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#買ってくれたあなたへ。No.32.

買ってくれたあなたへ。

2つの背景事情の下で。

ずっと前。

父と母が、年老いて弱くなり、

それから、
母が病気と骨折とを繰り返した。

入院と退院を繰り返し、

そして、

その後。

今度は、父が入院した。

これだけなら、

皆、同じような体験をし、

病気と闘う『闘病』日記を書いたこともあるでしょう。

物事はこれで『はい、終わりです~!』

と、したら、話しは楽になる。

聴いていても重くない。

語る方も、苦しく無い。

母の入院は『腰椎圧迫骨折』。

それは切っ掛けが

風邪だと思い、近くの町医者に行って風邪用の注射をして貰ったその夜のこと。

母の様子が変だと言うことになり

症状が落ち着くまでせめて様子をと父と話した。

立ち上がれない。

声が出ない。

トイレにも行けない。

ご飯も食べられない。

手足も不自由。

そうした症状の様子を、

その医者に伝えた。

因果関係が分からないが、

その風邪の注射では無いと思う。

否定された。

その日に、症状が出たのに。

ある人は、『注射の針が神経筋にでも触れたのでは無いか?』

『脳卒中では無いか?』

と素人医者たちは言う。

益々、不安しか見えてこない。

結果、更に大きな町に行き、
診て貰う。

『脳血栓』の小さい物が発症したのでは無いかと、専門医は答える。

あれほど、沢山の症状が出たのに、小さい『症状』。

もっと大きいのだと、『意識』が無く、
応答も無いとのこと。

しかし、小さい『症状』であっても、地震と同じ。

それは、その病気の前兆だとすれば、

更に大きいモノも発症すると言う。

意識があり、小さな声しか出せないけど、

『弛緩性』つまり、手が握られずダラーンとするタイプと、

その逆に手を握り締めるほどの力があり、

掌には指や爪後、その内に青アザやタコが出来ることもあるとのこと。

そうした事を考えつつ、通院診察で経過観察を見ましょうと言うことになった。

母の症状の様子により、診察を早めるか、様子が良ければ診察を少し延ばすと言う具合にして、

私は車をフル回転して母の世話と言う息子として果たすべき務めを始めたのです。

そのおかげで、母は良い医師に恵まれて、

日に日に良くなりました。

そして、車椅子生活から、松葉杖生活まで物事を運ぶことが出来たのです。

そして、元気を取り戻しつつある過程の途中のこと。

母の症状は、再発はしませんでしたが、

只1つ、片方の足が余り高く上がらなくなりました。

それで、トイレに行き、無事に立ち、無事に帰ってきました。

父が共の部屋で、母を見ていたので、『何かあったら私を呼んで』と父に伝えて、私は自分の部屋に行ったのです。

母は壁伝いに歩けるよう、途中の段差も無くし、必要な所に手摺も着けました。

これは、全てそう言うことが好きでしたので自分で行いました。

田舎作りは、トイレまでが遠いのです。

そして、トイレから帰ってきたその時、

足が上がらないので気をつけていた父の心配も、母の腰椎圧迫骨折には通用しませんでした。

布団の端に足が絡まり、フトンの上に倒れたのです。

女性は、歳を取り、体が思うように動かないと、

骨粗鬆症と言い『骨』が冬の晒した大根のように『鬆』(『しょう』と読んで『す』のことです)になるのです。

因みに、男性でも60-65歳くらいになるとこの『骨粗鬆症』になると、最近では言われています。
取り分け、脚立の三段目にも上がらないようにと言われています。

余談ですが、

それは、パッとした動作の時に、骨粗鬆症で骨折になりやすいからです。
そうすると、寝た切り老人となるそうです。

こうして、母の症状は良くなったり、悪くなったりして歳を老いていきました。

・父の難病生活。

父も、定年退職後、まだ体の動く内は働きたいと言い、幾年間かは仕事をしていました。

そして、体が疲れやすく、怠いとか、直ぐに息が切れると言うので、

やはり、近くの病院まで行き診て貰いましたが、

様子が先生でも分からず、更に、大きな市民病院へと行きました。

自宅から、片道1時間半、ノンストップで掛かる場所にありました。

今度は、父の入退院が続きました。

私には、お嫁さんがおらず、独り者でした。

自分の実家の仕事、会社勤め、更に自分のすべきことと三足のワラジのような生活です。

余りにも忙しい日々が続き、一時期は1日三時間しか眠る時間が無いときがありました。そして、それも後々大変なことの引き金となることを、その時には知らず、若さの特権で無理をしていたのです。

