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12.戦国最後の戦いの舞台裏

前回は、義昭上洛を機会に、信長がグイグイ近江に手を入れてきて、それに光秀と多賀がどう関係していたかを中心にお話しました。

1. 戦国時代、最後の「観音寺城の戦い」

すっかり、説明を忘れていましたが、そもそも、義昭を連れての信長の上洛というのは、既に将軍が決まってたのに、ムリクリに突っ込んだという話になります。どっちみち、三好三人衆であろが、信長であろうが、将軍はお飾りのつもりだったのですよね。 

1568年(永禄11年)2月8日
足利義輝を暗殺した三好三人衆
が、義輝・義昭の従兄弟 足利義栄(あしかが よしひで)を担ぎ出し、朝廷に頼んで、室町幕府第14代将軍であると宣言してもらっています。

それで、越前で「誰か助けてくれないかなぁ」と1565年来、のらりくらりとしていた義昭側があせり、6月22日前後に、義昭、細川藤孝の使者として光秀が信長に会い、やっと動き出したのが、信長上洛の経緯です。

三好三人衆は、細川晴元の嫡男 昭元義栄 幕府 の 管領 にしています。

管領家でありながら、管領になれなかった晴元に嫁いでいたのは、六角定頼の娘、つまり義賢の姉です。細川昭元は姉が生んだ細川管領家の跡取り。
六角義賢は この時、既に暴走息子義治に家督を相続し、承禎(じょうてい)と名乗っていますが、不甲斐ない息子ゆえ、実権も握っていました。

三好三人衆からは、義治を管領にという話もあったとか。細川家が管領になれば、引き続き、六角家の管領代としての名誉職も維持できます。

つまり、姉の息子が既に、第14代将軍義栄の管領になっているのに、信長は8月5日に岐阜城を出発、馬廻り衆250騎を引き連れて、
8月7日に彦根佐和山城に着陣し、観音寺城の六角氏に使者を使わし 

「足利義昭を将軍として上洛させるから、近江を通らせろ!(助け欲しい)、でも、信用できないから人質を出せ! 」
と、言ってきたわけです。

六角義賢(承禎)は、ビシッと断ったそうです。背景を知らない時は、意地を張らずに通らせてあげれば、やられる事もなかったのにと思っていましたが、断るのも理解できます。
それがわかっていての、信長の行動でもあったのでしょう。やりますなぁ。

それから一週間佐和山城で返事を待ったそうですが、暴走息子は体調が悪いと言い使者と会わなかったりしたので、信長は一旦、岐阜に引き返します。きっと、めちゃくちゃ怒っていたでしょうね。

このあたりから、話に出てくる地名は、すぐに地元では目に浮かぶ場所になります。佐和山から観音寺までは、車で約45分位でしょうか。因みに多賀大社から佐和山までは車で15分です。

私が暴走息子なら、そんな律儀に了解など得ず見ないふりしるから、勝手にやってくれと、思ったかもしれません。
信長に宿敵浅井がガッツリついているのも、気にくわないですし、何より、今まで幕府周辺にいた六角氏としては、部外者だった田舎者の信長が将軍を担ぎ出して、お供せよなど ありえへん話です。
更に、湖北に力をつけてきている宿敵浅井がいて、そこで、京都の三好三人衆まで敵に回したら、やばいですしね。

結局、一応 頼んだけど断られたという筋を作った、信長は
9月7日 「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げます」と足利義昭に言って1万5千の兵を引き連れて出陣し、徳川軍、浅井長政軍と共に、近江を攻め、六角氏は城を放置し、戦わずに無血で甲賀に後退し、実質、近江は信長の手に落ち、信長はあっさり足利義昭と入京しました。

本当に無血だったかは不明ですが、六角高頼の時代から、将軍家との正面衝突をさける為に「一旦、引く」(逃げる)という方法をとっているように思います。決着をつけないのも、長く生き残るコツですが、今回はうまくいかなかったのですよね。

