ドラマの上で、中途障害になっていく主人公について考える

 私はまあまあドラマが好きだ。一時期、まったく見ないこともあったけれど、最近はまたシーズンに一つ二つくらいは見るようになった。
 この秋、ちょっと期待していたドラマがあった。期待していた、と書いたのには理由があって、初回放送でかなりがっかりしてしまったからだ。正直、あまりにも腹立たしく、観るのをやめようかとも思ったけれど、我が子が観ていることもあり、二話めを観たら、主人公以外の登場人物の感情の描き方がとてもよかったので、まだ続けてみるつもりではある。

 さて、そのドラマについて遠回しに語っていこうと思う。というのも、私はかなり小心者なので、炎上したり、批判されたりすることに慣れていない。
 タイトルは出さないけれど、観ている人なら察することはできるくらいの情報で、語っていくつもりだ。

 そのドラマに興味をもったのは、耳が聞こえない人が登場人物で、手話がドラマに登場するということからだった。
 私自身が手話に興味を持ったのは、事務の仕事をやめて次に福祉関係の仕事をしようと決めたときに、地元の社協で手話教室をやっていることを知ったのがきっかけだった。半年くらい通ったと思う。手話教室はたいていは先天性の聴覚障害の方が参加されていて、その方を知ることで、聴覚障害者から見た世界の見え方を知ることにもなっていると感じた。
 ただ、そこでは簡単な単語しか理解することは出来ず、結婚で地元を離れてしまったので、一度手話からは離れてしまった。二度目に手話に興味をもつようになったのは、実際に仕事で利用者として聴覚障害の方に接することになってからだ。
 そのときに簡単な手話は使ってみたものの、ほとんどは筆談で、重要な話をする際には手話通訳の方にきてもらって、話をすることにしていた。
 そのときに聴覚障害の方と接して感じたのは、表情の豊かさと、決して声を出さないわけではないということだった。
 話をしていく上で、感情のたかぶりで、おのずと声がでることはあって、けっして静かな世界ではないのだ。難聴レベルの方は、日常会話は手話でもカラオケに行って歌うという。声を出すことは気持ちいいことだと聞いた記憶がある。確かに発音が明瞭ではない部分が多いが、注意して文脈を読み取れば理解はできるし、筆談で補完できる。多くの人がきっとそうやって、障害のない人と会話している。そのリアルさを知っていたからこそ、この秋ドラマの一話目の最後らへんのエピソードには、腹が立った。
 音楽が好きだったなら、きっと聞こえなくなることが怖かったし、好きなものをなくしてしまうことがつらかったとは思うけれど、ならばもっともがいたはずだと私は思った。それなのに、拒絶というあきらめに簡単に置き換えられてしまったことがドラマの始まりで、再会した元カノに、自分の気持ちなんかわからないと八つ当たり的に手話で一方的に応酬するのを見て、ものすごくがっかりした。知らないのだからわからないのなんてあたりまえで、わかってもらおうとしなかったのは主人公なのに、なんなの!
 私はそんな感情でいっぱいになって、リアルだったらここは筆談するよね? 実際に筆談しようと元カノは紙を取り出そうとしていたし。何年も経ってからこんなふうにされることに、ぽかん、とするしかない、と一気にドラマの物語のための設定であることに、期待の気持ちが褪めてしまった。
 
 一方的に自分が相手を傷つけると思って身を引くタイプの登場人物を、私は許せないと感じることが多い。それは自覚している。そこには自分が傷つきたくない感情もあって、あえてそれを明らかにしない、そのずるさが嫌になるからだと思う。隠さなくていいのに。傷つくのが嫌だとおおっぴらにすればいいのにと思うけれど、相手を思ってというのが前面に出てしまうことが、とにかくモヤっとする。今回の主人公がまさにそういうタイプだろうと思ってしまったのもあって、がっかりした。
 三話目から時間を遡って、中途障害になっていく経緯やそのときの思いなんかが描かれていくのだろうと思いたいし、それで納得したい気持ちもある。

 私は失われていく能力への悲しみを、もがきながらも受け入れて、新しく歩んでいく姿を見たいのだとも自覚している。

 清原果耶さん主演の「ファイトソング」というドラマがあった。聴覚が失われていくという点で共通している。彼女は失ってばかりの人生だった。けれどそのたびに自分にできることを見つけて努力していた。あきらめがいつもありながらも、前に進む姿に勇気をもらった。自分がつらいから、もう会わないと決めたけれど、再会した彼は必死で伝えようとしてくれるし、自分が聞こえなくても伝えたいと歌う歌、なんて素敵なんだろうと思った。

 永瀨正敏さんが主演した映画「光」は、カメラマンが視力を失っていく物語。この映画ではドキュメンタリー的手法で映画の音声ガイドのことが劇中に挟まれていた。失われたことが補完するものの素晴らしい力を感じさせてくれた。

 福祉や医療関係者は必ず学ぶキュブラー・ロスの受容過程についての五段階モデルは、悲しみの過程をモデル化したもので、否認・怒り・取引・抑うつ・受容の順に受け入れていくというもの。
 物語としては、このモデルはわりと取り入れられているのじゃないかと思っている。
 ドラマとして否認から始まることはよくあるだろうし、受け入れられなくて、八つ当たりするシーンなんかもいっぱい見てきている。何かを引き換えに悲しみがなくなるならと、あがく姿もよくある。諦めて閉じこもってしまって絶望のなかにいることもある。
 いちばん難しいのは受容なんだろう。簡単に描けないからこそ、物語のなかで慎重に消化し、観ているひとに届くように昇華されるように紡がれる。

 このドラマの冒頭が、そこへ辿り着くための、激しい否認と怒りであることを祈って、まだしばらくドラマで描かれる物語におつきあいしてみようとは思う。それは、まわりにいる必死に届きたいと努力する元カノの姿や、連絡をとれなくなった親友の、彼を想う姿があるからだ。

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