父の病気は、難病と言うことが3番目に入れたもっと大きい厚生連の病院で、3ヶ月したらやっと病気が判明しました。

当時、重い病気は本人に伝えないと言う時代でした。

父の病状を父本人が重病だとまでは分かりましたが、それ以上は誰も伝えませんでした。

秘密を持つと言うことは辛いものです。

今なら、カンファレンスで先生が伝えててくださることでしょう。

父の質問に対して正直に答えられない私は、まるで『嘘つき』のように惚けて見せるのですが、それは役者では無いので私にはとても辛いものです。

こうして、私は老いた父母を最後まで面倒みました。

母の下の世話までしたことにより、

小さいときからお世話になった父母に少しでも愛情を私なりに注ぐことが出来たことは、私の心の整理となったと思います。

・『縫いぐるみとキーホルダー』

父母が弱いとき、私は縫いぐるみ、ブローチ、キーホルダーなど様々な物を手作りして、

販売ルートを自分で見つけ、

信用貸しで置いて貰い、

お客様が買ってくれたら、精算していました。

フリーマーケット用にも作り、たまに販売しました。

その全てを片手間で行うことは実に楽しいのです。

・集中できること。
・自分が産み出したものばかり。
・販売の為の営業から全てを1人で行う醍醐味。
・売れたときの喜び。

#『買ってくれてありがとう!』

ある日のこと。

フリーマーケットで私のブースに来てみていたひと。

『お兄さん、これ、お幾ら?』

その人は私に訊ねました。

『ありがとうございます』。

『値札の通りです。』

『じゃ、これを頂戴!』

『ありがとうございます。』

『じゃ、これ、お金。』

『はい。頂きました。』

『アンケート取っているんですが、1つお伺いしてもよいですか?』

『何でしょうか?』

『これは、お孫さん用とか、にですか?』

『いいえ。私が抱いて寝るのよ!』

そう言うと、その年配の女性は、私の作った人形を抱いて見せた。

他にも、若い人が『他には無い、個性的なモノだね』と私のイヤリングを買ってくれた。

それは、数が少なくても、
私は癒された。

私のオリジナル作品と、
それを認めて買ってくれたことにより。

『ありがとう』と私は何度も口と心で言いました。

(*-*)/私のオリジナルの作品の数々を今日ここに掲載できずにごめんなさい。
以前の作品は写真だけとなりました。
また、後日、お見せ出来ればと思います。

ここで一句。

✍️短歌のコーナーです📋️

老いて行く

父母背中

見る度に

変わり行くのは

我眼の高さ。

『背中』

©️YamanoshitaHyakuzen, 07 September 2019.

・『長い長いトンネルの中で。』

父母の入退院はまるで長い長いトンネルに入った時のように感じました。

当時は、とても辛い時代と時期でした。

介護保険、老人保険、生活支援の為のデイサービスも十分ではありませんでした。

母が身体障害者の一級になっても、最初の医者ではその認定医では無いと後から知り、

改めて認定医である近隣の町の医者に見せて一から症状を計測してりして認定するのです。

それまで、書類が二転三転し『書き替えて』と言われました。

それも有料です。

先のは無効となったのです。

そうして、身体障害者手帳をやっと発行して貰えたと喜んでいたのも、束の間。

母は法定年齢になりましたので既に老齢年金を貰っていたので、障害者年金は一級でしたが、とうとう貰えませんでした。

国民健康保険法の改定と重なったのです。

人間は、計画して病気になったりもできません。

父も、『自分の病気までは計算出来なかった』と言いました。

父は、そろばんを弾くのが得意で、戦前派でした。

軍隊でもそろばんを弾く会計(名称は今とは違うと思います)をしていました。

当時の日本が貧しかったことを外国の誰がわかるのでしょうか?