この時、高宮から愛知川を通っているので、中山道を利用したのでしょうね。因みに、多賀大社から高宮までは車で五分です。

これは、「観音寺城の戦い」と言われますが、以降、浅井長政と敵対していた土豪、六角氏側の多賀氏・久徳氏らは、織田氏に属するようになったと思われます。

『久徳九代記』(後述)には、六角を攻めに行く信長の宿舎に久徳城を提供したとありますのし、足利義昭が越前から岐阜に移動する時に、細川藤孝や織田軍が多賀大社を使ったという事は、「観音寺城の戦い」以前に、昔の旧き好みの光秀の声掛けにより、多賀氏・久徳氏は六角氏から離れていたと考えられます。六角氏を攻めには行かなかったけれど、信長に協力したという事ですね。

そして、信長が上洛したという事は、ここから「安土桃山時代」に入りますので、「戦国時代」は、一応ここで終わりになります。

以上は、通説、定説に基づいていますが、『久徳九代記』は『江源武鑑』を参考にさているようにお見受けしました。『江源武鑑』については、こってり以下に書きましたが、偽書とは言われているものの、この投稿と同じ時期に、もう一つの物語があり、精査していませんが、結構、腑に落ちる内容で、面白いです。歴史のとらえ方が激変します(笑)

2.佐和山城と 犬上神社と  昔の旧き好みの小川氏

信長が滞在した佐和山城 今は、石田三成で有名ですが、元は六角家臣小川氏が城主で、この小川氏が佐目から分社された 美濃南濃町志津十二相神社を1470年と1581年に建直しています。

信長が六角氏を説得するのに滞在した当時の佐和山城は、浅井長政家臣 磯野員昌が城主になっています。調べてみると、たぶん、久徳氏が浅井長政にやられた1560年前後、時を同じくして小川氏は佐和山城を追われています。

その佐和山城で生まれ育ったのが、1581年に美濃の十二相神社を建直し、『淡海温故録』に光秀の昔の旧き好みとして、山崎の合戦に参戦した小川土佐守祐忠(すけただ)です。確かに、犬上衆です。佐和山城を追われた時、10才位だと推測されているそうです。「観音寺城の戦い」の頃は20才。山崎の合戦の時は、32才。次にご紹介する久徳氏と、境遇が似ています。

実は、小川氏が佐和山城主だった頃、犬上郡の守り神として犬上神社が佐和山にありました。現在、彦根と言われている所は当時、犬上郡でした。佐和山城は、六角氏の北限、京極氏と後の浅井氏との境目です。この神社は、現在の多賀の大滝神社にあった犬上神社を移したのではと思われます。

そして、佐和山城は、浅井長政の小谷城の支城となり、湖北の人には犬上のの守り神は不用だったようで、現在、犬上神社のある豊郷町に移されたのではと思います。ですので今も多賀と豊郷 二か所に犬上神社があります。多賀の大滝神社と一緒にある現在の犬上神社は、とても小さいですが、大滝神社の古い文書にも「犬上神社」宛のものがありますので、ルーツは多賀かなぁと推測できます。

小川氏は、六角方として、多賀町の中でも 佐目・大滝地区にゆかりが深い氏族だったのでしょう。楢崎氏なども六角方でした。
余談ですが、多賀町楢崎の高源寺の和尚が、ここが楢崎氏のルーツだと訪ねてこられる方がいるとおっしゃっていました。

多賀地区は、京極から浅井へと変わっていきますが、現在の多賀町すべてがそうであった訳ではありません。犬上郡は、まさに六角と浅井の戦局の境目、後には関ケ原の合戦でも重要ポイントになりますが、そこに多賀出身の光秀が、着々と「信長親衛隊」を増やしていったと考えると、無名の光秀がいきなりトップギアで信長トップクラスの家臣として重宝されたのも、納得してしまいます。(光秀が多賀出身説だと仮定したらという話ですが)

小川氏も「消された一族」ぽいです。

3. 美濃に並んで建っている十二相神社と小谷神社

美濃南濃町志津佐目から分社された十二相神社と並んで、小谷神社があります。とても不思議な配置です。地元の方曰く、浅井長政の小谷城の小谷ではないかと。近江から美濃に戦いに行ったり、助けに行ったりした時に出城代わりに使われていたのではと言われていました。あー驚いた。そういう事だったのか。。。小谷神社はもっと前からあったという話もあるので、あくまで想像のようですが、佐和山城とリンクしているのが興味深いです。

南濃神社_1

4. うっ、小川氏も子息に、「光」「左馬助」!!

