笑)

 〇光秀は、本願寺を助けたのか

以前も紹介しましたが、東本願寺のサイト

 光秀と本願寺との因縁は、江戸時代の真宗史書(『大谷本願寺由緒通鑑 第三巻』、『金鍮記 巻上』等)も伝えている。本能寺の変の前月、四国攻めのため堺周辺に集結していた織田の軍勢は、実は当時紀州(和歌山県)にあった鷺森本願寺を目標にしていた。六月三日、織田軍の来襲によって本願寺は滅亡するかに見えたが、突然織田軍が引き上げたため危機を脱した。信長が本能寺で光秀に討たれたことを知ったからである、と伝える。信長時代の記録には見えず、東西本願寺が光秀を顕彰したという事実もないが、興味深い伝承である。

と、あります。光秀の本能寺の変のおかげで、助かったという事なのですが、現在 彦根川瀬にある法蔵寺には

佐目法蔵寺/老年の空明に変わって、十世順明が若年ながら家来の松宮隠岐入道(のちの一乗寺)を率いて石山本願寺に馳せ参じ、顕如の紀伊鷺ノ森への下向に供奉した(法蔵寺由緒書写)

とあり、法蔵寺門主は講和に至る過程で、信長方との交渉に奔走したとの口伝があるそうです。信長方が光秀だとありえる話です。

又、11世宗主 顕如の室、12世教如の母、教光院如春尼は
父:三条公頼
養父:細川晴元(長姉の夫)その継室が六角義賢の姉
養父:六角義賢
であり、それぞれ、中枢にネットワークを持つ事は可能です。

四国攻めの前に、鷺ノ森本願寺を狙ったていたかどうかは、確かめられていませんが、本能寺の変の理由は、一つではなく( 物ごとは、一つの理由だけでは進みませんから) あれやこれやを考えると「今しかない」という事だったのでしょう。

石山合戦が長引いたのも、あまり戦いたくない武将がいたからという話や、江戸時代に書かれた近くの神社の由緒書きに、浄土真宗の人が「光秀の父は、きっと親鸞聖人の生まれ変わりだ」とまで書いているという事は、少なからず本願寺門徒にとって、光秀はヒーローだったのだと思います。

直接か間接的かは、光秀のみぞ知るところでしょうが、本願寺は光秀に助けられたと、皆、思っていたと思われます。

6. 光秀は良い人 クラウドファンディング

調べていると、真実を伝えた方がいいのかどうかと、躊躇する事があります。ロマンがなくなる(笑)

元々はこの投稿は、「光秀が東大味みたいに、佐目を助けてくれてたら、うれしいな」というスケベ心から始まった事なのですが、今も、昔も考える事は同じ。

検索していたら福井の資料がひっかかり、そもそも東大味の伝承の柴田勝頼が村を襲うという前に、信長から無用に暴れるなと、お達しを出していた事がわかりました。そうなのです。そもそも、光秀が助けたというのを、どうやって農民が知ったのかと、フツフツと疑問が沸いてきてしまいました。

そこで、福井の某施設に問い合わせをし、「良い、質問です」とお褒めを頂きました。詳細は差し控えますが、江戸時代にわけあって縁がある所に「光秀は良い人」運動が起こり、寄付金が集められた事があるとか。

こちらの方も、本能寺の変の後の光秀の他の「禁制」を調べていて、いくつかの所はお金を払って書いてもらったとわかりました。

地元の者だと、なんとなく、大切に思ってもらって、武将が気を使ってくれていて、うれしいと単純に思ってしまいますが、事はそう単純ではなさそうです。

多賀大社が書いてもらった「禁制」は如何様だったのかと調べたけれど、結局「坊人あたりが、頼んで書いてもらったんじゃないの」という、ロマンのない推測が書いてある資料しかなかったのですが、お金だけでなく、そこを破壊しない約束をするという事は、双方意味のある事で、どこでもお金を払えば書いてもらえる訳ではない事もわかります。

結局、答えは闇の中だけど、それでも、ずっと「あけっつぁま」と感謝してこられた東大味の方には、確信があるお付合いが光秀とあったのだろうと思うと、やっぱり心が温まります。

7.最後に

明智光秀近江出身説は、文書と口伝が唯一揃っている場所だという事で、滋賀県の教育委員会が調べて下さり、火中の栗を拾ってしまい(笑) 戦国の歴史には全くもってうといにもかかわらず、地域の歴史を伝え残す為に、元々は「佐目の村」の方の為に昨年(2019年10月) に作った冊子が
『明智十兵衛光秀 謎多きルーツに迫る 多賀出身説』です。

地元の方にも、わかるようにと たっぷり絵や写真を入れて書いていますが、その後、判明した事や疑問に思っていた事を 今回 見直してみました。よろしければ、合わせて お読み頂けると どこにも載っていない地元ならではの内容となっていますので、よりご理解頂けるかと存じます。
HPから、お申込み頂けます。佐目十兵衛会公式サイト

近江出身説3-r

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