靴が傷んでいても、直ぐに買って貰えず、
自分の足に靴が合わなくても、足に靴を合わせるのです。

・『ビカドン』の国。

そして、2つも原子爆弾を落とされ、沢山の方々が『苦しい中』(この表現では体験しない人には分からないでしょう。)戦争を嘲笑い、過度に高める人は同じ体験をしてみると良いです。

例えば、老人介護やお世話をする人が体験しているように、

靴の中には豆を入れ、
メガネは見えない度の厚い物を掛け、
腰を曲げたまま紐で仮縛りして、
杖を突いて歩き、
歯も自由に動かないように

口にテープでも貼って

飲んだり食べたりして見れば良いのです。

そして、出来ればその役の人を怒ったり、つついて見たり、

どう感じるのでしょう。

例え、倒れたりしても、

『お前が悪い!』

『しっかり歩かんからだ!』

そうなれば、心にも負担とプレッシャーとストレスが掛かると思います。

当時は、戦時中でした。

戦争になれば何でも『悪いことであっても、悪いことでは無くなります』。

国際法も守られなくなります。

紙切れになってしまうのです。

当時の世界のどこかの国の法律と同じです。

『一触即発』の感情的な言葉のリークに載せられ、後で責任を取ると言うのが、当時の戦略です。

世界はどこもかしこもがそうでした。

しかし、
今はあれから、74年目の今年になれました。

今でも、何を心の底で考えて『死の商人』たちは、何を企てているのでしょう?

それは、決して誰も幸福にはなれません!

・『許す』国。

日本は2つの原子爆弾を事実として記憶しています。

語り部も高齢になり、やっと重い口を開きました。

東日本でも、九州、広島でも、
形は違っても『苦しさは同じです』。

生きている内に語りましょう。

私たちは後の世代でしたから、こうしたSNSの形で語ります。

心を語ることはその人の心の整理と自己治癒に繋がります。

これは、心理学者の先生も認めていることでしょう。

そして、周りに何を言われても、

私たちはアメリカの先の人々が落とした爆弾の責任を問いません。

蒸し返しすることなく、

『許す』ことにより、再び前を向いて歩いて行くのです。

江戸時代の『仇討ち』みたいな話しをしていたら、その内、地球の全ての国に拡がるでしょう。

みんながそうなるからです。

今やグローバル化した国々。

グローバル化した世界に『仇討ち』は無くなる。

そこには、どこにもその国の民族のアイデンティティーを持つ人が移り住んでいます。

つまり、敵の国にもあなたの愛する国の同胞の人やあなたの家族が、です。

・『心から許さないと。』

もし、万が一、あなたが心の中の憎しみを自分自身の頭でなく、心で清算しなければ、

将来はどうなりますか?

いつまでも、いつまでも、過去の事を考えている

あなたが辛いだけです。

つまり、心の剣を先に抜いて、

国が違うと言いながら、

相手を刺した

当時の人々と同じになることを、

あなた自身がそうしているのです。

それにより、

あなたは、あなたの国の同族の人までも

平気で殺そうとしていることになるのです。

その逆に

あなたは自分の国民を優しく許すことによって、愛を示すのに、

同じあなたが、自分の国民がよそに住んでいる事を忘れて、

平気で冷たくその国を扱うとしたら、

それはあなたの益にはなりません。

どうぞ、この理屈を分かってください。

あなたとあなたの国の人びとの為に、です。

グローバル化と言うことは、あなたの国の人を他の国に担保、又は、人質として、法的に預けているのと

変わらないのですよ。

私たちは、私達の国に来てくださった外国の方を『お・も・て・な・し』したいと思います。

『おもてなしの国』だからです。

それが、2つの爆弾と数多くの戦争で沢山の人びとをここで亡くした

日本でしか言えない『許す』と言う特別な財産だと思います。

それから、やっと物事は始められるのです。

前に向かって歩けるようになるのです。

『許すことから、全ては始まる』のです。

#『許す』国より、『許せない』と言う国々へ。
©️07 September 2019.Thankyou39&394Thanxi.My note's blog.No.32.

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