前回、後藤氏が改名して「戸賀十兵衛」と名乗ったとお伝えしましたが、
小川氏の長男、もしくは次男に「光氏」、祐滋(良氏)の通称にまんまの「左馬助」という名をつけています。左馬(之)助は、光秀の長女の娘婿 明智秀満の通称です(異説ありですが) 。当時は、よくある名前ではありますが・・・。

小川祐忠の息子二人が生まれたのが、山崎の合戦の前か後かはわかりませんが、後藤氏、次に紹介する久徳氏も、幼くして城と親を亡くしています。光秀と親がちょうど同じような年代で、子供たちは皆、その後、信長の配下になり、『信長公記』にも名が出てくる位、出世しています。

『淡海温故録』や他の資料もですが、後に書かれたものには、仕方なく山崎の合戦について行ったと書いています。犬上衆は、光秀の家臣ではなく、信長の家臣で、元は六角氏、浅井氏、京極氏に仕えていた近江の土豪です。もちろん、本能寺の変の後、すぐさまに長浜城、佐和山城、安土城を光秀が押さえていたので、NOと言えない状況であったとは思いますが、光秀、もしくは秀満ゆかりの名前をつけるという事は、明らかにイヤイヤ参戦したのではなく、損得だけではない恩を感じ、敬っていたのだなと思えてなりません。

5.多賀の土豪 久徳氏

1560年
時は遡りますが、久徳実時は浅井長政に母をはりつけで殺され、城を急襲され、実時はじめ、地元ではなじみのある夏原氏、小財氏、小菅氏など200余人が殺され、後、久徳氏と縁のある敏満寺も焼き討ちにあっています。

娘は、くし刺しにされ、川にさらされたとまで、書いてあるものもありました。以下は、以前書いた久徳氏の記事ですが、1560年というのは寛文末年(1673年)に献上された『浅井三代記』に基ずくようで、この書は架空の話も多く『淡海温故録』の中にも影響されている部分もあるようです。それが専門家の中で「全面的には信用できない」と光秀近江出身説が、葬り去られた原因の一つかもしれません(笑)

現在、多賀に久徳氏はおられませんが、この記事を書いた後に、久徳氏の子孫の方の話を聞いて書かれた『久徳九代記』(平成16年発効)という本がある事がわかりました。久徳実時の兄からつながるご子孫になります。1496年生まれ、久徳定頼嫡男として生まれながら、風雅を好み軍役に一度も出ないという事で、廃嫡され、武士をやめ栗東の下鈎に代々住んでこられた一族だそうです。

多賀町誌や多賀の久徳在住の方がまとめられた『久徳史・久徳こぼればなし』とは異なる事が書いてありました。
久徳城が落城したのは1562年(永禄5年)3月16日。
この時、六角氏の観音寺城にいて助かったのが実時の息子「氏三(うじみつ)」で、通称は「左近兵衛尉」とあります。
以前、ご紹介したのは 「久徳六左衛門」 で この時8才。
『久徳九代記』では、実時の弟 宗重も同じ「左近兵衛尉」となっています。『信長公記』も、久徳左近兵衛 です。うっ、どちらかわんらんやん(笑)

そして、『久徳九代記』には、光秀の昔の旧き好みにて山崎の合戦に参加した事は書いていません。先にも書きましたが、『江源武鑑』を参考にされているからです。

近くの土田の馬場頼祐が四代前の頼景の事を書き留めた記録には、
「多賀新左衛門・久徳六左衛門」に誘われ明智方に参加したので、秀吉には仕えらる事が出来ず浪人したとあります。

実は、浅井長政も観音寺城下で生まれており、久徳六左衛門と同じ人質でした。長政は、六角家臣の娘と無理やり結婚させられ離縁したのが、この戦いの発端と言われている説もあります。

後に、まとめられた当家の『○○記』というのは、都合が悪い事は書かず、いい事は盛り気味になるのは、常です。当たり前の事です。
『浅井三代記』には、落城の時、六角氏は近くまで来ながら、助けもせずに引き上げたと書いてありますが、『久徳九代記』には、助けにきたけど間に合わず、矛先を変えて浅井側の高宮城を攻めに行き、久徳城を確保していた磯野氏が久徳城を捨て、高宮城に救援にきたけれど、両氏とも佐和山城に逃げ込み、六角軍は久徳城も高宮城も確保したとあります。

浅井軍にやられたのに、どうしていたのかな?という、今までの疑問が解けました。久徳城に久徳氏はいたのです。色々な角度から再検証しないと、真実はつかめないのですね。

とは言うものの『久徳九代記』は、他の資料で確認できない事や、辻褄が合わない点もあり、公的には参考に出来ないそうです。
ご子孫は、もちろん、嘘をついておられる訳ではけしてありませんが、いつかの時代に、光秀との関係を見えなくした家系図が出来上がっていた可能性も感じられます。でも、責められないですよね。

そして、1570年 姉川の戦いの時に、再び、久徳氏が登場します。

6. 浅井長政と市の結婚

ご存じのように、浅井長政と信長の妹「」は、その後、結婚しています。当時は、ほぼ政略的な縁談で、1560年のこの戦いから、1568年の間に結婚したと言われています。諸説、ありすぎで私には判断できませんが、『久徳九代記』には、1567年暮れとあります。

1568年8月に 信長と光秀が出会い義昭上洛が前に進みますので、既にその前に、信長は着々と準備をすすめていたという事ですね。すごい。

妹の市を差し出すという事は、美濃から 近江→ 京都へのルートを確保する為に 越前朝倉をおさえ、六角方を通る時後方支援として長政の湖北はとても大切だったという事です。

同様に、信長は入京の直前に多賀の敏満寺にも、安堵状を出しています。やはり、このあたりの事情を知った信長とつながっている人間が、下準備をしていたと考えると「藤孝は、光秀と密かに計画して」という『細川家記』の文章が頭をよぎります。

その後、美濃から京へ行った光秀はというと、足利義昭入京以降 周辺の警護などに当たっていたようで、ボチボチ名前が正式な場所に出てきます。

『江源武鑑』には、もう一つの六角氏嫡流に信長の娘(幼女)が嫁入りしたとあります。何?! さすが、信長 そこまで手を打っていたのかと思いましたが真実はわかりません。誰か、調べて下さい。それが本当なら、話が少し変わります(笑)

7.信長  越前朝倉 侵攻、長政反旗、信長負ける 

1570年(元亀元年)4月  

これまでの経緯です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
信長は、駿河の今川義元を討取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の六角義賢・義治父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。

その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。

優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎の退き口」を経て退却した。
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と、Wikipediaにはあります。「金ヶ崎崩れ」とも言われているそうです。
信長側からすると「長政が裏切った」という事になりますが、長政側からすると、信長が同盟を結んだ際の「朝倉への不戦の誓い」を破ったという事のようです。

義昭朝倉へ

1570年(永禄13年)4月20日に信長軍は、京都を出発。
4月25日に越前に侵攻、長政の裏切りを察知して、退却。朽木元綱は当初、信長の敵方だったが、松永久秀の説得により協力、朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延び4月30日に到着。信長は、体制を建直すのに5月9日京を出で、千草越えから5月21日 に岐阜へ帰国します。

この地図を見ても、美濃にいる信長にとって、京を目指すには、近江犬上・伊勢を手中に入れる事が必要だと強く感じたはずです。

8. ! ?信長軍に、多賀不動院門主実家公家日野家も!

あーびっくりしました。「金ヶ崎の戦い」を例のごとく、Wikipediaで見ていると、信長軍として、公家の日野輝資も参加したとあるではありませんか! 
まぁ、公家さんも戦いに行くのねぇと思った所で、思い出しました! 
日野 輝資は、足利義輝のおかげで、日野家28代当主になったので、もちろん義昭押しの信長に味方するのはわかりますが、27代当主と多賀大社不動院門主は、兄弟です。母はたぶん違いますが、日野家26代当主日野内光が父となります。もちろん、この戦いに光秀も参加しています。

 明智光秀・細川藤孝・吉田兼見・日野輝資・多賀大社は、グルですぜ。
じゃないと、多賀大社を義昭・信長の上洛で使えません。
11-6. 多賀大社と細川藤孝と光秀

9. 信長 Vs.  近江連合軍 のはじまり

こうなると、私はどちらを応援したらいいのか、わからなくなってしまいますが、伊賀に逃げていた六角軍
6月4日、甲賀武士と共に、近江に残っていた信長軍の柴田勝家、佐久間信盛と野洲河原で戦います。あまり知られていませんが、六角氏は甲賀・伊賀どちらも所領していたのです。忍者を生んだ土地です。

つまり、浅井長政と甲賀に隠れていた六角親子は、はじめて、近江連合軍として、共に信長軍と戦ったわけです。

でも、遅い!  潰れていく大手企業に似ています。内部抗争にばかり目を向け、しょうもないプライドに固執し、世の中の変化、真の敵が見えなくなっていたのですね。敵同士だったので、連携もうまくいかなかったようです。
こうして、近江は、信長、秀吉、徳川(井伊)と、ヨソの人たちに支配されていきます(泣) 

個人的には、誰が好きとか嫌いとかはなく、もちろん井伊さんは地元なので身びいきしますが、光秀近江出身説を調べる中で、佐々木家や地元の武将、つまりはこの近江を築いて下さった先祖に思いを寄せてこなかった事を猛省いたしました。

そして、これから、この近江連合軍に 比叡山延暦寺本願寺一向宗が加わり、本能寺の変を迎える事になります。

10. 姉川の戦い直前に、信長より久徳氏に所領?!

1570年(元亀元年)6月28日  織田・徳川 Vs. 浅井・朝倉

5月21日、岐阜へ戻った一旦体制を整えた信長は、6月19日、岐阜を出立しその日のうちに、調略により浅井長政から信長に振った堀秀村・樋口直房のいる近江と美濃の境、米原市柏原長比城に入り、
6月21日、信長は虎御前山に布陣し、
6月28日早朝、「姉川の戦い」が開戦されます。

ところが、多賀町誌によると、その二日前
6月26日 に 信長から久徳氏に3千石の黒印状 が届いています。

あれれ、まだ、多賀は信長のものになってないんじゃないかなと思ったら、違いました。六角氏が逃げた段階で、信長のものになっていたのですね。
とりあえず、その時の黒印状の中身です。
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今度の忠節の儀に就きて、多賀庄・石灰庄・敏満寺領の諸入免、
右三ヶ所を以って都合三千石分支配せしめ候、本知・新地共に
分一の諸役一円に免許せしむるの条件の如し
                    信長(黒印)
元亀元年(1570年) 六月廿六日(26日)
 久徳左近兵衛尉殿
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つまり「姉川の戦い」の直前に、久徳氏が信長軍につくことを約束した事に対して、浅井長政にひどい目に合った久徳氏に、信長は前より広い所領を与えた事になります。今でいう、多賀・土田・敏満寺あたりです。そして、年貢の1/10を貰ってもいいよと、やる気マンマンになる報酬を信長は約束したわけです。

久徳左近兵衛尉は、1560年 浅井長政配下の久徳城襲撃時に亡くなった久徳実時の弟になります。宗重(左近兵衛尉)・宗頼・郷時・秀政は、織田軍として、兄 実時の弔い合戦として活躍したそうです。

「息子は、どうしたんだぁ」と思ってみると、『久徳九代記』では実時の息子「氏三(左近兵衛尉)」が、更にその息子の「季時( 左近右衛門尉)」と戦ったとあります。詳細は省きますが、やはり辻褄があわない箇所もあり、さりとて通説にも、疑問点が残っています。

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さて、今回は、光秀近江出身説の周りに出てくる、通常はピックアップされない地元の武士を中心に、お話しました。

私なんぞに、光秀のミステリーを解明できるとは思っていませんので、今まで捨てられてきた伝承を拾いあげる事で、どなたかヒントを得られて、点と点を結んで下さる方が出現しないかと願いつつ、調べておりますが、なんだか更に遠くなっていくようで、もうすぐ気力がなくなりそうです(笑)。

とは言いつつ、次回こそ、本願寺と佐目と光秀の関係まで、たどり着きたいと思います。
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